第三十六話 カイエルの違和感
集落に滞在するようになって、数日が過ぎていた。旅の疲れも癒えてきた頃合いのはずだったが、その一方で、カイエルの様子に、小さな変化が生じ始めていた。
最初は、些細なことだった。食事の量がわずかに減った。私兵たちへの指示を出す声にも、以前ほどの張りが感じられなくなっていた。誰もが、慣れない異種族の集落での滞在に、気疲れしているだけだろうと、深くは気に留めていなかった。
滞在三日目の夜、カイエルは、与えられた住居の中で一人、額に滲む冷や汗を拭っていた。
(また、これか)
ここ最近、夜になると決まって、原因不明の頭痛に襲われるようになっていた。ズキズキと脈打つような痛みが、こめかみの奥から広がっていく。同時に、耳の奥で、微かな――言葉にならない、雑音のようなものが聞こえる気がした。
水筒の水を口に含み、深く息を吐く。しばらくすると、痛みは少しずつ和らいでいった。
だが、完全には消えない。頭の芯に、鈍い違和感が、じっとりと居座り続けている。まるで、何かが、体の奥深くから、こちらの様子を窺っているかのような、そんな不気味な感覚だった。
(疲労だろう。長旅の疲れが、今になって出ているだけだ)
自分にそう言い聞かせ、カイエルは横になった。だが、寝入るまでの間、耳の奥の雑音は、なかなか消えてくれなかった。
◇
翌朝、身支度を整えるカイエルの顔色に、ガイが気づいた。
「カイエル様、顔色が優れないようですが」
「……問題ない。旅の疲れだろう」
「無理はなさらないでください。ここのところ、夜もあまり眠れていないご様子ですし」
その指摘に、カイエルは、内心で驚いた。眠りが浅くなっていることを、これほど正確に見抜かれるとは思っていなかった。
「気のせいだ」
「カイエル様、長い付き合いです。誤魔化そうとしても、わかりますよ」
ガイの真剣な眼差しに、カイエルは、しばらく黙り込んだ。
「……多少、体調が優れないだけだ。心配するようなことではない」
「くれぐれも、ご無理はなさらないよう。何かあれば、すぐに俺を頼ってください」
「わかっている」
素っ気なく答えながらも、その気遣いに、カイエルは、内心で少なからず救われていた。長年連れ添ってきた部下の存在が、こういう時、思いのほか心強いものだと、改めて実感させられた。
カイエルは、それ以上の追及を拒むように、視線を逸らした。ガイは、何も言わず、静かに引き下がった。だが、その表情には、拭いきれない懸念が残っていた。
◇
その日の道中、ユリオもまた、カイエルの様子に、何か違和感を覚えていた。
「なあ、カイエル。最近、なんか、様子おかしくないか」
「……何のことだ」
「顔色悪いし、なんか、時々ぼーっとしてる時あるし」
「気のせいだろう」
その返答は、これまでのカイエルの物言いにしては、いくらか歯切れが悪いものだった。ユリオは、それ以上追及することはしなかったが、胸の奥に、小さな引っかかりを覚えずにはいられなかった。
「無理してんなら、休んだ方がいいと思うけどな」
「休んでいる暇があるとでも思っているのか。長居すれば、それだけ王都への到着が遅れる」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
集落の小道を並んで歩きながら、ユリオは、横目でカイエルの様子を窺った。心なしか、足取りにも、いつもより力が入りすぎているように見えた。
「なあ、痛み止めの薬草とか、必要だったら言えよ。爺さんに色々教わったから、多少は扱えるし」
その申し出に、カイエルは、意外そうに目を瞬かせた。
「……お前が、そんな気遣いを見せるとはな」
「悪いのかよ」
「悪くはない。ただ、意外だっただけだ」
カイエルは、それ以上は、話を切り上げるように、足を速めた。その背中を見つめながら、ユリオは、なんとなく胸騒ぎを覚えていた。
◇
その夜、住居の外で、リィナもまた、密かにカイエルの様子を観察していた。
「大丈夫、ですか」
夕食の折、それとなく声をかけると、カイエルは、いつも通りの毅然とした表情で頷いた。
「問題ない」
「無理はなさらないでください」
「――お前にまで、心配される謂れはない」
その返答には、これまでのぎこちなさとは違う、わずかな苛立ちが滲んでいた。だが、すぐにその表情を悔いるように、カイエルは小さく息を吐いた。
「……すまない。少し、気が立っているようだ」
「珍しいですね、あなたがそんな風に、自分の状態を認めるなんて」
「そうだな。自分でも、意外に思っている」
その素直な返答に、リィナは、静かに眉を寄せた。長年の付き合いの中で、カイエルがこれほど不安定な様子を見せることは、滅多になかったからだ。
「具体的に、どんな症状があるんですか」
「……頭痛だ。夜になると、決まって強くなる。それと、耳鳴りのような、何か音が聞こえる気がする」
「それは、いつ頃から?」
「はっきりとは覚えていない。だが、村を発ってから、徐々に酷くなっている気がする」
リィナは、その症状を、頭の中で丁寧に整理していった。単なる疲労にしては、あまりにも具体的で、そして、進行性があるように思えた。
(体調不良、というだけではない気がするわ)
調査官としての勘が、そう告げていた。だが、今の段階では、それが何を意味するのか、リィナ自身にも、はっきりとはわからなかった。
◇
その夜、カイエルは、再び頭痛に見舞われていた。今度は、これまでよりも、いくらか強い痛みだった。
(――誰、だ)
耳の奥の雑音に、微かに、人の声のようなものが混じっている気がした。だが、意識を集中させようとすると、その声は、するりと逃げるように消えてしまう。
住居の外に出て、夜風に当たる。満天の星空の下、カイエルは、自分の右手を見つめた。ランクS、銀色に輝く紋様。何も変わりのない、いつも通りの自分の紋のはずだった。
(気のせいだ。疲労が見せる、ただの幻聴に過ぎない)
そう自分に言い聞かせながらも、拭いきれない不安が、胸の奥に、静かに沈殿していった。
村での一件から、既に幾らかの時が経っていた。自分自身は、森の歪みにも、あの靄にも、直接触れたことはない。村に到着したのは、全てが収まった後のことだ。それなのに、なぜこれほどの不調に見舞われるのか——その理由に、彼自身は、まだ気づいていなかった。
ふと、耳の奥の雑音が、一瞬だけ、はっきりとした言葉のように感じられた。
(――お前、も……)
それが、誰の声なのか、何を告げようとしているのか、カイエルには、まるで見当がつかなかった。空耳だと切り捨てるには、あまりにも生々しい響きだった。
「……くだらん」
自分にそう言い聞かせ、カイエルは住居に戻った。だが、その夜、彼はほとんど眠ることができなかった。
◇
少し離れた場所で、ユリオとリィナは、小声で言葉を交わしていた。
「なあ、リィナ。カイエルの奴、やっぱりおかしくないか」
「ええ、私もそう思うわ。ここ数日、明らかに様子が変よ」
「単なる疲れじゃない気がするんだよな。なんつーか、もっと、根本的な何かがあるっていうか」
リィナは、腕を組みながら、考え込むように眉を寄せた。
「エルフの集落での話を思い出すと……色を持たない者は情念力の出口がない、という話があったでしょう。カイエルは違うけれど、もし、何らかの形で、ゼルギアに関わる力に触れているのだとしたら――」
「それって、やばい話じゃねえのか」
「まだ、憶測に過ぎないわ。でも、注意しておくに越したことはない」
二人は、それぞれの不安を胸に、しばらく無言で焚き火を見つめていた。旅の空気に、これまでとは違う、新たな緊張が、静かに忍び込み始めていた。
夜の闇の中、一人佇むカイエルの影が、いつもよりわずかに、揺らいで見えた気がした。だが、それに気づく者は、この夜、誰もいなかった。
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