第三十八話 山道の異変
街道は、次第に山がちな地形へと差し掛かっていた。
「この辺りから、山道が続く。旧ヴェルニア領の外縁部に、比較的近い経路だ」
カイエルが、地図を広げながら説明した。
「近いって、どれくらいだよ」
「直接踏み入るわけではない。だが、油断はできない距離だ」
その言葉に、一行の間に、自然と緊張感が漂い始めた。エルフの集落で聞いた、あの若者の悲劇の舞台が、すぐ近くにあるのだという実感が、これまでとは違う重みを持って迫ってくる。
地図を覗き込みながら、リィナが、慎重に尋ねた。
「他に、迂回できる経路はないのですか」
「あるにはあるが、大幅な遠回りになる。この状況で、これ以上の遅延は避けたい」
カイエルの判断に、リィナは頷いた。危険を承知の上で、最短の道を選ぶ――それは、彼女自身も同意できる決断だった。
「全員、気を引き締めていけ」
カイエルの号令に、私兵たちが、一斉に武装を確認する。ユリオも、ガレオンから譲り受けた剣を、しっかりと握り直した。
山道を進むにつれて、周囲の植生に、微かな異変が見られるようになった。
「なあ、この辺の木、なんか元気なくないか」
ユリオが、周囲を見回しながら呟いた。確かに、道の両脇に生い茂る木々の葉は、どこか色褪せ、生気を失っているように見えた。
「言われてみれば、そうね」
リィナも、その異変に気づき、眉をひそめた。
「西の森で見た、あの地面の歪みと、似たような気配があるわ」
一行は、慎重に歩を進めた。しばらく進むと、道の脇に、小さな動物の死骸が転がっているのが見えた。
「これは……」
カイエルが、馬を降りて、死骸を検分する。
「外傷は見当たらない。だが、明らかに、通常の死に方ではないな」
死骸の周囲の地面は、うっすらと黒ずんでおり、そこだけ、植物すらも生えていなかった。
「触るなよ、危ないかもしれない」
ユリオが、思わず声をかけた。カイエルは、頷きながら、慎重に手を離した。
「西の森の異変と、同じ種類のものだと思うか」
「可能性は高いわ。ゼルギアの気配が、少しずつ、この辺り一帯にも広がりつつあるということかもしれない」
リィナの分析に、一行の緊張が、さらに高まった。
さらに進むと、似たような痕跡が、道のあちこちに点在していることに気づいた。小動物の死骸、色を失った草花、そして、時折見られる、地面のわずかな歪み。どれも、単独で見れば些細なものだったが、それらが積み重なることで、確かな不穏さを醸し出していた。
「この調子だと、旧ヴェルニア領の影響は、思っていたよりも広い範囲に及んでいるのかもしれないな」
カイエルが、険しい表情で呟いた。
「王都に着いたら、この情報も、詳しく報告する必要があるわね」
「ああ。悠長に構えている場合ではなさそうだ」
馬に戻りかけたカイエルが、ふと、こめかみを押さえて、僅かに、目を細めた。
「どうかしたの?」
リィナの問いに、カイエルは、すぐに、首を振った。
「いや……少し、頭の奥が、鈍く痛んだだけだ。エルフの集落にいた頃から、時々あることでな。大したことではない」
「無理は、しないでね」
「ああ。それより、先を急ごう」
その時は、誰も、その小さな不調を、深く気に留めることはなかった。それが後に、大きな意味を持つことになるとは、まだ、誰一人、知る由もなかった。
一行は、これまで以上に警戒を強めながら、慎重に歩を進めていった。
◇
山道を進みながら、ユリオは、自分の右手を、無意識に握りしめていた。
(もし、また何か起きたら……)
崖崩れの時、靄の時――これまで二度、死の淵で無自覚に発動した、あの力。もし今、この山道で同じような危機に見舞われたら、自分はどう対処すべきなのか。エルフの集落で得た知識はあっても、実際に力を制御する術は、まだ何も身についていなかった。
「大丈夫か?」
その様子に気づいたガイが、声をかけてきた。
「あ、ああ。ちょっと、考え事してた」
「緊張してるなら、無理もない。この辺りは、俺たちベテランでも、あまり気持ちのいい場所じゃないからな」
ガイの言葉には、実戦経験者らしい、確かな重みがあった。
「なあ、ガイさん。もしまた、あの靄みたいなのが出てきたら、俺、どうすればいいと思う?」
「難しい質問だな」
ガイは、少し考えてから、答えた。
「一番大事なのは、パニックにならないことだ。恐怖に飲まれちまうと、判断力が鈍る。落ち着いて、周りをよく見て、できることをやる。それしかない」
「シンプルだけど、難しいな、それ」
「まあ、経験を積むしかないさ。誰だって、最初はそうだった」
「ガイさんも、最初は怖かったのか」
「当たり前だろう。初めて実戦に出た時なんか、足が震えて、まともに剣も握れなかったよ」
その意外な告白に、ユリオは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうは見えないけどな、今のガイさんは」
「経験ってのは、そういうもんだ。積み重ねていくうちに、少しずつ、震えを抑えるコツがわかってくる。だが、完全に恐怖が消えるわけじゃない。ただ、それと付き合う術が身につくだけだ」
ガイの言葉には、実戦を潜り抜けてきた者だけが持つ、確かな重みがあった。
「坊主も、これから色んな修羅場を潜っていくんだろうな。だったら、今のうちに、恐怖との付き合い方を、少しずつ学んでおくといい」
「参考にするよ」
その率直な言葉に、ユリオは、少しだけ気が楽になった。
◇
日が傾き始めた頃、一行は、山道の途中にある、小さな開けた場所で野営することにした。周囲を警戒しながら、慎重に野営の準備が進められる。
「今夜は、見張りを厳重にする。二人一組で、交代制だ」
カイエルの指示に、私兵たちは、てきぱきと配置についていった。
「私も、見張りに加わるわ」
リィナが、申し出た。
「お前は休んでいろ。調査官としての知見は、別の場面で役立ててもらう方がいい」
「でも――」
「無理に働く必要はない。休める時に休むのも、大事な仕事のうちだ」
カイエルの珍しい気遣いに、リィナは、少し驚いた様子を見せたが、素直にその言葉に従うことにした。
夜が更ける中、焚き火を囲みながら、一行は、それぞれの緊張を抱えたまま、静かな警戒態勢を続けていた。ユリオも、なかなか寝付けずにいた。
(この先、王都までの道のりで、一体何が待ってるんだろうな)
答えの出ない問いを抱えながら、ユリオは、焚き火の炎を、じっと見つめ続けていた。山の闇の中に、何かが潜んでいるような、そんな予感が、拭いきれずにいた。
真夜中過ぎ、見張りに立っていた私兵の一人が、突然、鋭い声を上げた。
「――何か動いた!」
その声に、野営地全体が、一瞬にして緊張に包まれた。カイエルが、即座に剣を抜いて立ち上がる。
「どこだ」
「あ、あちらの茂みです……!」
全員の視線が、指差された方向に集中する。ユリオも、思わず身構えた。心臓が、早鐘のように打ち始める。
だが、しばらく様子を窺っても、それらしい気配は、二度と現れなかった。
「……鹿か何かだったんじゃないか」
私兵の一人が、緊張の解けた声で呟いた。
「油断するな。この辺りでは、何が潜んでいてもおかしくない」
カイエルの厳しい声に、全員が再び気を引き締める。だが、剣を納めた後も、しばらくの間、野営地には、張り詰めた空気が残り続けた。
「なんつーか、心臓に悪いな、こういうの」
ユリオが、額に浮かんだ汗を拭いながら、小さく呟いた。
「慣れないうちは、誰でもそうだ」
ガイが、苦笑しながら答える。
「俺も、最初の頃は、木の葉が揺れる音にすら、飛び上がってたもんさ」
「今は違うのか」
「今も、正直、慣れたとは言い切れんな。ただ、経験を積むと、少しは冷静に対処できるようになる、ってだけの話だ」
その率直な言葉に、ユリオは、少しだけ、緊張が和らぐのを感じた。
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