第三十四話 名もなき力
シルヴィエルとの対話から一夜明け、ユリオは、集落の奥にある書庫のような場所へと案内されていた。
「ここは、我らが代々受け継いできた記録の間だ」
案内してくれたのは、昨日とは別の、年配のエルフだった。名を、フィオレルと名乗った。記録を管理する役目を担っているのだという。
木の幹をくり抜いて作られたその空間には、紙ではなく、薄く削られた木片に文字が刻まれた、独特の記録媒体が、幾重にも積み重ねられていた。足を踏み入れると、乾いた樹の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。天井の隙間から差し込む木漏れ日が、積み重なった木片の表面を、淡く照らしていた。
「紙は、朽ちる。だが、正しく削り、正しく乾かした木片は、数百年を耐える。我らの記憶は、こうして、森と共に残っていく」
フィオレルの、その言葉には、数百年単位で時を数える一族の、静かな誇りが滲んでいた。
「シルヴィエル様から、お前のことは聞いている。灰色の紋を持つ者、そして――死の淵で、時を繰り返す力を持つ者、と」
その言葉に、ユリオは思わず息を呑んだ。
「爺さんにも、リィナにも、詳しくは話してなかったのに……なんで知ってるんですか」
「森は、多くのことを見ている。お前がこの集落に来る前から、いくつかの兆候には気づいていた」
フィオレルは、書棚の奥から、一枚の古い木片を取り出した。表面には、見慣れない文字と、複雑な紋様のような図が刻まれている。
「これは……?」
「遥か昔、我らエルフの間に伝わる、古い記述だ。お前が持つような力について、記されている」
ユリオは、食い入るようにその木片を見つめた。文字は読めなかったが、描かれた図には、渦を巻くような、時の流れを思わせる意匠が施されていた。
「この力には、我らの言葉で、古くから呼び名がある」
「教えてください」
「――『刻の狭間を歩く者』。それが、直訳に近い意味だ」
その言葉の響きに、ユリオは、不思議な感慨を覚えた。これまで、自分の力には、名前すらなかった。それが今、初めて、輪郭を持った言葉として、自分の前に示されている。
「もっと、詳しく教えてもらえますか」
「もちろんだ。この記述は、我らの祖先が、遠い昔に観測した、幾つかの事例を基にまとめられたものだ」
フィオレルは、木片を丁寧にめくりながら、続けた。
「事例は、決して多くはない。長い歴史の中で、片手で数えられる程度しか、記録に残っていない。それだけ、稀有な現象だということだ」
「その事例って、みんな、どうなったんですか」
その問いに、フィオレルは、一瞬、言葉を選ぶような間を置いた。
「様々だ。力を制御できずに、若くして命を落とした者もいる。逆に、見事に己の力と折り合いをつけ、長く生を全うした者もいる」
「その違いは、何なんですか」
「一概には言えん。だが、記録に共通するのは――孤独に力を抱え込んだ者ほど、悲劇的な結末を迎える傾向にある、ということだ」
その言葉は、これまでシルヴィエルから聞いた、あの若者の物語と、静かに重なり合っていった。
「逆に、というのも、ある」
フィオレルは、書棚の別の段から、もう一枚、木片を取り出した。
「生を全うした者の記録には、決まって、共に在った者のことが、記されている。力を恐れず、そばに居続けた家族。長い年月をかけて、力の現れ方を、共に見届け続けた友――力そのものを制御する術は、結局、どの記録にも、残っていない。だが、そばに誰かが在り続けた、という事実だけは、生を全うした者の記録の全てに、共通して刻まれている」
「そばに、誰かがいること……」
「気休めに、聞こえるか」
「……いや」
ユリオの脳裏に、浮かんだ顔があった。丘の上で、何年も、黙々と稽古をつけてくれた、あの偏屈な師匠。そして今、この旅を、共に歩いてくれている者たち。
「俺には、いると思う。そういう人が」
「なら、お前は、記録に残る、どの先人よりも、恵まれている」
フィオレルの、その静かな断言は、警告の続きでありながら、どこか、祝福のようにも、聞こえた。
「この記述によれば、その力は、極めて稀に、色を持たない者に宿るとされている。死の淵に立たされた瞬間、わずかな時を遡り、その身を救う――」
「まさに、俺に起きてることだ」
「ああ。そして、これも記されている」
フィオレルは、木片の別の面を指し示した。
「この力は、使えば使うほど、身と心に負担を強いる。だが、それ以上に恐ろしいのは――使わずにいることの方だ」
「使わない方が、恐ろしい……?」
「色を持たない者は、本来、日々の暮らしの中で自然に発散されるはずの情念力を、外へ出す手段を持たない。唯一の例外が、この『刻の狭間を歩く』力だ。この力を通じてのみ、行き場のない情念力の一部が、僅かながら発散される」
その説明に、ユリオの背筋に、冷たいものが走った。
「じゃあ、もし俺が、この力を全然使わないまま、何年も過ごしたら……」
「行き場を失った情念力が、体の内側に、際限なく積もり続けることになる」
その言葉が意味するところを、ユリオは、痛いほど理解していた。旧ヴェルニア領を滅ぼした、あの若者の悲劇――その正体こそが、まさにこの、行き場のない情念力の蓄積だったのだから。
「……俺も、いつか、同じことになるかもしれないってことか」
「可能性としては、ある。だからこそ、お前は、その力と正しく向き合う必要がある。恐れて封じ込めるのではなく、いずれは、自らの意志で制御できるようになることが望ましい」
フィオレルの言葉には、単なる警告以上の、確かな導きの意図が込められていた。
◇
書庫を出た後、ユリオは、リィナにこの話を伝えた。
「刻の狭間を歩く者、か……」
リィナは、その響きを、静かに反芻した。
「鑑定院の記録にも、こんな詳細は載っていなかったわ。エルフの伝承の方が、はるかに本質に近づいているみたいね」
リィナは、少し考えてから、続けた。
「その木片、私も、見せてもらえないかしら。文字は読めなくても、あの図だけでも、書き写しておきたいの」
「フィオレルさんに、頼んでみる。多分、大丈夫だと思う」
その日のうちに、リィナは、フィオレルの許しを得て、あの、渦を巻く時の意匠を、丁寧に、自分の手帳へと書き写していた。羊皮紙の上に、慎重に線を重ねていく、その真剣な横顔を眺めながら、ユリオは、この几帳面な調査官が仲間でいてくれることの心強さを、改めて、噛みしめていた。
「なあ、リィナ。俺、この力、いつかちゃんと使いこなせるようになるのかな」
その問いに、リィナは、少し考えてから答えた。
「わからない。でも、少なくとも、今知ったことは、確かな一歩よ。何も知らずに怯えているより、正体を知った上で、どう向き合うかを考えられる方が、ずっと前向きだと思うわ」
「……そうだな」
ユリオは、自分の右手を見つめた。灰色に滲んだ紋様。かつては、ただ蔑まれるだけの烙印だったそれが、今は、名前を持つ、一つの確かな力として、少しずつ、その輪郭を露わにし始めていた。
◇
その夜、集落の外れ、私兵たちが設えた焚き火を囲みながら、ユリオは、カイエルにも今日聞いた話を伝えることにした。
「刻の狭間を歩く者、か」
カイエルは、腕を組みながら、静かにその言葉を反芻した。
「なるほど。お前があの靄の一件で見せた現象にも、辻褄が合う」
「あんたも、信じてくれるのか」
「エルフの伝承は、伊達に長い年月を重ねているわけではない。それに、村の者たちからも、あの靄がお前の前で怯んだという証言をいくつも聞いている。信じない理由がない」
その率直な返答に、ユリオは、少し意外そうな顔をした。
「もし本当に、お前がその力を制御できるようになれば――ゼルギアへの対抗手段として、これ以上ない存在になるだろうな」
「そんな簡単な話じゃないと思うけどな」
「簡単だとは言っていない。だが、可能性の話としては、無視できない」
カイエルの声には、これまでの敵意とは違う、真剣な期待のようなものが滲んでいた。
「それに――お前がもし、あの若者と同じ轍を踏まずに済むなら、それこそが、我々が目指すべき未来なのだろう」
その言葉に、ユリオは、静かに頷いた。
◇
その夜、ユリオは、託された話の数々を、一人静かに反芻していた。刻の狭間を歩く者――名前を得たことで、これまで漠然としていた自分の力が、少しずつ、輪郭を持ち始めているような気がした。
集落での滞在は、まだしばらく続きそうだった。学ぶべきことは、まだ多く残っている。それでも、確かな手応えを胸に、ユリオは静かに眠りについた。
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