第三十三話 灰色の伝承
翌朝、一行は再び、シルヴィエルのもとへと呼ばれた。
「昨夜は、よく眠れたか」
「まあ、なんとか」
ユリオが答えると、シルヴィエルは、静かに頷いた。
「では、話そう。お前が知りたがっている、灰色の紋にまつわる真実を」
その言葉に、一行は、揃って居住まいを正した。
「今から語るのは、六十年近く前――我らエルフにとっても、決して古すぎるとは言えない、比較的新しい記憶の話だ」
シルヴィエルは、遠くを見るような目をして、語り始めた。
「旧ヴェルニア領の外れに、一人の若者がいた。孤児として、ほとんど誰にも顧みられずに育った青年だ。その者の紋は、お前と同じように、色を持たなかった」
「その人が……」
「話を最後まで聞くがいい」
シルヴィエルは、静かに制した。
「今でこそ、紋の精緻さと色彩から、ランクと属性を厳密に読み解く『鑑定』という技術は当たり前のものとなっている。だが、当時はまだ、そこまで精密な技術は存在しなかった。紋様自体は、大陸のどこでも、遥か昔から人々の手に浮かんでいたし、その輝き方や色合いから、占い師や村の長老が、おおまかな強さや性質を読み取る――そんな素朴な習わしも、古くからあった。だが、その読み方は地域や占い師によってまちまちで、あくまで曖昧な目安に過ぎなかったのだ」
「え、紋自体は、その人が発明したわけじゃないんですね」
「そうだ。紋という現象自体は、遥か昔から存在していた。彼が成し遂げたのは、それまで曖昧だった読み方を、誰もが納得できる、精密な理論へと作り替えたことだ」
シルヴィエルは、静かに続けた。
「若者は、幼い頃から、自分の紋だけが、他の誰のものとも違うと、うっすら気づいていた。輪郭が滲み、色を持たない、奇妙な形。当時の占い師たちは、それを『不吉な、判じがたい紋』としか言わなかった。だが、それが本当は何を意味するのか、誰も――彼自身にも、納得のいく説明はできなかった」
「それで、その人は……」
「自分の紋の意味を、自分自身で理解したい。その切実な想いこそが、彼を紋の研究へと駆り立てた、本当の出発点だったのだろう」
シルヴィエルの声には、静かな共感が滲んでいた。
「若者は、孤独の中で、多くの人間の紋様を観察し、木・火・土・金・水という五つの流れと、光・闇という特異な例外――今、お前たちが七属性と呼んでいる分類を、実証的に導き出した」
その言葉に、リィナが、思わず息を呑んだ。鑑定紋制度そのものの起源に関わる話だとは、彼女も予想していなかった。
「――待ってくれ」
それまで黙って聞いていたカイエルが、思わず口を挟んだ。
「私が、これまで絶対のものとして仰いできた鑑定紋制度が……色を持たない、はぐれ者によって作られたものだと、そう言うのか」
その声には、隠しきれない動揺があった。生まれてこの方、疑うことのなかった秩序の根幹が、まさにその秩序から弾き出された者の手によって築かれたのだという事実は、カイエルにとって、決して小さな衝撃ではなかった。
「事実だ。信じるかどうかは、お前次第だが」
「……」
カイエルは、それ以上、言葉を継げなかった。ただ、拳を強く握りしめ、俯くようにして、その事実を受け止めようとしていた。
「理論を組み立てていた当初、若者自身の紋だけは、そのどの分類にも当てはまらなかった。だが彼は、それを『自分の観測手法の誤差』として、一旦保留にしていたという」
「保留に……?」
「ああ。当時、色を持たない紋の持ち主は、他に一例も見つかっていなかった。ならば、自分こそが例外なのではなく、自分の測り方のどこかに欠陥があるのだと、彼はそう考えたのだ」
シルヴィエルは、なおも続けた。
「若者が理論を編み出したのは、彼が二十歳になった頃――今から、四十年ほど前のことだ」
「若者の理論は、やがて人間の国――アルカナ王国に採用され、瞬く間に社会全体へと広がっていった。制度として正式に採用されたのは、それから五年ほど後、三十五年ほど前のこと。制度が定着した後、彼は満を持して、自分自身のケースを本格的に検証し直した」
「その結果、どうなったんですか」
「誤差ではなかった。正真正銘、七つの分類のいずれにも当てはまらない、前例のない規格外――それが、証明されてしまった」
その言葉に、ユリオは息を呑んだ。単なる皮肉ではない、もっと重い響きがあった。
「渾身の理論を打ち立てた本人が、その理論によって、自分こそがこの世界の秩序の外側にいる存在なのだと、科学的に証明してしまった――想像してみるがいい。それがどれほど、彼の心を蝕んだか」
シルヴィエルは、一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「加えて、もう一つ、彼を苦しめたものがある。この世界では、情念力は、属性を介してしか外へ発散できない。五行のいずれかを持つ者は、日々の暮らしの中で、無意識のうちにその力を少しずつ発散している。だが、属性を持たない彼には、その手段が一切なかった」
「じゃあ、その人の中には……」
「生まれてから崩壊に至るまでの三十一年間、行き場のない情念力が、ただひたすら、内側に積もり続けていたのだ」
部屋の中に、重い沈黙が満ちた。
「その頃、若者は、一度だけ、我らエルフの集落を訪れたことがある」
「エルフの……ここに、来たんですか」
「ああ。今のお前と、同じようにな」
その言葉に、ユリオは、背筋が冷たくなるのを感じた。
「彼は、ちょうどお前が今立っているその場所に立ち、同じように、この森の静けさに驚いていた。既に、自分の紋が規格外だと知った後だった。まだ若く、それでも理想を諦めきれない、そんな瞳をしていたことを、私は今でも覚えている」
シルヴィエルの声には、遠い記憶を慈しむような、そして同時に、痛みを堪えるような響きがあった。
「若者は、答えを求めていた。自分のような存在が、どうすれば、この世界で救われるのか。その問いに対して、当時の我らは――」
シルヴィエルの声に、初めて、深い後悔の色が滲んだ。
「十分な答えを、返してやれなかった。彼の孤独の深さを、我らは正しく理解できていなかったのだ。エルフの視点から見れば、彼の悩みは、人間社会という狭い枠組みの中だけの問題に過ぎないと、どこかで軽んじていた」
「それで、どうなったんですか」
「若者は、失意のうちに、我らの元を去った。去り際、彼はこう言い残していった。『それでも、俺は、俺の理想を諦めない』と」
その言葉に、ユリオは、思わず息を呑んだ。それは、自分が普段から胸に抱いている決意と、あまりにも似通っていた。
「だが、それでも彼は、一人だけ、心を通わせた者を得ていた」
「一人だけ……?」
「王国の冒険者の中に、彼の理論に興味を持ち、彼を無価値な人間としてではなく、対等な一人の学者として扱った者がいたという。若者にとって、生涯で初めての、対等な友であったはずだ」
その言葉に、ユリオの脳裏に、ガレオンの木箱の中の剣が浮かんだ。
「その友を、若者は、ある任務の混乱の中で失った。自分を庇おうとして、命を落としたのだ」
「まさか、それって……」
「初めてできた友を、自分のせいで失った――その喪失こそが、三十一年分積もり続けた情念力の、最後の引き金になった」
「それから間もなく――今から二十九年ほど前、旧ヴェルニア領の崩壊が起きた」
その言葉が、これまでガレオンから聞いていた話と、静かに重なっていった。
「三十一年分、行き場なく積もり続けていた情念力が、制御を失って一気に噴き出した。それは、技量や戦闘力によるものではない。いわば、火山の噴火に近い、無差別の災害だった。だからこそ、腕利きの冒険者たちが束になっても、剣を交えて止めることなどできなかったのだ」
「あの地一帯が、今も瘴気に包まれて何も育たないのって……」
「噴き出した情念力が、土地や生き物から、属性そのものを剥ぎ取るように作用したのだと、我らは見ている。以後、若者は個としての人格を失い、今、王都が『災厄』と呼んでいる、あの存在と化した」
部屋の中に、重い沈黙が満ちた。ユリオは、拳を強く握りしめていた。
「その若者、今、王都で『ゼルギア』って呼ばれてる、あれですか」
「その名までは知らぬが、お前たちの言う脅威が、彼の成れの果てであることは、疑いようがない」
シルヴィエルは、静かにユリオを見据えた。
「なぜ、この話をお前にするか、わかるか」
「……俺が、同じ道を辿るかもしれないから、ですか」
「それもある。だが、それ以上に――我らは、二度と同じ過ちを繰り返したくないのだ」
その言葉には、三十年余りの時を経てもなお癒えぬ、深い悔恨が滲んでいた。
「あの時、我らがもっと真摯に向き合っていれば、あの悲劇は防げたかもしれない。その後悔が、今、我らをここに立たせている」
シルヴィエルは、ユリオに向き直った。
「だからこそ、今度は違う。お前が望むなら、我らにできる限りの助力をしよう」
その申し出に、ユリオは、しばらく言葉を失っていた。
「……ありがとう、ございます」
絞り出すように、そう答えるのが、精一杯だった。
◇
話が一段落した後、リィナが、慎重に問いを重ねた。
「その若者の名前を、教えていただくことはできますか」
その問いに、シルヴィエルは、初めて、はっきりと表情を曇らせた。
「……今は、まだだ」
「なぜですか」
「名には、力が宿る。彼の名を軽々しく口にすることは、今はまだ、時期尚早だと考えている」
その返答に、リィナは、それ以上食い下がることはしなかった。だが、その胸には、確かな予感が芽生えていた。いずれ、その名前を知る時が来る――そして、その時こそが、この物語の、大きな転換点になるのだろうという予感が。
部屋を出た後、ユリオは、しばらく無言で、集落の景色を見つめていた。
「……色を持たない紋を持って生まれて、世界のために理想を掲げて、それでも、誰にも救われなかった」
ぽつりと、そう呟く。
「俺と、同じだ」
その声には、恐怖と、そして、拭いきれない共感が、静かに滲んでいた。
傍らに寄り添うように立っていたリィナが、静かに口を開いた。
「でも、一つだけ、違うところがあるわ」
「違うところ?」
「あなたには、ガレオンさんがいる。ミラも、村の人たちもいる。そして――」
リィナは、少し言葉を選ぶように、続けた。
「私も、いるわ」
その言葉に、ユリオは、思わず顔を上げた。
「あの若者は、孤独の中で、誰にも寄り添ってもらえなかった。だから、あんな結末を迎えてしまった。でも、あなたは違う。一人じゃない」
その真摯な言葉に、ユリオの胸の奥に渦巻いていた恐怖が、少しずつ、和らいでいくのを感じた。
「……ありがとな」
「お礼を言うようなことじゃないわ。当然のことよ」
少し離れた場所では、カイエルもまた、一人、複雑な表情で立ち尽くしていた。自分が信じてきた秩序の根幹に潜む、痛ましい真実。それを受け止めることは、彼にとって、決して容易いことではなかった。
(私は、これから、何を信じればいい)
答えの出ない問いを抱えながら、カイエルは、静かに空を見上げた。木々の合間から差し込む光が、その横顔を、複雑な陰影で照らし出していた。
それぞれの想いを抱えながら、一行は、この不思議な集落での滞在を、静かに続けていくことになった。
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「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。
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