第三十二話 集落の掟
案内された先は、一際大きな木の根元に設えられた、開けた広場だった。中央には、年輪を重ねた古木の切り株があり、その上に、一人の年老いたエルフが腰掛けていた。
白銀の長い髪、深く刻まれた皺、それでいて、少しも衰えを感じさせない鋭い眼光。一目で、この集落における特別な存在だとわかる風格を纏っていた。
「よく参られた、人の子らよ」
長老の声は、年齢を感じさせない、よく通る声だった。
「私は、この集落の長を務める、シルヴィエルという」
「ユリオ・カインです」
代表してユリオが名乗ると、長老の視線が、彼の右手――灰色の紋へと注がれた。
「……なるほど。案内役から聞いた話は、真実だったようだな」
「俺の紋のこと、知ってるんですか」
「知っている、というより、覚えている、が正しい。長く生きた我らエルフにとって、記憶とは、容易く風化するものではない」
その言葉の重みに、ユリオは思わず息を呑んだ。
「本題に入る前に、いくつか確認させてもらいたい」
シルヴィエルは、鋭い視線を、ユリオの背後に控える一行へと向けた。
「そちらの、白い外套の者。お前は、何者だ」
「カイエル・ヴァンドール。王国騎士だ」
「紋の絶対性を、誰よりも強く信奉する家系の出、というわけか」
その指摘に、カイエルは、わずかに表情を強張らせた。
「……その通りだ。だが、それが何か問題か」
「問題、というほどのことではない。ただ、我らエルフにとって、鑑定紋という制度そのものが、あまり好ましいものではないという事実は、伝えておく必要があるだろう」
シルヴィエルの声には、静かだが、確かな棘があった。
「人間たちは、紋という尺度で、全てを測ろうとする。だが、我らの目から見れば、それは、世界の在り方の、ほんの一面を切り取っているに過ぎない」
「では、あなた方は、どうやって力や価値を測るのですか」
リィナが、興味深そうに尋ねた。
「測らぬ。測る必要がないのだ」
その答えに、リィナは思わず目を見開いた。
「我らにとって、個々の力は、その者の在り方そのものと不可分だ。数値化し、色分けし、他者と比較すること自体が、その者の本質を歪めてしまうと、我らは考えている」
「だが、それでは、集団としての秩序を保つのは、難しくなるのではないか」
カイエルが、思わず口を挟んだ。
「秩序というものを、お前たちは、上から押し付けるものだと考えているようだな。我らにとっての秩序とは、それぞれの在り方を尊重した上で、自然と形作られていくものだ」
「そのような曖昧なやり方で、本当に立ち行くのか」
「立ち行っている。何百年もな」
シルヴィエルの静かな一言に、カイエルは、それ以上の反論を口にできなかった。
その思想は、ユリオにとって、これまで生きてきた世界の常識を、根底から揺さぶるものだった。
「――そういう考え方も、あるんですね」
「お前のように、その尺度から弾き出された者にとっては、特に、実感を伴う話だろう」
シルヴィエルの視線が、再びユリオへと戻った。
「だが、勘違いするな。我らがこの制度を嫌うのは、単なる思想の違いだけが理由ではない」
「他にも、理由が?」
「かつて、この制度が生まれる過程で、多くの悲劇があった。その記憶が、我らエルフの間には、今も色濃く残っている」
その言葉に、ユリオの胸が、ざわめいた。老司祭の手記に記されていた、あの言い伝えのことが、脳裏をよぎる。
「その悲劇について、詳しく聞かせてもらえますか」
「性急だな、人の子よ」
シルヴィエルは、静かに首を振った。
「全てを語る前に、まず、お前たちが本当に、真実を受け止める覚悟があるかどうかを、見極めねばならん」
「覚悟なら、あります」
ユリオは、迷わずそう答えた。
「言葉で言うのは容易い。だが、真実というものは、時に、その者の生き方そのものを変えてしまうほどの重みを持つ」
シルヴィエルの声には、これまでにない、深刻な響きがあった。
「今宵は、まず、休むがいい。客人としてもてなそう。話の続きは、明日以降だ」
その言葉を最後に、長老は、それ以上の問答を拒むように、目を閉じた。案内役のエルフが、一行を宿泊用の住居へと導いていく。
◇
与えられた住居は、村の質素な家とも、宿場町の宿とも違う、木の温もりに満ちた不思議な空間だった。
「思ったより、歓迎されてる感じだな」
ユリオが、周囲を見回しながら呟いた。
夕刻になると、集落の若いエルフたちが、一行のために食事を運んできた。見慣れない木の実や果物、香草を使った料理が、丁寧に並べられていく。
「これは……なんという料理ですか」
リィナが、興味深そうに尋ねた。
「森の恵みを、そのまま活かしただけのものだ。特別な名はない」
運んできたエルフの一人が、素っ気なく答えた。だが、その手つきには、来客をもてなす、確かな心配りが感じられた。
私兵たちも、慣れない味付けに戸惑いながらも、それぞれに料理を口にしていた。
「悪くないな、これ」
ガイが、感心したように呟く。
「案外、警戒するほどのことでもなさそうだな、この集落は」
「油断は禁物だぞ」
カイエルが、鋭く釘を刺す。それでも、彼自身、出された料理には、素直に箸をつけていた。
「歓迎、というより、慎重に見極められている、という方が正確かもしれないわね」
リィナが、冷静に分析する。
「長老の言い方だと、俺の紋に関する『悲劇』ってのが、相当重い話みたいだったな」
「ええ。今の話しぶりからすると、単なる伝承以上の、生々しい何かがあるように感じたわ」
その予感は、ユリオの胸にも、確かな重みとして刻まれていた。ガレオンが語った、旧ヴェルニア領の崩壊の話。それと、このエルフたちの言う「悲劇」が、同じものを指しているのではないか――そんな確信めいた予感が、次第に強まっていった。
一方、少し離れた場所で、カイエルは一人、複雑な表情を浮かべていた。長老の言葉――「紋の絶対性を誰よりも強く信奉する家系」という指摘が、彼の胸に、鈍い痛みとなって残っていた。
(私の信じてきたものは、彼らにとって、忌むべきものなのか)
これまで、自分の信念に、これほど正面から異議を突きつけられたことはなかった。人間の秩序とはまた違う、もう一つの価値観の存在が、カイエルの中に、静かな波紋を広げていた。
住居の外に出て、夜風に当たっていたカイエルの元に、ガイが歩み寄ってきた。
「カイエル様、大丈夫ですか。なんだか、様子がおかしいですが」
「……いや、少し考え事をしていただけだ」
「エルフの長老の話ですか」
「ああ」
カイエルは、木々の間から覗く星空を見上げながら、静かに続けた。
「私が信じてきたものが、唯一絶対の正解ではないのかもしれない――そう思うと、これまでの自分の在り方全てが、揺らいでいくような感覚がある」
「それは、悪いことなんでしょうか」
ガイの素朴な問いに、カイエルは、しばらく答えられなかった。
「わからん。だが、少なくとも、目を背けるべきことではないのだろうな」
「カイエル様らしいですよ、それ。間違ってるかもしれないと思っても、ちゃんと向き合おうとするところ」
その言葉に、カイエルは小さく息を吐いた。
「お前も、変わったな。以前は、そんな軽口を叩く男ではなかっただろう」
「カイエル様についていくうちに、こっちも色々学んだんですよ」
軽く笑い合う二人の姿は、これまでの張り詰めた旅路の中では、珍しく穏やかなものだった。
夜の帳が下りる中、それぞれの想いを抱えながら、一行は、この不思議な集落での、最初の夜を過ごすことになった。
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