第三十話 カイエルの独白
宿場町を発ってから、二日が過ぎていた。国境の緊張が伝えられて以降、一行の旅程は、これまで以上に速度を増していた。
その日の夜営地で、珍しく、カイエル自らが焚き火の傍にやってきた。
「隣、いいか」
「あんたが自分から来るなんて、珍しいな」
ユリオが軽口を叩きながらも、場所を空けた。カイエルは、無言のまま腰を下ろすと、しばらく炎を見つめていた。
「……お前に、聞いておきたいことがある」
「なんだよ、改まって」
「なぜ、お前はそこまで、紋の色に囚われずにいられる。私には、それが理解できん」
その率直な問いに、ユリオは少し考え込んだ。
「囚われてないってわけじゃ、ないけどな。ただ、囚われたところで、何も変わらないってわかっただけだよ」
「それだけの理由で、割り切れるものなのか」
「割り切れてるかどうかは、正直わかんねえよ。今でも、悔しいこととか、腹立つこととかは、いくらでもある」
ユリオは、焚き火の炎を見つめながら、静かに続けた。
「でも、それでも、俺は俺のままでいたいと思ってる。それだけだよ」
その答えに、カイエルは、しばらく沈黙していた。やがて、ぽつりと、自分のことを語り始めた。
「私は、物心つく前から、紋こそが全てだと教えられて育った。ヴァンドール家は、遥か昔から抜きん出て力ある紋を持つ者を輩出してきた、由緒ある家系だ。鑑定紋制度が確立してからは、当主は代々ランクSと定められている。その血筋に生まれた以上、私には、その紋に見合う責務を果たす義務がある――そう、繰り返し教え込まれてきた」
「厳しい家だったんだな」
「厳しい、というより、当然のことだと思っていた。紋の力とは、生まれながらの秩序そのものだ。それを疑うことなど、考えたこともなかった」
カイエルは、遠い記憶を辿るように、目を細めた。
「幼い頃、屋敷に出入りしていた使用人の子供と、一度だけ遊んだことがある。その子は、確か、ランクEだった。楽しい時間を過ごした後、父にそのことを知られて、こっぴどく叱られた。『家格に見合わぬ者と親しくするな』とな」
「厳しすぎねえか、それ」
「今ならそう思う。だが、当時の私は、父の言葉を疑うことすらしなかった。それが、正しいことだと信じていたからだ」
その回想には、これまでカイエルが見せたことのない、痛みにも似た響きが滲んでいた。
「その子とは、それきり?」
「ああ。二度と、言葉を交わすことはなかった。今思えば、あれが、私が初めて『秩序』というものの冷たさに触れた瞬間だったのかもしれん」
「その子の名前は?」
「……覚えていない。いや、違うな」
カイエルは、静かに首を振った。
「最初から、聞こうとも、しなかったのだ。当時の私にとって、あの子は『ランクEの使用人の子』であって、それ以上でも、以下でもなかった。名前を知る必要すら、感じていなかった」
その言葉の重さに、ユリオは、思わず黙り込んだ。名前ではなく、ランクで人を見る――それが、この国の「当たり前」の、正体だった。
その告白は、ユリオにとって、意外なものだった。あれほど頑なに、紋の絶対性を主張していたカイエルの口から、こんな言葉が出てくるとは、思ってもいなかった。
「意外だな、あんたがそんなこと言うなんて」
「私自身、意外に思っている。だが、この旅を通じて、色々なものに触れてきた。お前という、紋の色を持たない存在。そして、宿場町で耳にした、国境の地で、紋の下位ランクゆえに虐げられているという人々の話。それらに触れるうちに、私の中の何かが、少しずつ揺らぎ始めている」
カイエルは、自嘲気味に、小さく笑った。それは、ユリオが初めて見る、彼の人間らしい表情だった。
「だが、まだ完全に、割り切れているわけではない。長年信じてきたものを、簡単には手放せない」
「別に、無理に手放さなくてもいいんじゃねえの」
「どういう意味だ」
「信じてきたものが、全部間違いだったってわけじゃねえだろ。ただ、それだけが全てじゃないってことに、気づき始めただけで」
「……お前は、時に、驚くほど単純に物事を整理するな」
「単純って言われると、ちょっと傷つくけどな」
「悪い意味で言ったわけじゃない。むしろ、その単純さが、時に真理を突くことがある、という話だ」
カイエルは、焚き火の炎を見つめながら、続けた。
「私は、これまで、複雑に物事を考えすぎていたのかもしれん。紋の絶対性を守ることと、目の前の一人一人と誠実に向き合うこと。その二つが、必ずしも矛盾するとは限らないのに、私はそれを、どちらか一方しか選べないものだと思い込んでいた」
「難しいこと言うなあ」
「お前には、まだ理解できなくても構わん」
「いや、なんとなくはわかるけどな。要するに、紋がどうこうってのと、その人自身がどうかってのは、別の話だってことだろ」
その言い換えに、カイエルは意外そうに目を見開いた。
「……その通りだ」
「なら簡単じゃねえか」
「言うほど、簡単ではないさ。長年染み付いた考え方を変えるというのは、想像以上に骨が折れる」
それでも、その口調には、これまでのような頑なさは、いくらか和らいでいるように感じられた。
「まあ、焦らずゆっくりでいいんじゃねえの。俺だって、自分の紋のこと、いまだに全部受け入れられてるわけじゃねえし」
「お前でもか」
「当たり前だろ。灰色だ何だって、生まれてこの方、散々言われてきたんだぞ。強がってるだけで、今でも時々、悔しくなることくらいある」
その素直な告白に、カイエルは、しばらく無言でユリオを見つめていた。
「なあ、これだけは言っとくけどよ。俺は、あんたのこと、そんなに嫌いじゃねえよ。最初は感じ悪い奴だと思ってたけど、話してみると、案外、真面目なだけなんだなって」
「……そうか」
短く答えるカイエルの表情には、これまでにない、穏やかな色が浮かんでいた。
焚き火の炎が、パチリと小さく爆ぜた。二人の間に流れる沈黙は、これまでの緊張を孕んだものとは、明らかに違う質感を持っていた。
「明日も、早いぞ」
「わかってるよ」
それだけ言葉を交わすと、カイエルは静かに立ち上がり、自分の寝床へと戻っていった。その背中を見送りながら、ユリオは、旅を通じて少しずつ変わっていく人間関係の不思議さを、静かに噛み締めていた。
◇
少し離れた場所で、火の番をしていたリィナは、二人のやり取りを、遠目にずっと見守っていた。
焚き火を挟んで語り合う二人の姿は、これまでの緊張関係からは、想像もつかないものだった。特に、カイエルがあれほど自分の内面を語る姿を見るのは、リィナにとっても、初めてに近い経験だった。
(あの人が、変わろうとしている……)
幼い頃から知る、頑固で融通の利かないカイエルの姿しか、リィナは知らなかった。だが、ユリオという規格外の存在と出会い、そして旅の中で様々な現実を目にしたことで、彼の中にも、確かな変化の兆しが芽生え始めている。
その事実は、リィナの胸に、複雑な感情を呼び起こした。婚約者であるカイエルが、少しずつ、自分の知らない誰かへと変わっていく――それは、寂しさでもあり、同時に、ある種の安堵でもあった。
(もしかしたら、この人ともう一度、きちんと向き合える日が来るのかもしれない)
友人として、あるいは、かつて誓い合った仲として。婚姻という形ではないとしても、何か別の形での関係を、これから築いていけるのかもしれない――そんな淡い予感が、リィナの心に、静かに芽生えていた。
焚き火の炎を見つめながら、リィナは、この旅がもたらす変化の大きさを、改めて実感していた。辺境の村を出てから、まだそれほど時間は経っていない。それでも、自分を含めた三人全員が、確実に何かを変えつつあった。
夜の帳が、静かに野営地を包み込んでいく。それぞれの想いを胸に、旅の途上にある、一つの夜が更けていった。
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「巡り紋」は毎日更新予定の長編ファンタジーです。
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