第二十九話 町の噂
翌朝、出発の準備を整える前に、一行は宿の食堂で朝食を摂ることになった。
食堂には、既に多くの旅人や商人たちが集まっており、あちこちで様々な会話が交わされていた。ユリオは、パンを頬張りながら、なんとなくその喧騒に耳を傾けていた。
「聞いたか、北の国境の話」
「ああ、ザイラスの軍が、また演習だとかいう名目で、国境近くに集結してるらしいな」
「演習にしちゃ、随分と大掛かりだって話だぜ。もう三度目だろう、今年に入ってから」
その会話に、ユリオは思わずパンを持つ手を止めた。
「なあ、リィナ。あれって……」
「ええ、ザイラス帝国の話ね」
リィナも、険しい表情で耳を傾けていた。
別のテーブルからも、似たような話題が漏れ聞こえてくる。
「うちの息子、国境近くの町で商売してるんだが、最近、帝国側からの荷が急に途絶えたって言ってたな」
「そういや、うちの取引先も、似たようなこと言ってたぞ。何か、きな臭い動きがあるのは間違いなさそうだ」
「今のうちに、蓄えておいた方がいいかもしれんな。戦になったら、物流だって滞る」
不安げな声が、次々と重なっていく。商人たちの間に漂う緊張感は、単なる噂話の域を超えて、既に生活への実感を伴い始めているようだった。
「うちの村なんかにも、影響あるのかね」
「わからんが、備えておくに越したことはないだろう」
商人たちの間に漂う不安な空気は、村では感じたことのない種類の緊張感だった。
「……なんか、思ってたより、やばい感じなんだな」
ユリオが、ぽつりと呟いた。
「王都を発つ前の会議でも話に出ていたけれど、実際にこうして、現地の人々の口から聞くと、また違う重みがあるわね」
リィナの声にも、これまでにない切実さが滲んでいた。
◇
朝食を終えた後、カイエルが、深刻な表情で二人の元にやってきた。
「私兵の一人が、町の詰め所で情報を集めてきた。あまり、良い話ではない」
「どんな話だよ」
「ザイラス帝国が、国境沿いの複数の砦に、通常の倍近い兵力を配置しているという情報がある。演習と称しているが、その規模は、明らかに通常のものを逸脱している」
その報告に、リィナの表情が険しくなった。
「本格的な侵攻の準備、ということですか」
「断定はできない。だが、その可能性を否定することもできない状況だ」
カイエルは、腕を組みながら、続けた。
「厄介なのは、こちらが今、ゼルギアの脅威への対応で手一杯だということだ。国境防衛にも十分な戦力を割かねばならないとなれば、二正面での対応を強いられることになる」
「それは、まさに……」
「ああ。奴らが、この機を狙わないはずがない」
リィナは、王都を発つ前、会議の場でも耳にしていた、その懸念を改めて思い出していた。だが、実際にこうして、現地で兵力集結の情報を耳にすると、その脅威は、机上の議論とはまるで違う、生々しい実感を伴って迫ってくる。
「予定を早める必要がある。王都へ、一刻も早く、この情報を届けなければならん」
「わかりました」
リィナが、すぐさま頷いた。ユリオも、事態の深刻さを感じ取り、自然と表情を引き締めた。
◇
出発の準備を進める中、ユリオは、町の広場で、一人の老人が語る話に、思わず足を止めた。
「わしは若い頃、ザイラスの領内で商売をしていたことがあってな」
周囲に集まった数人の聞き手に向けて、老人は語り始めた。
「あの国の鑑定紋の扱いは、こっちとは比べ物にならんくらい厳しい。ランクDより下の者は、まともな職にすら就けん。強制的に、労働力として徴用されるのが常だ」
「そんなに、酷いんですか」
聞き手の一人が、驚いたように尋ねる。
「酷いなんてもんじゃない。特に、獣人なんかは、もっと悲惨な扱いを受けている。まるで、道具か何かのようにな」
老人は、遠い記憶を辿るように、目を細めた。
「わしが見た光景で、今でも忘れられんのがある。鉱山の入り口で、鎖に繋がれた獣人の一団が、次々と坑道へ送り込まれていく様子だ。あの目をした連中は、もう自分の意志で動いているようには見えなかった。ただ、命じられるがまま、機械のように動くだけだった」
その語りに、周囲の空気が、重く沈んだ。
「あの国では、紋のランクが低い者は、人間だろうと獣人だろうと、まともな人扱いを受けられん。それが、あの国のやり方だ」
その話に、ユリオは思わず眉をひそめた。自分が村で受けてきた蔑みも、決して楽なものではなかった。だが、それとは比較にならないほどの、組織的な差別が、隣国では当たり前のように行われているという。
(俺の紋のことなんて、まだマシな方だったのかもな……)
複雑な思いを抱えながら、ユリオはその場を後にした。すぐ傍で、同じ話を聞いていたリィナも、険しい表情を浮かべていた。
「……あなたも、聞いていたのね」
「ああ。なんつーか、想像以上だった」
「鑑定紋制度の運用一つで、これほどまでに人の扱いが変わってしまう。それが、この世界の現実なのよ」
リィナの声には、これまでにない重さが滲んでいた。彼女自身、エルスフィア公爵家の令嬢として、紋の絶対性を疑わずに生きてきた過去がある。だからこそ、その制度が生み出す最悪の結末を目の当たりにすることは、彼女にとっても、決して他人事ではなかった。
「もし、ザイラスが本当に南下してくれば、この辺り一帯も、あの国のやり方に飲み込まれるかもしれないってことだよな」
「……そうならないよう、私たちにできることをするしかないわ」
その言葉に、ユリオは静かに頷いた。世界の広さを知ると同時に、その広い世界に存在する、目を背けたくなるような現実にも、確かに触れ始めていた。
◇
出発の直前、ユリオはガイに声をかけられた。
「浮かない顔してるな、坊主」
「いや、色々考えることが多くてさ」
「まあ、無理もないな。俺たちも、あまり良い話は聞かなかった」
ガイは、少し声を落として続けた。
「もし本当に、ザイラスが南下してくるようなことになれば、坊主の村がある辺境一帯も、決して無縁じゃいられなくなる」
その言葉に、ユリオの背筋が、冷たくなった。
「村が、危ないってことか」
「まだ確定した話じゃない。だが、可能性としてはある」
ガレオンや、ミラや、村の人々の顔が、脳裏に浮かんだ。ゼルギアという災厄だけでなく、隣国の脅威までもが、あの穏やかな日常を脅かす可能性があるのだという事実に、ユリオは改めて、事態の大きさを実感させられた。
「なあ、ガイさん。あんたらは、そういう脅威と、実際に戦ったことあるのか?」
「国境の防衛戦には、何度か駆り出されたことがあるな。正直、楽な戦いはひとつもなかった」
ガイの声には、実戦を経験した者特有の、重みのある響きがあった。
「戦は、綺麗事じゃ済まない。だが、それでも、守るべきものがあるから、俺たちは剣を握る」
「守るべきもの、か」
「坊主にも、あるんだろう。守りたいものが」
その問いに、ユリオは迷わず頷いた。
「ああ。爺さんも、村のみんなも、絶対に守りたい」
「なら、それでいい。難しいことは考えず、その気持ちを大事にしておけ」
ガイの飾らない言葉に、ユリオは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「一刻も早く、王都に行って、俺にできることを見つけないとな」
その決意を新たにするユリオに、ガイは力強く頷いた。
「その意気だ。さあ、出発の準備をしようぜ」
馬に乗り込み、一行は再び、王都への道を急ぎ始めた。宿場町で得た情報は、これまでの旅の空気を一変させるには、十分すぎるものだった。
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