第二十六話 旅の一歩目
村の姿が、街道の向こうに小さくなっていく。振り返るたびに、見慣れた丘や家々の輪郭が、少しずつ霞んでいくのが見えた。
ユリオは、何度も後ろを振り返りながら、複雑な思いを噛み締めていた。生まれてからずっと過ごしてきた場所を、初めて離れる。その事実の重みが、歩みを進めるごとに、じわじわと実感として押し寄せてくる。
「そんなに何度も振り返らなくても、村はなくならないわよ」
隣を歩くリィナが、からかうように言った。
「わかってるって。ただ、なんつーか、変な感じでさ」
「気持ちはわかるわ。私も、初めて王都を出た時は、似たような気分だったから」
「あんたも、そんな時あったのか」
「当然でしょう。誰だって、初めての一歩は緊張するものよ」
その言葉に、ユリオは少しだけ気が楽になった。
村を出て、半刻も経たないうちに、ユリオは早くも足の痛みを訴えていた。
「なあ、王都までって、本当に歩いて行くのか?」
「他にどうするのよ」
リィナが、呆れたように答える。
「あんたの竜は?」
「もう王都に帰しているわ。調査官の飛竜は、いつまでも現地に留めておけるものじゃないの。任務が長引くとわかった時点で、先に帰還させたのよ」
「じゃあ、王都までどのくらいかかるんだよ」
「カイエル様たちは馬で十日ほどのはずよ。でも、私たちは徒歩だから……早くても、その倍近くはかかると思っておいた方がいいわね」
「じゃあ俺たち、本当に歩いて二十日かよ……」
ユリオは、げんなりとした様子で肩を落とした。丘での稽古で鍛えてきたはずの足腰も、慣れない長距離の街道歩きには、また別の消耗があるらしい。
少し先を、馬に跨ったカイエルたち一行が進んでいた。私兵たちの隊列は、当然のことながら、徒歩のユリオたちよりもずっと速いペースを保っている。
「――遅いな」
振り返ったカイエルが、苛立たしげに呟いた。
「悪いか。俺たちは馬がないんだよ」
「歩みの遅い者に合わせるつもりは、私にはない」
「別に合わせてくれとも言ってねえよ。先に行けばいいだろ」
売り言葉に買い言葉のようなやり取りに、リィナが小さくため息をついた。
「二人とも、いい加減にしてちょうだい。まだ旅は始まったばかりよ」
その一言に、ユリオもカイエルも、ばつが悪そうに口を噤んだ。
◇
街道は、思っていたよりも起伏に富んでいた。緩やかな丘を越え、林を抜け、時折開けた平原に出る。辺境の村からしか世界を見たことのなかったユリオにとって、変化に富んだその景色は、疲労を忘れさせるほどの新鮮さを持っていた。
「なあ、リィナ。この先って、どんな感じなんだ?」
「これから数日は、似たような田舎道が続くわ。三日目くらいに、それなりの規模の宿場町に着くはずよ」
「宿場町かあ。俺、村より大きい町、実はあんまり行ったことないんだよな」
「そうなの?」
「ああ。生まれてこの方、あの村からほとんど出たことなかったし」
その言葉に、リィナは少し驚いたような顔をした。当たり前のように思っていたことが、実はユリオにとっては、初めての経験の連続なのだと、改めて気づかされた。
「じゃあ、色々、驚くことも多いかもしれないわね」
「楽しみにしとくよ」
軽い調子で言うユリオの表情には、疲労の色よりも、未知の世界への期待の方が、わずかに勝っているように見えた。
「なあ、王都ってさ、どんなとこなんだ? リィナの話だと、なんか堅苦しそうだけど」
「堅苦しいのは事実ね。でも、それだけじゃないわ。大きな図書館もあるし、腕のいい職人が集まる市場もある。あなたが見たら、きっと驚くと思うわ」
「へえ、楽しみだな。……あ、でも、鑑定院にも行かなきゃいけないんだよな」
その言葉に、ユリオの声のトーンが、わずかに沈んだ。旅の高揚感の裏に、これから待ち受ける、機密記録との対峙という現実が、常に付きまとっていた。
「大丈夫よ。私がついているわ」
リィナが、さりげなくそう付け加えた。その言葉に、ユリオは小さく頷いた。
◇
昼を過ぎた頃、一行は、街道沿いの木陰で小休止を取ることになった。カイエルたちも、馬を休ませるためにその近くで足を止めていた。
私兵の一人が、水筒を差し出しながら、遠慮がちにユリオに話しかけてきた。
「お前さんが、噂の灰色の紋の……」
「ああ、そうだけど」
「いや、なに、村での話は聞いていてな。あの靄を退けたっていうのは、本当か?」
「退けたっていうか……気づいたら、そうなってた、って感じだけどな」
曖昧に答えるユリオに、私兵は興味深そうに頷いた。
「ま、何にせよ、大したもんだ。ランクだの色彩だのに関係なく、いざという時に動けるってのは、なかなかできることじゃない」
思いがけない称賛に、ユリオは少し照れくさそうに頭を掻いた。村では、灰色の紋というだけで侮られることが多かった。だが、こうして外の世界の人間から、素直な評価を受けるのは、新鮮な感覚だった。
「おい、油を売るな。休憩は終わりだ」
カイエルの声が飛び、私兵は慌てて持ち場に戻っていった。だが、その短いやり取りは、ユリオの胸に、小さな温かさを残していた。
◇
夕刻、一行は最初の野営地に到着した。カイエルたちの一行は、慣れた手つきでてきぱきと野営の準備を進めていく。一方のユリオとリィナは、慣れない手つきで、なんとか簡易な焚き火を熾すのに苦労していた。
「くそ、なかなか火がつかねえ」
「火打石の角度が悪いのよ。もっとこう……」
二人であれこれ試行錯誤するうちに、ようやく小さな火が灯った。
「よし、ついた!」
「やったわね」
小さな達成感を分かち合う二人を、少し離れた場所から、カイエルが横目に見ていた。その表情には、呆れとも、あるいはわずかな羨望とも取れる、複雑な色が浮かんでいた。
(あれほど不便な有様で、何がそんなに楽しいのか)
効率と秩序を何よりも重んじてきたカイエルにとって、拙い手つきで火を熾し、それだけで喜び合う二人の姿は、理解の埒外にあるものだった。だが同時に、その光景から目を離せずにいる自分にも、彼は気づいていた。
夜が更け、それぞれの焚き火を囲みながら、旅の一日目は静かに暮れていった。ユリオは、疲れ切った体を横たえながら、満天の星空を見上げた。
(明日から、まだ何日もこんな感じが続くのかよ)
うんざりするような思いと同時に、これから広がっていく未知の世界への、確かな高揚感も、胸の奥に灯っていた。
「――お休みなさい、ユリオ」
近くの焚き火から、リィナの声がかけられた。
「おう、お休み」
目を閉じると、これまでの十八年間で培われた、村での日々の記憶が、次々と脳裏をよぎった。ガレオンとの稽古、ミラとの何気ない会話、村人たちからの視線――良いことも、辛いことも、全てがこの旅の始まりへと繋がっている。
(爺さん、今頃どうしてるかな)
丘の上の小屋で、一人静かに囲炉裏を見つめているであろう、爺さんの姿を思い浮かべる。寂しさよりも、不思議と、確かな絆の実感の方が強かった。離れていても、あの人が自分を見守ってくれているという確信が、胸の奥に、静かな支えとしてあった。
少し離れた場所では、カイエルもまた、寝転がりながら、夜空を見上げていた。私兵たちの寝息が、規則正しく響いている。
(あの二人は、一体何が楽しくて、あんなに笑い合っていられるのか)
効率よく整えられた自分の寝床と、ユリオたちの拙い野営の様子を、思わず比べてしまう。理解できないはずなのに、なぜか、その光景が脳裏から離れなかった。
(――くだらん)
自分にそう言い聞かせ、カイエルは目を閉じた。だが、寝入るまでの僅かな時間、その脳裏には、焚き火を囲んで笑い合う二人の姿が、何度も浮かんでは消えていった。
辺境の村から一歩踏み出した、長い旅路の最初の夜が、それぞれの想いを乗せて、静かに更けていった。
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