第二十五話 上等じゃねえか
部隊派遣の報せから数日、村にはまだ落ち着かない空気が続いていた。だが、ユリオの中では、一つの決意が、静かに固まりつつあった。
「爺さん、話がある」
夕暮れ時、丘の小屋を訪れたユリオは、いつになく真剣な表情で切り出した。ガレオンは、その様子から何かを察したように、静かに向き合った。
「言ってみろ」
「俺、この村を出ようと思う」
その言葉に、ガレオンは表情を変えなかった。ただ、じっとユリオを見つめている。
「王都に行って、機密指定になってる、俺と似た前例の記録を、この目で確かめたい。それに、俺の力の正体が、あの脅威と関係あるなら、逃げてるだけじゃ済まされないと思うんだ」
「……そうか」
短い相槌の後、ガレオンは深く息を吐いた。
「お前がそう決めたなら、俺が止める理由はない。だが、その前に――話しておかねばならないことがある」
その声には、これまでにない重さがあった。ユリオは、思わず身構えた。
「今更かよ、ってタイミングだけどな」
「ああ。だが、村を出るお前に、何も知らせないまま送り出すわけにはいかん」
ガレオンは、小屋の奥から、あの古い木箱を取り出した。蓋を開け、色褪せた刻印の入った剣を、静かに取り出す。
「これは、昔の仲間の形見だ。ある任務で、命を落とした男でな」
「仲間……」
「ああ。詳しいことは、今は、まだ話せねえ。ただ――その仲間を通じて、俺は、お前と同じ、色を持たねえ紋を宿してた奴とも、何度か、顔を合わせたことがある」
ガレオンは、遠い記憶を辿るように、目を細めた。
「そして、その仲間が命を落としたのと、同じ場所で――俺は、最後に、あいつと顔を合わせることになった。その全てを、今のお前に話すには、まだ早い」
「そいつは、どうなったんだよ」
「孤独に追い詰められた末に、精神の限界を迎えちまった。今、王都が警戒してる、あの災厄――その正体こそ、あの時の奴なんじゃねえかと、俺は考えてる」
「まさか……」
「もう、俺の知る、あいつ自身じゃねえ。それだけは、確かだ」
ガレオンは、一度、言葉を切った。
「仲間を失ったことと、そいつのこと――二つは、無関係じゃねえ。だが、詳しい経緯は、今のお前に話すには、まだ早い。いずれ、必ず、洗いざらい話す。それまで、待っていてくれ」
沈黙が、小屋の中を支配した。ユリオは、自分の右手の甲――灰色に滲んだ紋様を、じっと見つめた。
「……俺も、そうなるかもしれないってことか」
声が、微かに震えていた。これまで感じたことのない、根源的な恐怖が、ユリオの全身を包み込んでいく。孤独に追い詰められ、大切な人々を傷つけ、最後には人でなくなる――そんな未来が、自分の目の前に、現実味を帯びて突きつけられていた。
「否定はできん。だからこそ、俺はお前を独りにしたくなかった」
ガレオンの声には、深い後悔と、それでも尚、諦めきれない願いが滲んでいた。
「あいつの傍には、俺なんかより、ずっと深く、あいつを理解してた奴がいた。その絆の深さに、俺自身、当時は、ちゃんと気づいてやれなかった。今でも、それを悔いてる」
その独白には、長年抱え続けてきた悔恨が、静かに滲んでいた。
「あの時、もっと早く、その絆の深さに気づいていれば――何かが変わったかもしれない。そんな後悔を、何度も繰り返してきた。だから、お前にだけは、同じ道を辿らせたくない」
その言葉を聞きながら、ユリオは、自分の中に湧き上がる恐怖と、必死に向き合っていた。もし本当に、自分がいつか、あの災厄と同じ道を辿るのだとしたら――今この場所で、大切な人々から離れることさえ、正しい選択なのかどうか、わからなくなってくる。
(俺は、村のみんなを、傷つけることになるのか)
(リィナも、ミラも、爺さんも……)
息が、詰まりそうだった。目の前が、真っ暗になっていくような感覚。これまで、蔑みも嘲りも笑い飛ばしてきた自分が、初めて、本当の意味での絶望に触れていた。
だが――
「……いや」
震える声で、ユリオは、静かに呟いた。
「爺さんが、独りにしないって言ってくれるんだろ。だったら、俺は、その言葉を信じる」
「ユリオ……」
「怖いよ、正直。俺も、あいつみたいになるかもしれないって思うと、頭が真っ白になる。でも――」
ユリオは、拳を強く握りしめた。灰色の紋が、その拳の内側で、静かに息づいている。
「それでも、俺は、俺のままでいたい。誰かを傷つける化け物になんて、絶対にならねえ。それだけは、譲れねえよ」
その言葉と共に、ユリオの胸の奥から、あの言葉が、自然と溢れ出た。
「――上等じゃねえか」
絶望に飲み込まれかけたその瞬間、それでも前を向くための、たった一つの拠り所。逆境そのものを、歓迎するかのような、不敵な決意の言葉だった。
ガレオンは、その姿を、しばらく静かに見つめていた。かつて救えなかった人の面影と、今、目の前で恐怖に抗いながら立ち上がる少年の姿が、静かに重なり、そして――決定的に違う何かを、老人は確かに見出していた。
「……そうか」
短くそう答えると、ガレオンは、剣をユリオに差し出した。
「これを、持っていけ」
「これって、爺さんの……」
「もう、俺には過ぎたものだ。それに、これはお前の力になる」
ユリオは、震える手で、その剣を受け取った。ずっしりとした重みが、掌に伝わってくる。それは、単なる武器としての重さだけではない、託された想いの重さでもあった。
◇
出発の朝、村の広場には、多くの村人たちが集まっていた。
「無事に帰ってこいよ」
「体に気をつけてね」
口々にかけられる声援に、ユリオは何度も頭を下げた。ミラが、最後に駆け寄ってきた。
「絶対、帰ってきてよね」
「ああ、約束する」
力強く頷くユリオに、ミラは涙をこらえながら、小さく笑った。
リィナも、旅装を整えて、ユリオの隣に立っていた。
「あんたも一緒に来るのか?」
「ええ。私も王都に戻る用があるし、それに――あなた一人を、行かせるわけにはいかないもの」
その言葉に、ユリオは照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、道連れがいると心強いな」
村の外れまで見送りに来たガレオンが、最後に、静かに口を開いた。
「行ってこい。だが、無茶だけはするな」
「それ、爺さんが一番言えたことじゃないと思うけどな」
軽口を返すユリオに、ガレオンは珍しく、口の端をわずかに緩めた。
「達者でな、小僧」
「行ってくる、爺さん」
少し離れた場所では、カイエルもまた、私兵たちと共に旅支度を整えていた。王都からの正式な部隊派遣を待つよりも先に、本人が現地の状況を報告するべきだと判断したのだろう。彼もまた、王都へと戻る道を、同じ方角に取ることになっていた。
「――お前も、王都に来るのか」
カイエルが、意外そうにユリオを一瞥した。
「ああ。色々と、確かめたいことがあるからな」
「……そうか」
それだけ言うと、カイエルはそれ以上何も言わず、馬に跨った。だが、その横顔には、これまでの侮蔑とは異なる、何か複雑な感情が滲んでいるように見えた。
朝陽に照らされた街道を、ユリオとリィナは、並んで歩き始めた。振り返ると、丘の上には、ガレオンが、そして村の入り口には、村人たちが、それぞれの想いを込めて、二人の姿を見送っていた。
これまでの十八年間、この村だけが、ユリオの知る全ての世界だった。その世界を後にして、まだ見ぬ広い世界へと踏み出す今、恐怖は、まだ胸の奥に確かに残っている。
それでも、ユリオの足取りに、迷いはなかった。昨夜、絶望の淵で見出したあの覚悟が、今も確かに、胸の内で灯り続けている。
朝陽を浴びながら、ユリオとリィナは、街道の先――まだ見ぬ王都へと向かって、歩みを進めていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
これにて第一章「灰色の紋篇」は完結です。物語は、第二章「巡る者篇」へと続きます。
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