第二十三話 色では測れないもの
完敗から数日、ユリオは体の痛みもすっかり引いた頃、いつも通り丘の稽古場に向かった。
「爺さん、おはよう」
「来たか」
ガレオンは、いつもと変わらない様子で迎えたが、その手には、これまで見たことのない、古びた書物が握られていた。
「なんだよ、それ」
「昔、俺が集めた資料の一つだ。今日は、これを見せておこうと思ってな」
小屋の中に招き入れられ、ユリオは差し出された書物を受け取った。表紙は色褪せ、ページの端はぼろぼろになっている。開いてみると、そこには、五行の相関関係を示す図が描かれていた。
「木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む。これが相生の関係だ」
「聞いたことあるな、それは」
「そして、木は土に強く、土は水に強く、水は火に強く、火は金に強く、金は木に強い。これが相克の関係だ」
ガレオンは、図を指しながら、淡々と説明を続けた。
「例えば、火属性の使い手と、水属性の使い手が戦えば、基本的には水属性の方が有利になる。逆もまた然りだ。属性同士の相性は、実力が拮抗している場合、勝敗を大きく左右する」
「じゃあ、カイエルの野郎は、何属性だったんだよ」
「金だ。あの、銀色に研ぎ澄まされた闘気を見れば、間違いない。得物に力を通して、斬れ味と重さに変える――剣士に、最も向いた紋だ」
「へえ……」
「先日、お前はカイエルに完敗した。あれは、紋の色の相性による敗北ではない。純粋な技量と経験の差だ。だが――」
ガレオンは、一度言葉を切ってから、続けた。
「もしお前が、カイエルと同格の使い手だったとしたら、話はまた変わってくる」
「どういう意味だよ」
「お前の紋は、五行のどれにも属さない。つまり、相克の関係そのものが、お前には成立しない」
その言葉に、ユリオは目を見開いた。
「それって……つまり、俺には、属性的な弱点がないってことか?」
「その通りだ。木に強い金も、火に強い水も、お前に対しては、通常のような優位性を発揮できない。お前は、五行の輪の外側にいるからだ」
その説明は、これまでの敗北の記憶と相まって、ユリオの中に、静かな希望の光を灯した。
「じゃあ、俺、実は結構すごいんじゃねえの?」
「今のお前には、まだその力を活かすだけの技量がない。だからこそ、あの程度で完敗した。だが――」
ガレオンは、書物を閉じながら、真剣な眼差しをユリオに向けた。
「技量さえ積み重ねれば、お前は、どんな属性の相手に対しても、不利を背負わずに戦える。それは、決して小さな強みではない」
「なんか、初めて『すごい』みたいなこと言われた気がする」
半分冗談めかして言うユリオに、ガレオンは小さく鼻を鳴らした。
「調子に乗るな。あくまで可能性の話だ。今のお前は、まだその入り口にすら立っていない」
「わかってるって」
それでも、ユリオの胸には、これまでにない確かな手応えが芽生えていた。完敗というどん底を経験したからこそ、その先に見えてきた、小さな光明。それが、これまでの努力の意味を、改めて照らし出してくれるようだった。
◇
「それと、もう一つだけ、話しておくことがある」
ガレオンは、囲炉裏の前に座り直しながら、口を開いた。
「なんだよ、まだあるのか」
「これは、確証があるわけではない。だが、お前の力――色を持たない、あの性質は、もしかすると、将来的にはもっと違う形にまで育つかもしれない」
「違う形って?」
「ただ弱点がないというだけでなく、逆に、他の属性の力そのものを、弱める、あるいは無力化する方向にまで至る可能性がある。俺の知る、かつての言い伝えでは、そういう話も聞いたことがある」
その言葉に、ユリオは息を呑んだ。
「そんなことが、本当にできるのか?」
「わからん。だが、可能性はゼロではない。もしそうなれば、お前は――」
ガレオンは、そこで言葉を止めた。何かを言いかけて、思い直したような、そんな間があった。
「爺さん、また『まだ話せん』か」
「察しがいいな」
「もう慣れたよ、それには」
ユリオが肩をすくめると、ガレオンは珍しく、微かに笑みを浮かべた。
「その言い伝えってのは、どこで聞いたんだよ」
「昔、旅の中で耳にしたものだ。詳しい出所までは、俺も覚えていない」
それが真実か、あるいは言葉を濁すための方便かは、ユリオにはわからなかった。だが、少なくとも、ガレオンが何の根拠もなく、こんな話をする人間でないことだけは、長年の付き合いでよく知っていた。
「……いや、今はまだ、先の話をしすぎるのはやめておこう。今は、目の前の一歩一歩を、着実に積み重ねることだ」
「気になる言い方するなよ、そこで止めるの」
「気になるなら、その分、稽古に励め。答えは、その先にある」
珍しく、はぐらかすような物言いをするガレオンに、ユリオは不満げな顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。この老人が、今すぐ全てを語らないのには、それなりの理由があるのだろうと、これまでの付き合いで理解していたからだ。
◇
その日の稽古は、これまでとは少し違う趣向で行われた。ガレオンは、ユリオに対して、色々な属性を想定した、仮想的な対処法を教え始めた。
「相手が火属性なら、間合いを詰めて懐に入れ。相手が水属性なら、機動力で翻弄しろ。相手が土属性なら、持久戦に持ち込め」
「なんか、急に実戦的になったな」
「お前が、その土台に立てる段階まで来たということだ」
木剣を構えながら、ガレオンの指導する型を、一つ一つ丁寧になぞっていく。これまでの、ただ基礎を繰り返すだけの稽古とは、明らかに質の違う手応えがあった。
夕暮れ時、汗だくになりながら稽古を終えたユリオは、丘の上から村を見下ろした。夕陽に照らされた家々の屋根、畑で働く人々の姿。いつもと変わらない、穏やかな光景だった。
(この村を、守れるくらいには、強くなりたいな)
完敗の悔しさは、まだ胸の奥に残っている。だが、それ以上に、これから先に続く道筋が、少しずつ見え始めていることに、ユリオは確かな希望を感じていた。
「今日はここまでだ。帰って休め」
「おう。今日はありがとな、爺さん」
「礼を言われるようなことはしていない」
素っ気なく答えるガレオンに、ユリオは小さく笑いながら、丘を下り始めた。その足取りは、来た時よりも、幾分か軽やかだった。
村へ戻る道すがら、井戸端でリィナと行き会った。
「あら、ユリオ。今日はやけに機嫌がよさそうね」
「わかるか?」
「ええ、なんとなく」
ユリオは、今日ガレオンから聞いた話を、かいつまんで話して聞かせた。五行の相克が自分には通用しないこと、そして、もしかすると将来、もっと大きな力に育つ可能性があること。
「それは……興味深い話ね」
リィナは、調査官としての顔つきに戻り、真剣にその話に耳を傾けていた。
「もしそれが本当なら、鑑定院の記録にある『類例』とも、何か関係があるかもしれない」
「爺さんも、似たようなこと言ってたな。昔の言い伝えがどうとか」
「ますます、王都の機密記録の中身が気になるわね」
リィナは、そう呟きながら、思案顔になった。ユリオは、そんな彼女の横顔を見つめながら、小さく笑った。
「あんた、そういう顔してる時、生き生きしてるよな」
「そう、かしら」
「ああ。調査官らしいっていうか」
その言葉に、リィナは少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……からかわないで」
「からかってねえよ、褒めてんの」
軽口を交わしながら、二人は並んで村の中を歩いた。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。答えのまだ見えない謎は、依然として多く残っている。それでも、一歩ずつ、確かに前へと進んでいる実感が、ユリオの胸の中に、静かに広がっていた。
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