第二十二話 灰色に映るもの
夜、村はいつも通りの静けさを取り戻していた。だが、ユリオの自宅には、まだ明かりが灯っていた。
寝台に腰掛け、ユリオは自分の体に残る痛みを、ぼんやりと見つめていた。肩に受けた一撃の痣は、既に青紫色に変色し始めている。だが、それ以上に痛むのは、心の方だった。
完敗。その二文字が、頭の中で何度も繰り返された。
これまで、灰色の紋を笑われても、卑屈にならないことだけは貫いてきた。だが、今日の敗北は、これまでの嘲笑とは、まるで種類の違うものだった。言葉ではなく、圧倒的な力の差として、面と向かって突きつけられた現実。それは、笑って受け流すには、あまりにも重すぎた。
(悔しい。悔しいけど、事実だしな……)
自分の右手を見つめる。灰色に滲んだ紋様は、いつもと変わらず、そこにあった。だが、その紋を持って生きるということの意味を、今日ほど強く実感した日は、これまでになかった気がした。
窓の外に広がる夜空を見上げながら、ユリオは静かに息を吐いた。誰かに、この気持ちを聞いてほしい。だが、こんな夜更けに、誰を訪ねればいいのかもわからなかった。
コンコン、と控えめな戸を叩く音がした。
「……誰?」
「私よ。少し、いい?」
リィナの声だった。ユリオは慌てて身なりを整えると、戸を開けた。
「こんな時間にどうしたんだよ」
「気になって。あなた、大丈夫かなって」
手には、湿布らしきものを包んだ布があった。
「村の薬師の方から分けてもらったの。効き目がいいらしいわ」
「わざわざ悪いな」
差し出された布包みを受け取りながら、ユリオは少し照れくさそうに頭を掻いた。リィナは、部屋の中を見回しながら、遠慮がちに尋ねた。
「少し、話していってもいい?」
「ああ、別に構わないけど」
狭い部屋に、簡素な椅子を持ち出して、二人は向かい合って座った。ランプの灯りが、二人の影を壁に長く伸ばしていた。
「……格好悪いところ、見せちまったな」
沈黙を破るように、ユリオがそう切り出した。
「格好悪いなんて、思っていないわ」
「でも、完敗だったろ。あんなに啖呵切っといて、結局手も足も出なかった」
自嘲気味な笑みを浮かべるユリオに、リィナは静かに首を振った。
「勝ち負けだけが、全てじゃないと思うわ。あなたは、逃げずに立ち向かった。その事実は、誰にも否定できない」
「……綺麗事に聞こえるけどな」
「そうかもしれない。でも、私は本気でそう思っているの」
その真摯な口調に、ユリオは思わず言葉を失った。リィナは、少し間を置いてから、続けた。
「私、これまで色々な人を見てきたわ。ランクの高い人、低い人、それぞれの立場で、それぞれの苦しみを抱えている。でも、あなたのように、負けを認めながらも、なお前を向こうとする人には、あまり出会ったことがない」
「前を向こうとしてるように、見えるか? 今の俺が」
「ええ、見えるわ」
迷いのないその答えに、ユリオは、胸の奥が微かに熱くなるのを感じた。
「……なんか、あんたと話してると、少し楽になるな」
「それなら、良かった」
リィナは、小さく微笑んだ。ランプの灯りに照らされたその笑顔は、これまで見てきた、調査官としての凛とした表情とは、また違う柔らかさを湛えていた。
「なあ、聞いていいか」
「何?」
「あんた、なんでこんなに、俺のことに関わってくれるんだ? 最初は、調査のためだったんだろうけど」
その率直な問いに、リィナは、しばらく考え込んだ。
「最初は、確かに職務だったわ。でも、今は……違う気がする」
「違うって?」
「あなたという人間そのものに、興味を持っているんだと思う。紋の色とか、調査対象とか、そういう肩書きを抜きにして」
その言葉に、ユリオは思わず息を呑んだ。誰かに、そんな風に真正面から言われたのは、初めてのことだった。
「それに――」
リィナは、少しだけ言葉を選ぶように、続けた。
「王都にいた頃の私は、紋の色こそが全てだと信じて疑わなかった。でも、この村に来て、あなたに出会って、その考えが、少しずつ変わっていったの。だから、感謝しているのよ、あなたには」
「感謝されるようなこと、した覚えねえけど」
「していないつもりでも、しているものよ、そういうことは」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。窓の外では、虫の声が静かに響いている。
「なあ、王都の暮らしって、実際どんな感じなんだ? 想像つかねえんだけど」
ユリオが、話題を変えるように尋ねた。リィナは、少し考えるように視線を上げた。
「そうね……規則正しい生活、と言えば聞こえはいいけれど、正直、息が詰まることも多かったわ。毎日の作法、家同士の付き合い、紋のランクに応じた振る舞い方――全てが、細かく決められているの」
「それって、疲れそうだな」
「ええ、疲れるわ。だから、調査官になって、外に出られるようになった時は、正直、少し解放された気分だった」
その言葉には、リィナ自身の、これまであまり語られてこなかった一面が滲んでいた。
「あんたも、色々あるんだな」
「あなたほどではないと思うけれど」
「いや、辛さの種類が違うだけで、比べるもんじゃねえだろ、それ」
その素朴な返しに、リィナは思わず小さく笑った。
「そうね、その通りだわ」
「……今日話しててわかったけど、あんた、意外と普通の悩みとか持ってるんだな。もっと完璧な人かと思ってた」
「完璧になんて、程遠いわよ。むしろ、迷ってばかり」
その素直な告白に、ユリオは少し驚いたように目を瞬かせた。それから、柔らかく笑った。
「なんか、そういうとこ、俺は結構好きだけどな」
その何気ない一言に、リィナは一瞬、言葉に詰まった。頬に、ほんのりとした熱が広がるのを感じる。
「……そう。ありがとう」
小さくそう答えると、リィナは慌てて視線を逸らした。ランプの灯りのせいか、その頬の赤らみは、ユリオには気づかれずに済んだようだった。
夜も更け、リィナが立ち上がった。
「そろそろ、帰るわね。ゆっくり休んで」
「ああ、今日は色々、ありがとな」
戸口まで見送ったユリオに、リィナは振り返り、小さく微笑んだ。
「また、明日」
「おう、また明日」
リィナが夜道を歩いていく後ろ姿を、ユリオはしばらく見つめていた。完敗の痛みは、まだ胸の奥に残っている。だが、それと同じくらい、温かい何かも、確かにそこに芽生え始めていた。
◇
夜道を歩きながら、リィナは、先ほどの会話を静かに反芻していた。
(あんなことを言うつもりは、なかったのだけれど)
自分でも、少し驚いていた。調査官としての立場を忘れ、あれほど素直な気持ちを口にしたのは、久しぶりのことだった。エルスフィア家の令嬢として育てられてきた彼女にとって、感情を率直に表すことは、決して得意なことではなかった。
だが、ユリオと話していると、なぜか、その堅苦しい殻が、自然と解けていくのを感じる。彼の飾らない言葉、まっすぐな眼差し、そして何より、負けを認めながらも決して腐らないその強さが、リィナの心を、少しずつ開かせていくようだった。
(この気持ちは、一体何なのかしら)
単なる同情でも、調査対象への興味でもない、もっと別の感情が、確かに芽生え始めていることを、リィナ自身、否定できなくなっていた。
王都に残してきた、婚約者という立場。カイエルとの関係。これから先、自分がどう振る舞うべきなのか――答えの出ない問いを抱えながらも、リィナの足取りは、不思議と軽かった。
村長の家に戻り、静かに寝台に横になったリィナは、しばらくの間、天井を見つめながら、今日交わした言葉の数々を、大切に胸の中で反芻し続けていた。
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