第十九話 灰色を見る目
カイエルの来訪から数日、村にはまだ落ち着かない空気が漂っていた。
彼が率いる私兵たちは、村の周辺を巡回し、西の森の様子を独自に調査していた。表向きは友好的な協力体制を敷いているように見えたが、村人たちの間には、どこか監視されているような、居心地の悪さが広がっていた。
私兵の一人が、森の外れから戻ったカイエルに、簡潔な報告を上げていた。
「カイエル様、例の地面の歪みですが、確かにエルスフィア調査官の報告通りです。ただ、実際に近づいてみると、剣で斬りつけても手応えがなく、対処のしようがありません」
「実体のない脅威、か……厄介だな」
「はっ。それと、村の者たちに話を聞いたところ、あの怪異が現れた際、村の青年――ユリオという者が、靄に飲まれた直後に姿を消し、次の瞬間には無傷で別の場所に立っていた、という証言がいくつも」
その報告に、カイエルの目が、わずかに細められた。
「……面白い話だ。詳しく調べておけ」
「畏まりました」
私兵を下がらせた後、カイエルはしばらく考え込んでいた。灰色の紋、判定不能、そして目撃されたという不可解な現象。それら全てが、一つの結論へと収束していくような気がしてならなかった。
(あの男、本当にただの村人なのか)
その疑念を胸に、カイエルは丘へと足を向けた。
「爺さん、あの騎士様の連中、なんか村中うろついてるみたいだけど」
丘での稽古の合間、ユリオがそう漏らした。ガレオンは、眉間に皺を寄せながら頷いた。
「王都の連中のやり方だ。慣れておけ」
「なんか、感じ悪いんだよな、あの人」
「カイエル・ヴァンドール、か」
ガレオンがその名を口にすると、ユリオは驚いたように顔を上げた。
「知ってんのか、爺さん」
「噂程度にはな。名門の出で、生まれながらのランクSだそうだ。紋の絶対性を、誰よりも強く信じている一族の人間だと聞く」
「道理で、俺のこと目の敵にしてるわけだ」
軽口めかして言うユリオだったが、その表情には、わずかな緊張が滲んでいた。
そこへ、丘の下から人影が現れた。純白の外套――カイエル本人だった。私兵は連れず、単身での訪問だった。
「――邪魔をする」
「あんた……」
「稽古中だったか。構わず続けてくれ。私はただ、見学に来ただけだ」
その言葉とは裏腹に、カイエルの視線は、鋭くユリオの右手に注がれていた。ガレオンが、静かに二人の間に割って入る。
「何の用だ」
「お前がガレオンか。噂は聞いている。かつて名の知れた冒険者だったとか」
「昔の話だ」
「その昔の話が、今この状況とどう繋がっているのか――そちらにも、いずれ話を聞かせてもらうことになるだろう」
その意味深な言葉に、ガレオンの目つきが、わずかに鋭くなった。
「何が言いたい」
「ただの世間話だ。もっとも、お前が本当にただの隠居爺なら、の話だが」
カイエルの視線には、明らかに探るような色があった。だが、ガレオンはそれ以上取り合わず、静かに剣を下ろした。
「まずは、こちらの用件を先に済ませよう」
カイエルはそう言うと、ユリオの方へと歩み寄った。
「その紋を、近くで見せてもらいたい」
「……いいけど、別に珍しいもんじゃねえよ、もう見飽きたって言われるくらいだし」
ユリオは、あえて軽い調子で右手を差し出した。カイエルは、その手を注意深く検分するように見つめる。
灰色に滲んだ紋様。輪郭の定まらない、曖昧な線。カイエル自身、これほど明確な「無」を紋の上に見たのは、初めてのことだった。
「……これが」
その呟きには、侮蔑と同時に、隠しきれない動揺が混じっていた。生まれながらにランクSという、絶対的な秩序の頂点に立つ紋を持つ者にとって、この灰色の紋は、理解の埒外にある異物そのものだった。
「どんな気分だ」
唐突な問いに、ユリオは眉をひそめた。
「何が」
「紋を持ちながら、何者でもないという烙印を押され続けて生きる気分だ。惨めだとは思わないのか」
その言葉には、明確な悪意があった。ユリオの中で、これまで抑え込んできた何かが、静かに、しかし確実に波立ち始めた。
「惨め、ねえ……」
ユリオは、あえて挑発に乗らず、努めて冷静な声で返した。
「別に、俺は俺のやり方でちゃんと生きてるつもりだけど。紋がどうこうで、俺の価値が決まるとは思ってねえし」
「それこそが、秩序への反逆だと言っている」
カイエルの声が、一段と鋭さを増した。
「紋とは、生まれながらにして与えられた、この世界の摂理そのものだ。それを軽んじる者がいれば、社会という秩序そのものが揺らぐ。お前のような、測定不能な存在は、その最たる例だ」
「あんたの言う秩序ってのは、紋がなかったら測れない人間の価値ってことか? だとしたら、随分と薄っぺらいもんだな」
思わず口をついて出た反論に、カイエルの表情が、目に見えて強張った。
「――口を慎め。お前ごときが、私の信じるものを侮辱していい道理はない」
「侮辱なんてしてねえよ。ただ、疑問に思っただけだ」
「疑問だと? では聞くが、紋がなければ、何を基準に人を評価する。生まれた家柄か、それとも顔立ちか。少なくとも紋は、誰の目にも平等に示される、揺るぎない指標だ」
「平等かどうかは知らねえけど、少なくとも俺には、その『指標』ってやつが一度も味方してくれたことねえよ。それでも、俺は俺なりにやってきた。それの何が悪いんだよ」
ユリオの声には、これまでの飄々とした調子とは違う、確かな芯の強さが滲んでいた。カイエルは、その言葉に一瞬、たじろいだように見えた。だが、すぐに表情を引き締め直す。
「……お前のような例外を許せば、いずれ秩序そのものが崩壊する。私はそれを、看過するわけにはいかない」
「例外、例外って、あんたにとって俺は、そんな風にしか見えねえのかよ」
一触即発の空気が、丘の上に漂い始めた。ガレオンが、静かに二人の間に体を割り込ませようとしたその時――
「そこまでにしてください」
凛とした声が、緊迫した空気を切り裂いた。リィナだった。息を切らしながら丘を駆け上がってきた彼女は、二人の間に立ちはだかった。
「カイエル様、これは私的な視察の範疇を超えています」
「リィナ、これは……」
「事情はどうあれ、村人に対して威圧的な態度を取ることは、鑑定院の名において許容できません」
毅然としたリィナの物言いに、カイエルは一瞬、言葉を失った。婚約者として、彼女がこれほど強い口調で自分に異を唱えることは、これまでほとんどなかったからだ。
「……お前が、そこまで肩入れする理由が、私にはわからん」
「肩入れではありません。ただ、公正であろうとしているだけです」
二人の視線が、しばらく交錯した。やがて、カイエルは静かに息を吐き、踵を返した。
「今日のところは、これで引き上げよう。だが、私の考えが変わったわけではない」
そう言い残すと、カイエルは丘を下りていった。その背中を見送りながら、ユリオは小さく息を吐いた。
「……なんつーか、疲れる人だな」
「あなたが挑発に乗らなかったから、今日のところは、あれで収まったのだと思うわ」
リィナがそう言うと、ユリオは苦笑した。
「あんたも大変だな、あんなのが婚約者で」
「……ええ、本当に」
その言葉には、これまでにない重い実感が滲んでいた。カイエルの信念と、この村で目にしてきた現実との間に、決定的な溝が生まれつつあることを、リィナは肌で感じ取っていた。
丘の上に残されたガレオンは、遠ざかっていくカイエルの背中を、険しい表情で見つめていた。あの若者の紋への執着、そして揺るぎない信念は、かつて見た、もう一人の人物の姿と、どこか重なって見えた。
(この村に、確実に何かが集まりつつある)
その予感が、老人の胸に、重くのしかかっていた。
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