飛躍
第28話 野心
クリルタイの情勢は、日に日に複雑さを増していた。
現在、末子のチンキムを推すテムルとグユク。
そして、自らハーンの座を狙うフラグ。
一方で、チンキムの即位に反対するアリクブケとココチュ。
その狭間で、モンケはすっかり意気消沈している。
誰が次のハーンになるのか。
まだ、その答えは見えていなかった。
そんな中、僕たちはブラフィルさんに招かれ、彼のゲルを訪れていた。
ゲルの中には、温かな茶の香りが漂っている。
「リュカ殿、今日はよく来てくださった」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
「まあまあ、そう堅くならずに。座られよ」
促され、僕たちは腰を下ろした。
「その……『宰相閣下』というのは、どうにも慣れませんね」
「では、リュカ殿と呼ぶことにしよう」
「そのほうが助かります」
「そうか。では、これも食べられよ」
ブラフィルさんが童子に持ってこさせたのは、こんがりと揚げられた菓子だった。
「これは?」
「ボールツォグじゃ」
北国で親しまれている揚げ菓子だという。
バターや塩水、牛乳、イースト、小麦粉を混ぜて生地を作り、それを油で揚げるらしい。
まだ出来立てなのだろう。
表面はパリパリ。
中はふっくら、ほくほくとしている。
「おいしい……!」
思わず声が漏れた。
「気に入ったようじゃな」
「はい。これは何個でも食べられそうです」
「それはよかった」
ブラフィルさんは満足そうに笑った。
しかし、しばらく雑談を続けたところで、その表情が少しずつ真剣なものへと変わっていった。
「さて……そろそろ本題に入ろうかの」
ブラフィルさんは咳払いをすると、周囲にいた童子たちを遠ざけた。
そして、僕の目をまっすぐ見つめる。
「単刀直入に聞こう。リュカ殿は、わしの息子たちのうち、誰が次のハーンに適任だと思う?」
やはり、その話だった。
とはいえ、僕は困ってしまった。
チンキムさんとは何度も話してきた。
けれど、他の候補者たちとは、まだそれほど長く接していない。
「申し訳ありません。皆様のことを、まだ十分に知っているとは言えません。今の私には、判断できません」
「うむ……そうか」
ブラフィルさんは腕を組んで唸った。
「わしの息子たちは、オッチギンのチンキムを除けば、皆それぞれ他部族へ嫁いでおる。血筋だけを考えれば、オッチギンであり、他部族とのしがらみも少ないチンキムが継ぐのが最も自然なのじゃ」
「では、何が問題なのでしょう?」
「近年のタイアル族は、勢力を縮小させておる。他部族の支援を借りねばならぬほどにな」
ブラフィルさんは、深いため息をついた。
「そんな中で、カトゥル帝国との繋がりが深いチンキムをハーンにすれば、他部族の反発を招くかもしれぬ。それだけではない。カトゥルとの繋がりが強くなりすぎることを恐れる者もおるじゃろう」
なるほど。
チンキムさんがハーンになることそのものが問題なのではない。
彼がハーンになった場合、北国の他部族がどう動くか。
そこが問題なのだ。
「……でしたら」
僕は少し考えてから、口を開いた。
「いっそ、皆さんを試してみてはどうでしょう?」
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「試す?」
ブラフィルさんが眉を上げた。
「はい」
僕は、昨夜チンキムさんと話し合った案を説明した。
「これから私は、一度カトゥル帝国の首都リンベルへ戻ります。北国の現状を女帝陛下に報告するためです」
「うむ」
「その間に、皆様にはそれぞれの部族へ戻っていただきたい。そして、自分がその地へ帰ったという証を持って、ここへ戻ってきてもらうのです」
「ほう……」
「そして、その証を最も早く、あるいは最も相応しい形で持ち帰った者を、次のハーンとして推戴する」
しばらく、沈黙が流れた。
「俺は反対だな」
最初に口を開いたのはフラグだった。
「北国では、代々ハーンを自分たちで決めてきた。それこそが自治の証だ。カトゥルの宰相に試練を決めてもらうというのは、北国のやり方に反する」
「ですが」
僕はフラグの言葉を受け止めてから、静かに返した。
「ハーンが決まらないまま時間だけが過ぎていけば、一番困るのはタイアル族の皆さんではありませんか?」
「それは……そうだが」
「ハーンが不在であることによる損失は、時間が経つほど大きくなります。だからこそ、皆さん自身の手で候補者を競わせ、早く決める必要があると思います」
「しかし、ハーンが決まらぬままでも、ブラフィル殿がおるではないか」
グユクが口を挟んだ。
「ブラフィル殿が健在であるうちは、問題ないのでは?」
「何を言うか!」
ブラフィルさんが声を上げる。
「わしは、まだそんなに老いぼれてはおらぬぞ! 何年ハーンを務めたと思っておる!」
「では、ハーンが決まらないこと自体が問題なのではありませんね」
僕が言うと、ブラフィルさんは口をつぐんだ。
「……まあ、そうなるの」
「では、日程は?」
グユクが尋ねた。
「どのくらいの期間が必要なのだ?」
「そうですね……一か月もあれば、十分ではないかと思います」
「一か月か」
グユクは少し考えたあと、頷いた。
「ならば、私は賛成しよう」
「グユク!」
フラグが驚いたように振り返る。
「ハーンを決めるための時間を短くできるなら、悪い話ではない。それに、誰がどれだけ自分の部族をまとめられるのかを見る機会にもなる」
「……なるほど」
テムルも考え込む。
やがて、僕は最後の確認をすることにした。
「では、皆さんには、それぞれの嫁ぎ先……いえ、所属する部族へ戻っていただきます。そして、帰還した証を持って、ブラフィルさんの元へ戻ってきてもらう」
「ちょっと待て」
テムルが手を上げた。
「チンキムには嫁ぎ先がない。どうするんだ?」
「そこで、チンキムさんにはカトゥル帝国の首都、リンベルへ向かってもらいます」
「リンベル?」
「はい。そして、帰還の証をテレサ女帝陛下から下賜していただく」
ココチュが腕を組む。
「それじゃ、平等どころかチンキムに不利じゃねえか」
「そうでしょうね。ここからリンベルまでは距離がありますから」
「なら、いいぜ」
「え?」
「俺は賛成する」
ココチュはニヤリと笑った。
「チンキムがそれでも勝てるっていうんなら、文句はねえ」
「チンキムさんは、それで構いませんか?」
僕が尋ねると、チンキムさんは迷うことなく頷いた。
「ええ。構いません」
その返事に、僕は内心ほっとした。
なにしろ、この案は昨夜、チンキムさんと二人で考えたものなのだ。
僕は、チンキムさんにハーンになる野心などないと思っていた。
だからこそ、この案ならうまくいく。
そう考えていた。
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――ところが。
話し合いが終わり、皆がゲルから出ていったあと。
僕は隣にいたチンキムさんへ、小声で尋ねた。
「……本当に、よかったんですか?」
「ええ」
チンキムさんは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「リュカ殿と話して、私は自分の野心に気付きました」
「え?」
「私は……ハーンになりたい」
「じゃ、じゃあ……!」
思わず声が裏返った。
「私は必ずハーンになります」
「ちょっと待ってください!」
僕は頭を抱えた。
「そんなことを言っても、ここからリンベルまでは、馬を飛ばしても十日はかかりますよ!」
「承知しています」
「そもそも、チンキムさんに野心がないと思ったから、この方法なら大丈夫だと思ったのに……!」
僕が慌てていると、チンキムさんは少し不思議そうな顔をした。
「リュカ殿は、私にハーンになってほしくないのですか?」
「なってほしいですよ!」
思わず叫んでしまった。
「だって……親しい友人ですし!」
言ってから、自分の声が思った以上に大きかったことに気付く。
「……」
「……」
チンキムさんと僕の間に、微妙な沈黙が流れた。
恥ずかしい。
顔が熱くなってくる。
「そ、それはともかく!」
僕は無理やり話を戻した。
「どうするんです? このままでは間に合わないですよ!」
「そのようなときのために」
チンキムさんは、意味ありげに微笑んだ。
「奥の手があります」
「奥の手?」
「こちらへ」
そう言って、チンキムさんは僕たちをゲルの外へ連れ出した。
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そして――。
「うわああああああっ!」
僕は絶叫した。
猛烈な風が全身を叩きつけてくる。
僕は必死に目を閉じ、目の前の身体にしがみついた。
「リュカ殿! しっかり捕まっていてください!」
「これ、どうなってるんですかぁぁぁ!」
僕たちが乗っているのは、馬ではない。
巨大な翼を持つ魔獣――グリフォンだった。
チンキムさんは、なんとグリフォンを飼っていたのだ。
「これなら、ひとっ飛びですね!」
リルが歓声を上げる。
「ええ! わが国にも一頭ほしいくらいです!」
マリーまで目を輝かせている。
「たのしー!」
ヘレナはというと、すっかり空の旅を楽しんでいた。
「いやいやいや! 僕は全然楽しくないですから!」
そう叫んだ瞬間。
グリフォンが大きく翼を羽ばたかせた。
身体がふわりと浮き上がる。
眼下に広がっていた北国の大地が、みるみる小さくなっていく。
そして僕たちは、雲を突き抜けた。
「さあ!」
チンキムさんが楽しそうに声を上げる。
「ここからは、楽しい空の旅です!」
「だから僕は楽しくないですってぇぇぇ!」
僕の叫び声は、北国の空へと吸い込まれていった。
こうして僕たちは、一路、カトゥル帝国の首都――リンベルへ向かうことになった。
チンキムさんがハーンになるための、最後の一手を手に入れるために。




