推戴
「お待たせいたしました」
そう言って姿を現したのは、リゼ皇女だった。
現在、僕たちはカトゥル帝国の首都リンベルにいる。
僕たちの目的は、ただ一つ。
チンキムさんを、北国のハーンとして推戴すること。
そのために僕たちは北国を飛び出し、帝都まで戻ってきたのだ。
そして今、僕たちの手元には、ハーン推戴のための「証」が必要だった。
「承認書を作ってしまえば、こちらのものです」
そう提案したのはヘレナだった。
「なぜなら、カトゥル帝国の代表として、チンキム様以外をハーンとして認めないという意思表示になりますから」
ヘレナの家は、代々、有職故実に詳しい家柄だ。
こうした儀礼やしきたりに関する知識は、今回の旅でも大いに役立っている。
「もちろん、クリルタイで負ければ、潔く諦めるつもりですよ」
チンキムさんが念を押す。
「でも、負けるつもりはないんでしょう?」
僕がそう尋ねると、チンキムさんはニッと笑った。
「もちろんです!」
その顔を見ていると、こちらまで力が湧いてくる。
どうやら、チンキムさんの覚悟は決まっているらしい。
「いいなー。リュカは、今回もお出かけで」
そんな僕たちを横目に、リゼ皇女がぼやいた。
「私たちは帝都でお留守番ですね」
そう言いながら、クシイナダはなぜか龍の絵が描かれたバッグに荷物を詰め込んでいる。
「……クシイナダ?」
「はい?」
「それ、何してるの?」
「旅行の準備です」
「やっぱり行こうとしてるじゃない!」
「バレましたか……」
「ずるい!」
リゼ皇女とクシイナダが、互いに睨み合っている。
そこへ僕がやってきた。
「二人とも、睨み合ってどうしたの?」
二人は僕を見る。
そして、ほぼ同時に叫んだ。
「「リュカ君! どちらが本命!?」」
「……何の話?」
僕には、まったく意味が分からなかった。
そして、このあと僕は二人から、散々責め立てられることになった。
――本当に、何の話だったんだろう?
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ともあれ、そんな騒ぎを経て、僕たちは再び北国へ向かうことになった。
チンキムさん。
そして、リル、マリー、ヘレナ。
もちろん僕も一緒だ。
「リュカ君、ひとっ飛びだね!」
「うん!」
グリフォンの背に乗り、空を駆ける。
眼下に広がる景色が、あっという間に流れていく。
何度乗っても、この感覚は爽快だ。
そして僕たちは、北国の夏のオルド――宮殿が置かれているアウラガへと戻ってきた。
「……!」
僕たちの姿を見たブラフィルさんが、目を見開いた。
「まさか……まさか……」
「皆さん、お戻りでしょうか?」
僕が尋ねると、ブラフィルさんは僕たちの後ろにいるチンキムさんへ視線を向けた。
「いや。まだじゃ」
そして、次に尋ねる。
「証の物は、持ってきたか?」
「これを」
チンキムさんが懐から一通の書状を取り出した。
そこには、カトゥル帝国の印璽が押されている。
ブラフィルさんは慎重に書状を確認した。
「……確かに、カトゥル帝国の正式な書状じゃな」
「では!」
僕が思わず身を乗り出す。
ブラフィルさんは、ゆっくりとうなずいた。
「チンキム。お主をタイアルの代表とするしかあるまい」
「やったー!」
思わず声を上げる僕たち。
チンキムさんも、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「あとは、改めてクリルタイを開催するのじゃ。さあ、チンキム」
「かしこまりました、父上」
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こうして、クリルタイが開かれた。
そして――
チンキムさんのハーンへの推戴が正式に定められた。
「チンキムさん、おめでとうございます!」
「ありがとうございます、リュカ殿」
僕が祝福すると、チンキムさんは嬉しそうに微笑んだ。
しかし、その表情はすぐに真剣なものへと変わった。
「それで、リュカ殿」
「はい?」
「例の拷問禁止法案の件なのですが……」
「……なるほど」
僕は少し考えた。
「そうしましょう!」
チンキムさんから出された提案。
それは、人権を認める対象を明確に限定することだった。
すなわち――
二足歩行をし、言語による意思疎通が可能な者。
この条件を満たす者に、人権を認める。
それを帝国の新たな根本規定として定めるため、僕たちは新しい基本法を設けることにした。
「その『人権』というのは……」
リルが首を傾げる。
「具体的には、どういうものを想定しているのですか?」
「まずは、契約を締結できる権利かな」
「契約、ですか?」
「うん。人々が契約によって、自由に活動できるようにするんだ」
僕は説明を続ける。
「誰かと商売をする。仕事を請け負う。土地や物を借りる。そういう活動を、身分に関係なく法的に認められるようにする」
「それならば……」
ヘレナが何かに気づいたように口を開いた。
「商活動も、より円滑に進むことになりますね」
「その通り」
僕はうなずく。
「そして、商活動が活発になれば、国に入る税収も増える」
「特に西国は商業が盛んですから、かなりの効果が期待できそうですね」
「そういうこと」
人権を守ることは、単なる慈善ではない。
人が自由に活動できる社会を作れば、それは経済にもつながる。
そして経済が成長すれば、国そのものも豊かになる。
僕たちはそう考えて、拷問禁止法案と人権規定法案をカトゥル帝国の議会へ提出した。
結果は、予想以上に順調だった。
北国出身の議員たちは、ほぼ一様に賛成へ回ってくれた。
さらに、他地域の議員からも賛成を取り付けることに成功した。
こうして両法案は、帝国議会をほぼ抵抗なく通過した。
続く枢密院での審議も、テレサ皇帝の根回しが功を奏し、無事に可決された。
こうして、カトゥル帝国には新たな法の柱が築かれた。
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――だが。
帝国には、まだ一つ大きな問題が残っていた。
チンキムさんが北国のハーンとなった以上、彼が務めていた首都の外相の後任を決めなければならない。
「さて、チンキムさん」
僕は尋ねた。
「あなたの後任の外相を、どなたにしたいですか?」
「私が決めていいんですか?」
「もちろんです」
僕はうなずいた。
「チンキムさんの推薦なら、間違いないと思うんです」
「……そうですか」
チンキムさんは少し考え込んだ。
そして、顔を上げる。
「では、兄のモンケを推薦いたします」
「モンケさんですか」
「はい」
特に反対する理由はなかった。
チンキムさんが信頼する人物なら、きっと大丈夫だろう。
「分かりました。それでいきましょう」
こうして、新たな外相が決まった。
そして僕たちは、再びグリフォンの背に乗り、帝都リンベルへ戻ることになった。
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再び、カトゥル帝国の首都リンベル。
王宮では、御前会議が開かれていた。
ところが――
その会議には、最初からどこか重苦しい空気が漂っていた。
原因は、新たに外相となったモンケさんだった。
「これからのカトゥル帝国は、外交によって他国との融和を目指すべきです」
モンケさんは、堂々と演説している。
「したがって、現在の陸軍の大部分は不要です。軍縮を行うべきでしょう」
「何を言うか!」
真っ先に反発したのは、陸相のパンチだった。
「ついこの間の神聖帝国のように、いつ他国から攻め込まれるか分からぬ状況だぞ! そんな中で軍縮などできるものか!」
「しかし、現在の帝国に財源が足りないことも事実です」
モンケさんは冷静だった。
「そうですよね、ダンドロ殿?」
「え? ああ……そうですな、モンケ殿」
財務を担当するダンドロさんが、歯切れ悪く答える。
「では、陸軍を縮小し、その分の財源を帝国の会計に回してはいかがでしょう」
「待たれよ」
今度は南国のコーラル宰相が口を挟んだ。
「我ら南国としても、賛成しかねますな」
「なぜです?」
「陸軍と海軍、双方の連携があってこそ国防が成り立つというもの。陸軍だけを大幅に縮小するわけにはいきません」
「では、コーラル殿は、いかように財源を捻出されるおつもりですか?」
「まずは内政を見直し、財政を切り詰める」
コーラル宰相は即答した。
「それでも足りぬのであれば、増税を行う。それでは不満ですかな?」
「増税ですか!」
「軍縮よりは、よほど現実的でしょう」
「民の負担が増えることになりますぞ!」
「国を守るための費用ですからな」
「しかし――」
「それならば――」
議論は次第に激しくなっていった。
軍縮か。
増税か。
それとも別の方法を探すのか。
それぞれの立場から意見が飛び交い、なかなか結論は出ない。
結局、この日の会議では結論を出すことができず、軍縮問題はいったん棚上げとなった。
後日、改めて議論することになったのである。
今回の旅によって、カトゥル帝国は北国への影響力を大きく強めることに成功した。
チンキムさんは、正式にハーンとなった。
そして、拷問禁止と人権規定という新たな法も成立した。
――すべてが順調に進んでいる。
僕は、そう思っていた。
しかし。
首都の外相に、新たな人物を選んだこと。
それが後に、帝国へ大きな波乱をもたらすことになるとは――。この時の僕たちは、まだ知る由もなかった。




