推薦と逡巡
クリルタイ当日。
まだ朝靄の残る早朝から、北国の人々は忙しく動き始めていた。
ゲルの屋根には色鮮やかな薬玉が飾られ、会場となる場所も少しずつ整えられていく。
やがて、クリルタイの開催を告げる声が響き渡った。
「これより、クリルタイを開催する!」
今回のクリルタイは、現在の北国のハーンであるブラフィルが選出されて以来となる。
クリルタイとは、北国のハーンを選出するための儀式であり、同時に、遊牧民族たちの結束を象徴する重要な集まりでもある。
今回のハーン候補は、ブラフィルの七人の息子たち。
第一皇子テムル、第二皇子ココチュ、第三皇子アリクブケ、第四皇子モンケ、第五皇子グユク、第六皇子フラグ。そして末子である第七皇子チンキム。
北国では、遊牧民族の慣習として、家に最後まで残る末子――オッチギンが家督を継ぐことが多い。
そのため、本来ならばチンキムが後継者となることは、決して不自然ではない。
だが、今回のクリルタイは、それだけでは済まない事情を抱えていた。
チンキムを除く皇子たちは、すでに他部族へ嫁いでいる。
そして、その部族の多くはカトゥル帝国の直接的な支配下にはなく、帝国の領域外を遊牧している者たちだった。
そんな彼らが、父であるブラフィルの召集に応じ、今、この場所に一堂に会している。
「さて――」
全員が集まったところで、ブラフィルが口を開いた。
「この度は、わしに代わる新たなハーンを、皆で選出したいと思う」
その言葉に、第一皇子テムルがすぐに応じる。
「それならば、慣習の通り、チンキムがハーンになるしかないのではないか?」
「いや、それで決めてしまうのは早計だ」
反論したのは、第三皇子アリクブケだった。
「昨今は風雲急を告げる情勢だ。今こそ、しきたりにとらわれず、有能な人物をハーンとして推戴するべきではないか」
「アリクブケ兄上、それはなりませぬ」
第五皇子グユクが口を挟んだ。
「チンキムはユニマルとの繋がりが深い人物です。ここで彼をハーンに推戴しなければ、ユニマルから睨まれることになる。そうなれば、タイアル首長国の現在の地位すら危うくなりましょう」
「中央に従うことばかりを考えていては、いずれ他国に併呑されるぞ」
「しかし――」
そこでチンキム自身が口を開いた。
「私はカトゥル本国で外相を務める身の上です。そのうえ北国のハーンまで務めよと言われても……私には、あまりに荷が重すぎます」
「その通りだ」
ココチュも頷く。
「北国出身の大臣として長年務めてきたチンキムには、その役目を全うしてもらいたい」
モンケとフラグは、黙ったままだ。
こうして、皇子たちの意見は簡単にはまとまらなかった。
「いっそ、ここは父上に後継者を指名していただいてはいかがか?」
誰かがそう提案した。
しかし、ブラフィルは静かに首を横に振る。
「それはならぬ」
「なぜです?」
「後継者候補たち自身が話し合い、決めるからこそ、皆がその決定に納得できるのだ。わしが一存で決めてしまえば、必ず不満を抱く者が出る」
ブラフィルは、皇子たちを見回した。
「これは、わし一人で決めてよい話ではない」
結局、この日のクリルタイでは結論が出なかった。
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その夜。
クリルタイの会場では宴会が開かれた。
昼間の緊張が嘘のように、酒が振る舞われ、焚火を囲んで人々が歌い、笑い、騒いでいる。
僕たちリュカ一行も、その宴に参加していた。
しかし――。
「……」
チンキムだけは、どこか浮かない顔をしていた。
「チンキム殿。皆と飲まないのですか?」
僕が声をかけると、チンキムは少し驚いたようにこちらを向いた。
「リュカ殿……」
そして、しばらく迷った後、単刀直入に尋ねてきた。
「どなたが、ハーンに適役だとお考えですかな?」
「えーっと……」
僕は少し困ってしまう。
「正直に申し上げると、チンキム殿以外の皇子方を、僕はあまり存じ上げません。ですから、誰が適任なのかは、よく分かりません」
「……そうでしたね。申し訳ありません」
チンキムはそう言うと、焚火へと視線を戻した。
炎が、その横顔を赤く照らしている。
「リュカ殿」
「はい?」
「私の身の上話をしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
チンキムは静かに語り始めた。
「私は、もともと父の末子でした。ですから、幼い頃にカトゥル中央――ユニマルへ人質として送られたのです」
「人質……」
「ええ。先ほども話した通り、タイアルでは末子が後継者となるのが慣習です。そのため、将来の北国を担う者として、中央に置かれることになったのです」
「そうだったのですね……。人質としての生活は、つらくなかったのですか?」
僕が尋ねると、チンキムは意外にも、にっこりと笑った。
「そんなことはありませんでした」
「え?」
「むしろ、私にとっては人生を変える出来事だったのです」
チンキムは、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「私は弁舌が得意ではありませんでした。ですから、カトゥル帝国の外交を担う北国の役割を、果たしていけるのか……ずっと不安に思っていたのです」
「それで?」
「そんな私を変えてくれたのが、東国のパンチ殿でした」
「パンチ殿が?」
「ええ。ある日、パンチ殿が私にこう言ったのです」
チンキムは、少しだけ笑った。
「『一度は行ってみないか?』と」
「どこへです?」
「陸軍士官学校です」
僕は思わず目を丸くした。
「私はパンチ殿の勧めで、東国陸軍の管轄する陸軍士官学校へ仮入学することになりました」
「それは……意外ですね」
「私自身もそう思いました」
チンキムは笑う。
「ところが、そこで私はメキメキと成績を伸ばしたのです」
「軍事の才能があった、と?」
「どうやら、性に合っていたようです」
チンキムは焚火の向こうを見つめた。
「軍隊生活は厳しかったですよ」
「やっぱり……」
「ですが、厳しい任務を乗り越えた後、仲間たちと笑い合える時間は……最高でした」
そう語るチンキムの表情は、どこか懐かしそうだった。
きっと、楽しい日々だったのだろう。
そして僕は、そんな彼がなぜ今、ハーンの座を前にして苦しんでいるのか――少しだけ分かったような気がした。
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翌朝。
僕たちは、クリルタイの準備を手伝うことになった。
「うわっ! 臭い!」
僕が任されたのは、牛の糞を乾燥させた燃料――アルガリ作りだった。
北国では、これを焚火の主な燃料として利用するらしい。
……とはいえ。
「これ、僕がやる必要あります?」
「もちろんです、リュカ様」
「ですよね……」
慣れない作業に悪戦苦闘した結果、僕は全身を見事に汚してしまった。
文字通り、体中が糞まみれである。
「……これ、本当に宰相の仕事かなぁ」
僕のぼやきに、リルとヘレナが笑った。
その後は、川へ向かった。
糞を洗い流すついでに、水汲みも手伝ってほしいとのことだった。
雨の少ないタイアルでは、高地に暮らす人々が定期的に河川まで赴き、水を汲んでいる。
水汲みは基本的に女性たちの仕事であり、生活用水のほか、ステーツァイと呼ばれるミルクティーを作るためにも使われるらしい。
「しかし、これも重労働だな」
水を入れた容器を持ち上げながら、僕は思わず唸った。
「生活には大量の水が必要になる。これを何度も運ぶとなると、大変だ」
「私は重いものは持てないので、無理はしません」
マリーが涼しい顔で言う。
「えー、ずるい!」
「マリーは休んでばっかり!」
リルとヘレナが抗議する。
「だって重いものは無理なんだもの」
「少しくらい手伝ってよ!」
そんなやり取りをしながら、僕たちは北国の暮らしを少しずつ体験していった。
北国の人々は、鉱石についての知識も豊富だった。
火を起こしやすい石や、栄養分を含む鉱石などを見つけては集落へ持ち帰る。
さらに、宝石の加工も盛んだという。
「北国産の宝石は、名品揃いですよ」
そう説明してくれた北国の人々の顔には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
遊牧の民。
そう聞いて想像していた暮らしとは、少し違う。
厳しい自然の中で生きるため、彼らは彼らなりの知恵と技術を身につけているのだ。
――だが。
そんな北国の暮らしを知る暇もなく、翌日。
クリルタイを揺るがす、とんでもない知らせが飛び込んできた。
「大変だ!」
誰かが叫びながら駆け込んでくる。
「モンケとフラグが――決闘をするらしいぞ!」
「……え?」
僕は思わず、耳を疑った。
ハーンを巡る皇子たちの争いは、ついに剣を抜くところまで来てしまったのだ。




