三 番さまに誓います。
「うう、踏み込み過ぎたか……」
その晩、ひとり鯉たちに餌をやりながら、わたしは今日の反省会をしていた。
こういうとき、いつも都合よく傘を差し向けてくれる朔は今日はいない。蒼月さまに随行し、よその郷との会合のため、今朝早くに屋敷を発ったのだ。戻りは明後日になると聞いている。
「ほら、おまえたち、よく食べろー」
池のほとりに座ったわたしは、水面に上がってきた鯉たちがぱくぱくと餌を食べるのを見守る。
雨だけが降り続ける、静かな夜だ。淡雪さまはもうお休みになられただろうか。
かなしそうに目を伏せた淡雪さまが、首にぐるりとめぐらされた痣に触れるすがたをわたしは思い出した。淡雪さまにとって、首の痣は容易には触れてはいけない心の傷なのだ。わたしが黒龍の郷で奴隷として働かされていたときのことを話したくないみたいに……。
「わたしはただ、淡雪さまが声を取り戻されたいのなら、お手伝いができればって……」
言い訳めいた言葉をつぶやき、わたしはぶんぶんとかぶりを振った。
淡雪さまが本当にそんなことを望まれているかもわからないのに。
(……明日、淡雪さまに今日のことごめんなさいって言おう。素直に自分の気持ちを伝えよう)
このまま透明な壁をつくられてしまうのはいやだ。
そのとき、雨音に混じり、微かな蹄やひとの足音がわたしの耳を打った。
わたしははっと顔を上げる。
はじめ、蒼月さまたちが早くに帰られたのかと思った。けれど、いつもなら響くはずの先ぶれの鈴の音が聞こえない。蒼月さまが帰還したことを知らせる鈴を鳴らすのは、そば仕えの朔の役割だ。朔は適当な男だが、こと蒼月さまに限っていえば、万事隙なくぬかりない。
――何かあったのだろうか?
不穏な予感に駆られ、わたしはすばやく立ち上がると、屋敷の表門に向かった。
庭から表門までは、広大な敷地を東から西へ突っ切る必要がある。雨でぬかるんだ地面のせいで足は重たく、もどかしく思いながら頭にかけていた被布を取り去る。直後、はるか前方で、火急を知らせる鐘の音が鳴り響いた。
「何が――」
わたしは表門近くの火の見櫓を見上げる。
篝火に照らされ、鐘を鳴らす門兵が見えた。その背を暗闇から飛んできた矢が射貫く。
わたしはひゅっと息をのんだ。よろめいた門兵が櫓から落下する。鐘の音が途切れる。
「雨ちゃん!」
頬を打つような鋭い声に、わたしは肩を跳ね上げた。
前方から、太刀を持った人影が走ってくる。よく一緒に鯉の餌づくりをしている門兵――小舟さんだ。
「こっちに来たらだめだ! 正門に急襲が――」
「どこの郷ですか!?」
小舟さんに駆け寄ると、わたしはつかみかからんばかりに尋ねた。
「黒の鱗紋の旗を掲げていたから、たぶん黒龍の……」
予感は当たった。黒龍の郷が淡雪さまを連れ戻しに来たのだ。
「でも、このお屋敷には目くらましの術がかかっているはずなのに……」
だからこそ、蒼月さまたちも門兵を残してよその郷に発ったのだ。
あるいは黒龍には、淡雪さまの居所を探索する術が何かあるのか。
わたしたちの声をかき消すように、塀の外の蹄と足音が大きくなる。
正門に向けて、矢がかけられた。精鋭揃いの門兵たちがなんとか正門でとどめようとしているようだが、このまま押し返せるのか。
「負傷者が出てる。俺は朔さまに夜鳥を飛ばす。雨ちゃんは薬師を叩き起こして!」
「は、はい!」
声を上擦らせながら、わたしはうなずく。
普段の銀雨の郷は平穏そのもので、黒龍の郷を出て以来、荒事には無縁だった。
「万一、門を破られたら、番さまを連れて逃げること。隠し門の場所はわかるね?」
「わかります」
以前蒼月さまから教えられたことがある、非常時の脱出経路だ。
火急の際は、その門から淡雪さまを連れて逃げること。それが侍女たるわたしの役割。
「ならいい。気張ってな!」
「はい!」
小舟さんに力強く背を押され、わたしは跳ねるように屋敷に向けてきびすを返した。
ちょうど起き出してきた薬師に、正門で負傷者が出ていることを伝える。屋敷を守る兵の多くが正門の応援に向かったらしい。慌ただしくひとが行き交う外廊を走りながら、わたしの脳裏には幼い頃の記憶がよみがえっていた。
七歳のときのことだ。
黒龍の郷で、奴隷として生まれたわたしは、物心ついた頃から過酷な労働を強いられていた。残虐非道な黒龍が治める郷では、人間たちは皆、龍の一族に使われる奴隷だ。
水っぽい雑炊一杯で、朝から晩まで休みなく働かされる。幼いわたしと仲間たちにあてがわれたのは、死んだ同胞を大きな氷穴に捨てる仕事だった。わたしはこの仕事がとてもきらいだった。耐えがたくつらかった。それでも、物言わなくなった同胞たちを氷穴に捨て、野の花を一輪供えて手を合わせた。
ある日、気づいた龍の一族の監督者に頬を殴られた。花など供えるな、と言う。
その龍の一族の男は、わたしの目の前で花畑を焼いた。
これでもう花は供えられないな。そう言われた。
その晩、わたしは仲間たちと結託し、郷を逃げ出した。
龍の一族は、新月の晩は廟に籠るため、隙をついて奴隷房の扉を破壊したのだ。けれど、逃げる途中で仲間たちとはぐれ、わたしは雪山でひとりぼっちになった。
雪のちらつく冷たい山道をひとり走る。走る。走る。今にも龍の一族が追いかけてきてわたしを捕まえるのではないかと、身体はふるえ、涙が滲んだ。それでも歯を食いしばって走って、転んでは起き上がって、また走って――
わたしは川のほとりで焚火をしていた男の子にぶつかった。
それが朔だった。
――今、あのときの足裏を刺すような地面の感触を思い出しながら、わたしは外廊を走っている。
「淡雪さま! 淡雪さま! 淡雪さま……っ!」
まだ黒龍の兵は、屋敷内には入り込んでいない、はずだ。
けれど、もし淡雪さまに何かがあったらと思うと、気が気でなかった。
もし淡雪さまが、かつて氷穴に運んだ同胞たちと同じように物言わぬ骸に変わっていたら。想像するだけで身体が震える。息を切らして駆けていると、角から飛び出た人影とぶつかった。
「きゃっ」
悲鳴を上げかけ、ぶつかった相手に気づく。
「淡雪さま! ご無事でしたか!?」
淡雪さまは、ほかの侍女たちと隠し門に向かっている最中だったようだ。
手を握って尋ねると、淡雪さまはちいさくうなずいた。わたしの頬に白い手が触れる。昔のことを思い出しているうちに、いつの間にか涙が頬を伝っていた。どこか怪我でもしたのかというように頬を撫でた手のひらに、「大丈夫です」とわたしは手を重ねる。
淡雪さまと一緒に逃げてきた侍女たちと状況を伝達しあう。
奇襲をかけてきたのは、黒龍の郷の者で間違いないようだ。
おそらく淡雪さまを取り戻しにきたのだろうと。屋敷の外には外敵から見つかりづらくなる目くらましの結界がかけられており、なおかつ数か月間、黒龍の郷は動きを見せていなかったから、わたしたちも油断していた。
隠し門は、槐の林に隠れた場所にあり、屋敷の者たちの中でも数少ない古参の人間しか知らない。
雨が降りそぼる夜闇を、紙燭の灯りひとつを頼りに、足音をひそめて移動する。門が近づくと、淡雪さまがふいに何かにきづいたようすで足を止めた。
「淡雪さま?」
振り返ると、淡雪さまは蒼白になり、かたかたと小刻みに震えていた。不安になられているのかと考え、わたしはつとめて明るい表情をつくる。
「大丈夫ですよ。もうすぐ蒼月さまたちも戻られるはずですから!」
小舟さんが朔に夜鳥を遣わせたと言っていたから、すぐに蒼月さまたちも銀雨の郷に引き返すはずだ。それまでに正門が破られなければいい。屋敷の門兵たちは皆強い。
けれど、淡雪さまは焦燥を帯びた表情で首を振った。
わたしの手を引き、必死に屋敷のほうへ戻ろうとする。どうしたのだろうか。わたしが戸惑っていると、荒々しい足音が隠し門の外からした。
人目を隠すように作られたちいさな扉が外からかかった力ではじけ飛ぶ。
夜闇に松明を掲げて、黒い鱗紋の衣を着た男たちが中に踏み込んでくる。
「迎えにきましたよ、《黒姫さま》」
わたしの知らない名で淡雪さまを呼ぶと、「黒龍さまがお待ちです」と隊長らしい男は恭しくこうべを垂れた。その後ろから太刀を持った男たちがなだれ込む。
(なぜ淡雪さまの居場所が!?)
一抹の疑念がわいたが、今はそれよりも番さまをお守りすることのほうが先決だ!
「淡雪さま、わたしの背へ!」
淡雪さまの前に立ち、わたしは常に携帯している懐刀を抜いた。
男たちの握る太刀に比べれば、あまりにも細く頼りないが、今わたしたち以外に番さまを守れる人間はいない。
けれど、淡雪さまはちいさく首を振って、わたしの腕をつかんだ。細い指先が「迎えにきた」とのたまう男のいるほうを指す。言葉を交わさずとも、淡雪さまの考えがわたしには読めた。
「だめです、淡雪さま。それはだめ!」
叫んだわたしに、淡雪さまがまた首を振る。
鈴の腕輪がりんと音を立てた。りん、りん、と二度。いいえ、の意思表示。
「わたしが淡雪さまをお守りします。だから、そちらに行かないで!」
「ずいぶん銀雨の郷の者と懇意にしているようではありませんか。我らの黒姫は」
「淡雪さまを別のなまえで呼ぶな!」
冷笑する黒龍の手の者をわたしは睨みつけた。
ああ、視線だけでひとが射殺せるのだったらいいのに!
「黒姫さま。もし貴女が我らのもとに戻るなら、ここからは引きましょう」
「淡雪さま!!」
わたしは焦った。おやさしい気性の淡雪さまなら、きっと簡単に自分の身を差し出してしまうだろう。
ちがうのに。誰もそんなこと望んでないのに!
歯噛みして、わたしは懐刀を握り締める。
どうしたら淡雪さまを引き留められるのだろう。どうしたら!
そのとき、ふわりと背中から細い腕に抱きしめられた。清らかな白檀の香りがかおる。
――雨。
確かにわたしは呼ばれた。声なき声で。
わたしの背に頬を押し当て、淡雪さまが囁く。
雨。雨。雨。
背中越しに囁かれる泡沫のような呼びかけに、わたしは耳を澄ます。
――お願い、雨。今から何があっても。
――……わたくしをきらいにならない?
わたしは泣きたいような気分になった。
「愛しています」
なにひとつ迷わなかった。
もしわたしに愛と呼べる感情があるなら、ぜんぶかき集めて淡雪さまに差し上げたいと思った。わたしの番さまに。
「きらいになんか、絶対ならない。命尽きるまで番さまにお仕えします!!」
両手を取って告げると、淡雪さまは桔梗色の眸を大きくみひらく。眸の奥に瞬く、うつくしい星が見えた。
――のちに、この咽喉を封じたのはわたくし自身なの、とそのひとは言った。
淡雪さまが細い指先をあてると、首にめぐらされた禍々しい痣がほどけだす。
揺らめく火影のように痣が消える。淡雪さまは決然とした表情で、花色の唇をひらいた。
「《ひれ伏せ》」
それは鈴の音のようにうつくしく、それでいておそろしい声だった。まるで万物を従わせる龍神そのもののような――。
驚愕に目を瞠った黒龍の兵たちが、いっせいに大地に膝をつく。
わたしとほかの侍女たちは呆気に取られて、その場に額づいた兵たちを見つめた。
「《散れ》」
見れば、淡雪さまの黒髪は生きもののようにうねり、淡く発光していた。
魅入られたように淡雪さまを仰いだ兵たちが、よろめきながらきびすを返す。
わたしたちは目の前でいったい何が起こっているのか、理解できない。ただ、淡雪さまの《声》がふしぎな力を持ち、命じられた兵たちがそれに従っていることだけがわかった。
太刀をおさめた兵が無言のままに去ると、淡雪さまの身体からふっと力が抜ける。
「淡雪さま!」
倒れかかった細い身体をわたしは腕を差し出して受け止めた。
刹那、正門付近で鋭い雷鳴が轟く。見る間に黒々とした暗雲が立ち込め、閃光が走る。
風が吹きすさび、雨の烈しさが変わった。
蒼月さまだ、とわたしは気づく。
蒼月さまが戻られたのだと。
「――雨ちゃん、無事!?」
いつもより切羽詰まった表情で、太刀を抜いた朔が駆けてくる。
その顔を見たら、むしょうに泣きたくなり、わたしは頬をゆがめた。
「ばか! 遅すぎます!」
わたしの腕の中では、淡雪さまが眠っている。首にめぐらされていた茨の痣は消えていた。
*…*…*
「つまり、淡雪さまは黒龍の妹姫――黒姫さまだったってわけですか?」
一部が壊れた正門は今、屋敷の兵や使用人たちが集まって修繕を行っている。
あの晩、倒壊しかけた正門から黒龍の兵が屋敷になだれ込んだ。ちょうどそのとき蒼月さまが駆けつけて雷を落とし、黒龍の兵たちを追い返したそうだが、一歩間違えば、屋敷の正門を突破されていた。かなり危うい状況だったといえる。
「そうみたいだねー」
傘を差した朔が応えた。今日も一本の傘をわたしのほうへ差し向けてくれている。
わたしたちの視線の先には、蓮池のそばの四阿で向かい合う蒼月さまと淡雪さまのすがたが見えた。
「声の封印は、番さまご自身がかけたらしい。《黒姫》の声は、万物を従わせるといわれている。黒龍はその力を利用したかったらしいけれど、番さまは声を封じて自ら座敷牢に入った」
「それをさらったのが蒼月さま……えっ、つまり淡雪さまも龍の一族なんですか?」
「実はすでに二百五十年を生きておられるとか」
「姉さん女房じゃないですか!?」
蒼月さまは二百歳ほどのはずなので、淡雪さまのほうが実は年上ということになる。
無論だが、蒼月さまははじめからご存じだったそうだ。
問い詰めた朔に、蒼月さまはいつもの感情が見えづらいうつくしいお顔のまま、「……言っていなかったか?」と首を傾げた。
言っていない。淡雪さまが龍の末裔でもただの少女でも、わたしたちの忠誠は変わらないが、短命種には短命種なりの心構えというやつがあるのだ。いい加減、そのあたりを蒼月さまは学んでほしい。
「まあ、黒龍一派は追い返せたし、これに懲りてしばらくはおとなしくしているんじゃない?」
「淡雪さまがご自身で声の封じを解くとは、やつらも思ってなかったみたいですね」
黒龍の兵たちは、主人の妹姫であるはずの淡雪さまを力づくで従わせようとしていた。裏返して言えば、淡雪さまの反撃は彼らの意図外のものであったようだ。よかった、と心の底からわたしは思った。淡雪さまは彼らの言いなりにはならなかった。
ちなみに黒龍の兵たちが、目くらましの結界を突破し、淡雪さまの居場所を突き止めたのは、同じ黒龍の一族同士でわかる波長のようなものがあるかららしい。淡雪さまもまた、わたしたちより早く黒龍の兵たちの存在に気づいていた。
さて、その蒼月さまと淡雪さまといえば、本日、屋敷に来たときぶりのご対面をしていた。
なんとこのおふたり、同じ屋敷内で寝起きしていながら、この数か月、文通のみで恋を育んでいたのだ。恋愛下手すぎるおふたりの性格ゆえか、長命種とは皆こういうものなのか。
そして、朔とわたしは、四阿から離れた槐の下で、はらはらとおふたりのようすを見守っているというわけである。
おふたりのあいだには、長い沈黙が流れていた。
一刻ほど前、わたしが運んだお茶には双方、手を付けていない。何かを口にしようと顔を上げては、お互い頬を赤らめて視線をそらす。
――ということを、すでに五十回ほど繰り返している。
わたしたちはこのまま夜を迎えてしまうのだろうか。
「あっ、でも今……」
何かに気づいたようすで、朔が口元を緩める。
四阿のふたりは、いつの間にかくすくすとわらいあっていた。
いったい何を話しているのだろう。おそらく些細なことにちがいない。何しろ、花の名を尋ねる往復書簡だけで、心を通わせてしまったおふたりなのだから。
「ああーもー、複雑だな―……」
淡雪さまの可憐な横顔を眺めながら、わたしは息を逃す。
「複雑って?」
「だって、わたしはずっと淡雪さまのおそばにいたのに、蒼月さまに横からさらわれた気分です」
「そりゃまあ、それが番ってやつでしょ」
「番きらいー」
「きらわないであげて」
苦笑気味に肩をすくめると、「これ以上は野暮かな」と朔はふたりに背を向けた。
わたしの肩を軽く押し、歩き出す。銀の雨がきらきらと降るなかを、ふたりで歩く。
わたしははじめて朔に出会ったときのことを思い出した。
うまくしゃべることができず、身体を震わせることしかできなかったわたしに、朔は上着をかけた。降りしきる雪から遠ざけるように。
わたしは何も言わずにそうしてくれたひとの、眸のうつくしさに見惚れた。このひとについていけば、あかるい陽の射すほうへいけると思った。幼い頃から、わたしは勘がよい。
「ねえねえ、雨ちゃんも、俺と結婚しない?」
「はあ? なんでですか?」
真顔になって訊き返すと、「子どもの頃はわたしと結婚してって言ってくれたのに」と朔はぼやく。
「そんなの十年以上前の話ですし、あとわたし、先日淡雪さまに愛を捧げるお約束をしました!」
「えっ、それは先に俺にくれてもうよくない!? ずるくない、淡雪さま!」
「うふふ、わたしの番さまは、世界でいちばんかわいらしくてお強くて、すてきな御方だから!」
笑い合うわたしたちの肩越しに、龍神さまとその番さまの恋がはじまろうとしている。
(終)




