二 番さまを知りたい。
「淡雪さま、お目覚めでいらっしゃいますか?」
翌朝のことだ。
また屏風の後ろに隠れておられるのでは、と心配しながら、わたしが声をかけると、りん、と澄んだ鈴の音が部屋の内側から響いた。
昨日、声が出せない淡雪さまのために、わたしが用意した鈴の腕輪だ。鈴を一度鳴らしたときは「はい」、二度鳴らしたときは「いいえ」。これで簡単な意思疎通が図れる。
今鳴った鈴は一度なので、どうぞ入って、という意味だろう。
「失礼します。おはようございます、淡雪さま!」
ひとまず、声だけは元気に朝の挨拶をする。
淡雪さまはすでに着替えを終えて、丸窓のそばに座っていた。普通なら、侍女が手伝うものだが、起床したあとご自身でされたのだろう。
ただし、昨日纏っていた襤褸布ではなく、白練の小袖に桔梗の花を散りばめた深紫の打掛を羽織っていた。昨晩、わたしがせっせと薬草を揉み込んだ髪は、淡いひかりを帯びて表着にかかっている。
朝のやわらかなひかりに包まれた番さまを見つめ、ほう、とわたしは息をつく。
気づいた淡雪さまが長い睫毛をふるわせた。
「お召しもの、とってもお似合いですね!」
心からの賛辞を送ると、淡雪さまは一瞬、わたしの言葉がよくわからなかったようすで瞬きをする。そして、おもむろにひらいた扇で顔を隠されてしまった。黒髪のあいまからのぞいた耳が赤い。
侍女の賛辞くらいでこのようすでは、もし蒼月さまに言われたらどうなってしまうのだろうか。
淡雪さまの視線が、窓辺に置かれた竹筒に向けられたので、「それ、蒼月さまからです」とわたしは伝えた。昨晩、殿舎に戻ると、淡雪さまはすでにお休みだったので、そっと窓辺に置いておいたのだ。一晩明けても、桔梗はみずみずしく咲き誇っている。
「いかがですか?」
花一輪だが、今の番さまには豪奢な絹織物や装飾品を送るよりも、ふさわしいように思えた。
蒼月さまと番さまの恋を応援すると誓った手前、わたしはさりげなく反応をうかがってみる。
淡雪さまの傷だらけの細い指先が、竹筒を撫でる。それから紫の花びらに指を伸ばそうとして、途中でためらうように手を下ろしてしまった。
憂いを帯びた目を伏せ、唇を引き結んでしまう。昨晩の湯殿のときとおなじだ。
「あの、おいやでしたか?」
もしかして花がおきらいとか。
というか、蒼月さまが無理とか……。
世のたいていの乙女は蒼月さまに憧れると思うし、わたしも主人としては尊敬しているが、ひとの好みはそれぞれである。番同士は惹かれあうものだというけれど、淡雪さまが目をそむけたくなるくらい嫌だったなら―――……ごめんなさい蒼月さま、応援の件はなしで。
わたしの心中を察してか、淡雪さまが腕の鈴を鳴らした。
りりん、りりん。二度鳴らしたなら、つまり「いいえ」だ。
花を贈られたこと自体がいやなわけではないんだ。
「それなら、どうして――」
わたしは答えを探すように桔梗色の眸を見つめる。
けぶるような長い睫毛がうつくしい眸にかかっている。もっと奥をのぞきたくて、わたしは淡雪さまの両手を掬い上げた。びくっと淡雪さまが肩を跳ね上げる。でも、振り払いはしない。振り払うということができない方なのかもしれないけれど……。
「淡雪さま……ええと、字は書けますか? 文字です」
わたしの言いたいことが伝わったようで、淡雪さまがうなずく。
差し出したわたしの手のひらに、そっと傷だらけの指先がのった。
「『こ』……」
次はなんだろう。『わ』か。
ためらいながら、わたしの手のうえに書かれたのは、たった三文字だ。
それも三つ目を書くところで止まってしまった。身を縮めて、淡雪さまが手を握り込む。
わたしは書きかけのまま消えてしまった文字を見つめた。
そして、自分がこれまで世話をしてきた傷ついた鯉たちを思い返し、最後に傷ついていた幼い自分を思い返した。
答えはわかった。わたしは勘がよい。
「『こわい』……ですね? 淡雪さま、こわかったのですね?」
伏せがちだった桔梗色の眸が、はっとひらく。
わたしの声とすがたが、はじめて淡雪さまの視界に飛び込んだ、とわかる。
一方のわたしは、ぎゅっと胸をわしづかまれていた。
……そうだ。こわい、こわいに決まっている。
長いあいだ、座敷牢に閉じ込められて。
急に現れた男にさらわれて。
知らない人間たちに囲まれて、番さまだなんて言われて。
こわかったんだ。心細かったんだ。
どうしてすぐに気づいてあげられなかったんだろう!
「淡雪さま」
わたしは傷だらけの白い両手をつかみ寄せた。
「わたし……わたしは! 淡雪さまの味方です!」
ああ、もどかしい。
ちいさなわたしを朔が救ってくれたときみたいに、大きな手でもう大丈夫だよって淡雪さまも抱き上げられたらよいのに!
「どうか信じて!!」
せめて声を張って訴えると、ふいに手を握り返された。
視界が濡れている。なぜかわたしは泣いていたのだった。
わたしの頬に、淡雪さまの手が触れた。ぽろぽろとこぼれる涙をすくいとってくれた。
淡雪さまも、やっぱり泣いていた。
*…*…*
それから毎朝、一輪の花が淡雪さまのもとに届くようになった。
選んでいるのは蒼月さまらしい。わたしが淡雪さまは花がお好きなようですよ、と報告すると、以来、花ばかりが届くようになった。しかも、一輪ずつ。朔いわく、毎晩庭をうろうろしながら探しているのだという。窓際に置かれた花瓶は、あっというまに花でいっぱいになった。
「今朝も届いてますねー」
ひとつ変わったことがある。
以前は朔を介し、さらにわたしを介して、淡雪さまのもとに届いていた花が、蒼月さま自ら、淡雪さまのもとに届けられるようになった。といっても、決まって淡雪さまがお休みになっておられる夜遅い時間だったが。
いや花くらい直接渡してくださいよ、とつっこみたいのを、わたしはがんばってこらえた。推定二百歳の初恋を舐めてはいけない。
それに……一歩進んでは半歩下がる程度の歩みは、今の淡雪さまにはちょうどよいようにも思えた。
薄紅の禊萩を花瓶に生ける淡雪さまの横顔を眺め、わたしは息をつく。
あまり感情を見せない淡雪さまだが、眦がほんのり赤い。
淡雪さまがうれしそうだとわたしもうれしいが、わたしにお世話を丸投げした蒼月さまのおかげで喜ばれているなら、少々もやっとするような……いやいや、あるじのしあわせを願うのが侍女のつとめ!
「……蒼月さまに、お礼のお手紙を書かれてみてはいかがですか?」
短い葛藤のすえ、わたしは提案した。
瞬きのあと、淡雪さまの表情がみるみる明るくなる。
鈴を一度鳴らされなくてもわかる。繰り返すが、あるじがうれしいときはわたしもうれしい。
「筆と墨を用意しますね。紙もたくさん持ってきます。きっと選ぶの楽しいですよ!」
淡雪さまはわずかに頬を赤らめながら、ちいさくうなずいた。
天頂にあった太陽がやがて沈んでしまうまで悩んでから、淡雪さまが選んだのは、淡い蒼に銀箔が雨のように射す和紙だった。わたしはつい嫉妬心を募らせ、「あのっ、もしわたしにお手紙を書くならどれですか?」とせっついた。出過ぎた真似だが、抑えきれない。
淡雪さまは、あかるいひまわり色の紙を選んだ。
わあ、と声を上げ、わたしはお日さまみたいなひまわりの紙を受け取った。紙からはふしぎと豊かな陽のにおいがした。
夕時雨の降る音だけが響く静かな室内で、墨を磨り、筆をとる。
――蒼月さま
淡雪さまの綴る文字は、暗闇に瞬く蛍の軌跡のようだった。
――お花を毎日ありがとうございます。
この花はなんというのですか。
禊萩です!と答えたいのをわたしはこらえた。
番さまが紡ぎ出した、大切な言葉だ。
翌日、雫を宿した撫子に、蒼月さまの文が添えられていた。
上質な和紙には一言、
――禊萩
と流麗なる筆致で書かれている。
以上終了であった。
「手紙でも口下手か!」
わたしはがまんしきれず突っ込んだ。
せめて、どういたしまして、とか、体調はどうか、などと添えてほしい。いっそわたしが書き足してやろうか。
もやもやしていると、番さまの長い沈黙に気づいた。
さすがの淡雪さまも、気分を害したのだろうか。
おそるおそる淡雪さまの横顔をうかがい、わたしは息をのむ。
花がふわりと咲くような笑みがほころんでいた。
この方をはじめて笑わせたのは蒼月さまだけど、それをはじめて見たのはわたしなので、わたしのちいさな嫉妬心はおおいに満たされた。
その後も、おふたりの文の往復は続いた。
淡雪さまは飽きずに花の名を尋ね、蒼月さまは一言、花の名を返した。
わたしはそのうち、横から文をのぞき見るのをやめた。ささやかであれど、ちいさなふたりの世界が生まれつつあることに気づいたからだ。
その日、わたしが花瓶から萎れてしまった花を取り除いていると、りん、と鈴が一度鳴った。
「はい、淡雪さま」
呼びかけに応えると、淡雪さまは眉尻を下げて、ほんのすこしかなしげにしている。わたしには番さまの心が手に取るようにわかった。
「これからは萎れるまえに押し花にしましょう。色は落ちますが、ずっと残せますよ!」
わたしの提案に、淡雪さまは大きく眸をひらく。
押し花というものを淡雪さまはご存じないようだったが、一緒に作って差し上げると、桔梗色の眸を輝かせて、紙のうえに閉じ込めた花を見つめた。
つくった押し花を胸に引き寄せ、わたしのほうを振り返る。
出会ったときは人形のようだった面に、ふわりと可憐な花が咲く。
筆をとらずとも、わたしには淡雪さまの声が聴こえた。
「えへへ、どういたしまして!」
てらいもなく、わたしは笑い返した。淡雪さまはなぜかそれをまぶしそうに見ていた。
ふたりでたくさん作った押し花のうちのひとつは、蒼月さまに贈ることにした。どの花にするか、淡雪さまは難しい顔で悩みだす。
これは夜が更けるかもしれない。一生懸命な番さまの華奢な背を見つめ、
「お好きですか、蒼月さまのこと」
ぽろりとわたしは尋ねてしまった。
あわてて口に手を当てる。まだ早かっただろうか。でも……。
淡雪さまは押し花を手にしたまま固まっていたが、やがて鈴の腕輪に目を落とした。
鈴は鳴らなかった。代わりに、微かに顎を引いてうなずく。
伏せがちの長い睫毛のしたで、ひかりが躍る。
わたしの胸に、喜びがあふれだした。
「じゃあ……!」
ちいさく首を横に振り、淡雪さまは押し花を机に置いた。
細い指で、自分の首元をなぞる。茨のようにぐるりと首をめぐる忌々しい痣だ。
以前、知り合いの薬師に診てもらったものの、何者かが強い力でかけた呪いらしいとしかわからなかった。でも、淡雪さまの声を封じたひどいやつが、この世界のどこかにはいるのだ。
呪いを解くことはできないのですか、と尋ねたわたしに、呪いをかけた本人でなければ、と薬師は目を伏せた。淡雪さまは、出会ったばかりの頃と同じ、どこか人形めいた無表情で、薬師の言葉を聞いていた。諦めきっているようにも見えた。
「淡雪さま」
わたしは淡雪さまに向き直り、そっと両手をつかんだ。
番さまがしゃべりたくないなら、それでもいい。
でも、もし声を取り戻したいと思われているなら。
わたしはその願いを叶えて差し上げたい。
「その首の痣って……」
わたしの言葉のゆくえを、敏感に感じ取ったのだろう。
淡雪さまの顔からみるみる表情が消える。ちいさく首を横に振ると、淡雪さまは俯いてしまった。透明な氷の壁をつくられたようで、わたしはそれ以上、踏み込むことができない。




