一 番さまがやってきた。
「彼女がわたしの番だ」
ある日、わたしの仕える蒼月さまが、ひとりの少女を連れて屋敷に帰ってきた。
そのとき、わたしは庭で鯉に餌をやっていた。
蒼月さまがかわいがっている鯉のお世話も、使用人たちの大事な仕事のひとつだ。餌やりが終わったら、雨漏りをしている貯蔵庫の応急処置と、あとは破れたお召し物の繕いと……などと考えていたわたしは、「ああ、はい、そうですか」とあるじさまの美声を聞き流したあと、再び顔を上げ、「今なんて?」と首を傾げた。
蒼月さまが腕に抱えた少女は、ぐったりと目を閉じている。年はわたしと同じ、十七歳前後だろうか。襤褸布のような着物から伸びた手足は細く、首にはぐるりと茨に似た痣があった。長い睫毛が閉じた目元に淡い影をつくっている。
「だから、彼女がわたしの番だ」
「はあ」
わたしは蒼月さまと腕のなかの御方を見比べた。
龍神の末裔である蒼月さまは、まばゆい白銀の髪に空に似た蒼の眸を持つたいへんうつくしい御方である。そして、この銀雨の土地を統べる領主さまでもある。ただし、今はよその池からさらってきた鯉をどうすればよいかわからず、途方に暮れている子どものようにも見えた。
「そういうわけだから、世話をよろしく頼む。雨」
鯉を一匹増やしたような口調で命じられ、わたしはぽかんと口をあけた。
手に抱えていた鯉の餌がどさどさと落ちる。
「いえ、ちゃんともとの場所に返してきてくださいよ!?」
それがわたしと番さまの出会いである。
蒼月さまが連れ帰ったその方は、淡雪さまというらしい。
黒龍の治める土地で、ずっと座敷牢に閉じ込められて育ったのだとか。
なお、蒼月さまが淡雪さまを見つけたそのときに、座敷牢は木っ端みじんに破壊されたそうだ。よそのお屋敷に無断で侵入したうえ、内部を破壊し、そこにいらした方までさらって、わたしのあるじさまは訴えられないだろうか。破壊した座敷牢の請求は。
わたしが蒼白になっていると、蒼月さまのそば仕えの朔が「座敷牢に閉じ込めているほうが悪いから、問題なし」と手を振った。朔はいつもこんなかんじの適当なやつなので、信用ならない。
「淡雪さま。入りますよー」
淡雪さまづきの侍女は、すぐにわたしに決まった。
屋敷で働いている女たちの中でいちばん年も近いし、七歳から働いているため、年齢のわりには経験も長い。蒼月さまは、屋敷内で困ったことがあるとだいたいわたしに「よろしく頼む」。特に弱った鯉の世話において、わたしの右に出る者はいない。といっても、淡雪さまは人間のお嬢さんで、弱った鯉ではないのだけど。
「淡雪さまー?」
急遽、ほかの侍女のねえさまがたと整えた「番さま」のお部屋はしんと静まり返っている。
まさか逃げてしまわれた?
わたしはぐるりと室内を見回し、ほっと息をつく。
桔梗を散りばめた屏風から、色褪せた着物の裾が見えた。
「淡雪さま」
かがんで声をかけると、屏風に隠れたそのひとは華奢な肩を跳ね上げる。
桔梗色のうつくしい眸には、うっすら涙が滲んでいた。傷のたくさんついた指先がふるえている。
蒼月さまの番さまというには、あまりにかけ離れたそのおすがたに、わたしは困惑する。
蒼月さまから長く座敷牢に囚われていたらしいと聞いたが、おそらくろくな扱いを受けてこなかったにちがいない。この歳なら艶やかに輝くはずの黒髪は傷み、手足も痩せている。何よりも、首をぐるりと囲う茨に似た痣が痛ましい。
淡雪さまは声が出せないらしい、と聞いた。
「ええーっと……」
屏風に隠れてふるえている新しいあるじを見やり、わたしは頬をかく。
淡雪さまのおすがたは、人間に苛められた鯉が、池の深くに隠れて上がってこないようすを髣髴とさせた。……いけない。蒼月さまのみならず、わたしまで淡雪さまを鯉扱いしては。
「まずはお着替えしますか?」
右に寄せて編んだおさげをぴょこんと揺らし、わたしはおはしょり紐で水浅葱の小袖をたくし上げた。
湯を沸かし、数種の薬草を丸い竹籠に入れた薬玉を湯舟に浮かべる。
淡雪さまははじめ何をされるかわからないごようすでおびえていたが、わたしは問答無用で襤褸布をひっぺがし、湯舟にお突っ込みあそばせた。物事には強引に進めなくてはならないときがある。今がそうだ。
わたしは浴槽の外に回って、淡雪さまの足元まではあろう長い髪を洗いだす。
ろくに手入れをされてこなかった髪は、色艶が失せ、毛先もだいぶ傷んでいたが、そこはわたし特製のすり潰した薬草たちの出番である。病で色艶を失った鯉たちだって、しばらく与え続けていればたちまちもとの鮮やかな色に――あっ、また淡雪さまを鯉扱い。いけないいけない。
「湯加減はいかがですか?」
鯉のように静かになされるがままになっている淡雪さまに、わたしはつられて声をひそめてしまいながら尋ねた。淡雪さまはちいさく首を振った。大丈夫、という意味か。かまわないで、かもしれない。
「あっ申し遅れました、わたしは蒼月さまに仕える侍女で、雨といいます。今日から、淡雪さまづきになりました。歳は十七で、十年ほどこちらで働いています!」
淡雪さまは微かにうなずいた。
湯が跳ねたのか、長い睫毛に滴が宿っている。
月光が射してふるえるそのさまが、あまりにうつくしかった。
つい見惚れてしまい、わたしはえへんと空咳をした。
「番と急に言われてもわけがわからないかもしれませんが……ええと、蒼月さまはそのあたりの説明をしました?」
淡雪さまは考え込むように睫毛を伏せてから、首を横に振った。
あの朴念仁め、とわたしは内心臍を噛む。
蒼月さまは、この銀雨の郷を治める、たいへん慈悲深い仁君でいらっしゃり、いにしえの龍神の血を引くがゆえの神々しいばかりの美貌を持っているのだが、いかんせん、口下手である。そのぶん、そば仕えの朔は十倍くらい滑らかに口がよく回る。
きっと何も説明せず、さらうように淡雪さまを連れ帰ってきたにちがいない。
もちろん十年前、忌まわしき黒龍の郷で、奴隷として働かせられていたわたしを受け入れてくれたのは、この銀雨の郷と蒼月さまなので、おおいに感謝はしているけれど、それとこれとは話が別だ。
「この国では、龍神の末裔である五龍家がそれぞれの土地を治めているのは、ご存じでしょうか?」
わたしが尋ねると、淡雪さまはうなずいた。
一応、子どもたちが学校で習うくらいの知識はあるようだ。
「蒼月さまもまた龍神の血を引いておられます。龍の血を引く一族は、なかなか子が生まれない代わりに長命で、数百年から千年を生きるのだとか。蒼月さまももう二百年ほど生きていらっしゃると聞きます。龍族の番については、どれくらいご存じですか?」
淡雪さまが睫毛を揺らすと、その先に宿った滴が落ちた。
ほとんど知らないようだと察する。わたしは薬草を塗り込んだ髪を湯で流しはじめた。
「龍族は生涯ただひとり、《番》となる御方を娶るといわれます。番は出会った瞬間にはわかるものだそうで……蒼月さまが番と仰るなら、淡雪さまはそうなんだと思います。まさか、わたしたちが仕えているあいだに、番さまを迎えられるとは思いませんでしたが……」
何しろ数百年から千年にわたる時を生きるのが龍の一族なのだ。
自分が生きているあいだに、蒼月さまの番さまにお仕えできるとは思ってもみなかった。
そう考えると、これはたいへんめでたく、喜ばしいことなのかもしれない。
わたしの胸にも、ふつふつと喜びのようなものが押し寄せてきた。
龍の一族は、生涯ただひとりの番さまを深く愛するといわれ、夫婦は総じてたいへん仲が良い。
「蒼月さまの番さまにお目にかかれて、わたしもうれしいです」
口元をほころばせたわたしをよそに、淡雪さまは深く俯いてしまった。
あっ、と手を止め、「もしかしてのぼせてしまいましたか!?」とわたしは淡雪さまのお顔をのぞきこむ。うつくしい桔梗の眸には、今にもこぼれそうなほどの涙が滲んでいた。
はっとして、わたしは口をつぐむ。
わたしに見られたことを恥じたのか、淡雪さまはさっと涙を拭い、また深く俯いた。
それきり、花色の唇をきゅっと引き結んでしまわれた。
「で、どうよ、雨ちゃん。番さまは?」
淡雪さまがお休みになったあと、わたしが鯉たちに餌をやっていると、傘を差し出し、朔が現れた。少年の頃から蒼月さまのそば仕えをしているこやつは、しばしばわたしをからかいにやってくる。暇人なのだ。
いつもならすげなく追い返すが、今日はちょっぴり弱音を吐きたい気分だった。
「どうでしょう……。わたし、ほんとに適任ですかね? 番さまづきの侍女」
雨具代わりに頭にかけていた被布を取り、わたしは素直に朔の傘に入った。
この銀雨の郷は、龍神さまの加護で、季節問わず雨が降り続いている。
夜咲きの白い睡蓮が浮かぶ池にも、まるい波紋が幾重にも描かれていた。夜闇に沈んだ池のなかを鯉たちが泳ぐ。
「一日で音を上げるのは早くない?」
「でもわたし、鯉のことならよくわかるけど、ひとの機微には疎いし……」
「あー確かに……」
「そこは否定してくれません!?」
口したのはわたしだが、うなずかれるとそれもそれで腹立たしい。
わたしがむっと頬をふくらませると、朔はくすくすと夜気に溶け入るようにわらった。
十七になっても全体的にちんまりしたわたしと、長身の朔とは結構な身長差がある。歳は朔が五つ上だ。
傘をわたしのほうに傾けた朔は、青墨色の単衣を着て、まっすぐな黒髪を青藍の組紐で結んでいる。七歳のとき、はじめてもらったお給金で絹糸を買い、わたしが編んで朔にあげたものだ。朔はいやみな男なので、七歳児の不出来な組紐をいまだに髪に結んでいる。
「それいい加減、捨ててもらっていいですよ」
一応気を遣ってわたしが言うと、「えー、ちっちゃい雨ちゃんが『お婿さんになって!』ってくれた記念のやつなのに」と朔がわざとらしく眉を下げた。
「もうその話やめてください」
「あの頃、雨ちゃんは俺がいないと夜も眠れなくて――」
「やめて」
据わった目で睨むと、「……はい、やめます、ごめんなさい」と朔は素直に謝った。
近年のわたしと朔の関係は、だいたいこんなかんじである。
「というか、何しにきたんですか?」
「雨ちゃんに傘を差し出しにきたんだよ」
「冗談はいいから」
朔はもの言いたげな間をあけたが、「はい、これ」と竹筒に挿した花を差し出した。
わたしはぱちくりと雨に濡れた桔梗の花を見つめる。
「えーと……?」
「俺じゃないからね。蒼月さまが番さまにって」
朔はなぜか早口になって言った。
この銀雨の土地を治める蒼月さまの、番さまへのはじめての贈り物が花一輪とは。
「子どもか?」
思わずわたしが突っ込むと、「一刻くらい庭をうろうろしたすえに見つけた、この庭でいちばんきれいな桔梗なんだよ」と朔が取りなすように説明した。
「いや、花くらい自分で渡してくださいよ」
「番さまにえらくこわがられているから、雨、あとはよろしく頼むって」
「蒼月さまは困るとだいたいそれですね!?」
「信頼してるんだよー」
これみよがしに嘆息し、わたしは竹筒を受け取る。
朔の言うとおり、確かにこの庭でいちばんうつくしい桔梗に見えた。淡雪さまの目にはどんなふうに映るのだろうか。
「蒼月さまはどうされているんです?」
雨に濡れないように竹筒を胸に引き寄せながら尋ねる。
「あるじはなんというか……御乱心してた」
「御乱心……」
「番さまが好きすぎてどうしたらいいかわからないというか? 顔は渋面なんだけどさ」
蒼月さまの氷のようだとたとえられる面差しが揺らぐことはめったにない。おそらく渋面のまま、庭をうろうろと徘徊していたのだろう。番さまに喜んでもらいたくて。
「恋ですねえ……」
「恋だねえ……」
わたしたちはしみじみとつぶやいた。
「まあ、雨ちゃんになら、番さまも心をひらくよ」
「蒼月さまご自身でひらかせてくださいよ。番なんでしょ!」
「あるじは二百年生きてきてはじめての恋で、今いっぱいいっぱいなので……渋面のまま……」
「甘酸っぱいなあ!」
しかたない、とわたしは息をつく。
かつて黒龍の郷で、奴隷として酷使されていたわたしをすくいあげたのは朔で、受け入れてくれたのは蒼月さまだ。十年お仕えしても、まだ返しきれないほどの恩がある。あと個人的にわたしはこの銀雨の郷も、この郷を守る蒼月さまも大好きだ。
「わたしにできる範囲でご協力します。それに番さまは――」
わたしは、淡雪さまの長い睫毛に宿った滴を思い出した。
おびえつつも、わたしのかける言葉に、真摯に首を振ったりうなずいたりしていたひと……。
「心映えのうつくしい御方です」
「……どうしてそう思うの?」
朔は意外そうに尋ねた。
お風呂の世話をしただけで断言したわたしをふしぎに思ったのだろう。
「だって蒼月さまが選んだ方ですし……それに、眸の奥に星がありました。わたし、きれいな眸の方は信じるって決めているんです。奴隷時代は、勘が命綱でしたからね」
「そっかあ……」
なぜか朔は感極まったようすで口元を押さえた。
「俺の眸はきれいだったのかあ……」
「そんな話はしていない」
わたしがぎっと睨むと、「……はい、もとの話に戻ります」と朔は素直に謝った。




