第65話 ベヒモス
【シーン①:南の谷】
谷は静かだった。
風が抜ける音だけが、岩肌を撫でている。
その奥に、それはいた。
岩場に身を伏せ、四足を折りたたんでいる。
動いていない。
だが、存在だけで周囲の空気を押している。
大きい。
一軒の家ほどの塊が、呼吸していた。
レオンは足を止め、全体を測る。
皮膚は厚い。関節は埋もれている。
重心は低い。
単純な打撃では通らない。
「どうやって倒すんだ?」
横からガウィンの声が飛ぶ。
勢いだけで来た顔だった。
両手斧を担いでいる。
剣が折れると予言したゼムストのところから借りてきた。
「通るところを狙う」
レオンが短く返す。
四人は頭を寄せた。
条件付き魔法の設置位置と、ガウィンの誘導ルートを確認する。
構造は単純だ。
ベヒモスを引きつけ、軌道上に罠を敷く。
あとは起動するだけだった。
設置を終えると、レオンは手を上げた。
合図だった。
ガウィンが飛び出す。
「おらぁ!」
無造作な一撃の音が、谷に響く。
ベヒモスの目が開く。
鈍い光が揺れる。
次の瞬間、巨体が動いた。
地面が沈む。
遅いはずの動きが、速い。
一直線。
ガウィンへ向かう。
轟音。
空気が震える。
それだけで足が止まるほどの質量が、迫る。
ガウィンは笑っていた。
そのまま走る。
誘導は成立している。
レオンはトリガーを確認する。
条件を満たす。
発現。
地面が裂ける。
岩が突き上がる。
槍衾が、突進の軌道上に並ぶ。
そのまま、突き刺さる――はずだった。
鈍い音。
衝撃。
止まらない。
岩が軋み、砕ける。
押し切る。
ベヒモスの進行は止まらない。
ガウィンが舌打ちし、速度を上げる。
壁が迫る。
直前で跳ぶ。
身体が宙に浮いた瞬間、衝撃が叩きつける。
空気が弾け、ガウィンの身体が吹き飛ぶ。
地面を転がる。
ベヒモスが向きを変える。
速い。
ガウィンが立ち上がり、踏み込む。
斧が振られる。
狙いは関節。
鈍い音。
弾かれる。
「通らねぇ」
間を置かず、火が走る。
「フラムランス」
目を狙う。
だが届かない。
逸れ、表皮で散る。
ベヒモスが向きを変える。
次は――レオン。
距離が詰まる。
影が入った。
ヘレナだった。
レオンとヴェリスを掴み、横へ跳ぶ。
地面を転がった直後、巨体が通過する。
風圧が遅れて叩きつける。
立ち上がる前に、再び動く。
ベヒモスがターンする。
その瞬間、ベヒモスの横腹が裂けた。
遅れて血が噴き出す。
ガウィンがいた。
斧ではなく、剣を振り抜いた姿勢で止まっている。
とはいえ――折れている。
刃は半ばから消えていた。
「やっぱ折れたか」
柄だけを放る。軽い音で転がる。
「斧は合わない、剣は折れる」
足元には投げ捨てた斧。
「やっぱ、折れない剣を作ってもらわないとな」
ガウィンは手ぶらのまま、笑った。
ベヒモスが咆哮する。
ガウィンは動かない。ただ、見ている。
その手に武器はない。
「口、開けさせろ」
短い指示。
レオンが頷き、ヴェリスの手を取る。
即座に詠唱を組む。
「ミラージュ」
ベヒモスの前に、同サイズのベヒモスの幻影を出現させる。
唐突な出現。
質量はない。だが、認識は奪う。
本物が止まる。揺れる。威嚇。
口が開く。
その瞬間。
ガウィンが踏み込む。
迷いなく。
一直線。
そのまま――消えた。口の中へ。
静止。
内部から音がする。鈍く、重い。
衝撃が内側で走る。
ベヒモスの動きが止まる。
崩れる。
巨体が傾き、地面を揺らす。
痙攣が数度。
それで終わりだった。
沈黙が戻る。
しばらくして、顎がわずかに動く。
内側から押し上げられ、裂ける。
血に濡れた手が現れ、続いて身体が出てくる。
ガウィンだった。
全身が赤い。
だが立っている。
息を吐く。
手には何かを握っていた。
光の剣と魔石。
光はほどなく消える。
魔石は黒く、重い光を放っている。
「採ったぞ」
軽い声だった。
ベヒモスは動かない。
完全に沈黙している。
レオンはそれを見上げる。
結果からなら、理解できる。
手順も追える。
だが。
――再現は、できない。
ガウィンは何事もなかったかのようにレオンの元へ歩いてくる。
いつも通りの笑顔だった。
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