第49話 マギアギア起動
【シーン①:最奥の間】
再起動手順に従い、レオンは詠唱を開始した。
石板に浮かび上がった古い文字列を一つずつ追い、順序を外さぬよう慎重に組み上げていく。
詠唱の長さが一瞬だけ意識に引っかかる。
魔力枯渇の不安が頭をよぎる。
しかし、実際に流れている魔力は極めて安定していた。
吸い上げられている感覚はあるものの、負荷が積み重なる気配はない。
起動処理に限定されているためか、必要な分だけを過不足なく取り込む。
高度に最適化された魔道具。
その認識は、詠唱の途中で確信へと変わった。
声は自然と低く、安定していた。
狭い室内に朗々とした詠唱が反響し、音が幾重にも重なっていく。
単一の声が層を持つかのように広がり、わずかな時間差を伴って戻ってくる。
その響きは輪唱のように重なり、やがて空間に溶けていった。
最後の節を読み上げる。
詠唱が途切れた瞬間、室内の明かりが音もなく落ちた。
一拍の間。
完全な暗闇にはならない。
わずかな残光が視界に残る。
やがて白い光が壁面を這うように広がる。
下から上へと染み上がり、装置の輪郭を順に浮かび上がらせる。
同時に、かすかな音が鳴り始める。
耳を澄ますと、それは詠唱だった。
一つではない。
周囲に配置された複数の魔導装置が、それぞれ独立して詠唱を開始していた。
調子も、間隔も異なる。
互いに干渉することなく、一つの処理を構成している。
重なり合う詠唱が空間を満たし、最奥の間全体が一つの演算装置として機能しているかのようだった。
その中心で。
白い躯体が、ゆっくりと瞼を開いた。
レオンは動かない。
視線を逸らすこともない。
開かれた瞳と視線が重なる。
その瞬間、時間の感覚が曖昧になる。
先に動いたのは、ヴェリスだった。
唇がわずかに開く。
何かを言っている。
レオンの耳には届かない。
ヴェリスの手が、前へ伸びる。
途中で、止まった。
何かに阻まれている。
遮断機構。
視覚的にはほとんど認識できない壁が、そこにあった。
ヴェリスが視線を下げ、何かに触れる。
次の瞬間、空気が抜けるような音が鳴り、透明な壁がゆっくりと沈み込んでいった。
改めて、ヴェリスが手を伸ばした。
「tllatsegstsef srotartsinimdafehC sed doT ned ebah hcI
nerirtsiger retsieM neuen nenie edrew hcI」
透き通る声だった。
音としての美しさは際立っている。
意味は理解できない。
「きみは……」
反射的に言葉が漏れる。
同時に、レオンはゆっくりとその手を取った。
「trizifitnehtua ebah hcI」
やはり意味は取れない。
音の連なりとしてしか認識できない。
レオンは思考の裏側へと意識を向ける。
≪古代語と推定されます≫
即座に納得がいく。
この空間に残されていた物質の劣化具合を考えれば、経過した時間は明らかだった。
言語体系が変化していないと考える方が不自然だった。
視線を落とす。
判断がつかない。
目の前の存在が何者なのか。
安全か、危険か。
価値があるのか。
いずれも定まらない。
加えて、時間が経過している。
祭りの場を離れてから、既に相応の時間が経っていることに気づく。
――ここが見つかれば終わる。
状況は単純ではない。
選択肢も多くは残されていない。
レオンは結論を出した。
最適とは言えない。
それでも、現時点で成立する唯一の手段を選んだ。
【シーン②:言葉の壁】
窓をわずかに開けると、夜風が静かに室内へ流れ込んできた。
冷たさはなく、どこか湿り気を含んだ空気が頬を撫でる。
遠くからは人の気配が伝わってくる。
笑い声や足音が混ざり合い、祭りの余韻が街全体を包み込んでいた。
街はまだ、祭りの熱を残している。
その裏で、レオンは自室の床に寝転び、天井を見つめていた。
――どうやって意思疎通をするか。
さっきは身振り手振りで「待つ」と伝え、その場を離れた。
それが正確に届いているかどうかは、わからない。
思い出すと、絵にならない光景だった。
首を傾けながら微笑んでいた姿だけが、残っている。
再び会いに行くことは可能だろう。
夜陰に紛れれば侵入自体は難しくない。
それでも、言葉が通じないままでは状況は進展しない。
レオンは何度も体勢を変えながら思考を巡らせる。
魔法であれば話は別だ。
目標を設定し、手順を構築し、検証する。
今回は、その前提が成立しない。
一晩を費やし、ようやく結論に至る。
使えるものを使う。
それ以外に方法はなかった。
「教会教室で使っている絵本を?」
「ああ、貸してほしい」
「何に使うのよ」
問いに対して、レオンは視線を逸らす。
「魔法の練習に」
「どんな?」
言葉が詰まる。
説明できる内容ではない。
クララはしばらく無言でレオンの顔を観察した。
角度を変え、表情の変化を探るように視線を動かす。
その様子から疑念は明らかだった。
やがて、小さく息を吐く。
「……変なことに使わないでよ」
三冊の絵本が差し出される。
レオンは受け取り、そのまま背を向けた。
軽く手を上げるだけで返答とする。
【シーン③:再び最奥の間】
夜ごとに、同じ行動を繰り返すことになった。
時間を選び、気配を消し、同じ経路を辿る。
最奥の間へと至る手順は、すでに身体に馴染んでいる。
ヴェリスは、常に同じ場所で待っていた。
動くこともなく、姿勢を崩すこともない。
起動した状態を維持したまま、ただそこに存在している。
レオンは絵本を開く。
指で示しながら、単語を読み上げる。
発音を区切り、繰り返す。
反応は早かった。
文字の理解速度は極めて高い。
単語単位であれば、ほとんど抵抗なく吸収していく。
問題は発音だった。
音の再現が安定しない。
わずかなずれが積み重なり、意味として成立しない。
発声機構そのものが人間とは異なるのだと理解できる。
レオンは同じ単語を繰り返す。
調子を変えず、感情を乗せず、一定のリズムで。
幼児に言葉を教えるような方法だった。
数日。
ようやく一つの音が形になる。
「マスター」
明確な発音だった。
初めて意味を伴って成立した言葉。
レオンは反応しない。
ただ、その音を受け取る。
ヴェリスは微笑んでいる。
表情としてではなく、構造として固定された形。
変化することはない。
それでも、その中に製作者の意図があることは理解できる。
人に受け入れられるための設計。
無駄を排した構造の中で、そこだけが異質に際立っていた。
レオンは静かに観察を続ける。
まだ何もわかっていない。
構造も、目的も、役割も。
それでも。
この存在は応答する。
そこに価値があった。
魔法の話にたどり着くまでに、さらに数日を要した。
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