第48話 白神
【シーン①:最奥の間】
扉の向こうは、思っていたよりも狭かった。
空間としては部屋と呼べる広さはある。
だが、壁際に沿って組み上げられた装置群が圧迫感を生み、中央に残された余白は最低限に削られている。
踏み入れた瞬間に感じるのは、広さではなく密度だった。
それでいて、雰囲気は神殿に近い。
床の低い位置に埋め込まれた青白い魔導灯が、下から空間を照らし上げていた。
影は上へと伸び、装置の輪郭を歪ませる。
空気は重く、長い時間を経たような古びた気配を帯びている。
埃は一切存在しない。
掃き清められているのではない。そもそも、時間の経過から切り離されているかのようだった。
正面に、それはあった。
白い躯体。
人の形をしている。
四肢があり、頭部があり、直立している。
しかし一目で理解できる。
これは人ではない。
人に似せて作られている。それだけだ。
半身を背後の巨大な装置に埋めるように固定され、頭部からは髪の毛のような細い藍色の管がいくつも伸びている。
それらは脈のように周囲の構造体へと繋がり、全体を一つの系として成立させていた。
その手前には、石質のテーブルが置かれている。
表面には、かつて書類であったものの残骸が散らばっていた。
触れれば崩れるとわかるほどに劣化し、形を保っているのが不思議なほどだ。
かなりの時間が経過していることがわかる。
納得はできる。
それでも、この部屋の他の要素との乖離が際立つ。
紙とは対照的に、いくつかの石板が無造作に転がっていた。
装飾はない。
ただの石板にしか見えない。
厚みも均一で、本に似せた形状とも言えなくはないが、用途は直感的には掴めない。
レオンは一歩、足を進めた。
視線は自然と白い躯体へと引き寄せられる。
近づくにつれ、細部が明らかになっていく。
それは透明な筒の内部に収められていた。
保護なのか、隔離なのかは判別できない。
筒の内側には一切の曇りがなく、内部の構造を遮るものは何もない。
等身大。
関節部は単純な接合ではなく、複数の軸を持つヒンジ構造で組まれている。
人の可動域を再現するための設計だと理解できた。
表面は滑らかで、無機質でありながら奇妙な完成度を持っている。
顔。
整っている、という表現が最も近い。
目も口も、開閉を前提とした機構を備えていることが見て取れる。
感情を表すために作られているのだとすれば、それは明確な意図だ。
そして、胸部のわずかな膨らみ。
女性を模している。
そこまで観察した時点で、レオンの意識はさらに下へと引き寄せられた。
腹部。
本来であれば内臓が収まっている位置に、大きく開かれた空間が存在している。
その中心に、球体が据えられていた。
黒い。
光を反射するというより、吸い込んでいるように見える質感。
磨かれた黒曜石を思わせる表面は滑らかで、内部の構造は一切読み取れない。
人の頭ほどの大きさ。
そして、それは確かに脈動していた。
規則的に、わずかに。
生物の鼓動のように。
レオンは無意識のうちに息を整えていた。
理解はまだ追いついていない。
だが、これは結界の中心だという確信に近い感覚があった。
あの規模の結界を維持するための供給源が見当たらなかった理由。
その答えが、これだ。
視線を外し、テーブルへと向ける。
紙片に触れる。
指先が触れた瞬間、形が崩れた。
音もなく、砂のように砕ける。
保存という概念から外れた物質の末路だった。
残るのは石板。
一枚を拾い上げる。
重量はあるが、持てないほどではない。
表面は滑らかで、何も刻まれていないように見える。
裏返す。
詠唱。
びっしりと刻まれている。
整然と並んだ文字列は、明らかに意味を持っている。
しかし、その形はあまりにも古い。
現在の体系とは大きく異なり、直読は困難だった。
それでも。
レオンは躊躇しなかった。
詠唱の流れに沿って、魔力を流し込む。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、石板の表面に光が走った。
淡い光が線となって広がり、やがて文字が浮かび上がる。
先ほどまで何もなかったはずの面に、情報が展開されていく。
指が動いた。
触れる。滑らせる。反応する。表示が切り替わる。
驚きはない。
この動作を、身体が知っている。
いつ覚えたのか、思い出せない。
それでも、手が迷わない。
記述が現れては消え、別の情報へと遷移する。
そのほとんどが読めない。
構文が理解できない。
語彙も推測すらできない。
辛うじて、断片的に理解できるものがある。
「……詠唱。
文章というより詠唱に近い。
いや、言語そのものが詠唱のような」
口に出してから、引っかかりが残った。
学院で受けた講義が脳裏に浮かんだ。
エルフ。
詠唱を単なる魔法の起動手段ではなく、言語として扱う種族。
日常会話すら詠唱で構成されるという、半ば伝説めいた存在。
視線を落とし、再び石板を見る。
この記述群は、その文化圏のものだと考えれば辻褄が合う。
いくつもの項目を流し見ていく。
理解できる箇所は少ない。
だが、二つだけ、明確に読み取れた。
「マギアギア:ヴェリス」
そして、
「再起動手順」
レオンの指が止まった。
再起動。
視線が、自然と白い躯体へと向かう。
マギアギア。
何の名称かは明らかだ。
この部屋のすべてが、それを中心に構築されている。
再起動手順。
必要な情報は、すでに手の中にある。
理屈は通っている。
結界の供給源がこれであるならば、動作状態を確認する必要がある。
停止しているのであれば、起動させることで構造の全体像が見えるはずだ。
そこまで思考が進んだ時点で、判断は終わっていた。
封印されている理由も、危険性も、浮かばなかった。
目の前にあるものが、そういった問いを押し流していた。
石板を片手に持ち直す。
視線を落とし、再起動手順の該当箇所を追う。
条件。
手順。
順序。
どれも断片的にしか理解できない。
それでも、流れは掴める。
足りない部分は、感覚が補っていた。
足が動く。
白い躯体の前まで歩み寄る。
透明な筒越しに、その顔を見上げる。
閉じられた瞼。
動くことのない表情。
それでも、どこかで確信している。
これが目を開ける瞬間を、自分は見ることになる。
根拠はない。
それでも、そう確信していた。
レオンは、ゆっくりと手を伸ばした。
黒い魔石へ向かって。
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