第5話 詠唱
【シーン①:学校】
初夏の朝、石畳はまだ朝露を含んでいた。
塔や城壁に射す陽光が赤銅色に反射し、屋台からはパンや木の実の香りが漂ってくる。
五歳のレオンは小さなリュックを背負い、教会主催の学校へ向かった。
街のざわめきは眠気を帯びた空気に混じって、淡い音楽のように聞こえる。
この街――アイゼンヴァルトは辺境の城塞都市だ。
領主である辺境公は王都におり、普段は姿を見せない。
政治は代理官が取り仕切り、軍事は父が担っている。
父、カール・ライナーは辺境城塞都市守備隊の責任者であり、魔法剣士としての腕は国でも五指に入ると噂されている。
もっとも、レオンにとっては厳しい父でしかない。
市井の出である父は、立場のわりに堅苦しさがない。
兵士たちとも気さくに言葉を交わし、屋敷に出入りする者たちとの距離も近い。
その空気が、街全体にも広がっているように思えた。
教室に入ると、木造の長机が整然と並び、壁際には神学書や筆記具が置かれていた。
午前の授業が始まると、周囲の子どもたちは声を揃えて神学書を読み上げる。
守備隊員の子も、商人の子も、職人の子も、同じ席に並ぶ。
レオンもその一人だ。
嫡男ではあるが、特別扱いされることはない。
官吏は世襲ではない。将来どうなるかも決まっていない。
ただ、「いずれは」という視線があることだけは、なんとなくわかっていた。
レオンは窓際の席に座る。
目立たぬよう静かに振る舞いながら、机の下でひそかに手元を動かした。
掌に、淡い光が浮かぶ。
窓から差し込む朝の光と混ざり合い、机の上にぼんやりとした影を作る。
――色、変えられるかな。
そっと詠唱をつぶやく。
光がわずかに揺れ、橙から赤へと変わった。
もう一度。
今度は青へ。
同じ「ライト」なのに、ほんの一語変えるだけで結果が変わる。
単純なはずなのに、仕組みはまだ見えない。
次に大きさを変えてみる。
詠唱の末尾を少し変える。
光がわずかに縮んだ。
色と大きさ。
同じように変えているつもりなのに、反応が違う。
――順番か、それとも別か。
答えは出ない。
だが、問いが増えるほど、次に試したいことも増えていく。
隣の子どもたちは自分の課題に夢中で、誰も光を見てはいない。
それでいい。
授業の終わりが近づいたころ、扉の隙間からちょこんと顔が覗いた。
クララの弟、ネロだ。
まだ三歳半で、姉を迎えに来たらしい。
教室の中を珍しそうに見渡し、レオンと目が合うとぱっと顔を輝かせた。
「れおん!」
廊下から元気のいい声が飛んでくる。
数人がこちらを振り向いた。
「ネロ、静かに」
クララが小走りで駆け寄り、弟の口を両手で塞ぐ。
ネロはもごもごしながらも嬉しそうだ。
「レオン、今日は一緒に帰らない?」
「う~ん、また今度」
「また今度って、この前も言ってたじゃない」
クララは眉を寄せる。
ネロはその隣で、レオンをじっと見上げたまま動かない。
「……れおん、くる?」
「……今日は用事がある」
「なにするの?」
「魔法の練習」
「いつもじゃない」
げんなりした表情のクララと対照的に、ネロの目はキラキラした眼差しを向ける。
「れおんのまほう! みたい!」
「やだよ」
即答すると、ネロは唇を尖らせた。
クララが苦笑しながら弟の手を引く。
「しょうがないわね。またね、レオン」
二人が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、レオンは小さく笑った。
窓の外で、花びらが舞っていた。
「ヴェント」
そっとつぶやくと、花びらが一枚、空高く巻き上がっていく。
誰も気づいていない。
それでいい。
【シーン②:放課後】
授業を終えたレオンは、校庭を素通りして街へ向かった。
初夏の風は爽やかで、湿った石畳に心地よく吹き抜けていく。
市場の屋台には果物やパン、木工品が並び、行き交う人々の声が通りを包んでいた。
歩きながら、あちこちで試す。
指先で風を操り、水たまりをのぞき込んで水を澄ませ、葉っぱを一枚だけ宙に浮かせる。
大きな魔法ではない。
それでも、自分の手で世界が少し変わる感覚は、毎回新鮮だった。
城門近くまで来たとき、工事現場に差し掛かった。
職人たちが石畳に手をかざしている。
亀裂が、音もなく塞がっていく。
――なんだ、あれ。
「……なんて魔法?」
≪情報が不足しているため、特定できません≫
対象に触れているのか、距離があってもいいのか。
詠唱の構造すら見えない。
――やっぱり、わからないか。
最初に現れてから二年間、ずっと試してきた。
この声は、レオンが把握した範囲しか答えを出せない。
レオンに見えていないものは、見えていないと返してくる。
問いに対して、必要な分だけ返ってくる。
余計なことは言わない。勝手に教えることもない。
応答型。
それだけではない。
レオンが気づいていないことでも、観察できていれば、返す。
かなり詳細な応答も可能。
――解析している。
そう考えると、辻褄が合う。
表面ではなく、その奥。
構造そのものを拾い上げているような回答。
前世で自分が作っていたものと、あまりにもよく似ている。
詳細の記憶はすでにない。
しかし、基本仕様はまだ覚えている。
≪次世代型解析AI統合基盤≫
――同じ、なのか?
だが、そんなはずはない。
ここは異世界だ。
なぜ、それが使える。
答えは出ない。
だが。
――使える。
それで十分だった。
職人たちはもう次の作業に移っていた。
レオンはしばらく眺めた後、踵を返した。
わからないものばかりだ。
【シーン③:修練場】
自宅の裏には、父の部下たちが使う修練場がある。
本来は自由に出入りできる場所ではないが、誰も止めはしない。
父の性格によるものが大きい。
立場で縛ることを好まない。
だからこそ、この場所も自然と開かれている。
夕方前はいつも無人で、最近はここで練習するのが日課になっていた。
――火の魔法。
本来なら習うような年齢ではない。
訓練中の兵士が使うのを見ただけ。
だが、繰り返し観察しているうちに、AIの解析もあって、耳が詠唱を覚えた。
「フラムボルト」
掌に炎を発現させ、放つ。
炎は弧を描きながら飛んだが、的をわずかに外れて地面に散った。
微かに焦げた匂いが漂う。
もう一度。
今度は軌道を意識して狙いを絞る。
炎は的の端をかすめた。
――もう少し。
三度目。
炎が弧の頂点を過ぎたあたりで、ちょうど的の中心に吸い込まれた。
弧を描く分だけ、狙いの読み方が直線とは違う。それが少しずつわかってきた。
西の空が赤く染まり始めている。
塔の影が長く伸び、石畳の上を這う。
修練場の木の床には、過去の訓練の焦げ跡が残っていた。
熱と木の香りが混じった空気の中で、ゆっくりと息を吐いた。
「あの工事の魔法、気になるな。今度、聞いてみるか」
独り言が、静かな修練場に溶けた。
レオンは次に試す魔法を頭の中で並べながら、ゆっくりと歩き出した。
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