第2話 小さな世界の輪郭
【シーン①:わが家】
やわらかな布の感触と、かすかな揺れで意識が浮かび上がった。
「坊ちゃま、朝でございますよ」
穏やかな声が、すぐ近くで響く。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた顔があった。
――マルタ。
この屋敷で自分の世話をしてくれている乳母だ。
「……ん」
まだ少し重たい身体を起こしながら、小さく返事をする。
赤子ならともかく、三歳になったこの身体なら起き上がること自体は難しくない。
ただ、寝起きの鈍さだけはどうにもならない。
視界に入るのは、木で組まれた天井と石の壁。
少し歪みはあるが、丁寧に作られているのがわかる。
もう見慣れた風景だった。
「よく眠れましたか?」
「……うん」
言葉も問題なく出る。
最初は不思議だったが、今ではもう当たり前になっていた。
マルタは安心したように微笑むと、手際よく身支度を整え始める。
その動きは柔らかく、それでいて無駄がない。
毎朝繰り返されているものだと、身体のほうが先に知っている。
扉の向こうから別の声がした。
「レオン、起きたのね」
母だ。
柔らかな金髪が朝の光を受けて揺れている。
近づいてきて、そっと頬に触れた。
「今日もいい子にしていられる?」
「……はい」
短く答えると、母――エルザは嬉しそうに笑った。
このやり取りも、もう特別なものではない。
気づけば、こういう時間が自然に積み重なっている。
――馴染んできている。
完全に、とは言えない。
どこかでまだ、距離を測っている自分がいる。
それでも、最初に感じていた違和感は、もうほとんど残っていなかった。
だからこそ、逆に引っかかることがある。
――どうして、ここにいるのか。
思い出そうとしても、あの最後の瞬間の先が、どうしても繋がらない。
気がついたらここにいた。
それだけは、確かだ。
「……保留だな」
小さく息を吐く。
今のところ、困ってはいない。
強いて言えば、生前の記憶が薄まってきている。
この世界では用をなさない記憶が、この世界の記憶に置き換えられてゆく。
怖い、という感覚はなかった。
前世に思い入れというほどのものもなかった。
やりかけの仕事が引っかかった。
しかし。
――パソコンがなければ、なにもできないし。
この世界に合わせて、最適化する。
それ以上の要件は、まだ見えていなかった。
【シーン②:窓の向こう側】
身支度を終えた後、窓のそばに立つ。
外の光が、静かに差し込んでいた。
視線の先には、街が広がっている。
石造りの建物が並び、人が行き交う。
街の向こうに、深い緑が広がっている。
濃く連なる森は、ただそこにあるだけで、この場所が外と繋がっていることを感じさせた。
街に目を戻す。
それほど大きな街ではない。
門を行き来する人の数も、一番の大通りも、賑やかすぎず、静かすぎもしない。
深い森を背にしているわりに、どこか落ち着きすぎているようにも見えた。
「坊ちゃま、風が冷たいですよ」
マルタの声に呼ばれ、窓から離れる。
言われてみれば、確かに少し冷えていた。
屋敷の中とは、空気が違う。
そういう当たり前の違いも、少しずつ身体に馴染んできている。
【シーン③:生活の中の違い】
食堂へ向かう途中、ふと足を止めた。
少し先で、メイドのひとりが作業をしている。
手元には、水の入った器。
その上に手をかざし、短く言葉を口にする。
次の瞬間。
水の濁りが、すっと消えた。
視線が止まる。
初めて見るわけではない。
それでも、やはり気になる。
メイドは何事もなかったかのように、同じ動作をもう一度繰り返す。
結果も同じだ。
隣では、別のメイドが火を扱っている。
指先に小さな灯りがともり、そのまま調理の火へと移っていく。
慣れた、無駄のない動きだった。
この世界では、それが当たり前に行われている。
――魔法。
この現象がそう呼ばれていることは、確認した。
子供向けの説明を受け、そういうものだと把握はした。
実際、目の前で行われている。
けれど。
水がきれいになる理由も、火が生まれる仕組みも、理解できない。
結果だけがそこにある。
誰も疑問に思わない。
当然のように使っている。
メイドの手元、魔法の発現を目で追う。
――きれいだ。
理屈ではなく。
「坊ちゃま?」
マルタから声がかかる。
「……うん、いく」
短く返して歩き出す。
自分にも、できるのだろうか。
この世界に生まれた以上、可能性はあるはずだ。
やり方はわからない。
まだ試したこともない。
それでも。
――やってみたい。
その気持ちだけが、じわりと残った。
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