先生と私
1
窓ガラスを伝う雨粒をぼんやりと眺めながら、すっかり冷めきったコーヒーに口をつけた。十七歳。高校二年の梅雨だ。青春真っ盛りだと言われる年齢だが、今の私にあるのはひどい倦怠感だけだった。
学校ではグループ内の空気を読み、誰の機嫌も損ねないよう愛想笑いをする日々。すり減るばかりの人間関係に嫌気がさし、最近は朝、制服に袖を通すのがひどく億劫になっていた。
ふと、ひとりの女性の顔が脳裏をよぎった。
山内恭子先生。
私が中学二年生の時の担任だ。もう三年も前のことなのに、自分がすり減って行き詰まっている時ほど、あの教室の淀んだ空気と、黒板の前に立つ彼女の心細げな背中を思い出す。私が初めて、明確な保身から「誰かを見捨てた」記憶。あの痛々しい日々が、現在の私の弱さを形作っているような気がしてならないのだ。
中学二年生という時期は、子どもたちが最も残酷な生き物になる季節だ。体は大人に近づいているのに、精神は未熟で、常に得体の知れない苛立ちを抱えている。そんな猛獣たちの檻に放り込まれたのが、新卒で赴任してきたばかりの山内先生だった。
山内先生は、痛々しいほど優しかった。
「先生はね、みんなの先生である前に、一番の理解者でいたいと思っています。ルールで縛るんじゃなくて、みんなで話し合って、居心地のいいクラスを作っていきましょう」
四月の最初のホームルームで、彼女は花が咲くような笑顔でそう言った。赴任してきたばかりのその頃、私は彼女ととても仲が良かった。放課後、日直の仕事で残った時には「八代さんのおすすめの漫画、先生にも貸してよ」と笑いかけてくれ、図書室で鉢合わせると他愛のない話で盛り上がった。少し抜けているけれど一生懸命な先生が好きだった。
もしここが理想の学校であれば、彼女は素晴らしい恩師として慕われただろう。しかし、中学生は、大人の「優しさ」と「怒れない弱さ」を嗅ぎ分ける天才だ。山内先生の態度は、生徒たちに「この人は自分たちを制圧する力がない」というメッセージとして伝わってしまった。
崩壊は、六月に入る頃に始まった。
最初は授業中の私語だった。注意されても軽く返せば、先生は「もう、気をつけてね」と苦笑いするだけ。それが分かると私語は教室全体に広がり、やがて立ち歩く者が出始めた。一部の男子生徒は、わざと的外れな質問をして授業を止め、黒板の字をからかった。
真面目な生徒たちも、先生を助けなかった。ここで味方をすれば、次は自分が標的にされる。その恐怖が教室を支配していた。
私、八代彩乃も例外ではなかった。目立たず無難にやり過ごしたいだけの女子生徒だった私は、騒がしい教室への苛立ちと焦りを、騒ぐ生徒ではなく山内先生へ向けた。
「どうして毅然と注意してくれないの。どうして平穏な教室を保ってくれないの」
その理不尽な苛立ちは、やがて冷たい態度へと姿を変えた。自分が標的にならないための手っ取り早い防衛策。それは「多数派に迎合し、先生を見下す側に入る」ことだった。
ある日の授業中、教室が異常なほど騒がしかった時のことだ。山内先生は、すがるような目で最前列から三列目に座っていた私を見た。
「八代さん……ここ、読んでくれるかな」
助け舟を求めるような声だった。四月からの親しさもあり、いつも大人しい私がここで立ち上がって朗読を始めれば空気が変わるかもしれない。そう期待したのかもしれない。
しかし、私は動かなかった。
周囲の空気を読んだのだ。ここで「いい子」になれば、後ろで騒いでいるグループから嘲笑われる。孤立したくない。
私は、ゆっくりとため息をついた。周囲に聞こえよがしの、これ見よがしな大きなため息だった。
「……どこですか。聞こえなかったんですけど」
わざと刺々しい声でそう言った。
教室が一瞬静まり返った。後ろの席の女子たちが、クスッと笑う気配がした。「あーあ、八代もキレてんじゃん」という囁きが聞こえた。私が明確に先生を突き放した瞬間だった。
山内先生の顔から、さっと血の気が引いた。笑顔が引きつり、唇が微かに震えていた。「ご、ごめんね……教科書の、四十二ページ……」
私は感情を一切込めずに読み上げた。先生の背中を冷たい目で見つめながら。
それからというもの、私はひたすら気配を消し、先生と目を合わせないようにした。先生がクラス全体に質問を投げかけても、周りの空気に合わせてわざと視線を逸らし、誰も答えない沈黙に加担し続けた。一部の生徒が先生をからかって笑い声を上げた時には、自分も周囲に合わせて薄く愛想笑いを浮かべたりもした。自分が標的にならないための、波風を立てないための消極的な同調。それが、怯えた私の情けない加害だった。
限界は、梅雨の蒸し暑い日に訪れた。
黒板にチョークで字を書いていた山内先生の手が突然止まった。ポキッ、と乾いた音を立ててチョークが折れ、床に転がった。
先生はそのまま黒板に手をつき、うつむいた。肩が小刻みに震えているのが見えた。嗚咽こそ漏れていなかったが、彼女が打ちひしがれていることは誰の目にも明らかだった。
誰も声をかけない。私もまた、息を潜めてその背中を見つめていた。助けようという気など起きなかった。
翌日から、山内先生は学校に来なくなった。
代わりにやってきたのは、厳しいことで有名なベテランの男性教師だった。彼は初日、机の上に座っていた男子生徒を怒鳴りつけ、胸ぐらをつかんで廊下に引きずり出した。あっけないほど簡単に、教室には静寂が戻った。誰もが息を潜め、慌ててノートを取った。
その静寂の中で、私は初めて急に恐ろしくなった。
あの親身になってくれていた不器用な人を、私たちは壊してしまったのだと。私は手を下さずとも、冷たい視線とため息だけで、確実に彼女を追い詰めたのだ。
三年後の現在、息苦しさを増していく高校生活の中で、私は再びあの日の教室の匂いを思い出していた。冷めたコーヒーを飲み干し、長く、重い息を吐き出した。
2
中学を卒業し高校へ進学した私は、過去を心の奥底に封じ込めようとした。目立たないけれど友達には困らない女子高生として振る舞った。
しかし、高校一年の秋、クラスで静かな仲間外れが起きた時、やはり私は動けなかった。標的になった女子生徒が孤立していく様を、ただ黙って見ていた。私にできたのは、自分が標的にならないよう立ち回りながら、ただ目を逸らして関わらないようにすること、それだけだった。
放課後、誰もいなくなった教室で彼女が一人泣いているのを見てしまった時、あの日、山内先生が黒板の前でうつむき、震えていた背中がフラッシュバックした。
あぁ、私は何も変わっていない。自分が孤立することを何よりも恐れる、卑怯な人間のままだ。胃の奥が鉛のように重くなり、私は逃げるようにその場を立ち去った。
十七歳になり、少しずつ大人の世界が近づいてくると、ふと気づくことがあった。中学生だった私にとって二十代半ばの教師は「完璧な大人」だったが、それが錯覚だったことだ。
あの時教壇に立っていた山内先生は、いま思い返せば二十代前半。今の私とほんの数歳しか離れていなかったはずだ。経験も浅く、ただ「教師」という鎧を着せられただけの若い女性にとって、徒党を組んだ中学生に向かって毅然と立ち向かうことは、ひどく恐ろしいことだったのではないか。今の私には、当時の彼女が感じていたかもしれない逃げ出したくなるようなプレッシャーが、少しだけ想像できる気がした。
空気を読み、他人の顔色ばかり窺って、ふとした瞬間に教室での自分の居場所がわからなくなる今の私は、ある夜、ベッドでスマートフォンをいじりながら「学校 行きたくない」「別の居場所」といった言葉を検索窓に打ち込んでいた。
息苦しい教室から逃げ出したくて、無意識に別の選択肢を探していたのだと思う。その流れで、地元から電車で一時間ほど離れた街にある、民間のフリースクールのウェブサイトを開いた。
『不登校や学校に馴染めない子どもたちのための居場所』
どんな場所なのだろうと、なんとなくスタッフ紹介のページをスクロールした時だ。画面に映った一枚の写真に、心臓が大きく跳ねた。
少しふっくらとしてエプロン姿だが、あの線の細い、優しげな雰囲気は三年前のままの――山内先生だった。
会いたい。
直感的にそう思った。「謝りたい」というのは建前で、本当は過去の行いを懺悔して、少しでも自分の心の重荷を降ろしたいという身勝手な欲求だったのだと思う。
私はすぐに問い合わせフォームからメールを打った。「昔の教え子であること」「どうしてもご挨拶がしたいこと」を打ち込んだ。無視されるかもしれないという恐怖はあったが、翌日、短い返信が届いた。
『八代さんのこと、覚えています。お会いできるのを楽しみにしています』
来週末、私は彼女に会いに行く。あの日、冷たく突き放してしまったことの許しを乞うために。
3
フリースクールは、古い公民館を改装した建物だった。
入り口の引き戸を開けると、麦茶と色鉛筆の匂いがした。奥からは子どもたちの笑い声が聞こえる。息の詰まるような中学校の教室とは対極の空間だった。
「ああ、八代さん。遠いところ、よく来てくれましたね」
奥から現れた山内先生を見て、私は息を呑んだ。三年ぶりの彼女は、少しも変わっていなかった。無理に大人びたわけでもなく、あの頃の柔らかい空気をまとったまま、穏やかに立っていた。
通された小さな相談室で、ほうじ茶を出された。
向かいに座った先生が、私の顔をまじまじと見つめて、ふっと目を細めた。
「すっかりお姉さんになりましたね。高校生活、忙しいんでしょう? 今日はどうして……」
その声を聞いた瞬間、私が必死に積み上げてきた防波堤が決壊した。
気づけば、私は両手で顔を覆い、しゃくり上げていた。
「……ごめんなさい」
仲良くしてくれていたのに。自分が標的になるのが怖くて、わざとため息をついて見捨てたこと。自分がどれほど卑怯だったか。自分のせいで先生が心を壊し、学校を去ることになってしまったのだという罪の意識。
私は自分の醜さをすべて吐き出した。先生が呆れて冷たい目を向けてきても構わなかった。
ひとしきり泣いて顔を上げると、山内先生は怒るわけでもなく、ただ静かに私を見つめていた。
「八代さん。あなた、この三年間、ずっとそんなことを抱えて生きてきたの?」
先生は少し困ったように微笑み、テーブルの上の私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「あなたがそんなに自分を責めているなんて思いもしなかったわ。……実はね、私が学校を辞めたのは、クラスのせいだけじゃないの」
私は、泣き止んで先生を見た。
「え……?」
「当時のクラスが大変だったのは事実よ。でもね、一番の理由は、母が倒れたことだったの」
先生はほうじ茶のコップを包み込みながら、遠くを見る目をした。
「くも膜下出血だったの。一命は取り留めたけれど後遺症が残ってね。急に介護が必要になって、私の生活そのものがひっくり返ってしまったの。夜も眠れず、学校に行っても子どもたちに向き合う余裕なんて残っていなかった」
私は言葉を失った。彼女は家に帰れば、突然倒れた母親の介護という現実と一人で戦っていたのだ。
「だからね、あの最後の日。私が泣いてしまったのは、『私はもう限界だ。この子たちの前に立つ体力もない』って、自分の無力さに絶望して糸が切れてしまっただけなのよ」
私の胸の内にあった「自分のせいだ」という思い込みは、先生の抱えていた大きな事情の、ほんの隅っこの出来事に過ぎなかったというのだ。
「あの頃の私は、『理想の教師でいなきゃ』って肩肘張ってて。申し訳ないけど……私、そもそも中学の先生なんて、全然向いてなかったんだわ」
先生が過去の失敗を笑い飛ばしたのを見て、私の卑怯な振る舞いが帳消しになるわけではない。私が彼女を傷つけた事実は変わらない。それでも、彼女がただ一方的に壊されただけの「被害者」で終わっていなかったことに、私はひどく救われてしまったのだ。
重たくて冷たい霧が晴れていくのを感じながら、私は安堵の息を深く吐き出した。
4
「……恥ずかしいです。私、自分が世界の中心みたいに、勝手に苦しんでいただけだったんですね。でもそれで、私のしたことが許されることにはなりませんが」
ティッシュで目元を押さえながら自嘲気味に笑うと、山内先生は静かに首を横に振った。
「そんなことないわ。中学生の頃なんて、教室が世界のすべてみたいに思えるじゃない? そこで独りぼっちになるのが怖いのは当たり前よ。だから、そんなに自分を責めないで」
先生は、ふすま越しに隣の部屋で遊ぶ子どもたちへ視線を移した。
「中学校っていうのは軍隊みたいなところがあるのよ。規律があって、強い大人が引っ張っていく。そういう場所では、私の優しさはただの弱さだった。でもね」
先生は一人の不登校の少年に向かって小さく手を振った。
「ここには、その規律に弾き出されてしまった子たちが来るの。ここでは引っ張る強さよりも、隣で一緒に立ち止まるだけの優しさが必要とされるのよ。だから私、今はここがすごく居心地がいいの」
かつて教室を崩壊させた先生の優しさは、場所を変えた今、傷ついた子どもたちの居場所になっていた。
「実は私……今、学校に行くのが少し、しんどくて」
ぽつりとこぼした私の言葉に、先生は「えっ……そうだったのね」と少しだけ目を見張り、心配そうに私の顔を覗き込んだ後、優しく頷いた。
「無理しなくていいのよ。八代さんは、本来はとても優しい子だから、周りの空気を読みすぎて疲れちゃったのね。少し休んで、自分の足で立てる場所をゆっくり探せばいいんだから」
先生はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、自分のLINEのQRコードを表示して私に向けた。
「母の介護もね、去年ようやく落ち着いたの。私も今の生活にやっと慣れてきたところで、毎日失敗しながら学んでいる最中よ。……もしよかったら、連絡ちょうだい。学校のことでも何でも、いつでも愚痴を聞くから。あ、逆に私の愚痴も聞いてくれる? 最近、婚活が全然うまくいかなくてね」
先生が冗談めかして笑うので、私もつられてふっと吹き出してしまった。読み取ったスマートフォンの画面には、『恭子』という名前と可愛らしい猫のアイコンが表示されていた。
「わざわざ会いに来てくれてありがとう。八代さんが優しくて、そこまで思い悩める子に育ってくれたことが、私はとても嬉しいわ」
その言葉は、私の胸の最も冷え切っていた場所をじんわりと解かしていった。
フリースクールを出ると、雨はすっかり上がり、雲の切れ間から夕日が差し込んでいた。
駅へ向かうバス停までの道を歩きながら、私は深く息を吸い込んだ。雨上がりの匂いがした。私を縛り付けていた過去はもういない。自分の弱さを知り、今も手探りしながら、自分に合った場所で生き直している一人の女性の姿だけが残っていた。
月曜日の朝。
私は自分の部屋で、ハンガーに掛けられたままの制服を見つめていた。
学校の人間関係は相変わらず息苦しいだろうし、行けばまたすり減るかもしれない。すべてが急に解決するわけではない。ただの臆病で不完全な一人の高校生のままだ。
それでも、着替えを済ませて鞄を手にした。
「行ってきます」
誰もいない玄関で小さく呟き、ドアを開ける。窓の外には抜けるような青空が広がっていた。
教室という狭い箱だけが、私の生きる場所のすべてではないのだ。合わなければ逃げてもいいし、また立ち止まってもいい。そう思えただけで、不思議と少しだけ、あの教室のドアを開ける勇気が湧いていた。
三年かかって、ようやく私はあの淀んだ教室の記憶から卒業できたような気がした。朝の少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、私は一歩、外へ踏み出した。




