明日のこと
シューズが床を擦るキュッという甲高い音と、ボールが弾む重低音。放課後の体育館は、今日も熱気に満ちている。
「あああ! 今の見た!? 翔くんのフェイダウェイ! 空中で一瞬、時間が止まったよね!? 絶対止まってた!!」
私の隣で、親友のミナが体育館のギャラリーの柵から身を乗り出すようにして叫んだ。その目はコートの中央で汗を拭うバスケ部のエース、翔くんに釘付けになっている。
「はいはい、止まってた止まってた。あんた、ホント飽きないね。毎日毎日、よくそんなに熱くなれるよ」
私は呆れ顔で、自販機で買ったばかりの冷たいスポーツドリンクのペットボトルを彼女の頬に押し当てた。
「ひゃっ! 冷たっ! もう、結衣は全然わかってないんだから!」
ミナはペットボトルを受け取ると、頬をぷくっと膨らませた。そういうわかりやすいリアクションは、どこかアニメのキャラクターみたいで憎めない。
ミナはクラスのムードメーカーで、いつもニコニコしていて、そして重度の「翔くんガチ勢」だ。強豪校のエースとして活躍する彼を、まるで神様かアイドルのように崇拝している。私はそんな彼女の「推し活」に、やれやれと付き合わされているだけの、ただの一般生徒だった。
「あの筋肉のしなやかさ、無駄のない動き。翔くんがコートを走るたびに、未来が作られていく感じがするの。……すごいよね、あんな風に、明日を信じて全力で動けるなんて」
「また大げさなポエム。あんたのその情熱の半分でもテスト勉強に向けたら、赤点なんて回避できるのにね」
「うっ……それは言わない約束でしょ!」
ミナはえへへと笑って誤魔化した。その時、彼女がふふと胸元を押さえ、小さく息を吐いたような気がした。顔色も少し白い。
「ちょっと、大丈夫? 興奮しすぎで貧血?」
「ううん、なんでもない! ちょっと胸がいっぱいになっちゃっただけ。尊すぎて!」
ミナはすぐにいつもの底抜けに明るい笑顔を作った。私も「そっか、馬鹿だね」と笑って流した。
この時の私は、彼女の「明日を信じて動けるなんて」という感嘆や、「胸がいっぱい」という言葉の裏にある致命的な響きになんて、一ミリも気づいていなかった。彼女はテンプレ通りの明るいおバカキャラで、私はそれにツッコミを入れる常識人。その関係性が永遠に続くと疑っていなかったのだ。
ミナの推し活は、まさに王道のテンプレをなぞったようなものだった。
彼女のスクールバッグには、バスケットボールの小さなキーホルダーと、背番号『7』の不格好な刺繍が入った手作りのお守りがいくつも揺れている。スマホのクリアケースの裏には、いつ撮ったのかもわからない翔くんのぼやけた横顔の写真が大事そうに挟まれていた。休日の練習試合や遠征ともなれば、彼女は私を巻き込んで、電車を乗り継いでどこへでも駆けつけた。
強豪校の不動のエースである翔くんのファンは、校内に山のようにいる。同級生はもちろん、先輩にも後輩にも。体育館のギャラリーには、もっと大人っぽくて美人な子たちや、練習後に積極的にスポーツドリンクを差し入れに行くような華やかな女子たちが陣取っている。
それに比べてミナは小柄で、普通に可愛らしい顔立ちはしているけれど、どこか中学生のようなあどけなさが抜けない。声を出して応援するわけでもなく、ただギャラリーの隅から、祈るようにコートを見つめているだけだ。だから、コートの上で躍動する翔くんからすれば、ミナなんて有象無象のファンの一人に過ぎないだろう。たまに「今、絶対目が合った!」とミナははしゃぐけれど、私はいつも「はいはい、気のせい気のせい」と冷たくあしらっていた。
そんなミナだが、実はよく学校を休む。
月に数回、ふっと姿を見せなくなる日があるのだ。心配してLINEを入れると、いつも返ってくるのは軽い調子のスタンプと言い訳だった。
『ごめーん! 今日はなんか、学校に行きたい気分じゃなかったんだよねー』
『寝坊しちゃってさ、もういっかーって! 単位は足りてるから大丈夫!』
あっけらかんとした文面を見るたび、私は「またサボりか」と苦笑するしかなかった。けれど、時々、翌日登校してきた彼女の目がひどく腫れぼったいことがある。
「どうしたの、その目。泣きすぎたカエルみたいになってるよ」
私がからかうと、ミナは照れくさそうに頭を掻いた。
「お母さんと喧嘩しちゃってさ。スマホ没収されそうになったから、抗議のために大泣きしてやったの!」
幼い性格の彼女らしい理由だと思い、私はそれ以上深くは追求しなかった。高校一年の時にクラスが同じになって知り合った彼女は、いつも明るくて素直で、深い悩みなんて一つもないように見えていた。
ミナのお母さんは、とても優しそうな人だ。三者面談や保護者会のたびに廊下ですれ違うと、私を見つけてわざわざ駆け寄り、深く頭を下げてくる。
「結衣ちゃん、いつもミナと仲良くしてくれて本当にありがとう。あの子、結衣ちゃんと一緒にいるのが本当に楽しいみたいで……これからも、どうかあの子をお願いしますね」
思い詰めたような、すがるようなその声色に、私はいつも戸惑ってしまっていた。そんなに大層な感謝をされるようなことは何もしていない。私はただ、ミナの他愛のないおしゃべりに適当に相槌を打って、放課後の体育館に付き合わされているだけなのだから。
体育の授業でも、ミナはいつも見学だった。「昔から喘息持ちでさ」というのが、彼女が私に教えてくれた理由だ。先生たちも無理をさせないところを見ると、よほど重いのだろうと私は勝手に納得していた。
私がコートでバスケットボールの球を追いかけ、息を切らして走り回っている間、彼女はギャラリーの隅っこで体育座りをして、膝に置いたノートに何かを熱心に書き込んでいる。たいてい、翔くんの公式戦のスタッツ――得点やアシスト、リバウンドの記録を、まるでマネージャーのようにまとめているのだ。
「あんたさ、そんなに好きならマネージャーになればよかったのに」
着替えの更衣室で私がそう言うと、ミナは首を横に振った。
「ううん、ダメなの。私はギャラリーから見てるだけで十分。近くに行ったら、きっと邪魔になっちゃうから」
その時の彼女の笑顔は、いつものアニメキャラクターのようなおどけたものではなく、少しだけ大人びた、寂しそうな色を帯びていた。
季節が少し進み、秋の気配が風に混じるようになった頃。翔くんたちバスケ部は、県外の強豪校を招いての重要な練習試合を行っていた。
週末ということもあり、会場となった市民体育館のギャラリーは、保護者や他校の偵察、そして何より翔くん目当ての女子生徒たちで埋め尽くされていた。
「今日の翔くん、いつもよりシュートの軌道が高い! 調子いい証拠だよ!」
手すりに身を乗り出し、食い入るようにコートを見つめるミナの目は、相変わらずキラキラと輝いている。その手には、自作のスコアブックがしっかりと握られていた。
コートの中央で、翔くんはひときわ眩しい存在感を放っていた。ボールを持てば空気を変え、相手のディフェンスを軽々と抜き去ってゴールネットを揺らす。汗に濡れた前髪をかき上げるちょっとした仕草だけで、ギャラリーのあちこちから黄色い歓声が上がった。
「……まあ、確かにすごいよね」
私はポツリとこぼした。ミナの影響で毎週のように試合を見せられているうちに、バスケのルールにもすっかり詳しくなってしまった。そして、翔くんがどれほど特別な選手なのかも。
クールな表情の裏にある、勝利への執念。チームメイトを鼓舞する時の、思いがけず熱い声。ミナが「明日を信じて全力で動ける」と称賛したその姿は、ただの付き添いである私の目から見ても、純粋に眩しく、間違いなくかっこよかった。
試合は翔くんのブザービーターで劇的な勝利を収めた。
熱気が冷めやらないまま、私たちは体育館の裏口へと向かった。ミナにとって、試合後の「お見送り」は推し活の重要なルーティンだ。直接話しかけるわけでも、差し入れを渡すわけでもない。ただ、バスに乗り込む翔くんの後ろ姿を遠巻きに眺めて、「今日もお疲れ様」と心の中で呟く。それがミナの流儀だった。
裏口周辺には、華やかなグループの女子たちが陣取り、翔くんが出てくるのを今か今かと待ち構えていた。私とミナは、彼女たちの視界の邪魔にならないよう、少し離れた自動販売機の陰に立っていた。
やがて、大きなスポーツバッグを肩にかけた翔くんが姿を現した。周囲の女子たちが一斉にざわめき、黄色い声をかけながら近づこうとする。
しかし、翔くんは彼女たちには軽く会釈をしただけで、足を止めることなくまっすぐ歩き出した。そして、なぜか私たちのいる自動販売機の方向へ向かってきたのだ。
「えっ……ウソ、こっち来ない?」
ミナが息を呑み、私の袖をきつく握りしめた。私も心臓が跳ねた。いつも遠巻きに見ているだけの「神様」が、ズンズンとこちらに近づいてくる。
翔くんは、私たちの目の前で立ち止まった。間近で見ると、背が高く、試合直後の熱と汗の匂いがふわりと漂ってきた。
「あのさ」
翔くんのまっすぐな黒い瞳が、私を捉えていた。ミナではなく、私を。
「いつも、試合見に来てくれてるよね。ずっと前から……気になってた。俺、君みたいな落ち着いた子が好きなんだ。もしよかったら、俺と付き合ってくれないかな」
時が止まったかのようだった。周囲の女子たちの凍りつくような視線が突き刺さる。
私は咄嗟に隣のミナを見た。ミナは、まるで幽霊でも見たかのように真っ青な顔をして、震える唇を固く結んでいた。握られた私の袖のあたりから、彼女の微かな震えが伝わってくる。
「……ごめんなさい」
静寂を破るように、私ははっきりと言い放った。
「私、バスケのこと全然わからないし。いつも来てるのは、ただの付き添いだから。それに、あなたのこと、そういう風に見たこと一度もないので」
嘘だった。最近は確かに彼をかっこいいと思っていた。けれど、そんなことよりも、隣で崩れ落ちそうになっているミナを守ることの方がずっと重要だった。
翔くんは驚いたように目を少し見開き、やがて自嘲気味にふっと笑った。
「そっか。勘違いしてた。……ごめん、変なこと言って」
彼は短く頭を下げると、そのままバスの方へと歩き去っていった。
帰りの電車内は、ひどく息苦しかった。
いつもなら「今日のあのパスが!」と弾丸のように喋り続けるミナが、一言も発さないのだ。窓の外を流れる夕暮れの景色をぼんやりと見つめたまま、微動だにしない。
休日の夕方の車両は空いていて、ボックス席には私たち二人だけだった。ガタン、ゴトンという単調な車輪の音だけが、気まずい沈黙を埋めていた。
「ミナ……あのさ」
たまらず私が口を開きかけた、その時だった。
「なんで」
ミナがポツリと呟いた。ゆっくりとこちらを向いた彼女の瞳には、大粒の涙がいっぱいに溜まっていた。
「なんで断ったの……?」
その声は震えていて、責めるような響きを含んでいた。
「なんでって……私、別に翔くんのこと好きじゃないし」
「嘘だ! 最近、結衣だって翔くんのこと目で追ってたじゃない! かっこいいって、思ってたでしょ!?」
ミナの頬を、涙が堰を切ったように流れ落ちた。
「翔くんが……あんなに勇気出して言ってくれたのに! 私の一番大好きな人を、なんで結衣が振るの!? 結衣のバカ!」
ミナは、私がどれだけ呆れて冷たい態度をとっても、不機嫌になるようなことは一度もなかった。いつもニコニコして、空気を読んで、ヘラヘラと笑っている子だった。
それなのに今は、おもちゃを取られた小さな子供のように、顔をくしゃくしゃにして声を上げて泣きじゃくっている。私に対する怒りなのか、自分自身の不甲斐なさへの悲しみなのか、それとも、自分の「神様」が傷つけられたことへの純粋な憤りなのか。
私は、ポロポロと涙をこぼすミナに何も言い返すことができず、ただ流れる景色を見つめながら、電車の揺れに身を任せるしかなかった。胸の奥が、チクチクと嫌な音を立てて痛んでいた。
あの日の電車での出来事を境に、私とミナの間に、見えない透明な壁ができてしまった。
翌日からの学校で、私たちは顔を合わせれば「おはよう」と挨拶は交わしたし、お弁当の時間には他のクラスメイトを交えて会話もした。けれど、以前のようにふざけ合ったり、放課後に連れ立って体育館のギャラリーに向かったりすることはなくなった。ミナはチャイムが鳴ると同時に「今日は用事があるから」とそそくさと帰るようになり、私は一人で自販機の冷たいスポーツドリンクを買う日々が続いた。
私に対する怒りがまだ収まっていないのか、それとも気まずさから避けているのか。私には分からなかった。ただ、私が「推し」からの告白を断ったことで、彼女の神聖な世界を壊してしまったのだという居心地の悪さだけがずっと胸につかえていた。
そして、その気まずい距離感が一週間ほど続いた後、ミナはパタリと学校を休み始めた。
最初は「またいつものサボり癖か」と軽く考えていた。しかし、休みは三日、五日と続き、ついに一週間が経過した。これまでは月に数回休む程度だったのに、ここまで連続して欠席することは初めてだった。
ミナの欠席が一週間を超えた頃、担任は朝のHRで「ミナはしばらく体調不良でお休みする」とだけ事務的に告げた。
それを聞いて、私はいつものサボりの口実だと決めつけていた。私と顔を合わせたくないからって、親にまで適当な嘘をついて、いくらなんでも意地を張りすぎじゃないか。胸の奥で、心配と苛立ちが入り交じったもやもやが膨らんでいく。
放課後、私はたまらず、久しぶりにミナのLINE画面を開いた。スタンプ一つすら送っていなかったトークルームは、あの日から時が止まっている。
私は少し迷った後、あえて突き放すような文面を打ち込んだ。
『いつまで意地張ってるの。あの日のことはごめん。でも、いい加減学校に来ないと、本当に単位やばいよ?』
送信ボタンを押してしばらく待つと、すぐに「既読」はついたものの、そこから返信が来るまでにはずいぶんと時間がかかった。
やがて送られてきたのは、こんなメッセージだった。
『ごめんごめん! ちょっとサボり癖がこじれちゃって(笑)単位はギリギリ足りてるから大丈夫だよ! 結衣こそ、ちゃんとテスト勉強してる?』
相変わらずの、はぐらかすような軽い文面。最後に添えられたおどけたウサギのスタンプが、やけに空々しく見えた。私はため息をつき、スマホを机に放り投げた。やっぱり、ただ意固地になっているだけだ。私が折れて謝るまで、このままのつもりなのだろうか。幼い性格だとは思っていたけれど、ここまで意地を張るとは思わなかった。
それからさらに数日が過ぎた、ある秋の夕暮れ時のことだった。
自宅のリビングでテレビを見ていると、インターホンが鳴った。母が応対に出た後、「結衣、お友達のお母さんがいらっしゃってるわよ」と不思議そうな顔をして私を呼んだ。
玄関に出ると、そこにはミナのお母さんが立っていた。
「結衣ちゃん、急にごめんなさいね。少しだけ、お話しできるかしら」
近くの小さな公園のベンチで、私たちは並んで座った。ミナのお母さんは、学校の廊下ですれ違っていた時よりも、ひと回り小さく、ひどくやつれているように見えた。手には小さなハンカチが固く握りしめられている。
「ミナがずっとお休みしていて、心配かけてしまってごめんなさいね。結衣ちゃんがLINEをくれたってミナから聞いて……どうしても、私から結衣ちゃんにちゃんとお話ししておきたくて」
「いえ……私の方こそ、最近ミナと少し喧嘩みたいになっちゃってて。そのせいで休んでるんじゃないかって、気になってたんです」
私が俯きがちにそう言うと、お母さんは静かに首を横に振り、絞り出すような声でゆっくりと言った。
「違うの。結衣ちゃん、違うのよ……ミナはね……結衣ちゃんと喧嘩したから休んでいるわけじゃないの」
夕暮れの冷たい風が、二人の間を通り抜けた。カラスの鳴き声が遠くで聞こえる。
「ミナは、今、病院にいるの。……小児がんの一種でね、実は中学の頃からずっと闘病を続けていたのよ」
「え……?」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。がん。闘病。ミナが? あの、いつも底抜けに明るくて、体育館で大きな声を張り上げていたミナが?
「高校に入って少し落ち着いていたから、無理をしない範囲で通学していたんだけど……最近になって、また進行してしまって。今は、強い抗がん剤の治療を受けているところなの」
頭の中が真っ白になった。
お母さんの言葉が、バラバラのパズルのピースのように、これまでのミナの行動と結びついていく。
月に数回、学校を休んでいたこと。それは「サボり」なんかじゃなく、定期的な通院や治療による体調不良だったのだろう。
体育をいつも見学していた理由。「昔から喘息持ち」というのも、大病を隠すための嘘だったに違いない。
そして、休んだ翌日に登校してきた彼女の目が泣き腫らしていたのは……お母さんと喧嘩したからではなく、検査結果が悪かった恐怖や、痛みに耐えかねて泣いていたからだったのかもしれない。
「あの子……結衣ちゃんには、絶対に言いたくないって、ずっと隠していたの」
お母さんの目から、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。
「結衣ちゃんといる時だけは、病気の自分を忘れられるって。ただの『バスケが好きな、明るい女子高生』でいられるのが嬉しいって……。だから、結衣ちゃんには、自分の明るいところだけを見ていてほしいって、ずっと……」
私は息を呑んだ。
『あの筋肉のしなやかさ、無駄のない動き。翔くんがコートを走るたびに、未来が作られていく感じがするの』
『すごいよね、あんな風に、明日を信じて全力で動けるなんて』
あの日、体育館のギャラリーで彼女が言った言葉が、鮮烈に蘇る。
あれは、ただの推しへのポエムなんかじゃなかった。自分の「明日」がどうなるか分からない彼女が、コートの上で躍動する生命力そのものに、どれほど切実に焦がれていたか。
私は、彼女の抱える絶望の淵の深さに一ミリも気づかず、「大げさだ」と笑っていたのだ。単位やばいよ、なんていう、彼女にとっては何の重みも持たない「未来」の言葉で、彼女を責めてしまったのだ。
「それなのに、私……っ……」
震える声で紡ごうとした言葉は、後から後から溢れてくる涙に呑み込まれて、声にならなかった。私は両手で顔を覆い、公園のベンチでただ子供のように泣きじゃくることしかできなかった。
その夜、私は部屋のベッドでひとり、声を殺して泣き続けた。
ミナとのLINEのトーク履歴を遡る。おどけたウサギのスタンプ。能天気な言葉たち。それらが全て、彼女が必死に作り上げた「普通の女子高生・ミナ」という鎧だったのだと気づいた時、自分の無神経さがひどく恐ろしくなった。
「貧血?」と笑ったあの日、彼女は痛みを堪えていたのかもしれない。必死に笑う彼女の隣で、私は「またポエム言ってる」と呆れていたのだ。
何も知らずに、私は彼女を「幼い」と決めつけ、上から目線で常識人ぶっていた。
数日悩んだ末、私は震える指でメッセージを送った。
『お母さんから全部聞いた。嘘つき。……会いたい』
しばらくして返ってきたのは、相変わらずの軽いトーンだった。
『あーあ、バレちゃったか。ごめんね。今度の日曜日、少しだけ一時帰宅できることになったから、いつもの公園で会える?』
日曜日の午後。すっかり葉を落とした桜の木の下のベンチで、私は彼女を待っていた。秋も深まり、冷たい風が頬を刺す。
「結衣!」
聞き慣れた、少し高くて明るい声。振り返ると、そこには見慣れない姿のミナが立っていた。
少し大きめのダッフルコートに身を包み、頭にはすっぽりとニット帽を被っている。しばらく見ない間に、彼女はひと回り以上、いや、ふた回りも小さくなったように見えた。たった数週間でどうしてここまで痩せてしまうのかと思うほどだ。コートから覗く足は折れそうなほど細く、抜けるように白かった肌は、今は血の気を失って透き通るようだ。強い抗がん剤治療がどれほど過酷なものか、その姿が残酷なまでに物語っていた。
それでも、私に向かって手を振るその笑顔だけは、体育館のギャラリーで翔くんに歓声を上げていた時のままだった。
「……ミナ」
立ち上がり、歩み寄ろうとした私の足がすくむ。どんな顔をして、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。泣いて謝ればいいのか、それとも普段通りに振る舞えばいいのか。
そんな私の葛藤をよそに、ミナは隣にちょこんと座り、「寒くなってきたねー」と白い息を吐いた。
「ごめんね、ずっと黙ってて」
ミナが先に口を開いた。その声は、以前よりも少しだけ張りがなく、掠れていた。
「……ううん。私こそ、ごめんなさい。ひどいこと言って。何も、分かってなかったのに」
「結衣が謝ることじゃないよ。私が隠してたんだから。私ね、結衣には『かわいそう』だって思われたくなかったの。ただの、ちょっとおバカで翔くんが大好きな『ミナ』として、結衣と一緒にいたかったんだ」
ミナはニット帽の裾を少しだけ直しながら、遠くのブランコを見つめた。
「病院にいるとね、自分が病気なんだってこと、一秒も忘れられないの。点滴の音とか、消毒の匂いとか、お母さんの泣きそうな顔とか。でも、学校に行って、放課後の体育館で翔くんのバスケを見て、結衣と一緒に『かっこいい!』って騒いでる時だけは、病気のこと、全部忘れられた」
「ミナ……」
「翔くんの推し活、すっごく楽しかった。翔くんがコートで全力で走るたびに、私の中にまで新しい明日がもらえるみたいで。……でもね、それ以上に、それに付き合って呆れた顔でツッコミを入れてくれる結衣と一緒にいられる時間が、私にとっての一番の『普通』で、特別だったんだよ」
彼女の口から語られる真実に、私の胸は張り裂けそうだった。
私にとっては「やれやれ」と付き合わされていた退屈な日常。それが、死の恐怖と隣り合わせにいる彼女にとって、どれほど眩しく、しがみつきたい「生」そのものだったのか。
「……でもね」
ミナは膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、ふっと息を吐いた。
「そろそろ、楽しいことばかりしていられなくなっちゃった」
その言葉の響きは、残酷なほど静かで、穏やかだった。
「先生がね、今度の治療はかなり厳しいって。だから、もう学校にはしばらく行けないし、体育館にも行けない。結衣とこうして会うのも、もしかしたら……」
「そんなこと言わないで!」
私はたまらず叫んでいた。涙が溢れて、ミナの顔が滲む。
「また一緒に体育館に行こうよ。私、今度からちゃんと一緒に翔くんのこと応援するから。ポエムだってなんだって、いくらでも聞いてあげるから!」
必死にすがる私を見て、ミナは困ったように、けれど愛おしそうに微笑んだ。
ミナは私の涙を拭おうと少しだけ手を伸ばしかけ、けれど途中でその手を引っ込めて自分の膝の上に戻した。彼女の細い腕には、もう私を慰めるだけの力すら残っていないのかもしれなかった。
「ありがとう、結衣。本当に、すっごく嬉しい。でもね、もういいの」
「よくないよ……」
「あのね、結衣」
ミナは私の言葉を優しく遮り、真っ直ぐに私を見た。その瞳は、病気でやつれた顔の中で、不気味なほど澄み切って輝いていた。
「この前、電車の中でひどいこと言ってごめんね。あの日、翔くんが結衣に告白した時、私、本当に頭が真っ白になっちゃって。正直、許せないくらい羨ましかったのと……私の神様が結衣に否定されたみたいで、ただただ悲しくて、悔しくて……八つ当たりしちゃった」
正直な告白に、私は首を横に振った。
「ううん、いいの。私のほうが無神経だったから。ミナの気持ちを知ってたのに、もっと別の断り方があったはずなのに……」
「違うよ。結衣は、私のために断ってくれたんだよね。私の気持ちを知ってるから、気を遣って、わざと冷たくしてくれた」
図星を突かれ、私は言葉に詰まった。ミナはふふっと小さく笑った。
「病室のベッドの上でね、天井を見ながらずっと考えてたの。もし、あの時、翔くんが近づいてきたのが結衣じゃなくて、私だったらどうだったかなって。私の『好き』が奇跡みたいに届いて、翔くんから『付き合ってほしい』って言われたら……私、どうしたかなって」
ミナの視線が、再び遠くを見つめる。冬の足音が近づく公園の冷たい風が、彼女のダッフルコートの裾を微かに揺らした。
「……私ね、もし翔くんに告白されたのが私でも、私も絶対に断ってた!」
きっぱりと言い切ったその言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
「どうして……? あんなに、翔くんのことが好きなのに」
「だって、翔くんを悲しませたくないもん」
ミナは、いつものように――体育館のギャラリーで「時間が止まった!」とはしゃいでいた時と全く同じ、あどけなく無邪気な笑顔を見せた。
「……なーんて。そもそも私なんかが告白されるわけないのに、贅沢すぎる妄想だよね! あはは!」
明るく笑い飛ばすその声を聞いた瞬間、私の胸の奥で何かが弾け、残酷な理解が波のように押し寄せてきた。
「翔くんを悲しませたくない」。そう、ミナはそういう子なのだ。
私に送るLINEが、いつでも痛みを隠して明るくおどけていたように。彼女は自分の運命を誰よりも深く受け入れ、その上で、自分が愛する人たちを少しでも傷つけないよう、全力で「明るいミナ」を生き抜いているのだ。
妄想の中の彼を気遣うほろ苦いジョークは、彼女の精神的な強さと、途方もない優しさの裏返しだった。私はそれにただただ圧倒されていた。涙すら引っ込んでしまうほどに。
「あの日、私のために翔くんを突き放してくれた時ね……すごく申し訳なかったけど、本当は結衣のその優しさが、すっごく嬉しかったんだ」
「ミナ……」
「ねえ、結衣。お願いがあるの。私がいなくなっても、時々でいいから体育館に行ってくれないかな。私の代わりに、翔くんの作る『明日』を見届けてほしいの」
真剣なまなざしでそう言った後、ミナは照れ隠しのようにわざとらしく両手を広げて背伸びをした。
「あーあ、でもやっぱり、もう一回くらいあのフェイダウェイ見たかったなー!」
明るく振る舞うその声は、微かに震えていた。
遠くから、ミナのお母さんが控えめに近づいてくるのが見えた。無理をして外の空気に当たっていられる時間が、終わろうとしているのだ。
ミナはゆっくりと立ち上がった。私が見上げる彼女の姿は、やっぱり小さくて、折れてしまいそうに細かった。けれど、その佇まいは、私がこれまで出会ったどんな人間よりも凛として美しかった。
「じゃあね、結衣」
ミナは最後に、とびきりの笑顔を私に向けた。
「私と友達になってくれて、ありがとう。結衣のおかげで、毎日すっごく楽しかった。結衣と一緒にいた時間、全部全部、最高だったよ!」
それからも、私たちは毎日のようにLINEを交わし、調子の良い日には病室へお見舞いにも行った。けれど、冬が深まるにつれてミナからの返信は少しずつ間隔が空くようになり……年が明ける頃、彼女は専門的な治療のために、簡単には見舞えない遠くの大きな病院へ転院してしまった。そして、正式に学校を休学することになった。
桜が再び蕾を膨らませる頃。ミナは、この世界からひっそりと旅立った。
後日、お線香を上げに行った際、お母さんから見せてもらった彼女の宝物の中には、あの背番号『7』の不格好なお守りと、きれいに記録されたスコアブック、そして、私と体育館の自販機の前で撮った、ピントのずれたツーショット写真があった。
放課後。私は一人で、誰もいない体育館のギャラリーに立っていた。
下からは、シューズが床を擦るキュッという甲高い音と、ボールが弾む重低音が響いてくる。コートの中央では、翔くんが変わらずに汗を流し、新しい明日を作るために全力で走っている。
私はそっと目を閉じる。
あの日のミナのあどけない笑顔が、私のまぶたの裏に鮮やかに蘇る。
『明日を信じて全力で動けるなんて、すごいよね』
彼女が愛したその音は、今も私の胸の中で、決して止まることのない力強い鼓動となって鳴り響いている。
私はゆっくりと目を開け、コートに向かって小さく、けれどはっきりと呟いた。
「そうだね、ミナ。本当に……すごいよ」
体育館に響くその音は、いつまでも、いつまでも鳴り止まなかった。




