表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
今際の際 他  作者: 山田
7/7

エンゼルケア

ボカロPいよわさんの「エンゼルケア」のオマージュ作品です。


<原曲>

https://www.youtube.com/watch?v=eBQHmbJ1ur0

<歌詞>

https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/48694.html


 深夜から明け方へと移り変わる曖昧な時間帯の病院は、まるで深い海の底のように静まり返っていた。等間隔に配置された蛍光灯の白い光が、どこまでも続く青みがかったリノリウムの床を無機質に照らしている。私は今、青い水面の上、静かな世界を滑っていくように、長い廊下を一人で歩いている。スニーカーの底が床と擦れる微かな音だけが、耳の奥でやけに大きく反響していた。すれ違う人は誰もいない。ただ、消毒液の冷たい匂いだけが、ここが生と死を事務的に処理する場所であることを容赦なく突きつけてくる。


 母が死んだ。


 一時間ほど前、自宅の暗いリビングで父からの電話を受けたとき、私の心はひどく麻痺していて、悲しみというよりは、何か途方もなく重い鉛のようなものが胃の腑にストンと落ちてきた感覚しかなかった。「……息を引き取ったよ」という父の震える声を聞きながら、私はただ「わかった」とだけ短く返し、通話を切った。


 泣くことすらできなかった。いや、泣く資格なんて私にあるはずがないのだ。ずっと逃げて、病室から遠ざかり、弱っていく母を直視することから目を背け続けてきたのだから。それなのに、いざもう息をしていないと知らされた途端に、こうしてのこのことやって来るなんて、一体どの面を下げて母に会えばいいというのだろう。


 総合病院までは、自宅から電車とバスを乗り継いで片道四十分ほどかかった。高校二年生の私にとって、それは毎日通うには少し厳しい距離だ。でも、それは単なる言い訳にすぎない。行こうと思えば、週末だけでも、あるいは放課後に無理をしてでも行くことはできた。それなのに私は、テスト勉強や、本当はそこまで熱を入れてもいない演劇部の裏方の仕事を盾にして、母から、そして死の気配から遠ざかった。


 母と私は、血が繋がっているのが不思議に思えるほど、交わらない別の生き物だった。


 母は決して、世間で言うような「よくできた母親」ではなかった。生活能力は低く、家事や料理はほとんど父任せ。無頓着で、感情に素直で、テレビの通俗的なメロドラマを見ては本気で涙ぐんだりする人だった。そして、少しでも自分の思い通りにならないと、あからさまにドアを強く閉めたり、口を利かなくなったりする。家事をしながら、少し音程を外して昔の甘ったるいバラードを口ずさむのが癖だった。


 私は、そんな母の俗っぽさをどこか冷めた、見下すような目で見ていた。「私はお母さんとは違う。あんなふうに感情的な大人には絶対にならない」と、心の底から思っていた。


 私には、私の確固たる世界があった。静かで、整然としていて、理屈の通った世界だ。壁を隔てた自室で、母の口ずさむバラードが聞こえてくると、私はいつもカミュの『異邦人』やカフカのような海外の不条理文学を開いた。活字を追い、人間の存在意義や世界の不条理について思考を巡らせることで、自分が特別で賢い人間になったような気でいたのだ。耳にはイヤホンを深く押し込み、感情の起伏がない規則的なミニマル・テクノを流した。淡々とした電子音は、母の立てる生活音を完全に遮断し、私を安全な孤独の中へと隔離してくれた。


 母が好んで聴いていたバラードなんか、感情が過剰にまとわりついてくるようで聴いているだけで息が詰まりそうだった。


 私が病室から完全に足を踏み入れなくなったのは、秋の終わり頃の、ある決定的な日の出来事が原因だった。


 一人で見舞いに訪れたその日、母はベッドに上体を起こし、窓の外をじっと見つめていた。すっかり痩せ細り、病の進行に怯えていた母は、私にすがるような目を向けた。


「ねえ、知佳は賢いから。難しい本をたくさん読んでるから、教えて」


 母の乾いた声が、病室に響いた。


「人は死んだら、どうなるの? 私、どこに行っちゃうの? ……どうして私なの?」


 その問いを突きつけられた瞬間、私は息を呑み、足がすくんだ。


 哲学書も文学も、誰も私に正しい言葉を教えてはくれなかった。私がすがりついていた言葉たちは、死の恐怖に怯える生身の母の前では、あまりにも空っぽな紙切れにすぎなかった。


 私は、チェーホフの『退屈な話』に出てくる老教授のようだった。絶望の淵に立ち、泣きながら「私はどうしたらいいの」とすがる養女に対して、彼は「わからない」としか答えられなかった。私にも、何の答えも持っていなかったのだ。


「大丈夫だよ」とか「きっと良くなるから」といった、何の根拠もない気休めを言うのは不誠実だと思っていた。それが私のちっぽけなプライドだった。だから私は、死の恐怖に震える母を前にして、ただ黙り込むことしかできなかった。


 決定的な断絶は、その沈黙の直後に起きた。


 ふと、病室の窓ガラスに張り付いている一匹の虫に私が気づいた。小さな蛾だった。


 羽の先が欠け、弱っているのか、よろよろと力のない歩みでガラスを這っている。私は反射的に顔をしかめ、ティッシュ箱から紙を引き抜いて、不快なその虫を払い落とそうと歩み寄った。


「あ、ダメ……!」


 突然、ベッドに寝たきりの母がかすれた声を上げた。点滴の管が繋がった腕を微かに震わせ、私を止めるように懇願する目を向けたのだ。


「ダメよ、知佳。……私の友達なの」


 私はその言葉を聞いて、背筋に冷たい氷をねじ込まれたような悪寒を覚えた。蛾が友達? そんな馬鹿な。


 でも、そうじゃなかったのだ。母は、ただ圧倒的に孤独だった。死という暗闇が迫る中で、頼りの娘は難解な本と沈黙を盾にして、決して心を開こうとしない。生きた人間の温もりから切り離されてしまった母は、たとえそれが忌み嫌われる不快な虫であろうと、「生きているもの」の気配にすがりつくしかなかった。


 しかも、そのたった一人の「友達」を、私は自らの手で排除しようとしてしまった。


 死の淵で孤独に震える母に対し、私はなんて無力だったのだろう。


「知佳の演劇の舞台、いつか見てみたいな」と無邪気に笑っていた母の顔から逃げるように、私はあの日、病室を飛び出した。私は自分の無力さから目を背けることしかできなかった。


 重い扉を押し開けると、冷やりとした空気が頬を撫でた。


 部屋の中央に置かれた簡素なベッド。その傍らの丸椅子に、父が背中を丸めて座っていた。ベッドの上に横たわる母の冷たくなった手を、両手でしっかりと包み込んでいる。


「……来たか」


 父が掠れた声で言い、ゆっくりと顔を上げた。


「私に、少しだけお母さんと二人きりにさせてくれないかな」


 私が絞り出すように言うと、父は黙って立ち上がった。「ナースステーションで手続きをしてくる」とだけ言い残し、部屋を出ていく。


 完全な静寂が訪れた。私と、抜け殻になってしまった母の二人だけの空間。


 そこに横たわっていたのは、私の知っている母ではなかった。頬の肉は削げ落ち、病の苦痛と闘い続けた凄惨な痕跡が深く刻まれている。


 私はゆっくりとベッドの傍らに膝をつき、震える手で、その冷たくこわばった額に触れた。氷のように冷たい。それが、死というものの手触りだった。


「ごめんね……」


 声に出して謝ったところで、鼓膜が震えることはない。「一人きりで、寂しい思いをさせてごめんね」と、誰にも聞こえない声で呟く。


 やがて、手続きを終えた父と二人の看護師が病室に入ってきた。そのまま、看護師たちによるエンゼルケアが始まる。チューブの痕が手当てされ、手際よく清拭されていくのを、私はただぼんやりと見つめていた。


「お顔のお化粧は、ご家族の方でされますか?」


 看護師の優しい声にハッとして顔を上げた。ふと、ベッドの脇にある小さなキャビネットの上に、見慣れた花柄のポーチが置かれていることに気がついた。私は無意識のうちに手を伸ばし、ジッパーを引く。中に入っていたのは、少し派手な色のリップクリームと、安っぽいコンパクトのファンデーション。


 私はずっと、母のそういう生活感にまみれたところが嫌いだったはずなのに、今はたまらなく愛おしかった。少しでも母をあの頃の母に戻したかった。理屈ではなく物理的に触れることでしか、私には愛情を証明する方法が思いつかなかったのだ。


 私はパフに粉を取り、冷え切った頬にそっと押し当てる。少し乾燥してカサついた肌に、安っぽいフローラルの香りが重なっていく。滑らせるように塗っていくと、血の気を失った白い顔に微かな生気が宿る気がした。


 そして、リップクリームを繰り出し、青白い唇にゆっくりと滑らせる。


 冷たい唇に触れた瞬間、私の中に記憶が吹き出した。「愛想のない子だねえ」と少しだけ唇を尖らせて不機嫌になってみせた母の顔が、一瞬だけ、目の前の顔に重なったような気がした。あの不機嫌さすら、今となっては胸が痛くなるほど懐かしい。そんな違いも愛おしいだなんて、失ってから気づくのだから、私は本当に救いようのない馬鹿だ。


「……とても、綺麗ですね。お母様、喜んでいらっしゃいますよ」


 見守っていた看護師の言葉を聞いて、私は張り詰めていた糸が切れたように泣き崩れ、母の冷え切った胸元に突っ伏した。


 父が私の隣に来て、そっと肩を抱き寄せ、私の背中を一定のリズムで優しくトントンと叩いた。


「……お母さんも、よくこうやってお前の背中を叩いていたよ」


 父がポツリと言った。


「え?」


「お前が赤ん坊のころ、夜泣きがひどくてな。お母さんが毎晩こうやって背中を叩きながら、あのお気に入りの古いバラードを、子守唄の代わりに歌って寝かしつけてたんだよ。あの曲を歌うと、お前は不思議と泣き止んだんだ」


 私は息を呑んだ。私がイヤホンで遮断し、古臭いと馬鹿にしていたあの甘ったるい曲は、私に向けられた愛情だったのかもしれない。お気に入りの音楽も合うわけじゃなかった。でも、お母さんの心の奥は私への想いで満ちていたのだ。


「お着替えですが、ご用意はされていますか?」


 看護師に聞かれ、父は傍らの紙袋から少し派手な花柄のワンピースを取り出した。


「入院したばかりの頃、またこれを着て出かけようって、励ましのつもりで病室に置いていたんです」


 父はワンピースの鮮やかな布地をそっと撫でた。


「こいつ、お葬式のニュースを見て『私がお葬式をやるときは、お花畑みたいな服で送ってね。暗いのは嫌だわ』って、昔よく笑って言ってたんで」


 看護師が手慣れた様子で、そのワンピースを母の冷たい身体に通していく。白いシーツの上で、色鮮やかな花々がパッと咲いたように見えた。私の引いた派手なリップの色と、ワンピースの花柄。それは、無機質な病室の中で、そこだけが強烈な色彩を放っているかのような、ひどくちぐはぐで、でも涙が出るほど美しい光景だった。


 翌日の通夜と葬儀。


 親戚や参列者たちは皆、黒い喪服に身を包み、空気は重く無彩色に沈んでいた。慰めの言葉は飛び交うけれど、私の心に空いた巨大な穴を埋めてはくれない。世界から鮮やかな色が次々と奪われ、死を悼むための黒へと染め上げられていく。


 しかし、出棺の時。


 父が用意してきたのは、白い菊ではなく、色とりどりの明るい花束だった。真っ赤なガーベラ、ピンクのチューリップ、黄色のスイートピー。


 私たちはその花を、母の身体の周りに並べていった。まるで、この世界から黒くて暗いものなんて一切なくなってしまったかのように、鮮やかな色彩で棺の余白を埋め尽していく。


 花柄のワンピースを着て、少し派手なリップを塗り、色鮮やかな花々に埋もれた母の姿は、この重苦しい黒の世界で一人抗っているように鮮烈だった。こういう騒がしくて明るいものが、お母さんはずっと好きだったもんね。


 棺の蓋が閉じられる直前、私は身を乗り出し、母の冷たい額に自分の額をすり合わせた。


 何もできなくてごめんね。見捨ててごめんね。ずっと、臆病でごめんね。


 私は母の頬にそっとキスをした。冷たくて、安っぽいフローラルの香りがした。


 火葬場。


 巨大な金属の扉の前に棺が置かれる。


「点火いたしました」という職員の声とともに、炉の奥深くから重い地鳴りのような音が響き始めた。


 あの扉の向こう側で、今まさに業火が母の身体を包み込んでいる。私が触れたあの冷たい頬も、派手なリップも、花柄のワンピースも、すべてが燃え尽きていく。


 逃げ出したい。耳を塞ぎたい。でも、私は両足を床に強く押し付け、扉から決して目を逸らさなかった。


 灰になるその瞬間、最期まで一緒にいるからね。


 それが、母を孤独にさせてしまった私にできる、たった一つの償いだった。


 一時間半後、引き出された台車の上には、真っ白な骨と少しの灰だけが残っていた。


 二人一組で箸を持ち、骨を拾い上げる。カチャリ、という乾いた音が響く。


 鮮やかなワンピースも花々も燃えてしまったはずなのに、私の記憶の中の母は、不思議なほど色鮮やかだった。ずっと無彩色だった私の冷たい世界の中で、確かに、花に色がついたのだ。


 すべての骨を納め終え、まだ微かな温もりを残す白い布に包まれた骨壺を、私は両腕でしっかりと抱き抱えた。


 火葬場の外に出ると、いつの間にか空は抜けるように青く晴れ渡っていた。高く澄んだその空は、まるでどこまでも続く青い水面のようで、私と母を隔てる静かな世界のようにも見えた。


 お母さん、ごめんね。


 ああ、私は今になって、お母さんのことが、あのくだらない笑い声も、子供みたいな不機嫌さも、甘ったるいバラードも、全部たまらなく愛おしく思えてしまったのだ。


 私は骨壺を抱き直し、母のいない生の世界へと歩き出す。見上げる空は残酷なほど青く、遺されたこの景色は、色鮮やかであればあるほど、どうしようもなく寂しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ