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今際の際 他  作者: 山田
6/7

親子

 油絵の具の匂いが漂う放課後の美術室は、私にとって一番居心地のいい場所だ。古文の活用形や数学の公式を暗記するより、キャンバスに向かって色を混ぜている時の方がずっと楽しい。

「千津、また残ってるのか」と顧問の先生に呆れられながらも、私は筆を動かし続けた。勉強なんて面倒くさい。高校生になったばかりで将来のことなんて実感も湧かないし、今はただ好きな絵を描いていたいだけだった。


 夜の八時を回ってから重い足取りで帰宅すると、玄関のドアを開けた瞬間に夕飯の匂いが漂ってくる。

「おかえり。今日も遅かったな。ちゃんと勉強してるのか?」

 リビングに入るなり、ソファに座っていた父がこちらを見もせずに決まり文句を口にする。やや猫背で、家ではいつもヨレヨレのスウェットを着ている父。

「わかってるよ、やってるって」

 私は適当に返事をし、足早に自分の部屋へ向かおうとした。

「あのさ、お前このままだと将来苦労するぞ」

「はいはい。またそれ?」

「世の中そんなに甘くないんだ。社会に出たらな、理不尽なことばっかりだ。……勉強しとけば、嫌な目に遭った時に逃げ道が作れるんだぞ」

 疲れたような父のぼやきを、私は「いつもの小言だ」と右から左へ聞き流し、そのまま自室のドアを閉めた。


 ふと、机に置かれている写真立てが目に入る。そこに写っているのは、私がまだ幼い頃に亡くなった母だ。写真の中の母は、ふわりと風に髪をなびかせながら、凛とした微笑みを浮かべている。娘の私が言うのもなんだけれど、信じられないほどの美人だと思う。

 そして、その美しい母の視線を、リビングでだらしない格好をしてあくびをしている父へと移すたびに、私の頭には長年の謎がもたげてくるのだ。どうして母は、よりによってこの人を選んだのだろう、と。顔立ちが特別整っているわけでもなく、出世街道をひた走るようなエリートというわけでもない。どこにでもいる、少し頼りなくて、冴えない普通のおじさん。このアンバランスな夫婦の成り立ちを、私は今でも不思議に思っている。


 *


 私が美術室という空間をこれほどまでに愛している理由は、絵そのもの以外にもう一つあった。それは、一つ年上の先輩の存在だ。

 我が校の美術部は、基本的にはお菓子を食べながらダラダラと絵を描くような、和気あいあいとした空気が流れている。けれど、その先輩だけは違った。彼はどこか退屈そうに伏せられた涼しげな目元と、群を抜くデッサン力を持っていた。

「学校の勉強なんてつまんないよな。言われたことを覚えるだけでさ。俺たちは絵があるからいいけど」

 キャンバスに向かいながら彼がふと口にした言葉は、当時の私の気分にぴったり合っていた。彼は周りの真面目な生徒をちょっと小馬鹿にするようなところがあり、時折、他の部員の作品すら鼻で笑うことがあった。私はそれに少し引っかかりつつも、彼ほどの才能があるなら仕方ないのだと、特別な才能の証のように受け止めていた。


 秋が深まり始めたある日のこと。

「今度の土曜日、市内の美術館でやってる展示、一緒に行かない? ついでに画材も見たいし」

 絵筆を洗いながら、先輩が何気ない調子で私を誘ってきた。休日に、わざわざ市外の美術館まで二人で。私は飛び上がりそうなほど嬉しいのを必死に隠して、「はい、行きたいです」と頷いた。

「よかった」

 先輩は少し目を細め、他の部員には聞こえないような小さな声で続けた。

「千津ちゃんの絵のそういう純粋なとこ、俺は結構好きだよ。……明日、楽しみにしてる」

 それは明確な告白の言葉ではなかったけれど、私を舞い上がらせるには十分だった。顔から火が出そうになりながら、私はどう返事をしたのかも覚えていない。


 その日の夜、家に帰っても私の頭の中は明日のことでいっぱいで、完全に宙に浮いていた。クローゼットを開け、手持ちの中で一番お気に入りのワンピースを引っ張り出して鏡の前で合わせる。明日、この服を着て、先輩の隣を歩く。その想像だけで世界がキラキラと輝いて見え、リビングで冷めていく夕食のことなど、私の頭の片隅にも存在していなかった。


 *


 土曜日の朝、私は目覚まし時計が鳴るよりもずっと早く目を覚ました。

 昨夜決めたワンピースに袖を通し、少しだけ背伸びをして薄くリップを引く。リビングに降りると、テーブルには目玉焼きとトーストが並べられていた。そして、休日の朝だというのに、父はなぜかスーツ姿だった。

「おっ、随分とおめかしして。どこ行くんだ?」

「……ちょっと、市内の美術館まで。お父さんは? なんでスーツなの」

「ああ、得意先でちょっとトラブルがあってな。これから休日出勤して頭下げてこなきゃいけないんだ。まったく、ついてないよ」

 そう言ってため息を吐きながらも、父は財布から千円札を数枚抜き出し、「ほら、せっかくの休みなんだから、何か美味しいものでも食べてこい」と私に差し出した。私はそれを受け取りながらも、素直にお礼を言うのが気恥ずかしくて顔を背けた。

「急いでるから、朝ごはんはいらない」

「おい、ちゃんと食べていけ!」という父の声を背中に受けながら、私は逃げるように玄関のドアを閉めた。


 待ち合わせの駅の改札前。先輩の私服姿は大人びて見えた。

「おはよう。……うん、似合ってるね。いつもと雰囲気が違って、ちょっと驚いた」

 ストレートな褒め言葉に、私の顔は一瞬で熱を持つ。

 駅近くの画材店で小一時間ほど買い物を済ませてから、私たちは美術館のある市街地へ向かう電車に乗り込んだ。乗車時間は四十分ほど。休日の午前中ということもあり、私たちは横並びのシートに自然と隣り合って座ることができた。窓の外を流れる秋の景色はどこまでも澄み渡り、私の気分は最高だった。


 目的の駅が近づき、車内にくぐもったアナウンスが流れ始めた頃。

「お前、休日の朝から呼び出されて、自分が何したか分かってんの?」

 少し離れたドア付近から、空気を凍らせるような低い声が聞こえてきた。ビクッとしてそちらを見ると、二人のサラリーマンが立っていた。一人は恰幅の良い男。もう一人、その男に向かって身を縮こまらせるようにして深く頭を下げているのは、――私の父だった。

「……はい。私の確認不足で、先方にご迷惑を……」

「先方だけじゃないでしょ。うちの部署がお前ひとりのせいでどれだけ迷惑被ってるか分かってんの? その『はい』って返事も本当にイラつくんだよね」

「申し訳ありません……。以後はこのようなことがないよう……」

「『以後は』って、前も同じこと言ってたよね? 何回同じミスすんの。年だけ食って学習能力ないわけ?」

「……返す言葉もございません。本当に、申し訳なく……」

「あーあ、せっかくの休みが台無しだよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだからさ、本当に頼むよ。使えないなら辞めてくれてもいいんだよ?」

「……申し訳ありません……」

 静かな車内に、チクチクと刺すような上司の声と、掠れた父の謝罪が響く。


 私の全身から、一気に血の気が引いていくのが分かった。指先が冷たくなり、両手を強く握り合わせて必死に堪える。

『勉強しとけば、嫌な目に遭った時に逃げ道が作れるんだぞ』

 いつもの小言だと聞き流したあの言葉が、突然、強烈な意味を持って私の脳裏を駆け抜けた。

 自分と同じように、理不尽な環境で身を削るような思いをしてほしくない。私が絵という不確かなものにのめり込むのを心配していたのも、すべては、私をこのどうしようもない現実から守るための親心だったのだ。


 プシューッ、と鈍い音を立てて電車のドアが開いた。

「ほら、着いたよ。行こう」

 先輩に促され、私は弾かれたように立ち上がった。父たちはまだ電車に乗ったままだ。振り返りたくなるのを必死に堪え、私は足早にホームへ降りた。背後でドアが閉まり、電車がゆっくりと走り去っていく。


 改札を抜け、駅前の喧騒の中に出た時だった。

 先輩がふっと鼻で笑うような息を吐いた。

「うわー、さっきの見た? キツかったな」

「え……」

「怒鳴ってるおっさんも最悪だけどさ、怒られてる男のほうだよ。あんなふうにペコペコしてまで会社にしがみついて、何が楽しいんだろうね。俺、ああいう底辺の大人には絶対なりたくないわ」


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが冷たく弾けた。

 父は、私のために、あの地獄のような場所で耐えてくれているのに。

 気づけば、私は先輩を真っ直ぐに睨みつけていた。

「え? 千津ちゃん?」

「……すみません、私、やっぱり美術館行きません」

「は? ちょっと待ってよ!」

 私は先輩をその場に残し、駅前の人混みの中へと逃げるように走り出した。


 ホームの端のベンチにへたり込むと、大粒の涙がボロボロと溢れ出してきた。

 私を楽しませるために、今朝だって父は「美味しいものでも食べてこい」とお小遣いをくれたのだ。あんな地獄に向かう直前だったというのに、自分がどんな目に遭うか分かっていて、それでも私には悟られまいとしていた。

 それに対して、私はなんという態度をとってしまったのだろう。

『急いでるから、朝ごはんはいらない』

 そう吐き捨てて家を出た自分の口を、今すぐ縫い合わせてしまいたかった。

 私はいつまでも泣き続けた。傲慢だった自分への怒りと、父への申し訳なさで、涙は枯れることなく溢れ続けた。今すぐ父の元へ走って行き、その背中を抱きしめたかった。でも、今の私にできることは、彼が家に帰ってくる場所を、少しでも温かくして待っていることだけだ。


 *


 家に向かう途中、私は駅前のスーパーに立ち寄った。財布の中には、父が今朝くれた千円札が入っている。私はそのお金で、惣菜コーナーにあった少し高めの焼き鳥の盛り合わせと、父が好きそうな小鉢をいくつかカゴに入れた。

 家に帰り着き、誰もいないリビングに入ると、ダイニングテーブルの上には、今朝私が「いらない」と吐き捨てた目玉焼きとトーストが、ラップをかけられた状態でぽつんと残されていた。

 私はテーブルの前に座り込み、ラップを外してそれを口に運んだ。すっかり冷え切って黄身が乾いてしまった目玉焼きは、冷たくて、少し硬くて、でもどうしようもなく優しい味がした。口の中で咀嚼するたびにまた涙が込み上げてきて、私は冷たいトーストをかじりながら、声を殺して泣いた。


 自室に戻り、浮かれたワンピースを脱ぎ捨てて、いつもの着慣れたスウェットに着替えた。買ってきたお惣菜をパックのままではなくちゃんとお皿に移し替え、朝の残りのご飯とお味噌汁を温め直す準備をして、父の帰りを待った。

 夜の十時を回った頃。ガチャリ、と玄関が開く音がした。

 私は玄関へと向かった。廊下に現れた父は、ネクタイをだらしなく緩め、その背中からは隠しきれない疲労が滲み出していた。

「……おう、起きてたのか」

 父は私の顔を見ると、何事もなかったかのような空元気の声を張り上げた。

「おかえりなさい。ご飯、温かいよ」

 私がそう言うと、父は不思議そうな顔をしてリビングへ向かった。そして、テーブルの上に並べられたお皿と、温かいお味噌汁を見て、ピタリと足を止めた。

「……千津が、用意してくれたのか」

「うん。お父さんがくれたお小遣いで、お惣菜買ってきただけだけど」

 父は洗面所で手を洗い、テーブルの前に座ると「いただきます」と小さく手を合わせた。そして、焼き鳥を一つ口に運ぶ。

「……美味いな」

 父は淡々と箸を進めた。泣きそうになるとか、そんな感傷的な素振りは一切ない。今日一日、あんな理不尽な目に遭ってきたはずなのに、疲れを見せることもなく、いつも通りに惣菜をご飯と一緒に口に運んでいる。その何事もなかったかのように振る舞う逞しさが、たまらなく愛おしかった。


 お皿がすべて空になると、父は温かいお茶を一口飲んでから、どこか申し訳なさそうに口を開いた。

「その……いつも口うるさく言って悪かったな。お前が絵を好きなのは分かってるんだ。けどな……俺は、お前には俺みたいに、選択肢がない大人になってほしくないんだよ」

 父は、自分の惨めな境遇を悟られないように言葉を選びながら、それでも必死に真意を伝えようとしてくれていた。

 私は深呼吸をして、顔を上げた。

「分かってるよ」

 私の真っ直ぐな言葉に、父は戸惑ったように瞬きをする。

「私、ちゃんと勉強する。絵を描くことは続けるけど……お父さんが心配しなくていいくらい、理不尽なことから逃げられる強さを持つから。自分の居場所くらい、自分で選べる大人になるから」

 その瞬間、父の目が少しだけ見開かれた。

「……ああ。そうだな、お前ならきっとなれるさ」


「それとね」と、私はふと思い出したように続けた。

「今日、先輩と美術館に行く予定だったんだけど……途中で帰ってきたの。先輩、絵はすごく上手で尊敬してるんだけど、平気で人を見下すようなことを言うんだなって気づいて。……これからどうやって付き合っていけばいいか、分かんなくなっちゃって」

 私がそう言うと、父は少し驚いた顔をした。私が自分の交友関係について相談するなんて、今まで一度もなかったからだ。

 父は少しの間考え込んでから、努めて冷静な声で答えた。

「……そうか。まあ、どんなに絵が上手くても、他人の痛みが分からない奴とずっと一緒にいるのは、しんどいかもしれないな。無理に合わせる必要はないんじゃないか。違感を感じたなら、少し距離を置いて様子を見るのも一つの手だ」

 少し不器用で、けれど私のことを一番に考えた真っ当なアドバイス。華やかな才能よりも、その泥臭くて温かい言葉こそが、私が本当に信じられるものだと、今ははっきりと分かる。

「うん。ありがとう、お父さん」


 リビングの飾り棚に目を向ける。そこには、写真立ての中で微笑む、美しい母の姿があった。

 幼い頃からずっと抱えていた謎。「こんなに綺麗な母が、どうしてよりによってこの頼りない父を選んだのだろう」という疑問の答えが、今なら痛いほどよく分かる。

 本当の格好良さとは、才能をひけらかして他者を見下すことではない。理不尽に耐え抜いてでも、何事もなかったかのように大切な誰かを守り抜こうとする、その強さのことなのだ。母はきっと、父の中にある決して折れない強靭な愛情を見抜いていたに違いない。


「お茶のおかわり、いるか?」

「うん、もらう! あ、洗い物、私も手伝うよ」

 私は立ち上がり、父の待つキッチンへと向かった。小さくて古ぼけたこの家の中だけは、ぽかぽかと暖かかった。油絵の具の匂いがする美術室よりもずっと、この出汁の匂いが染み付いたリビングこそが、私にとっての本当の居場所なのだと、胸の奥で静かに確信していた。

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