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今際の際 他  作者: 山田
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お忘れ物センター

 ターミナル駅の地下にある「お忘れ物センター」での私の仕事は、とてもシンプルで、平和なものだった。

 日々運び込まれる膨大な量の傘、マフラー、ワイヤレスイヤホン、そして誰かの手帳。それらに拾得日と場所を記したタグをつけ、棚に並べ、持ち主がやってきたら身分証を確認して引き渡す。

 マニュアルは完璧だった。どれほど高価なものでも、あるいはどれほど思い入れのあるものでも、ここに保管される期限は「三ヶ月」と厳格に定められている。期限を過ぎたものは、警察に引き渡されるか、機械的に廃棄・売却のルートへと送られる。

 短大を卒業してこの職場に配属されたばかりの私は、その事務的で冷たいシステムを、むしろ「公平で心地よい」と感じていた。

 物は失われ、そして手元に戻る。戻らなければ、忘れ去られる。

 世界はそうやって、澱みなく前へ進んでいくものなのだと、無邪気に信じて疑わなかった。


 そんな私の平坦な日常に小さなさざ波が立ったのは、秋も深まりかけた十一月の初めのことだった。

「あの……主人の手袋の、落とし物は届いていないでしょうか」

 カウンター越しに遠慮がちに声をかけてきたのは、落ち着いた藤色のカーディガンを着た、五十代半ばくらいの中年女性だった。

 品のいい、けれどどこかひどく疲れたような声だった。

 特徴を検索システムに入力すると、該当する品はすぐに見つかった。一ヶ月ほど前、夕方の郊外行きの下り電車にポツンと残されていた、焦げ茶色の紳士用の革手袋。右手の親指の付け根あたりに、小さな擦れ傷があるのが特徴だった。

「こちらでしょうか?」

 奥の棚からプラスチックのトレイに乗せて持ってきた手袋を見ると、女性の顔にふっと、安堵のような、ひどく哀しいような、複雑な色が浮かんだ。

「……ええ。間違いありません。主人のものです」

「よかったです! では、こちらの書類にお名前とご住所を……」

 私がにっこり笑ってボールペンを差し出すと、女性はなぜか、スッと一歩だけ後ろに下がった。

「あ……いえ。今日は、引き取らないんです」

「えっ?」

「あの……ここに置いておいていただくことは、できるんでしょうか。まだ、期限は過ぎていませんよね?」

 私は目をパチクリとさせた。見つかったのなら、さっさと持って帰ればいいのに。これからもっと寒くなるのに、旦那さんは手袋がなくて困らないのだろうか。

「ええと、はい。三ヶ月は当センターで保管する決まりですので、まだ二ヶ月は大丈夫ですが……」

「ありがとうございます。それなら、このままでお願いします」

 女性はほっとしたように微笑むと、書類には触れず、丁寧にお辞儀をして帰っていった。


 それからだった。彼女が、二週間に一度ほどのペースで、ふらりとセンターを訪れるようになったのは。

 彼女はいつも、混雑していない時間帯を見計らってやってきた。そして、ガラス越しに焦げ茶色の手袋を棚から出してもらうと、指先でそっとその柔らかい革の質感を確かめ、「まだ、ここにありますね。ありがとうございます」とだけ言って、また帰っていくのだ。

 先輩のパートの女性は「変わった人ね。どうせ三ヶ月経ったら処分されちゃうんだから、放っておけばいいのよ」と呆れ顔で言っていた。

 私も、不思議で仕方なかった。忘れ物を見にくるだけで持って帰らないなんて、マニュアルのどこにも書いていない。

 ある冷たい雨の降る午後のことだった。

 いつも通りやってきた彼女に手袋を見せながら、私はたまらず、持ち前の無遠慮さで口を開いてしまった。

「あの……旦那様、手袋がなくてお困りじゃないですか? よかったら、今日お持ち帰りになっても……」

 私の言葉に、女性はトレイの上の手袋を見つめたまま、ふっと静かに微笑んだ。それは、凪いだ海のように穏やかな笑顔だった。

「主人は、もう使わないんです」

「えっ?」

「……ひと月ほど前。この手袋を電車に忘れた、その日の夜にね。交差点で、トラックの事故に巻き込まれて……亡くなったんです」

 私は、息を呑んだ。

 事務室に響く、除湿器の低い駆動音だけが、やけに大きく聞こえた。

「お葬式が終わって、色々片付けて、少し落ち着いた頃に……気がついたんです。いつも主人がコートのポケットに入れているはずの手袋が、どこにもないことに。……それで、まさかと思ってここに聞きに来たら、本当にあった」

 女性は、手袋の親指の擦れ傷を、いとおしそうに指の腹で撫でた。

「ねえ、あなた。もし私が今日、これにサインをして家に持ち帰ってしまったら。この手袋は、主人の『遺品』になってしまうんです」

 彼女の静かな声が、私の胸の奥に、しんと染み込んでいく。

「遺品箱の中にこれを収めてしまったら、主人はもう、本当にどこにもいないことになってしまう。……でもね。ここにこうして『お忘れ物』として預かってもらっているうちは。主人はまだ、ちょっと電車に手袋を置き忘れてしまった、そそっかしいだけの人のままでいられるんです。『あーあ、また忘れ物しちゃったよ』って、頭を掻きながら、そのうちここに取りに来るような……そんな気がして」

 それは、狂気などという恐ろしいものではなかった。

 あまりにも突然に日常を絶ち切られた人が、今日という日をどうにか息をして生きていくための、とてもささやかで、静かな抵抗だった。

「迷惑なことをして、ごめんなさいね。でも、期限が来るまでは……あともう少しだけ、ここで待たせてください」

 女性は深く頭を下げて、雨の中へと帰っていった。

 私は、彼女の背中が見えなくなっても、棚に戻すはずのトレイを持ったまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 私たちが毎日、マニュアル通りに淡々と処理し、期限が来ればゴミ箱へ放り込んでいるこの「落とし物」たち。

 それはただの「物」ではなく、誰かの時間が止まったままの、切り取られた日常そのものだったのだ。システムは、そんな人間の柔らかい痛みに寄り添うようにはできていない。ただ機械的に、三ヶ月という時間で区切りをつけ、前に進むことを強要する。それが「社会の正しさ」なのだと、私は初めて気づいた。


 そして、その日はやってきた。

 手袋がセンターに届けられてから、ちょうど三ヶ月目の月末。

 明日の朝には、この焦げ茶色の手袋は「期限切れ」の赤い箱に移され、業者に引き渡される運命にあった。女性はあの雨の日以来、姿を見せていなかった。きっと、三ヶ月のタイムリミットが来ることを受け入れ、自宅で一人、静かに泣いているのだろう。

 閉館の五分前。

 私は、保管棚の前で、焦げ茶色の手袋を見つめていた。

 マニュアルに従えば、明日、私はこれを赤い箱に入れる。それが私の仕事だ。社会のルールだ。いつまでも過去に囚われていてはいけないと、この手袋を奪い取ることが、彼女の背中を押すことなのだと、正論はそう囁いている。

 けれど、私の頭の中には、あの女性の、凪いだ海のような哀しい笑顔が焼き付いて離れなかった。

 まだ、ちょっと忘れ物をしているだけの、そそっかしい人。

 そのささやかな猶予すら奪い取ってしまう権利が、この冷たいマニュアルの、一体どこにあるというのだろう。

 私は、震える手で事務机の引き出しを開けた。

 誰も見ていないことを確認し、真っ白な新しい「拾得物タグ」を取り出す。

 そして、ボールペンを握りしめ、元のタグに書かれていた「下り電車の網棚」という拾得場所を丁寧に書き写し――「拾得日」の欄に、今日の日付を、少しだけ強く書き込んだ。

 元の古いタグをこっそりとゴミ箱の底に捨て、新しいタグのついた焦げ茶色の手袋を、今日届いたばかりの新しい忘れ物たちの棚に、そっと並べ直す。

 これで、タイムリミットはリセットされた。

 この手袋は、社会のシステム上、「今日、新しく届けられた忘れ物」になったのだ。

 時計の針が、閉館の時間を告げる。

 シャッターを下ろしながら、私は密かに、社会のルールを裏切った自分の小さな罪に、少しだけ胸を高鳴らせていた。

 明日も、明後日も、世界は澱みなく前へ進んでいくだろう。

 けれど、あの薄暗い棚の上でだけは、あと三ヶ月。

 そそっかしい誰かの主人が、いつか照れ笑いをしながら取りにくるのを待つ、優しくてあたたかい猶予が、静かに息づき続けているのだ。

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