産婦人科
第一章
消毒用アルコールのツンとした匂いと、微かに混ざる甘い芳香剤の香り。壁は安心感を与えるためだろう、淡いピンクやクリーム色で統一されていて、天井のスピーカーからはオルゴールのBGMが途切れることなく流れている。
私、つまり看護学生である私が現在実習を行っている産婦人科外来の待合室は、一見するととても穏やかで、優しい空間に思える。けれど、よく見れば壁紙の隅は少し黒ずんで剥がれかけているし、足元のリノリウムの床には長年のワックスの跡が重なり合っていた。
「ねえ、このベビーカー、すごく可愛くない? 軽いみたいだし」
「ほんとだ。でも、こっちの三輪のやつも動きやすそうだよ。どうする? いっそ帰りに両方見に行ってみる?」
向かい側の少し軋む長椅子では、お腹の大きな妊婦さんと、それに付き添う優しそうな旦那さんが、頭を寄せ合って分厚いベビー雑誌をめくっていた。二人から発せられる隠しきれない幸せのオーラは、周りの空気など気にしていない様子で、彼らはケラケラと笑い合っている。
その姿は微笑ましくもあるけれど、今の私にはどこか暴力的なまでの眩しさを持っていた。
自動ドアが開く微かな音とともに待合室に入ってきた、一人の女性に目を向けた。ゆったりとしたグレーのカーディガンを羽織り、深く被ったケア帽子からは不自然なほどまっすぐな髪の毛先が少しだけ見えている。抗がん剤治療中の患者さんが使う医療用のウィッグであることはすぐに分かった。彼女は受付で静かに診察券を出すと、妊婦の夫婦から少し離れた、壁際の色褪せたソファに腰を下ろした。
産婦人科。
産科と婦人科が合わさったその場所は、新しい命を迎えるための場所であり、同時に命を脅かす病と闘う場所でもある。この総合病院は設計が古く、増築を繰り返したせいで中は少し迷路みたいになっている。最近の綺麗でモダンなクリニックなら、きっと産科と婦人科で待合のフロアを分けたり、患者同士の視線が合わないように工夫されているのだろう。でも、この古びた病院にそんな物理的な余裕はなく、スペースの都合上、どうしても同じ空間を共有せざるを得ないのだ。
待合室の中央にあるマガジンラックには、キラキラとした笑顔の赤ちゃんが表紙を飾る雑誌と並んで、ひっそりと『がんと共に生きる』といったタイトルの冊子や、ウィッグのカタログが混在して置かれている。
幸せの絶頂にいる人と、深い絶望の淵を歩いている人が、一つの古い箱の中に押し込められ、同じ空気を吸って、同じように自分の名前が呼ばれるのを待っている。
「山田さーん、山田〇〇さん。二番の中待合へお入りください」
ベテランの看護師さんの声が響き、ベビー雑誌をパタンと閉じて妊婦さんが立ち上がる。彼らが中待合へ向かう時、どうしてもあのグレーのカーディガンを着た女性の前を横切ることになる。通路は、古い病院特有の狭さだ。
女性は顔を上げることもなく、無言のまま少しだけ自分の膝を引いて、二人が通り過ぎるためのスペースを作った。丸く大きなお腹が目の前を通り過ぎていく数秒間、彼女の膝の上で組まれた青白い手が、より一層きつく握り込まれたのだけは見えた気がした。
「……林さん。次、あの方のバイタル測るから、声かけてきて」
指導を担当してくれている先輩看護師に声をかけられ、私は彼女の元へ歩み寄った。
「こんにちは」と明るく笑いかけるのは無神経すぎる。かといって、同情するような表情を見せるのは絶対に間違っている。
「吉川さん、ですね。本日の実習を担当させていただきます、看護学生の林です」
女性がゆっくりと顔を上げた。ケア帽子の下から覗く瞳はひどく澄んでいて、隠しきれない深い疲労を湛えていた。彼女は静かに頷き、私に案内されて処置室へと向かった。
私は処置室の冷たいドアを開けながら、この残酷なコントラストを前にして、ただ無力に立ち尽くすことしかできない己を噛み締めていた。
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第二章
外来での実習から数日後、私の実習場所は三階の産婦人科病棟へと移っていた。
廊下の突き当たりにある新生児室から、元気な赤ちゃんの泣き声が響いてくる。命が誕生する場所の産声は、病棟の空気をパッと明るくする。
でも、この古い総合病院では、入院設備もまた産科と婦人科で明確な区切りがない。建物の構造上、長い廊下の右側には切迫早産などで入院している妊婦さんたちの部屋が並び、左側には婦人科系の疾患の患者さんの部屋が並んでいる。
新生児室からの泣き声は、祝福されるべき産科の部屋にも、静けさを求める婦人科の部屋にも、等しく響き渡っていた。
「今日から受け持ってもらう患者さんだけど、このお二人にお願いするわね」
先輩から渡されたワークシートには、二人の女性の名前が並んでいた。
一人は、妊娠三十三週で切迫早産のため絶対安静となっている三十歳の妊婦、佐藤さん。
そしてもう一人は——進行した卵巣がんで、抗がん剤治療も限界が近づき、予後が極めて厳しい状態にある二十八歳の女性、高橋さんだった。
私と数歳しか変わらない、まだ若い女性。カルテに記された病状が、目に痛いほど飛び込んでくる。彼女は今、人生の終末という残酷な時間と向き合っている。それがどれほどの恐怖と孤独なのか、私のような学生の浅い経験では到底計り知れなかった。
私はまず、高橋さんのいる婦人科側の四人部屋へと向かった。
ベッドの上で、彼女は膝を抱えるようにして座っていた。血圧計のマンシェットを彼女の細い腕に巻こうとした、ちょうどその時だった。
——ふぎゃあ、ふぎゃあ!
廊下を歩いていく助産師さんの腕の中からだろうか、一段と大きな赤ちゃんの泣き声が、薄い壁とドアをすり抜けて病室に飛び込んできた。
ビクッ、と高橋さんの肩が震えるのがわかった。腕に巻かれたマンシェットの下で、彼女の筋肉がこわばるのが伝わってくる。彼女はギュッと目を閉じ、小さく震える息を吐き出した。
すぐ近くまで死の足音が迫っている彼女の耳に、この無邪気な生命の賛歌はどう響いているのだろう。私はただ俯いてデジタルの数値をノートに書き写すことしかできなかった。
逃げるように高橋さんの病室を後にし、私は廊下の反対側――産科側の病室へと足を踏み入れた。
そこには、高橋さんの病室とは対極にある、陽だまりのような空間が広がっていた。切迫早産で入院中の佐藤さんは、「もう本当に暇で暇で!」と腕を大げさに動かして笑った。彼女の苦痛の先には「新しい命との対面」という、明確で希望に満ちたゴールが用意されている。
血圧を測り終えようとした時、再び廊下から産声が聞こえてきた。
「あ、また泣いてる。元気だねえ」
佐藤さんは目尻を下げ、愛おしそうに自分の大きなお腹をそっと撫でた。
同じ泣き声を聞いて、未来の我が子を思い描き笑顔になる佐藤さんと、失われる未来を突きつけられて耳を塞ぐ高橋さん。わずか数メートルの廊下を挟んだだけの向かい合った病室で、二人が向かう先は残酷なほど二股に分かれている。
私はバインダーを胸に強く抱きしめ、ナースステーションへと続く長い廊下を歩き出した。この環境の中で、私はただの傍観者でしかなかった。
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第三章
午後三時。
「ねえ林さん、ちょっとだけデイルームに行ってもいいかな?」
佐藤さんの切実な願いに、十五分だけ車椅子で病室から出る許可が下りた。デイルームは、ちょうど産科側の廊下と婦人科側の廊下がぶつかる場所に位置している。
引き戸を開けて中に入ると、窓際の席に先客がいた。高橋さんだった。
「わあ、眩しい。やっぱり外の光はいいねえ」
佐藤さんは高橋さんの背中に気づき会釈をした。高橋さんもわずかに首を傾けて応えたが、それ以上の言葉は交わさない。
古い病院ゆえに、デイルームの木製の本棚にはベビー雑誌と婦人科疾患の解説本が配慮なく並んでいる。
「あ、このベビー雑誌、私が買おうか迷ってた号だ!」
佐藤さんが上段の端に押し込まれていた分厚い雑誌を引っ張り出した拍子に、すぐ下の段にあった薄い本がバランスを崩した。
パサリ。乾いた音を立てて、一冊の本が床に落ち、高橋さんの足元で止まった。
『終末期を穏やかに過ごすために』
デイルームの空気が、一瞬にして凍りついたように感じた。
「あ……」
事の重大さに気づいたのか、佐藤さんは落ちた本のタイトルを目にして、ハッと小さく息を呑んだ。そして、少しだけトーンを落とした、気まずそうな声を出した。
「ごめんなさい、これ……。拾わせてしまって、本当にごめんなさいね」
佐藤さんは高橋さんの背中へ向かって、申し訳なさそうに頭を下げた。
彼女に悪気は一切ない。それは純粋な善意であり、健常者としての気遣いだった。しかし、その腫れ物に触るような「気まずさ」こそが、彼女たちの間に引かれた決定的な境界線を浮き彫りにしていた。
高橋さんはゆっくりと前かがみになり、その青白い指先で本を拾い上げた。彼女の視線が、表紙に印字された文字の上をなぞる。
そしてゆっくりとこちらを振り向いた。
無言のまま本を差し出した彼女の瞳の奥にあったのは、怒りでも悲しみでもなく、自分の運命を冷たく見下ろしているような、深い『諦念』の色だった。
私は逃げるようにその本を受け取り、本棚の一番奥に見えなくなるように押し込んだ。
佐藤さんを病室へ戻した後、私は誰もいないリネン庫へと逃げ込んだ。
看護学生として、私は何一つできなかった。ただ突っ立って、残酷な現実が彼女を打ちのめすのを傍観しているだけだった。
私は手の甲で乱暴に涙を拭った。
実習は明日で終わる。明日には、高橋さんは系列の緩和ケア病棟へと転院していく。
泣いている暇はない。同情なんて、安全な場所にいる人間の自己満足でしかない。私はプロの看護師になるためにここに来ているのだ。
私はもう、目を背けたくなかった。深呼吸をして、リネン庫の冷たいドアノブを握る。まだ正解は見つからない。それでも私は、再びあの光と影が混ざり合う廊下へと足を踏み出した。
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第四章
実習最終日の朝。
今日、高橋さんは緩和ケア病棟へ移る。
ナースステーションには静かな空気が漂っていた。指導教員の先輩看護師とともに高橋さんの病室へ向かう。
薄緑色の病衣から私服に着替えた高橋さんは、ベッドに腰掛けていた。これから死と向き合うための場所へ移る運命を、彼女は一人で受け入れようとしている。
「林さん、高橋さんの靴下を履くお手伝いをして」
先輩の指示を受け、私は彼女の足元にしゃがみ込んだ。
ひんやりとした彼女の足先に触れた瞬間、私はハッとした。まるで氷のように白く冷え切っている。死への恐怖と孤独が、彼女の身体から体温を奪っているのだ。
何か言葉をかけなければ、と思った。昨日リネン庫で誓ったように、目を背けず、彼女に寄り添う言葉を。
しかし、言いかけて喉が詰まった。私の口から出ようとした言葉は、どれも薄っぺらく、安全な場所にいる人間の自己満足に過ぎないことに気づいたからだ。
私はただの、無力な学生だ。
だから私は、何も言わなかった。言うべきではなかった。
ただ、彼女の冷え切った足を少しでも温めるように、ゆっくりと、祈るような気持ちで両手で包み込んだ。靴下のシワを伸ばすふりをして、私の手のひらの体温だけを、静かに分け与えようとした。
高橋さんが、少しだけ身じろぎをした。顔を上げると、彼女は何も言わず、ただ私の手元をじっと見つめていた。その瞳には相変わらず深い諦念の色があったけれど、かすかに、本当に微かに対象への拒絶が和らいだような気がした。
迎えの車椅子が到着し、高橋さんは静かに病室を出た。
長い廊下を歩く彼女の背中を見送りながら、私はハッとした。
私は彼女を救うことも、慰めることもできなかった。彼女は傷つき、そしてこれから命を失っていく。それは厳然たる事実だ。
でも、彼女は逃げずに、自分の運命へと向かっている。看護とは、その孤独な歩みを言葉で飾ることなく、ただ静かに見つめ、一瞬だけ手を温めることしかできないのかもしれない。
午後、佐藤さんの病室へ最後の挨拶に向かった。
「あ、林さん。今日で終わりなんだね」
佐藤さんはふっくらとしたお腹を撫でながら、人懐っこく笑いかけてくれた。
「はい。佐藤さんも、元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
「うん、頑張る!……あ、そういえばさ」
佐藤さんがふと、少し声を落として小首を傾げた。
「今朝、向かいの部屋の高橋さん、いなかったよね。転院しちゃったのかな? 昨日、私変な本落としちゃって……なんだか気まずくて、ちゃんと謝りたかったな」
佐藤さんは気遣いを見せた。それは彼女の世界の中では純度百パーセントの善意だ。
「でも、落ち着いた病院に行けたなら良かった。あっちの部屋にも、早く元気な妊婦さんが来るといいな」
その言葉は、残酷なほど無邪気だった。
他者の抱える見えない死の恐怖に想像が及ばないのは、彼女が自分の幸せの中にいるからであって、決して罪ではない。社会は、こうした無関心な善人たちによって回っている。そして、死んでいく命は、その陽だまりのすぐ隣でひっそりと息をひそめているのだ。
「ええ。それぞれが、前を向いて歩いていかれると思います」
私は静かに微笑み、深く一礼した。
夕方。すべての日程を終え、病院を出た。
少し冷たい夕暮れの風が頬を撫でる。見上げた空は、ピンク色でもグレーでもなく、ただどこまでも透き通った、美しい夕焼け色に染まっていた。




