すろーりーないと
MIMIさんのボカロ曲「すろーりーないと」の勝手なオマージュ作品です。
<Original>
『すろーりーないと』 / feat. 初音ミク
https://www.youtube.com/watch?v=bqyENYGSQzg
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/61860.html
「人はみんな、いつか絶対に死んじゃうのに。どうして皆、あんなに楽しそうに笑えるんだろう」それが、ずっと昔から誰にも言えずに抱えている、私の秘密の疑問だった。朝の光は、私にはちょっと眩しすぎる。特に春から初夏にかけての、容赦なく照りつけてくる太陽は、私の足取りをいつもより重くする。奥川加那、十四歳。中学二年生っていう、大人でも子供でもない中途半端な時期。私の毎朝は、家から学校までの道のりの途中にある、ちょっと薄暗い路地裏を通ることから始まる。
大通りから外れて、自動販売機と古いアパートの隙間をすり抜けた先にあるその細い道は、日陰になっていて、ひんやりと冷たい空気が溜まっている。そこだけ時間が止まっているみたいで、世界から切り離されているような不思議と落ち着く場所だった。
「おはよう」コンクリートの塀の上にちょこんと座っている黒い影に、小さく声をかける。影は、金色の丸い目を細めて、短く「にゃあ」とだけ鳴いた。いつからかこの路地裏に住み着いている、野良の黒猫だ。ツヤツヤの真っ黒な毛は周りの薄暗さに溶け込んでいて、金色の目だけが宙に浮いているみたいに見える。私はこの猫がけっこう好きだった。やたらと近づいてこないし、かといって逃げるわけでもない。ただそこにいて、適度な距離から私をじっと見ている。その冷めた静かな視線が、なんだか心地よかった。
「今日も、学校に行ってくるね」返事はない。ただ、ゆっくりまばたきして見送ってくれるだけ。私にとってこの路地裏は、息を潜めてやり過ごす毎日の中にある、たったひとつの安全地帯みたいなものだった。ここに、私の中にある「誰にも見せられない重たい気持ち」の欠片をそっと置いて、私はまた、眩しい大通りへと戻っていく。
教室に入ると、もうみんなの大きな声でうるさいくらいだった。昨日見たテレビ番組の話、部活の愚痴、誰が誰を好きだっていう噂話。私にはどうでもいいことばかりが、飛び交っている。自分の席に座って、カバンから読みかけの文庫本を取り出す。表紙は、水の中みたいな暗い青色をしている。
「あ、加那。おはよー。またそんな暗そうな本読んでるの?」明るい声と一緒に、目の前の席にドスンと座ってきたのは、小学校からの幼馴染の真帆だ。真帆は私と正反対で、声が大きくて、いつも流行りの色のリップを塗っていて、誰とでもすぐ仲良くなれる太陽みたいな女の子だ。
「おはよう、真帆。暗くないよ。ただ、静かな話なだけ」「出た出た。加那の『静かな話』は、大抵最後は誰も救われないやつじゃん。この前の貸してくれた本だって、主人公が全部失って終わるバッドエンドで、私、読んだ後三日くらい引きずったんだからね」真帆は口をとがらせて文句を言う。私は小さく苦笑いして、本のページを撫でた。
真帆の言う通り、私がよく読むのは、世間一般で言う「ハッピーエンド」じゃない物語ばかりだった。明るく前向きで、努力は必ず報われて、最後はみんな笑顔で終わるお話。そういう本を読むと、私はなんだか居心地が悪くなる。嘘くさいなって思ってしまうのだ。だって、現実はそんなに都合よくできてない。人は簡単に傷つくし、頑張ってもダメな時はダメだし、何も悪いことをしてなくても不幸になる人はいる。だから、悲しい結末や、暗く沈んでいくようなお話のほうが、私にとってはよっぽど「本当のこと」っぽくて、なぜかすごく安心できるのだ。
「加那ってさあ」真帆が、机に頬杖をつきながら私をじっと見つめてきた。「顔立ちはけっこう整ってるし、まつ毛も長いんだからさ。もっと笑って、明るくしてれば絶対可愛いのに。ほんと、もったいないよ。ほら、前髪も少し切ったら?」「……私は、これでいいの。地味なままで」私が視線を落として答えると、真帆は「はいはい」と呆れたように笑って、他の友達に呼ばれたのか席を立っていった。
『明るくしてれば可愛いのに』。その言葉は、いつも私にまとわりついてくる。大人たちもみんな、口を揃えて言う。「中学生なんだから、もっと元気よくしなさい」って。でも、元気に振る舞うって、どういうことだろう。当たり前みたいに明日が来るって信じて、当たり前みたいに将来の夢を語ること?
私は、窓から見える青空を見上げた。あんなに綺麗な青空の下でも、世界中のどこかで、今この瞬間にも死んじゃう人がいる。いつかは私も、真帆も、先生たちも、外を歩いている知らない人たちも、絶対にみんな死ぬ。百年後には、今この教室で笑ってる人は誰一人として残っていないんだ。それなのに。最後は全部「無」になっちゃうって決まってるのに。どうして皆、あんなに必死に勉強して、恋をして、傷ついて、そしてあんなに無邪気に笑えるんだろう。まるで、自分だけはずっと死なないみたいに。
私には、それがどうしても分からない。世の中の「当たり前」が、私にはすっぽり抜け落ちている気がする。誰かが面白いことでも言ったのか、教室の隅で大きな笑い声が弾けた。私はその笑い声を、どこか遠い別の国の言葉みたいに聞き流しながら、もう一度手元の本に目を落とした。
悲しくはない。全然、悲しんでるわけじゃない。ただ、みんなが当たり前に持ってる「前を向いて生きるための部品」みたいなものが、私には最初から足りないまま、大人になろうとしてるだけのこと。静かに息を吸い込むと、胸の奥に入ってきた空気が、あの路地裏と同じくらい冷たく感じた。
*
図書室で宿題を片付けて、学校から帰ってくると、家の中にはハンバーグを焼く匂いが充満していた。「あ、加那。おかえりなさい。手洗ってきなさいね、もうすぐご飯だから」キッチンから顔を出したお母さんが、フライ返しを持ったまま明るく言う。リビングのソファでは、今日は早く仕事から帰ってきたらしいお父さんが、ネクタイを緩めながらテレビのバラエティ番組を見て笑っていた。
「……ただいま」私は短く答えて、洗面所に向かった。お母さんのことも、お父さんのことも、私は大好きだ。私の家は、いわゆる「普通で幸せな家庭」だと思う。休みの日は家族で買い物に出かけたりするし、誕生日のケーキは毎年欠かさず買ってきてくれる。暴力を振るわれることも、ひどい言葉を投げつけられることもない。温かくて、優しくて、平和な場所。でも、だからこそ、私は時々どうしようもなく息苦しくなることがあった。この明るいリビングには、私の抱えている薄暗くて冷たい「疑問」を持ち込んではいけないような気がするからだ。
夕食のテーブルには、お母さん特製のハンバーグと、ポテトサラダ、それにコーンスープが並んだ。テレビからは相変わらず、芸能人たちの大きな笑い声が流れている。
「そういえば加那、もうすぐ進路希望のプリント出す時期じゃない? 二年生になったばかりだけど、あっという間に受験生になるんだからね。どこか行きたい高校、考えてるの?」ご飯をお茶碗によそいながら、お母さんが尋ねてきた。私はハンバーグに箸を突き刺したまま、少しだけ考え込んだ。
「……特には、ないかな。行けるところでいい」「もう、そんなんでどうするの。お父さんからも何か言ってやってよ」「まあまあ。まだ中二なんだから、これからやりたいことを見つければいいさ。焦らなくても、加那のペースでゆっくり大人になればいいんだよ」お父さんはビールを一口飲んでから、私の頭をぽんと撫でた。その大きくて温かい手は、とても心地よかったけれど、私の心の一番奥にある冷たい場所までは届かない。
ゆっくり大人になればいい。その言葉が、ふと私の中で引っかかった。大人になるって、どういうことだろう。大人になれば、私がずっと不思議に思っていることの答えも、分かるようになるんだろうか。
「ねえ、お父さん、お母さん」気がつくと、私は口を開いていた。テレビの笑い声に負けないように、でも、震えないように、慎重に言葉を選んで。「どうしたの?」「……人はみんな、いつか死んじゃうよね」
その瞬間、食卓の空気がピタリと止まった。お父さんの顔から、スッと血の気が引いたように見えた。お母さんの箸を持つ手も宙で止まり、かすかに震えている。テレビの音だけが、やけにうるさくリビングに響いている。
ほんの数秒の沈黙。それは「思春期の娘の難しい質問」に困惑したというよりも、大人である彼ら自身がずっと目を背けてきた『絶対的な恐怖』の蓋を、不意に開けられてしまったことへの怯えのように見えた。
けれど、次の瞬間には、お父さんはわざとらしく大きな声を出して笑った。「なんだ、そんな難しいこと考えてたのか。加那は昔から本ばっかり読んでるから、ちょっと考えすぎちゃうんだな」「……考えすぎ?」「そうよ」お母さんも、ほっとしたように笑いかけてきた。「死んだ後のことなんて、生きてる誰にも分からないじゃない。だから、今を一生懸命、楽しく生きることが大事なのよ。美味しいもの食べて、友達と遊んで、ね?」「そうそう。死んだらお星さまになるって昔から言うだろ? それに、そんな暗いことばっかり考えてたら、せっかくのハンバーグが冷めちゃうぞ。ほら、食べなさい」
二人はそう言って、私のお皿にサラダを取り分けた。そしてまた、テレビのバラエティ番組に視線を戻し、芸能人の冗談に笑い始めた。私は、冷めかけたハンバーグを口に運んだ。味はよく分からなかった。
二人は優しい。私のことを愛してくれている。それは嘘じゃない。でも、二人は私の質問に答えてはくれなかった。『分からない』『今を楽しく生きればいい』。それは答えじゃなくて、ただ目を逸らしているだけだ。大人たちだって、本当は死ぬのが怖いのだ。最後が「無」になることが恐ろしいから、楽しいことや忙しい予定で頭をいっぱいにして、見ないふりをしているだけなんじゃないか。
知ったかぶってる、大人たち。「そういうものだから」という便利な言葉で、一番大切な生き方ひとつ、教えてはくれない。当たり前の幸せなんて、私にはよく分からないままだ。
「……ごちそうさま。私、部屋に戻るね」半分ほど残してしまったお皿を片付けて、私は逃げるように自分の部屋へ向かった。
部屋のドアを閉めると、そこには私だけの静かな夜があった。電気をつける気になれず、私はベッドに潜り込んだ。窓の外からは、遠くを走る車の音だけが、波のように寄せては返していく。夜はいい。夜は平等だ。明るく笑っている真帆にも、無理をして大人ぶっている私にも、悩みを誤魔化す両親にも、夜の暗闇は同じように降り注いでくれる。太陽みたいに「元気でいなさい」と急かしてこない。
私はベッドの横の小さなランプだけをつけて、枕元に積んである本の中から一冊を取り出した。学校の図書室で借りてきた、宇宙と科学についての分厚い本だ。私は、理科が好きだった。国語の物語みたいに、嘘くさいハッピーエンドを押し付けてこないからだ。理科は、いつだって冷たくて、正しい。水は百度で沸騰するし、リンゴは必ず地面に落ちる。そこには人間の感情が入る隙間なんてなくて、ただ「事実」だけが並んでいる。その無機質な感じが、私をとても安心させてくれた。
パラパラとページをめくる。星の誕生、銀河の渦、ブラックホール。頭の上に広がる宇宙の果てしなさに比べたら、人間の悩みなんて本当にちっぽけだ。そう思えば、少しだけ楽になれるような気がした。でも、科学は時々、私をどん底に突き落とす。
「人間の死について」という小さなコラムのページで、私の手は止まった。そこには、医学的・科学的な観点からの「死」が淡々と書かれていた。心臓が止まり、血液が流れなくなる。酸素が行き渡らなくなった脳の細胞は数分で死滅し、すべての機能が停止する。それが「死」だと。
『脳の機能が停止した時点で、意識や感情、記憶を司るシステムは完全に失われる。つまり、科学的に言えば、死後に意識が存続することはない』
活字をなぞっていた指先が、スッと冷たくなった。死んだら、お星さまになるわけじゃない。天国でお花畑を散歩するわけでもない。ただ、私という意識を作る脳みそのスイッチが切れて、壊れるだけ。真っ暗闇になる、ということすら違うのだ。だって、「暗い」と感じる私自身が消えてなくなるのだから。
「無」になる。私が今まで見てきた景色も、お母さんのハンバーグの味も、路地裏の黒猫の冷たい目も、私がこれまでに感じた「悲しい」とか「嬉しい」という気持ちも。全部、全部、はじめから存在しなかったのと同じように、消えてなくなる。ただの物質に戻って、土に返って、分解されるだけ。
「…………っ」突然、得体の知れない巨大な恐怖が、足元から這い上がってきた。心臓がぎゅっと掴まれたように痛くなって、息の仕方が分からなくなる。怖い。怖い。怖い。自分が消えてなくなるのが怖いんじゃない。自分が「消えたことすら分からない」完全な無になってしまうことが、どうしようもなく恐ろしかった。
なんで皆、こんな怖い事実を知りながら、平気な顔で生きていけるの?明日も当たり前に目が覚めるなんて、どうして信じられるの?
私は本をベッドに放り出し、膝を抱えて丸くなった。ガタガタと震える体を、自分で強く抱きしめる。理科は、科学は、嘘をつかない。だからこそ、この「死んだら何もない」という残酷な真実からは、絶対に逃げられないのだ。窓枠で縁取られた夜空を見上げる。あそこには、途方もない広さの宇宙が広がっている。果てしない真空の冷たさと、私がいつか迎える「無」の冷たさが、リンクしているような気がした。
誰も、教えてくれない。この恐怖とどうやって付き合っていけばいいのか。どうすれば、皆みたいに上手く「生きていくこと」ができるのか。私の心の中にある宝箱は、不安という名前の黒くて冷たいピースで、もういっぱいになりそうだった。
*
あの恐ろしい夜から数日が経っても、私の中には薄暗い靄のようなものがずっと居座り続けていた。息を吸うたびに、胸の奥がひやりとする。「私」という存在が、いつか完全にスイッチを切られ、暗闇すら認識できない「無」に帰るのだという冷酷な事実。それは、鉛のように重たく私の胃の底に沈み込み、日常のあらゆる場面で私の足を引っ張った。友達と笑い合っている真帆や結衣の顔を見ても、黒板の文字をノートに書き写していても、不意に「でも、これも全部なくなるんだ」という虚無感が顔を出す。
そんな中で迎えた、木曜日の五時間目。理科の授業だった。理科室には、アルコールランプの埃っぽい匂いと、ホルマリンや薬品のツンとした匂いが染み付いている。私は普段、この冷たくて無機質な空間が好きだった。けれど今日に限っては、理科室の空気は私をじわじわと追い詰める尋問部屋のように感じられた。科学が突きつける「死=無」という絶対的な真実から、逃げられないような気がしたからだ。
「えー、では今日は、物体の運動とエネルギーの法則についてやります」理科の小林先生は、少し猫背の中年男性で、いつも眠そうな声で話す。白衣のポケットにはペンが何本も雑に突っ込まれていて、お世辞にも生徒から人気があるとは言えない。けれど、私はこの先生の授業が嫌いではなかった。無駄な熱血指導もなく、ただ淡々と「世界のルール」を教えてくれるからだ。
「高いところから物を落えば、重力に従って必ず下に落ちる。これは地球上にいる限り、絶対に覆らないルールですね。百年前も、今日も、そして明日も、リンゴは木から地面に向かって落ちます」チョークが黒板を叩く「カツ、カツ」という音が、静かな理科室に響く。絶対に覆らないルール。その言葉が、また私の胸をチクリと刺した。そう、覆らないのだ。重力が存在するように、人間が必ず死ぬことも、死ねばただの物質に戻ることも、絶対に覆らない。
私は手元のノートに視線を落とし、シャープペンシルの芯を無意味に出したり引っ込めたりした。息苦しい。窓を開けて、今すぐここから逃げ出してしまいたい。
その時だった。
「先生ー、もし明日いきなり重力がなくなったら、俺ら宇宙まで飛んでっちゃうんですか?」
一番後ろの席の男子が、ふざけた声で質問した。クラスからクスクスと笑い声が漏れる。
いつもなら適当に流す小林先生だが、黒板に数式を書いていた手を止め、チョークを持ったまま振り返った。
「……まぁ、いきなりなくなることはないでしょうね。でも、それはあくまで『科学の領域』での推測です」先生は、少し開いた窓の外、初夏の青空をぼんやりと見上げた。「哲学的にはね、明日も今日と同じ物理法則が成り立つなんて、実は誰にも証明できないんですよ」
その瞬間。私の中で、何かがかすかに音を立てたのが分かった。
「……え?」思わず、小さく声が漏れた。明日も同じ法則が成り立つとは、誰も証明できない?リンゴが明日も必ず下に落ちるという保証は、本当はどこにもない?
「極端な話、明日の朝起きたら、突然重力が逆向きに働いて、私たちが全員空に向かって落ちていく可能性を『ゼロだ』と断言できる人間は、この宇宙に一人もいないんです。私たちはただ、昨日も今日もそうだったから、明日もそうだろうと『信じて』生きているだけなんですよ」先生は少しだけ自嘲気味に笑い、「まあ、テストには出ない余談ですけどね」と言って、再び黒板に向き直った。
教室は、何も変わらない。隣の席の男子はあくびをしているし、外からはグラウンドで体育の授業を受けている生徒たちの声が聞こえてくる。けれど、私の中の風景は、ほんの少しだけ揺らいでいた。誰も、証明できない……?あの、絶対だと思っていた科学でさえ、「明日も同じである」と100パーセント断言することはできない?
だとしたら。私の心をあんなにも縛り付けていた、「死んだらすべてが機能停止して、永遠の無になる」というあの残酷な事実も。
……いや、もちろん、そんな奇跡は起こらないだろう。明日もリンゴは間違いなく下に落ちるし、重力がいきなり逆転するなんてあり得ない。人間は死ねば呼吸を止め、脳のスイッチは切れ、百年後には私もただの骨になっている。死が冷たい「無」であるという通念は、きっと私の中でずっと残り続ける。それでも。死んだ先の世界に、今の物理法則が「完全に」通じるかなんて、誰にも証明できないのだ。私という意識が消滅して無になるというルールすら、ほんの0.0001パーセントくらいは、間違っている可能性が残されている。
頭を殴られたような衝撃のすぐ後に、それはやってきた。すとん、と。胸の奥にこびりついていた重たい泥の表面が、ほんの少しだけひび割れたような、ささやかな安堵感だった。死への恐怖が消えたわけじゃない。ただ、得体の知れない真っ暗な落とし穴だと思っていた「死」の底に、針の穴ほどの小さな「誰も分からない」という光が差したのだ。その微かな「無知」の事実が、今の私にはちょっとだけ優しく感じられた。
「……はあ」気づけば、私の口から小さな溜息が漏れていた。息を吸うのが、さっきよりも少しだけ楽になっていた。重力の法則すら0.0001パーセント疑えるのなら、私が抱えているこの重たい絶望だって、ほんの少しだけ隙間風を入れてもいいのかもしれない。
*
五時間目、そして六時間目の授業が終わり、放課後になった。
私はすぐに帰る気になれず、図書室へ向かった。窓際の席で宇宙の図鑑を広げていると、静かな空間の中で、あっという間に時間が過ぎていく。
「奥川さん、もう閉館時間よ」
図書委員の先輩に声をかけられ、時計を見るともう夕方の六時前だった。
図書室を出て、校舎の裏手にある花壇のそばを歩く。初夏の風が吹き抜けていく。
ふと足元に目をやると、青々としたクローバーが群生していた。しゃがみ込んで、その小さな丸い葉っぱに指先で触れる。柔らかくて、確かにそこに命の感触がある。明日、このクローバーが空に向かって落ちていくかもしれない。そんな馬鹿げたことは絶対に起きない。分かっている。分かっているけれど、そう想像すること自体は、誰にも禁止されていない。
地面に根を張る小さなクローバー。そして、私は顔を上げて空を見た。どこまでも続く青空は少しずつ群青色に沈みかけ、夜になれば、そこには途方もない広さの宇宙が顔を出す。足元に咲いているクローバーと、頭の上には宇宙。私は今、その二つの間に挟まれて、ただぽつんと立っている。絶対的なルールからほんの一瞬だけ目を逸らしたような、夢の中なのか外なのかも分からないような、不思議な浮遊感。
「なんだ。誰も、完全には分かってないんだ」口に出して呟いてみると、それはちょっとだけ心強い言葉に聞こえた。
学校を出て、帰路につく。
大きな交差点に差し掛かった時だった。横断歩道の向こう側から、部活帰りの生徒たちの大きな笑い声が聞こえてきた。私の前には、同じように家路を急ぐ制服姿の背中がいくつも並んでいる。誰もが友達と肩を寄せ合い、スマートフォンを覗き込みながら、今週末の約束や、近づいてきた中間テストの愚痴、あるいは未来の高校生活について無邪気に語り合っている。
『カッコウ、カッコウ』と、歩行者用の信号機から電子音が鳴り響いた。赤から青へ。私の前に立っていた人たちが、一斉にアスファルトを蹴って歩き出す。誰もが迷うことなく、前を向いて、当たり前のように未来へと進んでいく。私も足を前に出そうとした。けれど、靴の底が地面に張り付いたように動かなかった。
彼らが持っている「明日を疑わない強さ」や、無意識のエネルギーが、圧倒的な正解として私に迫ってくる。私には、あんな風に真っ直ぐ未来へ進むことはできない。その事実に足がすくんでいるうちに、信号機は点滅を始め、やがて無情にも赤に変わってしまった。
私は、青信号を渡れなかった。
無理をしてあの明るい群れの中に飛び込んでも、きっと息ができなくなるだけだ。急いで帰る必要なんてない。私には、もっと暗くて、静かで、私に似合う場所がある。
大通りに背を向け、私はいつもの細い路地裏へと足を踏み入れた。苔むしたブロック塀と、古いアパートの影。自動販売機の放つ人工的な白い光だけが、薄暗い空間をぼんやりと照らしている。そこには、すっかり日が暮れた、青と黒が混ざり合うような静寂が溜まっていた。
「……にゃあ」足元から、かすかにしゃがれた声が聞こえた。目を落とすと、そこにはあの黒猫がいた。いつもは塀の上にいるのに、今日はコンクリートの地面に座って、金色の目で私を見上げている。
「ただいま」私はカバンを足元に下ろし、壁に背中を預けるようにしてしゃがみ込んだ。ひんやりとした壁の温度が、火照った頭を静かに冷ましてくれる。
「ねえ」私は、自分の膝を抱え込みながら、ぽつりと語りかけた。相手は猫だ。言葉が通じるわけではない。でも、だからこそ言えることがあった。「私、やっぱり変なのかな。みんなみたいに、真っ直ぐ未来に進めないんだ。明日も生きたいって、心から思えない。悲しい話が好きで、すぐ死ぬことばっかり考えてて……もっと明るくできたらいいのにって思うのに、できないの」
吐き出した言葉は、どれもこれも後ろ向きで、じめじめとしていた。「こんなふうに、ずっと病んだまま大人になっていくのかな。……嫌だなあ」
膝に顔を埋めて、目を閉じた。その時、足首のあたりに、ふわりと温かいものが触れた。驚いて顔を上げると、黒猫が私の足に自分の体をすり寄せていたのだ。いつもは冷ややかな距離を保っているくせに、今日に限って喉をゴロゴロと鳴らしながら、私を慰めるように何度も頭を擦り付けてくる。柔らかくて、温かい命の感触。私は、黒猫の背中をゆっくりと撫でた。
路地裏の隙間から見上げる空は、もうすっかり夜の闇に覆われていた。夜はいい。夜は平等だ。青信号を迷わず渡れる明るい人たちにも、路地裏でうずくまっている私のような人間にも、等しく優しく降り注ぎ、すべてを曖昧な輪郭で包み込んでくれる。太陽みたいに「早く進め」「明るくしろ」と急かしてきたりしない。
暗闇の中で黒猫の体温に触れていると、なんだか、心の底からふつふつと不思議な感覚が湧き上がってくるのを感じた。私は、どうしようもなく後ろ向きだ。でも、別にそれでもいいんじゃないか。死ぬのが怖くて、未来が眩しくて、足がすくんでしまう。そんな完璧じゃない私でも、この広い宇宙の片隅にある小さな路地裏で、猫を撫でながら静かに息をしている。誰も証明できない明日の法則の中で、もしかしたら神様みたいな存在が「しょうがないなあ」って笑って見逃してくれているのかもしれない。
自分自身から零れ落ちた「後ろ向きな言葉」たちを、ゆっくりと自分の中に受け入れていく。
自分の中にある、誰にも言えない重たくて暗い感情。でも、本当は手放したくない、名前のない穏やかな心の欠片。それを、この薄暗い路地裏という宝箱にそっと隠しておく。いつか、本当に心から笑って幸せになれる、その時まで。
「なんだか、全部、許せちゃってんだ」
小さく呟いたその言葉は、誰に聞かせるわけでもない独り言だったけれど、私自身の耳にはっきりと届いた。完璧なハッピーエンドなんていらない。私は私だけの、この少し暗くて、ゆったりとした夜の時間を、私なりの歩幅で進んでいけばいいのだ。
黒猫がまた「にゃあ」と鳴いた。私は、ようやく少しだけ、本当に心から笑うことができた。自動販売機の光に照らされた路地裏は、私にとって、どんなに明るい大通りよりも居心地のいい場所だった。




