園遊会2026
※短編集のため、前章とは別作品です。
キャサリン・マンスフィールド「園遊会」の現代翻案版です。
これ以上ないほど完璧な文化祭の最終日だった。たとえ神様に注文してみたところで、これより劇にふさわしい日は手に入らなかっただろう。風はなく、空には一点の雲もない。体育館の周辺には、朝早くから実行委員たちが立ち現れ、看板を立て、テントを張り、校舎中が磨き上げられたような活気に満ちていた。
どこからかブラスバンド部のチューニングの音が響き、中庭では模擬店の鉄板が焦げる匂いがする。何百人もの生徒たちが、一夜にして咲き誇った花のように笑い合い、叫び、校舎全体が巨大な生き物のように脈打っていた。
「結衣先輩、照明の立て込み、終わりました!」
演劇部の部室に飛び込んできた一年生の声に、結衣は「ありがとう!」と明るく応えた。今日は彼ら演劇部の一年間の集大成、メインステージでの公演日だ。主役を務める結衣は、朝から胸の奥で炭酸が弾けるような高揚感に包まれていた。誰よりも完璧に演じてみせる。そんな自信に満ち溢れていた。
「ねえ、結衣」と同級生の真希が、衣装の入った段ボールを開けながら言った。「今年のドレス、本当に最高傑作じゃない? 結衣がこれを着たら、全校生徒が息を呑むわよ」
真希が取り出したのは、深い真紅のベルベットに、幾重にも重なる黒のオーガンジーがあしらわれた、息を呑むほど華やかなドレスだった。結衣がそれに手を伸ばそうとした、まさにその時だった。
「……先輩!」
一年生の美桜が、血相を変えて部室に飛び込んできた。息は乱れ、顔からすっかり血の気が引いている。
「どうしたの、美桜ちゃん?」
「兄が……」美桜はガタガタと震えながら、絞り出すように言った。「お兄ちゃんが、今朝、ベッドで……突然亡くなっているのが見つかったって、今、お母さんから連絡が……」
美桜はそのまま床にへたり込み、両手で顔を覆って泣き崩れた。
部室の空気が凍りついた。誰も言葉を発せられなかった。結衣はただ、呆然と美桜の震える背中を見つめていた。やがて、顧問の武田先生が駆けつけ、美桜は制服のポケットに入れたスマホだけを握りしめ、自分のスクールバッグを部室の隅に放り出したまま、先生の車で病院へと向かっていった。
完璧だった朝の空気に、べっとりと冷たい泥が塗られたようだった。
結衣は居ても立っても居られず、台本の最終確認をしていた部長の席へ向かった。
「先輩、今日の公演、中止にすべきです」
結衣の言葉に、部長は台本から顔を上げ、心底驚いたような顔をした。
「中止? 結衣、何を言ってるの。そんなことできるわけないじゃない」
「でも、美桜ちゃんのお兄さんが亡くなったんですよ? 今朝ですよ?身内が亡くなって泣いている部員がいるのに、私たちが舞台の上で喜劇を演じて笑いを取るなんて、どうかしてます」
部長はため息をつき、困り果てたように結衣を見た。
「結衣、気持ちはわかるわ。私も本当に気の毒だと思う。でもね、亡くなったのは学校の外よ。それに、私たちはこの日のために一年間、血の滲むような努力をしてきたの。結衣だってそうでしょう?見ず知らずの他人の不幸で、部員全員の努力を台無しにするなんて、プロ意識に欠けるわ」
「見ず知らずじゃありません、美桜ちゃんのお兄さんです!」
「結衣がいくら感傷的になったって、亡くなった人は生き返らないのよ」部長の目は冷たく、そして少し苛立っていた。「武田先生も、予定通り上演するようにって仰ってたわ。さあ、もう時間がない。メイクに入って」
納得がいかなかった。自分たちはなんて冷酷で、不人情なのだろう。結衣は憤ったままメイク用の鏡の前に座った。
そこへ真希がやってきて、結衣の肩にふわりとあの真紅のドレスを掛けた。
「ほら、結衣。着てみて。すごい、ぴったりじゃない!」
真希は手際よく結衣の髪を結い上げ、濃いルージュを引き、アイシャドウを重ねていった。
「結衣、自分がどれだけ綺麗か、見てごらんよ!」
結衣は不承不承、鏡に目をやった。
そこには、自分とは思えないほど美しく、艶やかで、圧倒的な存在感を放つ少女がいた。赤いベルベットが肌の白さを際立たせ、濃いメイクが目元の意志を強く見せている。自分がこれほどまでに見えるとは、今まで思いもよらなかった。
なんて美しい衣装だろう。
結衣の胸の奥で、抗いがたい熱が持ち上がった。先輩の言う通りかもしれない。私がここで公演を潰したところで、悲しみが消えるわけではないのだ。
(文化祭が終わったら、ちゃんと美桜ちゃんのことを考えよう)
結衣は心に決め、鏡の中の美しい自分に向かって、微かに微笑んでみせた。
午後になり、幕が上がった。
劇は、これ以上ないほどの大成功だった。眩しいスポットライト、響き渡るBGM、そして観客の割れんばかりの笑い声と拍手。結衣は「生きていることの熱狂」に完全に酔いしれていた。自分が放つ台詞のたびに空気が揺れる。みんなが自分を見つめ、称賛している。そこには一片の死の影もなかった。この輝かしい空間こそが世界のすべてだった。
「結衣、最高だった!」「スタンディングオベーションだったね!」
終演後、部室は興奮と熱気に包まれていた。誰もが笑い合い、お互いの健闘を称え合っていた。結衣もまた、高揚感で頬を紅潮させながら、その輪の中心にいた。
ふと、鏡の裏に置かれたままの、美桜のスクールバッグが目に入った。
その時だった。部長のスマホが鳴った。
「あ、美桜からLINEだ……えっと、『部長、ごめんなさい。朝、パニックで部室にバッグを忘れてしまいました。今、桜が丘セレモニーホールのロビーにいるんですが、両親は葬儀屋さんとの話し合いで手が離せなくて。私がいったん家に帰って、着替えや親戚の連絡先を書いた手帳を取ってこなきゃいけないのに、家の鍵も、財布も、全部バッグの中で……。お葬式の準備が進まなくて、どうしよう』だって」
それを聞いた瞬間、結衣の胸に鋭い氷の刃が突き刺さった。
私たちは、なんて残酷なのだろう。
美桜が絶望の中で、葬儀場の冷たいロビーで途方に暮れている間、自分たちはこの華やかな衣装を着て、スポットライトを浴び、バカ騒ぎを楽しんでいたのだ。
「先生に連絡して、車で届けてもらいましょうか」と部長が言った。
「私が届けます!」
結衣は叫ぶように言い、美桜のバッグをひったくった。
「ちょっと結衣、その格好で!?」
「急がないと、美桜ちゃんが困るから!」
結衣は、複雑な構造のドレスを脱ぐことも、時間をかけて舞台メイクを落とすこともせず、ただその上から演劇部の大きな黒いベンチコートをすっぽりと羽織り、部室を飛び出した。
大人の事務的な対応になんて任せておけない。自分が楽をしてしまったことへの、残酷なまでに劇を楽しんでしまった自分自身への罰のように、今すぐ自分の足で届けなければならないという衝動に突き動かされていた。
夕暮れの冷たい風が、火照った結衣の頬を撫でた。駅へ急ぎながら、心配してLINEをくれていた同級生の陸に「美桜ちゃんのいる桜が丘セレモニーホールへ向かう」とだけ短いメッセージを返した。
文化祭の喧騒が遠ざかり、最寄り駅から乗った電車の中は、不気味なほど静かだった。窓ガラスには、ベンチコートの裾から真紅のドレスのフリルを覗かせ、舞台用の濃いルージュとアイシャドウを施した自分の顔が映っていた。街の灯りが遠ざかるにつれ、結衣は少しずつ正気を取り戻し始めた。
なんてけばけばしい格好だろう。
今から自分は、人が死んで横たわっている場所へ行くのだ。コートで隠しきれないこの派手な衣装と顔で、遺族の前に立つのか。激しい羞恥心と後悔が波のように押し寄せたが、今さら引き返すことはできなかった。
「桜が丘セレモニーホール」という無機質な看板が見えた。
静まり返ったロビーで、美桜は一人ぽつんとソファに座っていた。結衣の姿を見ると、わっと泣き出した。
「結衣先輩……わざわざ、こんな遠くまで……」
「ごめんね、遅くなって。バッグ、持ってきたよ」
「ありがとうございます。……先輩、中へ。ここまで来てくれたんだから……お兄ちゃん、かっこよかったんですよ。見てやってください」
断ろうとしたが、パニックと喪失感の中で少し現実感を手放したような美桜に手を引かれ、結衣は重い扉の向こう、安置室へと足を踏み入れてしまった。
線香の匂いが立ち込める薄暗い部屋。
結衣が入っていくと、急いで歩いたせいで羽織っていたベンチコートの前がはだけ、中の真紅のベルベットのドレスが、キラキラとしたアイシャドウが、露わになってしまった。
(ああ、神様、この残酷な生者の傲慢を隠して)
結衣は震える手でコートを握りしめた。ただバッグを置いて、すぐに立ち去るべきだったのだ。
「お兄ちゃん、先輩が来てくれたよ」
美桜が、部屋の奥の白い布団のそばへ歩み寄った。そして、そっと顔に被せられた白い布をめくった。
「見てやってください。眠ってるみたいなんです」
結衣はおそるおそる進み出た。
そこには、若い男が横たわっていた。ぐっすりと眠って――あまりにも安らかに、深く眠り入っているので、この世の喧騒から遥か彼方にいるようだった。
結衣たちが数時間前まで浴びていた歓声や、結衣の顔に塗られた派手なメイク、身をよじるような後悔など、いったい彼に何のかかわりがあろう。彼はそうした生々しいものすべてから、完全に遠く離れ去っていた。
彼はただ静かで、大理石のように完璧な美しさに満ちていた。
みんなが体育館で笑いさざめき、音楽が鳴り響いていたとき、この絶対的な静寂と驚異が、ここで起きていたのだ。
結衣は、自分が纏っている「生の熱狂の象徴」が、この完璧な静寂の前ではあまりにも無力で、ちっぽけで、滑稽なものに思えた。生者のエゴイズムを全身に纏ったまま、この神聖な場所に足を踏み入れてしまった自分が許せなかった。
結衣の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私のこの衣装を、許して」
結衣は心の中で痛切に呟き、美桜たちに深々と頭を下げると、逃げるようにその部屋を飛び出した。
夜の冷たい空気を切り裂くように、結衣は葬儀場の駐車場を走った。
「結衣!」
声にはっと顔を上げると、駐車場の街灯の下に、同級生の陸が立っていた。結衣が飛び出していくのを見て心配になり、結衣からの短いLINEを頼りに自転車で駆けつけてくれたのだ。
息を切らしている陸の姿を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、結衣は彼の胸にすがるようにして泣き崩れた。赤いルージュが彼のシャツを汚すことも構わなかった。
「泣くなよ」陸は少し戸惑いながら、その背中を不器用に撫でた。「怖かったのか?」
「違うの」と結衣はしゃくり上げた。「ただ、圧倒されたの。でも、陸……」
結衣は顔を上げ、陸を見た。
「生きるって……人生っていうのは……」
自分の着ているこの派手なドレスの虚しさも、文化祭の熱狂も、そしてあの圧倒的に美しい死顔も、どう言葉にすればいいのかわからなかった。
しかし、陸にはそれで十分伝わったようだった。彼は静かに夜空を見上げ、結衣の肩を抱き寄せた。
「ああ、そうだな。本当に、そういうものなんだな」




