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今際の際 他  作者: 山田
1/7

今際の際にて

いよわさんのボーカロイド曲「IMAWANOKIWA」の世界観を、

AI監修で短編小説にさせました。


原曲

https://www.youtube.com/watch?v=OVwCr2MESfo

 For sale: baby shoes, never worn.

 ——Anonymous


 ドラマを観るのが好きだった。

 甘く、わかりやすいハッピーエンドに浸るのが好きだった。

 画面の中では、どんなに絶望的な状況に陥っても、最後には必ず鮮やかな救いが用意されている。すれ違っていた恋人たちは出発間際の空港で抱き合い、不治の病は奇跡的に治り、バラバラだった家族は温かい食卓で笑い合う。

 そういう、緻密に計算し尽くされた「嘘」を消費することで、私は自分の平坦で退屈な日常をやり過ごしていた。

 当時の私は、二十四歳。

 一歳年上の恋人、大翔ひろとと同棲を始めて半年が過ぎた頃だった。

 私たちが選んだのは、駅から徒歩十五分という立地の割に、家賃が不自然なほど安い、古い大型マンションの一室だった。

 内見の際、不動産屋の若い担当者は、少し声を潜めて世間話でもするように「実はお隣の部屋で、一年半前にベランダからの転落死事故がありまして……。この部屋自体は問題ないんですが、気にする方もいるので家賃が相場より少し安くなっているんです」と説明した。

「あー、事故物件ってやつですか。でも、俺たちが借りる部屋じゃないんでしょ?」

 大翔はあっけらかんと言い放ち、私もスマホで間取り図を確認しながら「まあ、安いに越したことはないしね」と軽く同意した。

 若さとは、他人の死に対して残酷なほど無頓着でいられる特権のことだ。

 どこの誰とも知らない人間がアスファルトに落ちたという過去よりも、毎月の固定費が数万円浮くことや、近くに遅くまで開いているスーパーがあることの方が、私たちにとってはるかに重要で、切実な問題だった。

 私たちの生活は、良くも悪くも「安逸」そのものだった。

 大手メーカーに勤める大翔は、根は真面目で、順当にいけば数年後には私にプロポーズをして、そこそこの「正解」の人生を与えてくれる男だった。

 けれど、その「正解」があまりにも透けて見えることに、私は時折、どうしようもない息苦しさを感じていた。彼と一緒にいると、自分の人生が、あらすじを最後まで読んでしまった退屈な小説のように思えることがあった。

 その夜も、私たちは他愛のないことで喧嘩をした。

 きっかけは、私が熱心に観ていた恋愛ドラマの最終回に対する、大翔の冷めた一言だった。

「現実であんな風に空港のロビーで叫んだら、即刻警備員呼ばれて終わりっしょ。だいたい、仕事ほっぽり出して海外まで追いかけるとか、社会人としてあり得ないし」

 夕食の後、ソファでポテトチップスを齧りながらスマホのゲームに夢中になっている彼の横顔を見て、私の中で何かがプツリと切れた。

「そういう現実的な話をしてるんじゃないんだけど。もう少し、物語として楽しめないの?」

「いや、だって冷静に考えてみろよ」

「冷静になんてなりたくないからドラマ観てるの!」

 私の理不尽な語気に、大翔もムッとしたようだった。そこから先は、いつもの不満のぶつけ合いだ。

「優奈はさ、夢見すぎなんだよ。ドラマみたいな劇的な生活なんて、どこにもないんだからさ」

 大翔のその言葉が、私の図星を突いた。

 私は逃げるように洗面所へ向かい、やり場のない苛立ちをぶつけるように、溜まっていた洗濯物を洗濯槽に強引に突っ込んだ。分厚いバスマット、ジーンズ、大翔のスウェット。許容量を完全に超えていることは分かっていたが、力任せに蓋を閉め、スタートボタンを乱暴に押した。

 最初から、嫌な音がしていた。

 ガコン、ガコン、という不規則な重低音。洗濯機は、自分の中に抱えきれない不均衡を必死に排出しようとするみたいに、不気味なほど大きく揺れ始めた。

「……ちょっと、なんか変な音してないか?」

 大翔がリビングから顔を出そうとした、その時だった。

 ガコン、と重い音がして、けたたましいエラー音が鳴り響いた。液晶パネルに見慣れない赤い文字が点滅し、洗濯槽は完全に沈黙してしまった。

 恐る恐る蓋を開けると、水をたっぷり吸って信じられないほど重くなった洗濯物が、無惨な塊になって底にへばりついていた。

「は!? お前、何やってんの!」

 駆けつけてきた大翔の怒声が飛ぶ。

「私じゃない! 勝手に壊れたの!」

「こんだけ適当に詰め込んだら壊れるに決まってんだろ! お前、いっつも家事ズボラなんだよ! バカかよ!」

 日頃の私の生活態度まですべて否定するような、加害性のある大翔の怒り方が、私の心を頑なにさせた。

 水を吸った重い洗濯物をバケツに引きずり出しながら、私はもう、この部屋のノイズの中に一秒でもいたくなかった。

「どこ行くんだよ!」

「コインランドリー! ここにいたら息が詰まる!」

 濡れたサンダルを突っ掛け、逃げるように部屋を飛び出す。

 ガチャリと乱暴にドアを閉めると、冬の夜の冷たい風が火照った頬を撫でた。

 バケツを抱えてエレベーターに向かって歩き出すと、ふと、隣の部屋のドアが目に入った。

 引っ越してきてから、私が自分の部屋に入るタイミングで、何度かそのドアから出てくる女性を見かけたことがあった。

 表札のないその扉の向こうからは、いつだって生活音ひとつ聞こえてこない。テレビの音も、話し声も、水の流れる音すらも。そこにはただ、ひんやりとした、無菌室のような完璧な静寂だけがあった。

 怒りと湿り気を帯びた私の荒い足音だけが、その冷たく平坦なドアの前を通り過ぎて、一階へと向かうエレベーターホールに響いていた。

 *

 一階の共用スペースの奥にあるコインランドリーは、不自然なほど明るく、そして静かだった。

 壁際に並んだ三台の古い洗濯機と、その上の乾燥機。無機質な蛍光灯の光が、剥がれかけたリノリウムの床を青白く照らしている。

 私が機械の表面に貼られた色褪せた説明書きを目で追っていると、ふいに、背後から声をかけられた。

「……洗剤は、自動で投入されます。百円玉は、コースを選んでからそのスロットへ」

 ひんやりとした、でも透き通るような声だった。

 驚いて振り返ると、そこには一人の女性が丸椅子に腰掛けていた。夜の十時を回ろうとしているのに、薄手のグレーのカーディガンに、落ち感のあるネイビーのワイドパンツ。一月下旬の夜だというのに、まるで秋口のような服装で、完璧に背筋を伸ばしていた。

 まるで、そこだけ空気の密度が違うように見えた。

「あ……すみません。最近越してきたばかりで、勝手が分からなくて」

 私が慌てて頭を下げると、彼女は表情を一つも変えずに、ただ静かに頷いた。

 機械が重々しい音を立ててドラムを回転させ始め、手持ち無沙汰になった私は、彼女から少し離れたパイプ椅子に腰を下ろした。

 スマホを取り出して大翔からのメッセージを確認しようとしたが、画面は真っ暗なままだ。「どこ行くんだよ」と怒鳴っていたくせに、追いかけてくる気配すらない。それがまた、私の腹の底に小さな苛立ちを蘇らせた。

「……あんなに詰め込むからって」

 私は、自分に言い聞かせるように、あるいは隣の静寂に対する気まずさを紛らわせるように、小さな声で呟いた。

「家にある洗濯機、壊しちゃったんです。エラー音が鳴って、途中で止まっちゃって。最悪です」

 他人に愚痴をこぼすなんて普段なら絶対にしないのに、なぜか彼女の前では口をついて出てしまった。

 彼女は本から目を上げなかった。ただ、少しだけ、ページの端をめくる指が止まった。

「……形あるものは、いつか壊れます。意図しなくても」

 彼女の声は、洗濯機の回転音に溶けてしまいそうなほど平坦だった。

「あなたが悪いわけではないですよ」

 その言葉は、私を慰めるためのものではなかった。ただの事実を述べているような、冷徹な響きがあった。それなのに、なぜか私の心にすとんと落ちてきた。

「……ありがとうございます。あの、もしかして同じフロアの方ですよね。何度か、お部屋から出てこられるのをお見かけしたことがあって。隣の……小牧と言います」

「田代です」

 彼女は初めて本を閉じ、私の方を向いた。

 三十代の手前くらいだろうか。肌は陶器のように白く、整った顔立ちをしている。洗練された大人の女性という名残が確かにあった。けれど、いまの彼女からは、そういう世俗的な華やかさは一切削ぎ落とされていた。

 何より、その瞳には光の反射というものが感じられない。深い、深い井戸の底を覗き込んでいるような、底知れぬ空虚さがそこにあった。

「田代さんも、お洗濯ですか?」

「……ええ。ベランダのものは、使っていないので」

 会話が途切れ、私は手持ち無沙汰に、彼女の手元にある本に視線をやった。辞書のように薄い紙に、縦書きのひどく細かい文字がびっしりと並んでいる。

「それ、難しい本ですか?」

「……聖書です。おかしいですよね、信者というわけでもないんですが。こうして文字を追っていると、少しだけ頭の中が静かになる気がして」

 彼女が言葉を発するたびに、かすかな匂いが漂ってくることに私は気づいた。柔軟剤や香水の匂いではない。甘く、少しだけ痺れるような……古い薬品を思わせる匂い。

「……終わるまで、まだ三十分ほどかかりますよ。部屋に戻って、休まれては?」

 田代さんは立ち上がった。彼女の洗濯物はまだ乾燥機の中で回っているというのに、出口の方へ向かって歩き出す。振り返りもせずに言い残した彼女の後ろ姿は、信じられないほど細かった。

 *

 故障した洗濯機は、結局業者を呼んでも修理不可能という結論に至った。新しい洗濯機が届くまでの数日間、私は夜な夜な一階のコインランドリーへと通うことになり、そこで何度か田代さんと顔を合わせた。

 彼女が着ている服はどれも仕立てが良く、上質な生地のものだと分かった。けれど、いつもどこか季節感がずれていて、「マネキンが服を着せられている」ような、血の通っていない不気味なほどの完璧さがあった。

 ある夜、私が洗濯機の終了を待っている間、彼女はいつになく所在なさげに、ランドリーの窓から外の暗闇を見つめていた。

 手には本を持っていなかった。代わりに、彼女の細い指先は、自分のもう片方の腕の、カーディガンの袖口を無意識に強く握りしめていた。

「田代さん、どうかしましたか?」

 声をかけると、彼女はびくりと体を震わせ、慌てて袖口から手を離した。

 その時、一瞬だけ見えた。彼女の手首に、白いサージカルテープが何重にも巻かれているのを。

「……いえ。少し、耳鳴りが酷くて」

 彼女は小さく息を吐き、自分のカバンから小さなアルミのシートを取り出した。プツン、という乾いた音を立てて、白い錠剤を指先に取り出す。水も飲まずに、彼女はそれをそのまま飲み込み、目を閉じた。

「それ……お薬ですか?」

「ええ。ただの、耳鳴りの薬です。これがないと、ずっと頭の中で……嫌な音が、鳴り止まないので」

 彼女の横顔があまりにも脆く、今にも崩れ落ちそうに見えて、私はそれ以上何も聞くことができなかった。

 また別の日の夜。大翔が出張で不在だった時のことだ。

 一人で部屋でスマホの動画を見ていた私は、Wi-Fiルーターの接続不良に頭を悩ませていた。何度も再起動を試してもうまくいかず、廊下に出て共有部分の配線を確認しようとしたところで、ちょうど帰宅した田代さんと鉢合わせた。

「どうかされましたか?」

「あ、田代さん。なんかWi-Fiの調子が悪くて……大翔もいないので困ってたんです」

「仕事は、ずっと在宅ですので。設定なら少し分かります。よければ見ましょうか」

 そう言って、彼女は私の部屋の玄関をくぐった。

 彼女はリビングのルーターの前にしゃがみ込み、私のスマホと機械の文字列を手際よく照合しながら、驚くほど淡々と、機械的に設定を修正していった。その指先の動きには一切の無駄がなく、感情のすべてをシャットアウトしてタスクを処理しているかのような、どこか異常なまでの完璧さがあった。

「……繋がりましたよ」

「あ、本当だ! すごい、助かりました!」

 時計を見ると、すでに夜の八時を回っている。

「あの、田代さん、まだ夕食食べてないですよね? ルーター直してもらったお礼に、ちょうど作りすぎちゃったスープがあるんです。食べていきませんか」

 彼女は一瞬、拒絶するように体を硬くしたが、私の勢いに圧されたのか、小さく「……すみません」と呟いてダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

 私は、野菜の甘みを引き出した温かいポトフをマグカップに注ぎ、彼女の前に置いた。

「どうぞ、温かいうちに」

 田代さんは、細い両手でそっとマグカップを包み込んだ。その手が微かに震えている。

 ゆっくりとスープを口に運んだ瞬間、彼女の動きが止まった。

 ぽろぽろと、大粒の涙が彼女の白い頬を伝い、スープの表面に波紋を作った。

「え……っ、田代さん? すみません、口に合いませんでしたか?」

 慌てる私に、彼女はスプーンを置き、ひどく怯えたような目で首を振った。

「……ちがうんです。ごめんなさい。こんなに温かいものを、私だけが……食べちゃ、だめなんです」

 彼女は自分の腕を強く抱きしめ、うわ言のように呟いた。

「だって、あの子は……あんなに冷たいところで、一人で……っ」

 ハッとして我に返った田代さんは、「ごめんなさい」とだけ言い残し、逃げるように部屋を去っていった。

 翌日、新しい洗濯機が設置され、私のコインランドリー通いはあっけなく終わりを告げた。それからの数週間、私は田代さんと顔を合わせる機会を完全に失っていた。

 *

 あの日が来るまでは。

 二月の半ばを過ぎた、底冷えする水曜日の夕暮れだった。

 残業をして帰ってきた私は、マンションの廊下を歩いていた。空は、刺すようなオレンジ色へと変わりかけていて、タイルの上に長い影を落とす。

 その影の先に、彼女がいた。

「……田代さん」

 声をかけようとして、私はハッと息を呑み、足をとめた。

 薄手のチャコールグレーのニットに、黒のワイドパンツ。やはり真冬とは思えない薄着だったが、それ以上に彼女の様子が明らかにおかしかった。壁に肩を擦り付けるようにして、ふらふらと、ひどく重たい足取りで自分の部屋のドアに向かっている。

「田代さん……?」

 私が呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。その顔を見て、私は全身の血が冷たくなるのを感じた。死人のように青白く、目の周りだけがひどく赤く腫れ上がっている。焦点の合っていないうつろな瞳が、私を通り越して、ずっと遠くの虚空を見つめていた。

 次の瞬間だった。限界を超えていた彼女の指の力がふっと抜け、抱えていたエコバッグが腕から滑り落ちた。

 重く、鈍い音を立てて、荷物がタイルの上に散乱した。

 エコバッグの中から転がり出たのは、特売の食パン数斤と、パウチの栄養ゼリー、カロリーメイトのような箱。調理を必要としない、ただ命を繋ぐためだけの無機質な食料だった。

 そして同時に、バッグの隙間から「心療内科」の名前が印字された薬局の紙袋が滑り落ち、中から見慣れない銀色のアルミシートが何枚も床に滑り落ちた。

「すみません。拾います。拾わなきゃ……」

 田代さんは、パンが潰れることなど目もくれず、タイルの上に両膝をついた。凍えているみたいにひどく震える指先で、薬のシートだけを血相を変えて拾い集めようとする。

「拾わなきゃ……これがないと、あの子に……」

 うわ言のように繰り返す彼女の姿は、私がコインランドリーで見た「完璧な洗練を纏う女性」とは別人のようだった。ただの、絶望に打ちひしがれた、一人の脆い生き物がそこにいた。

「田代さん、いいです! 私がやりますから!」

 私は持っていたバッグを放り出し、彼女の隣にしゃがみ込んで、その細い手首を咄嗟に掴んだ。

 氷のように冷たかった。そして、私が掴んだその手首には、分厚いサージカルテープが何重にも、痛々しく巻かれていた。

「……立てますか。部屋まで、運びますから。鍵、貸してください」

 彼女はもう、私を拒絶する気力すら残っていないようだった。震える手でハンドバッグの中から鍵を取り出した。

 私は彼女の冷たい腕を自分の肩に回し、半ば抱き抱えるようにして立ち上がらせた。彼女の体は、大人の女性とは思えないほど軽く、薄かった。

 鍵を開け、重い鉄の扉が開く。

 私が初めて足を踏み入れた「彼女の聖域」は、想像を絶する空間だった。

 玄関を開けた瞬間に鼻腔を突いたのは、あの、甘く痺れるような古い薬品を思わせる匂いだった。換気すら長期間されていないような、時間が完全に淀みきった空気。

 間取りは私の部屋と全く同じはずなのに、そこはまるで別の惑星のようだった。

 物が、何もないのだ。

 生活を営むための道具が、一切排除されている。ソファもない。食事をとるためのダイニングテーブルすらない。壁際にあるのは、仕事の資料と思われるファイルが整然と並べられた無機質なスチール棚だけ。

 だが、部屋の中で最も異彩を放ち、私の視線を釘付けにしたのは、大きな掃き出し窓の前のスペースだった。

 そこには、小さな木製の「子供用の椅子」が一つだけ置かれていた。

 その椅子の座面には、きれいに折りたたまれた、小さなフリルのついた薄いピンク色のパジャマ。

 そしてその上には、真新しい保育園の指定制服と通園バッグが、誇らしげに、しかし残酷に飾られていた。胸元の名札を入れるポケットは全く汚れておらず、袖口も折り返されたまま。一度も袖を通されたことのない、不自然なほど新品のままの制服。

 椅子の足元には、あの古い聖書と、幾つかの家族向けドラマのDVDボックス。さらに、小さな紙皿の上には、キャラクターもののスナック菓子と、未開封の小さなオレンジジュースが供えられていた。

 祭壇だ。

 私は直感的にそう理解した。この部屋は、生活するための場所ではない。ここに無いもの、ここに居ない人を、永遠に弔い続けるためだけに維持されている、巨大な棺桶なのだ。

 ぽつんと置かれた子供用の椅子は、部屋の内側ではなく、掃き出し窓の向こう――暗い夜の街を見下ろすように配置されていた。

 掃き出し窓のガラスは、長い間換気がされていないせいか、外気との温度差でうっすらと結露している。

 ――まさか。不動産屋が言っていたあの『転落死事故』というのは。

 急に最悪の想像が脳裏をよぎり、胸を衝く。彼女は毎日、この背中越しに、あの小さな椅子に座るはずだった幼い子供が最後に見た景色を、ただじっと見つめ続けているのだろうか。

「……ごめんなさい。見苦しいところを」

 田代さんは、壁に背中を預けるようにしてずるずると床に崩れ落ちた。

 彼女の視線は、窓際のその「空っぽの椅子」の空間にだけ釘付けになっていた。

「田代さん……これ……なんの薬ですか、こんなにたくさん」

 私の問いかけに、彼女は力なく、自嘲するように笑った。その笑顔は、ひどく歪で、哀しかった。

「……眠剤です。前にコインランドリーで、耳鳴りを静めたいと言いましたよね。……あれ、嘘なんです」

 彼女の視線の先。分厚い遮光カーテンが少しだけ開いた窓の向こうには、夕陽が完全に落ち、夜の街が残酷なほど美しく輝き始めている。

「本当は……ただ、夢を見たいだけ。薬漬けになっても構わないから、眠って、あの子の夢を見たいんです。目を開けて現実の世界にいると、あの日、ブルーシートの隙間から見えたあの子の姿が……ずっと目の前にちらついて、狂いそうになるから」

 彼女の声から、感情の起伏がすっと消え失せた。代わりに、まるで古い物語のページを一枚一枚めくるような、どこか遠く、透き通った響きが部屋の空気を満たし始める。

「小牧さん。……ごめんなさい、いきなりこんな恐ろしいことを言って。

 でも、いまの私の中には、もうこんな真っ暗な話しか残っていないんです。もし、少しだけ聞いてもらえるなら。……あなたに話してもいいですか?」

 それが、決して開けてはならない地獄の蓋が、静かに開いた瞬間だった。

 私は、逃げ出すこともできず、ただ淀んだ空気が充満するフローリングの上に立ち尽くしたまま、彼女の血の滲むような独白が紡ぎ出されるのを待つことしかできなかった。

 *

「私の生まれは九州の、海に近い小さな町です。普通の、世間体を重んじる厳格な両親でした。私はその期待に応えるために、地元の商業高校を出て、名古屋の商社への就職を決めました。

 名古屋に出てきて、慣れない都会で孤独だった時期に、私は……あの子の父親になる男に出会いました。彼は、私の話を否定せずに、静かに聞いてくれる人だった。一見優しそうに見えたんです。

 私は彼との生活を選ぶために、勝手に仕事を辞め、やがて妊娠しました。当然、それを実家に事後報告したときは大騒ぎになり、『順番も守れないのか』『未婚で産むなんて絶対に許さない』と、親からは完全に縁を切られました。

 当時の私は、親に捨てられたって、子供が生まれれば、普通に幸せな家庭になれると思っていたんです。

 でもね。現実に待っていたのは、赤ちゃんの火がついたような泣き声と、重い湿り気を帯びたおむつの匂いだけでした。あの子が生まれて、一ヶ月も経たないうちに、ある日突然、彼の荷物はすべて消えていました。

 ……残されていたのは、スマホのLINEの通知一つだけ。『もう無理。責任とか重すぎて耐えられない。探さないで』。

 親の期待を裏切り、縁を切られてまで選んだ男に、私はそんな一言で逃げられたんです。

 実家に泣きつくことは、死んでもできなかった。私は一人での育児とフルタイムの仕事の両立が物理的に不可能になり、ノイローゼ寸前で行政の窓口に泣きつきました。そこでヘルパー支援や保育園の優先枠、そして公社の減免住宅として、このマンションの『特別募集住宅』をセットで紹介してもらったんです。

 この殺風景なコンクリートの箱に初めて足を踏み入れたとき、私はあの子を抱きしめながら、自分に呪いをかけるように誓いました。誰にも文句を言わせない、『完璧な母親』になってやる。絶対に惨めな姿なんて見せてやるものかと。

 それからの数年間は、ただ、必死でした。私は歯を食いしばって商社に復帰しました。職場の人たちは、本当にありがたいほど、私に親切にしてくれました。お下がりの服を持ってきてくれたり、仕事の融通を利かせてくれたり。私は身なりを整え、洗練された言葉を選び、SNSにはたまに、子供の元気な姿を生存報告のようにアップしました。『私は一人でも、こんなに幸せにやっています』と、自分自身を安心させるための防衛行動でした。

 でもね、小牧さん。

 私の人生で唯一、計算も打算も、見栄も介在しなかったのは、あの子との時間だけだったんです。

 陽菜は、本当に天使のような子でした。

 ぐずらず、私が仕事と育児の重圧で余裕をなくして険しい顔をしていても、小さな手で私の頬を包んで、『ママ、だいじょうぶ?』って聞いてくれる。あの子の瞳は、本当に綺麗で……見つめられていると、自分の中の『幸福の定義』さえ覆ってしまうくらい。その瞳に見つめられると、親に捨てられた惨めさも、男に逃げられた屈辱も、私の持っていた暗い感情はすべて奪われてしまうんです。あの子の寝顔の前では、世間体もブランドのバッグも、すべてが色褪せたガラクタでしかなかった。このマンションの、冷たくて同じ顔をしたドアが並ぶ長い廊下も、あの子と手を繋いで歩けば、お城へと続く秘密の通路のように思えた。

 陽菜は少しおませな子で、私が休日に観る家族ドラマを、いつも隣で一緒に眺めるのが好きでした。本当は、理想の家族像に縋り付く私に、無理をして合わせてくれていただけかもしれないけれど……。

 もちろん、一番悪いのは目を離した私です。でも、ほんの少しの偶然が重なっただけじゃないですか。ほんの少し、油断しただけなのに……神様は、容赦なくすべてを奪っていったんです。

 あの日も、まだ風は冷たいのに、陽射しだけはひどくやわらかな春の夕暮れでした。

 保育園に陽菜を迎えに行った帰り道、私はいつになく足取りが軽かったんです。あの子がずっと欲しがっていた、小さなフリルのついた薄いピンク色のパジャマを買って。

 部屋に着いてから、『ママ、すぐそこのスーパーで晩ごはんのお買い物してくるから、この間借りたドラマの続き、見て待っててね』って。ほんの十五分だけ、一人でお留守番をさせたんです。

 来月からは転園して、いよいよ大きな保育園の幼児クラス。制服のある、少しお姉さんのクラスです。気の早い私は、この部屋の特等席に、もう真新しい制服を飾っていました。親から勘当され、男に逃げられた私の人生も、ここまで来ればもう大丈夫だ。そう、完全に油断していたんです。

 ……異変に気づいたのは、マンションの敷地に入るすぐ手前の交差点でした。遠くで、救急車のサイレンが聞こえたんです。春の生温かい空気を切り裂くような、あの不吉な音が。

 角を曲がって、私たちの住む号棟が視界に入った瞬間。私の世界は、ぐにゃりと奇妙な形に歪みました。救急車とパトカーが、夕闇に沈みかけた巨大なコンクリートの壁を、暴力的な赤い回転灯で照らし出していました。そして、私たちの部屋の真下のあたりに、黒い人だかりができていました。

 心臓が、耳元で狂ったように脈打つのを感じました。違うはずだ、ただの偶然だ。そう自分に言い聞かせようとしたのに、私の足は勝手に走り出していました。

 人垣の隙間から見えたのは、アスファルトの上に無造作に敷かれた、鮮やかな青いブルーシートでした。

 そのほんのわずかな隙間から、私があの日の朝、丁寧に結んであげたはずの、陽菜の黄色い髪飾りの端が見えたんです。

 見上げると、六階にある私たちの部屋のベランダの窓が、ぽっかりと黒く口を開けて、こちらを見下ろしていました。普段、私は絶対にあの窓を開けっ放しにはしませんでした。補助錠もつけていた。でも、あの日、あの子はお絵かきや絵本を読むときに使っていた自分の小さな木製の椅子を……そう、今、あの窓際に置かれているあの椅子を、自分でベランダの窓のところまで引きずっていったんです。そして、その小さな椅子を踏み台にして、自力で鍵を開けてしまった。

 あの子は、高いベランダから下を見下ろす恐怖なんて、ちっともわかっていなかったはずです。すぐ下にあるアスファルトの暗いほうなんて見ないで、きっと、ただ遠くの角から歩いてくる私の姿を早く見つけたくて、手すりによじ登ってしまった……。ただそれだけだったのだと思います。

 あの子が、あんなに優しくて、あんなに私のことを想ってくれていた子だったからこそ。そんなあの子を一人きりにして死なせてしまった自分が……絶対に許せないんです。

 たった十五分。私が買い物に寄っていた、たったそれだけの時間で、私のちっぽけな油断のせいで、あの子は……哀れな犠牲になってしまった。あの子はもう、人間の形をしていなかった。ただの、血の気の引いた冷たい塊になっていて……。

 衝撃で砕け散ったあの子の四肢は、生きている人間にはあり得ない角度で固定されていました。あんなに温かくて柔らかかった頬からは完全に血の気が引いて、土気色の不気味な質感に変わっていた。耳や鼻、そして口から流れ出た大量の血液が、アスファルトの細かい隙間に沿って黒い模様を描き、固まり始めていました。

 瞳孔が開いたあの子の目は見開かれたままで、そこにはもう光を反射する潤いは一切なく、乾いたビー玉のように空虚な一点をただ見つめ続けていました。

 私が遺骸にすがりつこうとした瞬間、一人の警察官が私の前に立ちはだかりました。『お母さん、もう見ない方がいい』と。

 取り囲む警察官たちの様子を見て、すぐに分かりました。彼らにとってここは、私が愛した娘の最期の場所ではなく、調査し、記録し、保存しなければならない現場に過ぎないのだと。

 警官たちは悲しむ私には目もくれず、淡々と事務的な手つきで娘の周りに規制線を張り、落ちた位置をメジャーで測り始めました。その事務的な作業の中で、あの子はもう、ただの冷たい『処理すべき事案』へと作り変えられてしまったんです。

 *

 事件性はありませんね。典型的な、不慮の事故です。

 警察のその言葉すら、私の耳にはひどく遠いノイズのようにしか聞こえませんでした。ただ、一つの圧倒的な事実だけが、私の喉を締め上げていました。

 私が、目を離した。

 ああ、ひーちゃん。ごめんね。ごめんなさい。ママが遅かったからだよね。怖かったよね。痛かったよね。助けてあげられなくてごめんね。一人ぼっちにさせて、本当にごめんなさい……。

 私は、あの子の真新しい制服の前で、ただ床に額を擦り付けました。あの子のいない世界で、私だけがのうのうと息をしている。そのおぞましい現実に、私はただフローリングの床に爪を立てて、獣のように泣き喚くことしかできなかったんです。

 でも、地獄はそこで終わりではなかったんです。

『お母さん。不慮の事故とはいえ、病院のベッドの上で亡くなったわけではない、いわゆる異状死になります。法律の規定で、どうしても検視を行わなければなりません』

 警察署の霊安室を満たしていた、息が詰まるような消毒液の匂いと、血の鉄の匂い。

『処置が終わるまで、廊下でお待ちください』。そう言われ、私は冷たい長椅子の上でただ震えていることしかできませんでした。

 数十分後、事務的に透明なポリ袋に入れられて返却されたのは、布を切るための医療用ばさみで無惨に切り裂かれた、あの子の衣服でした。

 あの日私が丁寧にアイロンをかけた水色のワンピース。同僚がくれた、あの子のいちばんのお気に入りの服。アスファルトの上で大量の血を吸い込み、どす黒く変色し、泥にまみれていましたが、それでも私にとっては、あの子との温かい生活の象徴でした。

 私が毎日、あの子のためにいい匂いの柔軟剤を入れて洗濯し、あの子が『ママ、いい匂い』と笑って抱きついてきた、あの服。私と陽菜が、必死に『私たちは幸せです』と世間に証明するために整えてきた生活の抜け殻が、ただの『汚染された布のゴミ』として処理されたのだと悟りました。

 面会を許され、銀色の冷たいステンレスの台の上に横たわるあの子を見たとき、私はすべてを理解しました。

 事件性や古い虐待の痕跡がないか調べるため、あの子は冷たい照明の下で全裸にされ、見ず知らずの大人たちに隅々まで観察されたのです。あんなに恥ずかしがり屋で、『お着替えはママも見ないでね』なんて言って隠れていたあの子が。

 それが決まりなのだと頭ではわかっていても、彼らが何を確認したのか悟ったとき、胸が張り裂けそうでした。

 ようやく確認が終わり、あの子の上に白い布が掛けられた瞬間。あの子と二人で懸命に紡いできた、あのささやかで温かい日常は、永遠に失われました。

 葬儀のあと、最後のお別れの時。火葬場の、重く冷たい鉄の扉の前に立った時のことを、私は一生忘れません。

 ゴォォォという、地鳴りのようなバーナーの重低音が足元から響き渡り、煙突から灰色の煙が、残酷なほど青く澄み渡った春の空へと立ち昇っていく。あんなに熱がりで、夏の夜にはいつも私のお腹に冷たいおでこをくっつけて眠っていた陽菜が、今、何千度という炎の中で焼かれている。

 数時間後、引き出された台の上に乗っていたのは、信じられないほど少ない、白い灰と欠片の山でした。四歳の子の骨は、驚くほど細くて、脆いんです。その骨を骨壺に納め、カチャリと冷たい陶器の蓋を閉めた瞬間。私の中で、何かが完全に、そして永遠に壊れました。

 ああ、神様なんていない。どれだけ必死に努力しても、ハッピーエンドなんて絶対にやってこない。

 私は再び、あのマンションの、あの子の命を奪った呪われた部屋に戻ってきました。

 ……あの子が逝ってしまった翌朝も、窓からはいつも通りに光が差し込んで、そよ風が朝を教えていました。世界は何事もなかったように動いている。それが、吐き気がするほどに恐ろしかった。あの子の小さな体温が消え、布団の中さえ冷え切ってしまった朝に、私はもう誰にも会いたくなくなって、ただ、カーテンの隙間から昇ってくる眩しい太陽を、ずっと睨みつけていました。

 世の中は、立ち直ることを『正しい』と呼びます。

 でも、私にしてみれば、それはただの忘却という名の逃避でしかない。悲しみが薄らぐことは、あの子との二度目の離別です。忘れることは、あの子への取り返しのつかない裏切りです。

 だから私は、この濁りの中に潜るんです。強い薬を何錠も飲んで、視界をぼやけさせ、現実の輪郭を曖昧にする。

 ……薬漬けだと笑われても、もう構わないんです。今の私は、ただあの子の夢を見たいだけ。現実のすべてがどうでもよくなって、今はひたすらあの子と、もっと、もうちょっとだけでいいから一緒に居たいなって、それだけを思って。現実という名の暗いほうは見ないで、あの子の夢を見るために目を閉じるんです」

 *

 田代さんの、その血を吐くような凄絶な独白が終わった後。殺風景な部屋には、耐え難いほどの静寂が降り積もった。

「……長々と、ごめんなさいね。もう、お帰りなさい」

 彼女の声は、再びいつもの事務的な響きに戻っていた。

 私は、冷え切ったフローリングの上に座り込んだまま、指先ひとつ動かすことができなかった。

「大変でしたね」? 「お気持ち、わかります」?

 そんな言葉を口にした瞬間に、私は彼女をさらに深い奈落へ突き落とすことになる。私は逃げるように立ち上がり、彼女に一度だけ深く頭を下げて、あの地獄のような部屋を後にした。

 廊下に出ると、冬の夜の冷たい空気が、火照った頬を容赦なく刺した。

 ガチャリとドアを開けると、テレビのバラエティ番組の下品な笑い声が、暴力的に押し寄せてきた。

「ただいま……。ごめん遅くなって。隣の田代さんが廊下で倒れちゃってて、部屋まで運んでたの」

 靴を脱ぎながら私が言うと、ソファで寝転がってスマホのゲームをしていた大翔が、面倒くさそうに顔を上げた。

「ふーん。ずいぶん長かったじゃん。大丈夫だったの?」

「……うん。ちょっと、話を聞いてて」

 私がひどく沈んだ声で答えると、大翔はスマホから目を離して小さくため息をついた。

「ふーん。まあ、あんまり深入りしない方がいいよ。ああいう、見るからに重い事情抱えてる人に関わると、こっちまで暗い方に引きずり込まれちゃうよ。その人が立ち直れないのはその人の問題であって、優奈が責任を感じる必要なんてないんだから。……ね? 明日、不動産屋から連絡くるって。新しい部屋の契約書類。あそこに行けば、こんな団地の空気も全部忘れられるよ」

 彼の言葉は、あまりに平坦で、健康的で、そして決定的に『正しかった』。

 この社会で真っ当に、健康に生きていくためには、他人の不幸に共感しすぎてはいけない。自分の幸せを守るために、見たくないものには蓋をし、忘れるべきものは速やかに忘れる。それが、生きるための完璧な「正解」なのだ。

 でも、その清潔すぎる正しさが、今の私には酷くおぞましいものに思えたのだ。

 壁一枚隔てたあの部屋には、娘さんの死から一歩も動けず、自分の罪と骨の白さだけを見つめ続けている女性がいる。

 そしてこちらの部屋には、テレビで他人の失敗を笑い、新しいマンションの間取りを楽しみにし、明日も当然のように生きるつもりの私たちがいる。

 私たちが生きている世界は、死を忘れるための巨大な遊園地だ。

 田代さんは、そのきらびやかな社会の入場券を自ら破り捨て、たった一人で暗闇の中に座り込むことを選んだ。あの日から、私はドラマを観るのが嫌いになった。どんなに緻密に計算された甘いハッピーエンドに浸ったって、壁の向こうの凍った床のワンルームの現実に、何一つ変わらなかったからだ。

 それから数週間、私たちの引越し準備は慌ただしく加速した。

 あの日以来、田代さんと廊下ですれ違うことは一度もなかった。時折、深夜の静寂の中だと、壁の向こうから微かに、弾むような声が漏れ聞こえてくることがあった。「ひーちゃん、これ着てみよっか」「似合うねえ、すっごく可愛いよ」。それは、コインランドリーで出会った時の彼女からは想像もつかないほど、温かく、愛情に満ちた声だった。彼女はあの空っぽの部屋で、決して袖を通されることのないピンク色のパジャマを虚空に広げ、薬で現実を完全に塗りつぶしながら、永遠に醒めない狂気と夢の中をたゆたっているのだろう。

 引越し当日。

 トラックが走り出す直前、私は最後にあの方の部屋のドアの前に立った。

 ドアノブに、ささやかなお礼の品と、私の携帯電話の番号を書いた手紙を提げた。

「いつか、もし気が向いたら、連絡をください。お茶でも飲みましょう」

 そんな、この明るく健忘な世界に属する人間らしい、無責任で軽薄な言葉を添えて。

 新しい街での生活は、驚くほど穏やかで、眩しかった。私は順調に、この都合よく死を排除した社会の一部として、忘れることに成功していたのだ。

 そして、引っ越したあの日から一年が経ち、新しい街で二度目の春を迎えた。

 あの事故のとき四歳だった娘さんが生きていれば、この春、小学校の入学式を迎えていたはずの、ある朝のことだった。

 私は、新居のダイニングテーブルでコーヒーを啜りながら、ぼんやりとテレビのニュース番組を眺めていた。

 画面の中に、見覚えのある、あの古い大型マンションが映し出された。

 アスファルトの上に無造作に敷かれた、鮮やかな青いブルーシート。それは、彼女の凄絶な独白の中に登場したあの日の光景と、残酷なほどに同じだった。春の柔らかな朝の光の中で、不吉に回り続ける赤い回転灯。

『……今朝早く、市内のマンションで、居住者の女性が転落しているのが見つかりました。女性は搬送先の病院で死亡が確認されました。部屋には遺書のようなものが残されており、事件性はなく、自ら命を絶ったものとみて……』

 私は、手に持っていたマグカップを落としそうになった。

 テレビの画面越しに、開け放たれた六階の窓から、白いレースのカーテンがひらひらと、まるで誰かが手を振っているみたいに、虚しく揺れているのが見えた気がした。

「え、これ前のマンションじゃん。うわ、マジか……。やっぱりあの隣の人だったのかな。引っ越してて大正解だったな。俺たちには関係ない世界の話でよかったよ」

 ネクタイを締めながら、大翔が悪気もなく胸をなでおろす声が聞こえた。

 私は何も言えなかった。視界が急に、あの日の田代さんの部屋のように、白く濁っていった。

 窓から差し込む光とそよ風が、何事もなかったかのように新しい朝を教えている。誰もが彼女の死を「哀れな事故」や「悲惨な結末」として消費し、忘れていく。

 けれど、私にはわかっていた。あの残酷な朝から、彼女はようやく解放されたのだと。

 視界を薬で濁らせながら、あのアスファルトに砕け散った四肢の代わりに、背中に生えた幻の白い翼を、結露越しの街にずっと探していた彼女は。

 窓枠によじ登り、冷たい風を全身に受けた瞬間。彼女はきっと、恐怖なんて微塵も感じていなかったはずだ。いっそ天国が見たいのだとでも言うように、あの陶器のような頬を綻ばせて、無邪気に笑っていたのではないか。

 現実という名の暗いほうは見ないで、ただ光差すバルコニーから、愛する天使の待つ空へ手を伸ばして。――そして、確かに掴んだんだ。

 テレビの中では、今日も新しいドラマの予告が、馬鹿みたいに明るい音楽と共に流れていた。

 私は、二度と会うことのない彼女の横顔を思い浮かべながら、この平坦な世界が絶対に用意してくれない、彼女だけの恐ろしくも美しいハッピーエンドを、ただ静かに受け入れていた。

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