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宮野さん

※習作です。プロット・展開は前々回の自作「明日のこと」のトレースです。


 中学三年生になったばかりの、五月。私たちにとって「受験」という言葉は、まだどこか他人事のようでありながらも、親や教師の小言に混じって少しずつちらつき始める季節だ。

 私が通う学習塾は、駅から少し歩いた雑居ビルの三階にあった。古びたエレベーターを降りると、消毒液と古い紙の匂いが混ざったような、息苦しい空気が漂っている。週に三回、夕方の六時から始まる授業の前、特に英単語の小テスト直前の十分間は、教室に少しピリピリとした空気が漂っていた。無機質な蛍光灯の下で、三十人ほどの生徒が必死に単語帳をめくっている。シャープペンシルが紙を擦る音や貧乏揺すりの振動で、誰もが自分の世界に閉じこもっていた。

 けれど、斜め前の席に座る女子だけが、そのピリピリとした空気から切り離されていた。

 彼女は単語帳ではなく、少し日に焼けた文庫本を開き、ひどく楽しそうにページをめくっている。周囲の焦った空気の中で、彼女が静かにページをめくる微かな音だけが、私の耳に届いた。

 今年の四月に入塾してきたばかりの、宮野さん。少し色素の薄い、ふんわりとした髪が、俯くたびに揺れる。その横顔は、焦りとは無縁だった。

 単語の暗記に限界を感じていた私は、ふとペンを置き、つい面白半分でちょっかいを出したくなった。

「……宮野さん、随分余裕そうだね?」

 頬杖をつきながら、少しからかうような口調で声をかけた。

 唐突に話しかけられた彼女は、肩を揺らし、少し驚いたように丸い目を私に向けた。それから、一拍遅れて手にしていた文庫本に栞を挟んでパタンと閉じた。

「……全然。でも今、本がすごくいいところだったから」

 彼女は、怒るでもなく、焦るでもなく、ふふっと小さく笑ってそう答えた。

 それが、私と宮野さんが初めて言葉を交わした瞬間だった。

 それから何度か目が合うようになり、私たちはぽつぽつと言葉を交わすようになった。

 平日の夕方六時。部活組がまだ来ないこの時間は、教室も少し空いている。私は帰宅部なので、一度家に帰ってからでも余裕で間に合うのだが、面倒でそのまま制服で来ることが多かった。

 宮野さんも最初はそうだった。けれど、制服の日もあれば私服の日もあり、次第に私服で来る日が増えていった。淡いミントグリーンのカーディガンや、柔らかそうなベージュのスカート。窮屈な制服を着ている私から見ると、彼女はなんだか少しだけ自由に見えて、羨ましかった。

「ねえ、宮野さんって私服多いよね。塾の前にわざわざ着替えてるの?」

 自販機で買った紙パックの紅茶にストローを刺しながら、何の気なしに尋ねた。

 瞬間、宮野さんの指先が文庫本の表紙でピタリと止まった。彼女はひどく困ったような顔をして、視線を泳がせた。私が他意もなく聞きただしたことに気づいたのか、小さなため息をつき、口ごもりながらようやくぽつりと言った。

「……私、あんまり学校、行けてないんだ」

 周囲の雑音が少し遠のいた気がした。

 学校に行けていない。その言葉が意味するものは、中三の私にもわかる。

 一瞬、どう返せばいいのか頭が真っ白になった。「えっ、どうして?」と踏み込むべきか、気まずそうに目を逸らすべきか。でも、面倒なことに巻き込まれるのは嫌だったし、気の利いた言葉なんて浮かばない。だから私は、とりあえず一番間抜けな声を出した。

「へえー」

 それだけだった。詮索はしなかった。とはいえ、少しだけ変な間が空いてしまったので、私は手元の紙パックを揺らし、ごまかすようにどうでもいい文句を続けた。

「失敗したな。この紅茶、ちょっと甘すぎたかも」

 宮野さんは驚いたように瞬きをした後、ふっと肩の力を抜き、いつもの柔らかな笑顔に戻った。

「……田上さんって、面白いね」

 どうやら彼女には、私の無関心な反応がひどく居心地が良かったらしい。深い事情を聞かずにただ流したことが、彼女の気を少し楽にしたのかもしれない。

 それからの私たちは、お互いの中学校の話はせず、ただ塾の狭い休憩コーナーでどうでもいいことを駄弁るだけの関係を築いていった。

 私が「あー、来週また定期テストじゃん。マジで鬱になりそう! 勉強なんてこの世から消滅すればいいのに」といつものように愚痴をこぼすと、宮野さんはふと何かを飲み込むようにして視線を逸らし、複雑な微笑みを浮かべる。私は、彼女のどこか大人びたような、その不思議な落ち着きのある微笑が好きだった。

 ある日の授業中、部活の疲れからか、私はついウトウトと寝落ちしてしまった。隣の席の宮野さんは、先生にバレないように私の腕をペンでツンツンと突いて起こそうとしてくれていたらしい。しかし、彼女の突き方はあまりにも優しすぎて、私は結局チャイムが鳴るまでぐっすり眠ってしまった。

「ちょっと宮野さん、どうして起こしてくれなかったの笑?」

 私が伸びをしながらそう文句を言うと、彼女は「ずっと突いてたのに、田上さんが全然起きないんだもん」と困ったように笑った。

 そのくせ、宮野さん自身も授業中によくこっくりこっくりと船を漕いで眠っているのだ。私が強めに突っついて起こしてやると、「ごめん……」と申し訳なさそうに目をこする。「どんだけ夜更かしして本読んでるのさ」と、私は呆れるしかなかった。

 そんな風にして、私たちがお互いの距離を縮めるきっかけの一つになったのが、音楽だった。

 その日、私はイヤホンを突っ込み、お気に入りのボカロ曲を聴いていた。息継ぎを無視した激しいリズムと、少し気の抜けたような機械のボーカル。テストのプレッシャーとか、学校でのちょっとしたイライラを全部忘れさせてくれる、私の大事な逃げ場だ。

 ふと横を見ると、宮野さんもまた白いイヤホンをして目を閉じていた。

「宮野さん、何聴いてるの?」

 片耳を外して肩をつつくと、彼女は少し恥ずかしそうに「クラシック。今日はドビュッシー」と笑った。

(マジか。中学生でクラシックとか聴くんだ)

 見事に正反対の世界だ。私は内心で驚きながらも、興味本位で提案してみた。

「へえ。……ねえ、ちょっと片耳ずつ交換してみない?」

 彼女はすぐに自分の右のイヤホンを差し出してくれた。

 私の右耳には静かなピアノの旋律が。宮野さんの左耳には、電子音が跳ね回るボカロ曲が突き刺さっているはずだ。

 案外嫌いじゃないようで、彼女は少しだけリズムに乗りながら聞き入ってくれた。

「すごいね、こういう曲初めて聴いたけど、好きかも」

 彼女が微笑んだ直後、曲が中盤の不思議な間奏に差し掛かった。

「あ、ここ」

 不意に宮野さんが小さく声を上げ、驚いた顔で私を見た。

「この間奏のメロディ……クラシックの曲だよね。もしかして『展覧会の絵』?」

「え、てんらんかい?」

 私がきょとんとして聞き返すと、彼女はふふっと笑った。

「うん、ムソルグスキーっていう作曲家の曲。すごく有名なの」

 私は全く知らずに聴いていた。後から調べてわかったことだが、確かにそのボカロ曲は、クラシックの有名フレーズをサンプリングしていたのだ。

「原曲の重厚な感じが、こんな風にかっこいい音に変わるなんて。すごく面白いね」

 と、彼女は目を輝かせて言った。

 違うものを聴いているはずなのに、案外共通点なんてあるもんだな、と少し面白かった。

 さらに彼女の大人びた一面に触れることもあった。

 ある日、宮野さんが熱心に文庫本を読んでいるのを覗き込んだ。表紙には、聞いたこともない外国の作家の『危険な関係』というタイトルがあった。

 手元のスマホでこっそりググってみた私は、表示されたあらすじを見て思わず「うわっ」と声を漏らした。どうやら古いフランスの小説で、貴族社会のドロドロの愛憎劇に、復讐、そして誘惑を描いた作品らしい。

「ちょっと宮野さん……なんか、えっぐい本読んでるね」

 ドン引き気味にスマホの画面を見せる私に対し、宮野さんはきょとんとしていた。

「そう? フランスの古典なんだけど」

 嫌味な感じは全くなく、本当にただの物語として楽しんでいるらしい。あんなドロドロの話を、まるで爽やかな青春小説でも読むようにページをめくる横顔に、私は少しだけ気圧された。

 だからこそ、その数日後に起きた出来事とのアンバランスさが、私には奇妙に思えた。

「田上、頼むからあの子紹介してくれよ」

 同じ中学校の男子からこっそり呼び出され、そう頼まれたのだ。鈍感な宮野さんは全く気が付いていなかったけれど、他校の大人しそうな美少女として、彼女は塾の男子たちの間で密かに噂になっていた。

 夕方、面白半分でそのことを伝えると、宮野さんはみるみるうちに耳まで真っ赤にした。手の中で文庫本が震えている。

「あんたなんてタイプじゃない、って適当に伝えとけばいい?」

 意地悪く聞くと、彼女は「ちょっと!」と少し怒った後、ふっと自嘲するように目を伏せた。

「……なんで私なんだろう。私なんか、中身も何もないのに」

 ぽつりと呟いたその声は、ひどく自信がなさそうで、いつもの彼女らしくなかった。それから、ひどく困ったように眉を下げてこう言った。

「『私にはまだ早いから』って、断っておいて」

 何それ、と私は内心でツッコミを入れた。

 あんなに可愛いのに、自分がどれだけ魅力的に見られているか分かっていないのだろうか。それに、あんなドロドロの愛憎劇を涼しい顔で読んでいるくせに、現実のアプローチに対する断り文句が「私にはまだ早い」なんて。

 頬を赤くしてはにかむ姿は、恋バナに免疫のない普通の中学生そのものだった。なんだ、私よりずっと奥手じゃん、と少しおかしくなった。

 塾の帰りは、迎えに来る宮野さんのお母さんの車を待つ間、よく二人で近くのコンビニに寄った。お母さんは車から降りてくると、私に向かってわざわざ深々と頭を下げてくれた。私は「ずいぶん心配性なお母さんだな」と不思議に思っていた。

 そんな穏やかで、少しだけちぐはぐな日々がずっと続くような気がしていた。

 しかし、冬の足音が本格的に近づいてきた十二月のある日。宮野さんは突然塾に来なくなった。

 最初は風邪だと思っていた。しかし、一週間経っても二週間経っても、彼女は教室に現れなかった。

 たまらず先生に聞きに行ってみた。

「あの、先生。宮野さんってどうしたんですか?」

「ああ、宮野か。少し体調を崩して休んでるみたいだ。受験前なのにな。田上、お前何か聞いてないか?」

 逆に問い返されてしまい、私は思わずため息をついた。

「うちが聞きたいんですけど」

「そうか。まあ、何か連絡があったら教えてやってくれ」

 と、先生は苦笑いしていた。

 男子たちに「あの子どうしたの」と聞かれても、「あんたたちに会いたくないんだってさ」とふざけて返すしかなかった。

 もともと学校に友達が少ないわけではないので、日常はなんとなく過ぎていく。それでも、連絡先の一つも聞いていなかった自分の迂闊さが腹立たしかった。学校が違うから、あの子が塾に来てくれないと、もう連絡を取る手段が一つもないのだ。

 そして、彼女が姿を消してからひと月が過ぎた頃。

 一段と冷え込み、粉雪が舞う夜。塾の帰りに一人でコンビニに向かった私の目に、自動ドアの光が漏れる入り口の横に立つ、見覚えのあるシルエットが飛び込んできた。

 厚手のコートを着込み、マフラーに顔の半分を埋めるようにしている小柄な姿。「……宮野さん?」と思わず声が出た。

 彼女は肩を揺らし、こちらを向いた。鼻の頭を赤くした顔が蛍光灯に照らされる。私と目が合うと、彼女は泣き出しそうな、それでいてホッとしたような笑顔を浮かべた。

「ごめん。今日なら、田上さんいるかなって思って……」

 白い息と一緒に紡がれた言葉に、胸の奥が締め付けられた。ひと月分の怒りなんて、どこかへ吹き飛んでいた。

 私たちはいつものように温かい飲み物を買い、店の前のベンチに並んで座った。宮野さんは缶のココアを手袋越しに大切そうに包み込み、しばらく黙っていた。

「あのね、」

 やがて、彼女は静かに口を開いた。

「誤解しないで聞いてほしいんだけど……私のは、私の問題で、誰も悪くなくて」

 言い淀みながら、彼女は缶のココアを見つめた。

「ずっと前から、病院に通ってて。……重度の、鬱なんだ」

 私は何も言わず、ホットレモンを握りしめて聞いていた。

「朝起きても、生きている意味がわからなくて。ただ息をしてるだけで精一杯で……制服を見るだけで息が苦しくなって。でも、お母さんがせめて塾だけはって、無理やり車で送ってくれて」

 缶の底を見つめたまま、彼女は言葉を紡いだ。

「私が『学校に行ってない』って言った時、田上さん、ただ『へえー』って言ってくれたでしょ? あれ、すごく嬉しかったの」

「……え?」

「腫れ物扱いしないで、変に探ったりしないで、ただの『塾の友達』にしてくれたから。あそこの休憩コーナーでだけは、私は『病気の可哀想な子』じゃなくて、普通の中学生でいられたんだよ」

 その言葉を聞いて、これまでの彼女の姿が、少しずつ違う色を帯びて蘇ってきた。

 私が「鬱になりそう」と軽口を叩いた時、彼女はどこか遠くを見るような微笑みを浮かべていた。男子からの告白を「私なんか中身がない」「まだ早い」と断ったあの弱々しい声。あれは恋に照れていたわけじゃなく、普通の恋バナなんかでキャーキャー騒げるような余裕が、そもそも彼女にはなかったんだ。

 そういえば、授業中によくこっくりこっくりと眠っていたのも……夜更かしなんかじゃなくて、もしかして、病院でもらっている薬の副作用だったのかな。

「ひと月前、塾にも通えないくらい限界になっちゃって。何も言えずにいなくなって、本当にごめんね」

 震える声で謝る彼女を見て、私は唇を噛んだ。

「言ってくれればよかったのに」という悲しみが喉の奥まで出かかっていた。けれど、私はそれをぐっと飲み込んだ。ここで私が泣いたり同情したりしたら、彼女にとってのただの友達という関係が壊れてしまうから……なんて、かっこいいことを言えればいいのだけれど。本当はただ、なんて言っていいかわからなくて、気の利いた言葉も出てこなかっただけだ。

 私は大きく息を吐き出すと、あの日、彼女の私服の理由を聞いた時と全く同じように、わざと間抜けで無関心を装った声を出した。

「……へえー。そっか。まあ、今はこうして外に出てこられたんならいいじゃん」

 宮野さんはハッとして顔を上げた。私がいつも通りの呆れたような顔で見返すと、彼女の赤くなった瞳から涙がこぼれた。けれど、その口元は今まで見たどんな笑顔よりも明るくほころんでいた。

「あのさ」

 私はポケットからスマホを取り出し、画面をタップして彼女の前に突き出した。

「次いつ休むかわかんないなら、せめてLINEくらい交換しといてよ。一人でコンビニ寄るの、結構つまんないんだけど」

 ぶっきらぼうに言うと、宮野さんは涙を乱暴に拭い、「うんっ」と深く頷いた。ポケットから自分のスマホを取り出し、震える手でカメラを起動する。

 冬の冷たい空気に、QRコードを読み込む小さな電子音が響いた。二度と会えないと思っていた「塾だけの関係」から、「本当の友達」になれた気がした瞬間だった。



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