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大伽藍

 

※以前の私の書いた作品のAIリマスター版ですが、今の私の作風とは異なり、私の好きな作品でもありません…

物語にはなっていますが、一種の創作論的な短編です。



ーーーーーーーーーーーーーーー


 秋の光が美しい日曜日の朝。××県の山深い森の中を、若い痩せぎすな男が大きなリュックサックを背負って歩いていた。山道の先にある銅山施設の廃墟へは、これ以上自動車で踏み入ることはできない。


 男はその日、一人であった。普段なら、学生時代から参加している「産業遺産研究会」の誰かしらとチームを組んで探索へ赴くのだが、同行するはずだった友人に急な仕事が入り、単独行を余儀なくされたのである。出発前、男はその友人に「今日はY銅山の旧事務所周辺を単独で探索する。もし十八時になっても下山報告の連絡がなければ、滑落したかもしれないから警察へ通報してくれ」と告げていた。それは単独行における、彼なりの最低限の安全策だった。


 そもそも彼は、廃墟そのものを愛好しているわけではなかった。彼は小説家を志しており、その目的のためだけに研究会へ籍を置いていたと言っていい。他のメンバーはみな気のいい連中で、純粋に廃墟へロマンや心の休息を求めていた。中には自費出版で写真集を企てる者もいたが、彼のように廃墟探索を「文学の踏み台」としてしか見ていない人間はいなかった。


 男が頭の片隅で常に弄んでいたのは、架空の銅山の栄枯盛衰を描いた長編小説の構想である。一つの銅山の歴史は、そのまま一個の人間の生涯の巨大な隠喩となり得る、と彼は信じて疑わなかった。江戸期に開山し、明治期に近代化と採掘の本格化を迎え、大正期に絶頂を極める。そして激動の昭和を懸命に生き抜きながらも徐々に衰退し、平成に至ってついに幕を下ろす。

 この金属鉱山における典型的な歴史的変遷は、人間の誕生から幼年期、青春時代、孤独な壮年期を経て、諦観に満ちた老年期に死を迎えるという図式と完璧に符合しているように思えた。限りない叙情と、人間の根源的な悲哀を描き出す上で、これ以上ないほど具体的な枠組みではないか。歴史に名を残すような傑作になるはずだ、と彼は確信していた。


 同時に彼は、己のそうした野心をひどく高尚な理屈でコーティングしていた。(死や悲哀の癒し方をただ知りたいだけなら、死生学やグリーフケアでも学べばいい。だが、個人の泥臭い哀しみをあえて抽出し、技巧的に謳い上げることにこそ「芸術」の至高の意義があるのだ)と。

 自分が生身の「人生」そのものから目を背け、安全圏から他者の悲劇を消費したいだけの、青臭い虚栄心に憑りつかれていることなど微塵も自覚していなかった。


 その歪な確信は彼を非常な努力家へと変えた。この壮大な計画には、並々ならぬ取材が必要だったからである。彼は仕事の合間を縫っては全国の廃鉱山を巡り、物語に相応しい挿話を探し求め、各地の市町村史を読み漁った。牛の歩みのように遅々とした進捗ではあったが、彼の小説の骨格は着実に肉付けされ、肥え太っていった。


 そうした取材の一環として、彼はY銅山の旧事務所の前に立っていた。それは平凡な二階建ての木造建築で、平たい瓦屋根の端には鉄パイプの煙突が突き出し、板張りの外壁は所々剥げ落ちている。廃墟マニアの心すらときめかせないような、酷く地味な建物だった。

 彼も内心で舌打ちをした。(ああ、この建物は流石に何の題材にもなりそうにないな)。しかし、せっかくここまで足を運んだのだ。内部を一瞥くらいはしておこうと考えた。


 一階の内部は雑然としていた。末期には倉庫として使われていたのだろう。大量の書類や工具類、正体不明の瓶や一斗缶などが散乱し、どれも外気に晒されて黄ばむか赤錆に覆われている。彼が求めるような「文学的価値のある」代物は見当たらなかった。どこの廃墟にも転がっているありきたりな残骸であり、これらを克明に描写したところで物語の推進力にはならないことなど、とうに理解していた。


(今日はとことん不運な日だ)。男は胸中で毒づいた。しかし、さほど落胆しているわけではない。なぜなら、彼の傑作はそう遠くない未来に完成する手筈であり、それに比べれば本日の空振りなど些末な問題に過ぎなかったからだ。

(もうここに用はない。連中と同じように、ちっぽけな感傷にでも浸りながら廃墟探索と洒落込もうじゃないか。後で『大して面白い場所じゃなかったよ』と、いかにも残念そうに報告してやるんだ。それがいい)。


 厚底の登山靴で、散乱するガラス片や錆びた釘を避けながら、彼は奥へと歩を進めた。慎重かつ手慣れた足取りである。

 純粋な廃墟愛好家の中には、崩落の危険がある真っ暗な未踏の坑道へ潜ったり、風化して骨組みだけになった巨大な選鉱所の足場を渡ったりする者もいるが、彼に言わせれば、そんなものは命知らずの馬鹿のすることだった。そうやって廃墟狂いどもを内心で見下しながら、彼は事務所のさらに奥へと足を踏み入れた。


 事務所は意外と広く、日が当たらずなかなかに暗かった。男はそこで強力なLEDのワークライトを点けた。人工的な白い光が辺りを照らし出す。足元に面白そうな書類たちが散らばっているのを拾い上げ、彼は読んだ。

「Y銅山日報:先日の労働組合の要求を容れ……」

 他人の血の滲むような労働争議も、彼にとってはただの「悲劇のスパイス」に過ぎない。(なかなか面白い記事じゃないか)。彼はそうほくそ笑むと、それを写真に収めた。

 以前、彼はこっそりこうした書類を鞄に忍ばせて持ち帰ったこともあった。「遺留品を持ち出さない」というのは廃墟愛好家たちの絶対的なマナーだったが、文学という崇高な目的のための接収なのだから、連中のお遊びのようなルールなど知ったことではない。


 やがて突き当たりの壁面に、鉄骨の簡素な階段が現れた。男はそれを上る。窓の少ない二階は、屋根裏部屋のように薄暗かった。

 ふと、彼は仲間であるTのブログ記事を思い出した。つい先日ここを訪れたTは、『二階は床板が腐りきっていて、体重をかけると酷く軋む。踏み抜く危険があるため探索は断念した』と記していた。確かに、ライトで照らした足元の床板は目視でも分かるほど傷み、ひどく波打っている。

 ここで引き返すのが賢明だろうか。

 迷いながら、男がライトの光を奥へと向けたときだった。かつての宿直室と思しき空間の隅に、赤茶けて半開きになった分厚い鉄製のキャビネットが鎮座しているのが見えた。その隙間から、革張りのバインダーや古い書類の束がちらと覗いている。


 宝の山だ、と彼は直感した。あの中にこそ、自分の探し求めている決定的な題材が眠っているに違いない。

 文学への野心が、ためらいを容易く呑み込んだ。床板が腐っていても、建物を支える「根太」や「梁」の位置を見極めて歩けば済む話だ。そんな浅はかな過信とともに、彼は部屋の奥へと足を踏み入れた。


 彼は軋む床を警戒しながら忍び寄り、固着した引き出しを力任せに引き抜いた。外気と湿気から奇跡的に守られていたその奥には、市場には出回っていない『Y銅山の歩み』という非売品の冊子や、分厚い書類の束が、ほぼ無傷で眠っていたのである。


 男は憑かれたようにリュックを下ろした。これを持ち帰れば、決定的な題材になる。

 彼は小型の三脚を立ててデジタルカメラを固定し、ファインダーを覗き込みながら、焦る手つきで書類のページを繰ってはシャッターを切った。さらに奥の引き出しには、『Y銅山盛衰記』という仰々しい題名の、一際分厚い製本資料が覗いていた。

 それを引き抜き、いつものように自分の鞄へ押し込もうと、男がカメラの画角から外れるため無造作に一歩後退した時のことだった。


 男の足は、彼が安全だと見極めたはずの根太ではなく、完全に腐りきったただの床板の上に着地していた。

 濡れたビスケットのようにボキリと凄惨な破断音が響く。長年の雨漏りで木材の強度はとうに失われ、男の体重と機材の重みに耐えきれず限界を迎えたのだ。男が反射的に腕を伸ばした時には、もう空を切っていた。

 悲鳴を上げる間もなかった。男は重い鉄製のキャビネットや引き出し、無数の瓦礫と土埃を道連れにして、ぽっかりと口を開けた暗黒の穴から一階へと真っ逆さまに墜落した。


  ※  ※  ※


 彼が見舞われたのは、彼が物語に描こうとしたような壮大な悲劇ではなかった。単に、二階の床が局所的に崩落しただけのことだ。


 しかし、叩きつけられた一階の床で、男は無様な姿で悶絶していた。道連れになった数十キロの鉄製キャビネットが、彼の右脚を無慈悲に押し潰していたのである。骨が砕けているのか、身をよじることすらできない激痛が走った。周囲には腐った木材と共に、彼が接収しようとした『Y銅山盛衰記』が埃まみれとなって無惨に散らばっていた。


「痛い……ッ、ああっ!」

 呻き声を上げてもがこうとしたが、右脚は完全に鉄の塊に拘束されていた。ズボンの生地がどす黒く濡れ、生暖かい血の匂いが埃っぽい空気に混じって鼻腔を突く。激痛とショックで視界が明滅し、呼吸が浅く、早くなった。

(痛い。怖い。助けてくれ。血が……このままでは、ここで死んでしまう)


 死の恐怖が、泥水のように冷たく脳髄を満たしていく。圧倒的で、無機質で、絶対的な「死」の気配。その生理的なパニックと恐怖の果てに、ふと、彼の頭に一つの事実が遅れて浮かび上がってきた。

 彼は「ああ」と、乾いた絶望の声を漏らした。

 ああ、俺の作品は、何にもならなかった。何にもならなかったのだ。


 彼が描こうとしていたのは、長大な歴史を背負った巨大な悲劇だった。銅山全体に仮託した、一個の人間の崇高なる死の物語だった。だというのに、それを描くべき作家の末路がこれか。たかが二階の床の強度すら読み違え、鉄屑の下敷きになって死にかけている。あまりにも矮小で、無様で、泥臭い事故死。

 しかし、どういうわけか、この凄惨な痛み、土埃と赤錆の匂い、圧倒的な「死」の気配――この異常なほどのリアリティはどうだ。


 出血とショックで、男は瓦礫の下で少しずつ意識を失っていった。薄れゆく思考の中で、かつてM炭鉱の粉塵爆発事故で夫を亡くした老婆の顔が浮かんできた。男は取材と称して、彼女に無遠慮な問いをぶつけた。「その時、どんなお気持ちでしたか?」「この社会の虚しさのようなものを感じませんでしたか?」


(何が文学的価値だ)と、男は血の味のする唾を吐き捨てたくなった。他人の生々しい悲しみを安全圏から搾取し、綺麗な言葉で飾り立てて悦に入っていただけではないか。

 今なら痛いほど分かる。虚無だの文学的感傷だのが入り込む隙など、現実の死の淵には一切存在しない。そこにあるのはただひたすらに痛く、息苦しく、惨めな物理的苦痛だけなのだ。


  ※  ※  ※


 丸一日が経過していた。

 男は僅かに意識を取り戻した。極度の脱水と右脚の激痛により、死はすぐそこまで迫っていた。男の心からは「死を象徴した時代小説」などという甘美な幻想はとうに消え失せ、ただ泥水を啜ってでも生き延びたいという、動物的な渇望だけが残っていた。

 その時だった。外から車のエンジン音と、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。


「……この裏手かもしれない! 探してくれ!」

「おい、あそこの床が抜けてるぞ! ライト貸せ!」


 約束の十八時を過ぎても連絡がないことを重く見た友人が、宣言通り警察に通報し、捜索隊と共に駆けつけてくれたのである。

 男は乾ききった喉を引き攣らせ、肺の底から動物のような叫び声を絞り出した。

「ここだ! 助けてくれ! 俺はここにいる!」


  ※  ※  ※


 男は一命を取り留めた。右脚の複雑骨折と重度の脱水症状で済んだのは、まさに不幸中の幸いであった。


 それから数日が過ぎた。清潔で、空調の効いた、ひどく退屈な病室のベッドの上。男は石膏で固められた自身の右脚をぼんやりと見つめていた。

 点滴で水分と強力な鎮痛剤を流し込まれ、命の危機が完全に遠のいていくにつれて、あの瓦礫の下で味わったはずの「圧倒的な現実」は、早くも記憶の中で都合よく色褪せ始めていた。動物的な生存本能が満たされ安全圏へと帰還したことで、空いた隙間に再び、あの厄介な虚栄心が這い上がってきたのである。


(……確かに、あの銅山全体に仮託した巨大な悲劇の構想は甘かった。文学的な感傷などというものは、現実の痛みの前では全くの無力だ)

 男は心の中で一人ごちた。

(だが、いまの俺は違う。俺は、あの圧倒的な無意味さと、不条理で泥臭い死の淵を、この身で実際に体験したのだ。この圧倒的なリアルを知る俺ならば……)


 懲りない男の頭の片隅で、新たな野心がむくむくと鎌首をもたげ始めていた。


(この体験そのものが、別の小説になるぞ。俺なら、あの不条理で泥臭い現実を、カフカのような小説として書けるはずだ。そうだ、次はカフカみたいな小説を書いてやろう)――。

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