散歩の邪魔
本作はボカロP「いよわ」さんの新曲「散歩の邪魔」の解釈作品です。
いよわさんファンの皆さま、解像度低めですみません。
曲を未視聴の皆さま、中途半端な小説ですみません。
完成度が低く非公開にしてましたが、投稿してしまいました。
本家様
https://www.youtube.com/watch?v=ctAMLdnQUfI
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ワンルームの狭い玄関にスニーカーを脱ぎ捨てて、私は迷わず奥の部屋のドアを開けた。
「やっほー、茅ヶ崎くん。生きてる?」
声をかけながら踏み入った室内は、昼の二時だというのにひどく薄暗かった。
遮光カーテンがぴっちりと隙間なく閉め切られ、外のまばゆい晴天を頑なに拒絶している。空気はどこか重く、他人の立ち入れない湿り気を帯びて床に沈殿しているようだった。
部屋の主である茅ヶ崎くんは、ベッドの上で丸くなっていた。冬用の厚手の掛け布団を頭まですっぽりとかぶり、まるで世界から自分の気配を完全に消そうとしているみたいだった。
「……春日部? なんでここにいるの」
布団の隙間から、掠れた声が漏れる。生きている証拠を確認して、私は心の底からほっと胸をなでおろした。
「なんでって、お見舞いに決まってるじゃん。ほら、見てこれ」
私はベッドの端に遠慮なく腰掛け、自分の右手の人差し指を彼の目の前に突き出した。そこには、キャラクターものの派手な絆創膏が、これでもかというくらい大げさにぐるぐると巻きつけられている。
茅ヶ崎くんは布団をごそごそと動かし、細められた片目だけを覗かせた。
「……何それ。怪我したの?」
「そう。昨日の夜、ちょっと自炊を頑張ろうとしたら、包丁がツルッとね。名誉の負傷ってやつ。結構痛いんだから」
「そっか。お大事に」
それだけ言って、彼はまた布団の中に深く潜ろうとした。
彼のその諦めたような、小さく縮こまった背中を見つめながら、私は心の中で小さくため息をつく。
茅ヶ崎くんが会社の人間関係やら過重労働やらに揉まれて、ぽっきりと心を折られて休職に入ってから、もう一ヶ月が経つ。元がひどく真面目で、何でも自分の責任にして考えすぎてしまうタチだから、立ち止まってしまった今の状況が、誰よりも自分自身で許せないのだろう。
彼はいつも、目に見えない重い悩みを踵にべったりと張り付けたまま、一歩も動けずに苦しんでいるように見えた。置いていくことも捨てることもできない、あまりにも損な持ち物を両手に抱え込んで。
心を怪我した彼と、指を怪我した私。
私の指の怪我なんて、料理中にちょっと切ってしまっただけの、たいしたことない掠り傷だ。彼の抱える痛みに比べたら、ちっぽけで、比較にするのもおこがましい。
だけど、だからこそ、今日くらいはいいじゃないかと思う。
今日という日は、誰の誕生日でもないし、何かの記念日でもない。だからこそ、意味もなく祝いましょ、と私は心の中で彼に呼びかける。彼を外に連れ出すための、都合のいい言い訳ならいくらでも作れるのだ。
「はい、ストップ。潜らないで」
布団の上から、丸まった彼をぽんぽんと叩いた。
「ほら、起き上がって。外、すっごい晴れてるよ。ちょっと散歩行こう」
「……いいよ、別に。行くところもないし」
「行くところなんてなくていいの。ただ外の空気を吸って歩くだけ。ほら、早く」
私がベッドから立ち上がり、強引に遮光カーテンを引くと、鋭い冬の太陽光が部屋の中に容赦なく流れ込んだ。暗闇に慣れていた茅ヶ崎くんが「うわ、眩しい……」と両手で顔を覆う。
テレビをつければ、アナウンサーが世界情勢のややこしいニュースばかりを深刻そうに伝えている。スマホを開けば、明日の運勢とかいう余計なお世話な星占いが目に飛び込んでくる。カレンダーをふと睨めば、年末まで結構近いなとか、そんな時間の焦りばかりが心を急かしてくる。
でもね、今の私たちにとっては、そういうのはすべて邪魔なのだ。全部、散歩の邪魔。
彼が心を閉ざして部屋のカーテンになってしまうなら、私はそれを無理やりにでも揺らす春風になりたかった。雑誌を読むのも、スマホの画面を見るのも、一旦ここに置いていけばいい。
茅ヶ崎くんは深くため息をついたけれど、私の強引さに根負けしたのか、しぶしぶとベッドから這い出してきた。一ヶ月前より少し細くなった彼の背中を見ながら、私は心の中で小さくガッツポーズをした。
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一歩外に出ると、空気はひんやりと冷たかった。けれど、空はどこまでも青く澄んでいて、太陽の光が私たちの頭上に公平に降り注いでいる。
私たちは特に目的地を決めず、ただ足の向くままに歩き出した。
「どこ行くの」
少し後ろを歩く茅ヶ崎くんが、大きめのコートのポケットに両手を突っ込んだまま尋ねる。
「あ、こっちの道入ってみよ。行ったことない」
私は歩道の途中で、住宅街へ続く細い路地を指差した。
「おい、迷子になったらどうすんだよ」
「別にいいじゃん。戻ってこれなくなったらその時考えよ。ほら、おもしろそうだよ」
私はわざと、普段は通らないような古い住宅街の細い路地を選んで進んだ。塀の隙間から丸々とした猫がこちらを覗いていたり、見たこともない奇妙な形の看板がかかった古い商店があったりして、ただの近所のはずなのに、どこか知らない街に来たような不思議な錯覚を覚える。
しばらく歩いていると、小さな大衆食堂の前に出た。ガラスケースの中の食品サンプルが、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
「あ、ちょっとお腹空いてきた。お昼、ここで食べない?」
私がメニューの看板を覗き込むと、茅ヶ崎くんも隣に並んだ。
「そういえば、朝から何も食べてなかったな。何にする?」
「うーん、私はカレーライスにしよっかな。茅ヶ崎くんはオムレツとかどう?」
「なんでオムレツ……。まあ、洋食の気分だし、それにしようかな」
ガラガラと音を立てて引き戸を開け、静かな店内のテーブル席につく。運ばれてきた、銀色の皿に盛られた真っ赤な福神漬け付きのカレーライスと、黄色い卵にケチャップが綺麗に塗られたオムレツ。
テーブルを挟んで、全然違うメニューを頼んだ二人が並んでいる。彼がオムレツで、私がカレーライス。性質も歩くスピードも全然違う二人だけど、こうして並んでスプーンを動かしているだけで、どこかちぐはぐで、だからこそ妙に居心地がいい。彼は一口ごとに小さく咀嚼しながら、静かに食べ進めていた。
定食屋を出て再び歩き始めると、少し大きな通りに出た。そこにある横断歩道の手前で、私たちは足を止める。
ここの信号は、近所でも有名な『開かずの信号』だった。赤信号の時間が異常に長く、歩行者はみんなイライラしながら待つのが日常茶飯事の場所だ。
「ここ、相変わらず全然変わらないね。本当にお城が建つくらい待たせるじゃん」
私が文句を言うと、茅ヶ崎くんも「確かに長いな」と小さく呟いた。
本当に、どれだけ待たせるんだというくらい信号が変わらない。いつもなら「時間の無駄だな」と眉をひそめそうなものだけど、今の私には、この立ち止まる時間すらどこか愛おしかった。
世間のスピードについていけなくて、立ち止まってしまっている茅ヶ崎くん。でも、この横断歩道の前では、誰もが強制的に立ち止まらされる。ここでは、彼が遅れているわけでも、立ち止まっていることが悪いわけでもない。
ただ並んで、赤信号を見上げている。それだけのことが、私の胸の奥をじんわりと温めていた。
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ようやく信号が青に変わり、通りを渡った先に、スーパーの脇にぽつんと設置された証明写真の機械が見えた。プラスチック製のボックスの入り口には、少し色褪せたネイビーのカーテンが下がっている。
「あ、丁度よかった。ちょっと付き合って」
私は茅ヶ崎くんのコートの袖を引っ張って、その証明写真機の前まで進んだ。
「え、何? 写真撮るの?」
「うん。パスポート、更新しなきゃいけなくて。今度ちょっと海外に行くからさ」
私の言葉に、茅ヶ崎くんの瞳がわずかに揺れた。
私は来春から、少しの間だけ海外の語学学校に留学することが決まっている。ずっと前から準備していた、私なりの未来への一歩だ。
けれど、今の、休職して立ち止まっている茅ヶ崎くんの前でその話をするのは、少しだけ躊躇いがあった。私は前を向いて進んでいるのに、彼は置いていかれるような、そんな寂しさを感じさせてしまうかもしれないから。
底抜けに明るい日常の裏で、そんな風に彼に気を遣うこと自体が、彼を「弱者」として扱っているようで嫌だった。
「パスポートの写真って、いっつも犯罪者みたいになるじゃん? だから今日は、ちゃんと気合入れて撮るの。ちょっと、外で待ってて」
「あ、うん。わかった」
私は狭いボックスの中に滑り込み、備え付けの丸椅子に腰掛けた。カーテンを閉めると、外の光が遮られ、機械独特の少し酸っぱいような匂いが満ちる。画面の指示に従ってお金を入れ、撮影の準備をする。
外からは、茅ヶ崎くんがじっと待っている気配が微かに伝わってくる。
これから遠い国に行って、私の知らない世界が、知らないことばかりがたくさん待っているんだろう。でも、私にとって一番楽しくて、一番心が動くのは、こうして茅ヶ崎くんと一緒に過ごす、何でもない散歩の時間なのだ。それはきっと、どこへ行っても変わらない。今でも、これから先も。
『撮影します。3、2、1……』
機械の無機質なアナウンスが流れ、パシャリと強いフラッシュが焚かれた。まばゆい光に、私は思わず「あ」と声を上げてしまった。完全にタイミングを逃した気がする。
ボックスを出て、外の受け取り口の前に茅ヶ崎くんと並んで立つ。数十秒の後、ウィーンと音を立てて、まだ少し湿った写真のシートが滑り出してきた。
それを取り出して、二人で覗き込む。
「……っぶ! なにこれ、最悪!」
私は思わず吹き出してしまった。
シートに印刷された私は、見事なまでの『半目』だった。眠そうな、というか、完全に魂が抜けかけたような不格好な顔が四枚、律儀に並んでいる。
「パスポートの写真が半目って最高。これはこれでウケるね」
自分で自分の顔を指差して笑っていると、隣で気配がした。
見ると、茅ヶ崎くんが口元を片手で覆い、肩を小刻みに震わせていた。
「……何それ。わざとやったの?」
「わざとのわけないじゃん! 完全にフラッシュに負けたの! ほら、笑いすぎ!」
「いや、だって……最高すぎるだろ、これ」
「もう、笑い事じゃないよ。もう一回撮り直しましょ。今度は茅ヶ崎くん、外からちゃんと応援しててよね」
「写真の応援って何だよ」
呆れたように言いながらも、彼の表情はさっきよりもずっと柔らかくなっていた。ただ隣にいて、一緒にくだらないことで笑い合えるなら、それだけでいい。
二回目の撮影は、彼の「いま!」という間抜けな合図のおかげで、なんとか普通の顔で撮ることができた。
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写真機のボックスを離れた私たちは、街の裏手にある小さなお山へと向かった。
山、と言っても、地元の人が散歩コースに使うような緩やかな丘だ。けれど、運動不足の身体には、その緩やかな傾斜すらも容赦なく襲いかかってくる。
「これ……ふぅ……本当に初心者用? きつすぎでしょ」
私は膝に手を当てて、激しく息を切らせた。コートの下でじっとりと汗がにじむ。
一方で、茅ヶ崎くんは私より少し先を、淡々と歩いていた。
「体力がなさすぎるんだよ、春日部が」と、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。彼を元気づけるために連れ出したはずなのに、気がつけば私の方が励まされているようで、なんだかちょっと悔しい。
ようやくたどり着いた頂上には、見晴らしのいい展望台と、古びた木製のベンチがぽつんと置かれていた。
「助かった……」と呟きながら、私はベンチになだれ込む。既に足は棒のようになっていて、一歩も動かしたくない。
茅ヶ崎くんも隣に腰掛け、小さく息を吐きながら、眼下に広がる街並みを見つめていた。私たちの家も、彼のあの閉ざされたアパートも、ここから見ればすべてちっぽけな箱の集まりに過ぎない。
テレビのニュースなんかでは、世間はいつもせっかちな効率ばかりを求めてくる。でも、そんなに急いでどこへ行くのだろう。
静寂が心地よくて、私はなんとなく口をすぼめて、息を吹き出してみた。
ひゅ〜、ぷすー。
ちっとも上手く鳴らない、かすれた口笛の音が、冬の澄んだ空気に消えていく。何度やっても、空気が抜けるような情けない音しか出ない。
私が何度も必死に顔をくしゃくしゃにしながら息を吐き出していると、ふと横でカシャッと微かな音がした。
見ると、茅ヶ崎くんがスマホのカメラをこちらに向け、画面をタップしていた。
「あ、撮んなよばか!」
私は慌てて手でレンズを遮ろうとした。
「いや、あまりにも口の形が必死すぎておもしろかったから。いつまでも上手くなんないね」
「うるさいな、これでも真面目にやってるの! ほら、消してよ!」
「やだ。さっきの半目写真の代わりに、こっちパスポートにしなよ」
カメラを向けられて照れくさそうに顔を真っ赤にする私を見て、彼は今度は声を上げて笑った。その横顔は、部屋で丸くなっていた時とは見違えるほど、生気に満ちていた。
上手くできない口笛も、不格好な私の写真も、全部が愛おしい。世界がどんなに急かしてきても、私たちは私たちのペースで、このベンチの上でゆっくりと息を整えていればいいのだ。
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それから数週間が過ぎ、世間がすっかり冬休みの浮き足立った空気に包まれる頃。私たちは、たまの贅沢としてレンタカーを借り、小さな旅行に出かけることにした。
今回、運転を引き受けてくれたのは茅ヶ崎くんだった。彼は久しぶりの運転だと言いながらも、慎重にハンドルを握り、車を走らせていく。目的地は、車で二時間ほどのところにある、静かな海岸沿いの公園。
私は助手席に座り、窓の外を流れる冬の景色をのんびりと見つめていた。カーステレオから小さく流れるお気に入りの音楽が、車内の沈黙を心地よく埋めてくれる。
「はい、これ。頑張って作ってきた」
公園に着くと、私たちは芝生の上にレジャーシートを広げた。海からの風は冷たかったけれど、お互いの体温を感じられるくらい近くに座ると、不思議と寒さは気にならなかった。私はリュックから、家庭的なタッパーを取り出して彼に手渡した。
茅ヶ崎くんが蓋を開けると、そこには、案の定というか、移動の衝撃で見事に片方に寄ってしまったお弁当が入っていた。卵焼きと唐揚げが押し潰され、ブロッコリーが隅っこで小さくなっている。
「……ごめん、片方に寄っちゃった」
私が頭を掻くと、茅ヶ崎くんは「知ってた」と可笑しそうに笑った。
「道中、結構な勢いでリュック揺らしてたもんな。お前の歩き方見てたら、こうなる予感はしてたよ。でも、美味しそう。いただきます」
不格好なお弁当を、二人でつつき合う。形は崩れてしまっていたけれど、味は悪くなかった。彼は「美味しい」と言って、一つ一つ丁寧に食べてくれた。
世間は冬休みで、家族連れや恋人たちが楽しそうに行き交っている。私たちはその片隅で、崩れた弁当を食べている。それでも、私にとっては、この場所が世界で一番特別で、温かい場所に思えた。
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車中泊の夜は、想像以上に冷え込んだ。
狭い軽自動車のシートを限界まで倒し、持ってきた毛布を二人で分け合うようにして被る。
「寒いね」「そうだね」と言い合いながら、小さな空間で暖め合って眠る。
彼の規則正しい寝息を隣で聞きながら、私は、彼が今こうして生きて、私の隣にいてくれることの奇跡を想っていた。
翌朝。遮光カーテンのない車の窓から、眩しい朝日が差し込んできた。
私たちは寒さで目を覚まし、車に積んできた小さなクーラーボックスを開けた。中には、昨日途中の売店で買っておいた、キンキンに冷えたアサヒビールの缶が一缶だけ入っている。
澄んだ冬の朝の光を浴びて、スチールの青白い缶がキラキラと輝いていた。
「じゃあ、この最高の一缶を懸けて、じゃんけんね」
私は茅ヶ崎くんの前にビールの缶を置き、右手を構えた。
「負けたほうが帰りの運転手だからね。勝ったほうだけが、この冷えた最高のビールを朝から喉に流し込める特権を得る。いい?」
なかなかにスリリングな条件を突きつけると、茅ヶ崎くんは一瞬呆れたような顔をしたが、すぐに挑戦的な目を向けた。「いいよ。受けて立つ」
「よし。茅ヶ崎くんがパーを出すの、私には分かってるからね。だから、私はグーを出すよ。大予言」
そう言って、私はニヤニヤと笑ってみせた。裏切って「チョキ」を出すという、私なりの浅はかな作戦だった。
茅ヶ崎くんは「ふーん」とだけ言って手を構えた。
「いくよ。最初にグー、じゃんけん、ぽん!」
私の掛け声とともに、二つの手が突き出される。
私は宣言を裏切り、しれっと指を二本出して「チョキ」を突き出した。私の勝ちだ、と確信した。
しかし、目の前に差し出された茅ヶ崎くんの手は――「グー」だった。
「あ」
私は目を見開いた。チョキを出した私の手の前に突き出された、茅ヶ崎くんのグー。
「……春日部の考えることなんて、最初から全部お見通しだよ」
茅ヶ崎くんが、フッと得意げな笑みを浮かべた。私の浅はかな作戦なんて、完全に読まれていたのだ。負けたのは悔しいけれど、私の捻くれた性格を彼がすっかり分かってくれていることが、なんだか少しだけ嬉しかった。
「うわ、最悪! 茅ヶ崎くん、ずるい!」
「ずるくないよ。春日部が勝手に宣言を裏切って自滅しただけだろ。というわけで――」
茅ヶ崎くんはニヤニヤしながらビールの缶を手に取り、わざとらしくプルタブに指をかけた。
「帰りの過酷な運転、大げさな絆創膏の指で頑張ってね。俺は朝から最高の一杯をいただきます」
「ええーっ! 本気!? 冗談でしょ、ちょっと待ってよ茅ヶ崎くん!」
私が本気で焦って声を上げると、彼はプルタブにかけていた指を離し、ふはっと吹き出すように笑った。そして、そのまま冷え切ったビールの缶を、私の両手のひらにぽんと手渡してきた。
「はい、これ」
「え……?」
「冗談だよ。最初からお前に飲ませるつもり。俺、久しぶりの運転でちょっと楽しかったし、帰りも俺が運転するから」
「でも、じゃんけん勝ったのにいいの?」
「勝負に勝って、譲るのがかっこいいんだよ。ほら、温くなる前に飲みな」
茅ヶ崎くんは少し照れくさそうに頭を掻くと、車のキーを指先で弄びながら運転席へと戻っていった。
手渡されたビールの冷たさが、手のひらを通してじんわりと伝わってくる。私はカシャッと小気味いい音を立ててプルタブを引き抜き、一口、喉に流し込んだ。冷たい液体が染み渡るのと同時に、胸の奥がそれ以上の温かいものでいっぱいになっていく。
彼は真面目だから、常に正しい方向を指し示そうとするコンパスみたいな人だ。私はその針をいつも磁力で狂わせてしまう、お節介なマグネット。だけど、たまには道に迷ったって、こうして笑い合えるなら、それでいいじゃないか。
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旅行が終わり、夕暮れ時の街に戻ってきた。
駅前の店舗にレンタカーを返却し、そこから二人で歩いて彼のアパートの下までやってきた。
「じゃあね、茅ヶ崎くん。バイバイ」
「うん。ありがとね、春日部。楽しかったよ」
彼はそう言って、少し寂しそうに微笑み、アパートの階段を上っていった。その背中は、最初に出会った時よりも、ずっと頼もしく、前を向いているように見えた。
私は彼を見送ってから、駅へ向かって歩き出そうとした。
けれど、数歩歩いたところで、ふと足を止める。
何か忘れ物をしたわけじゃない。でも、なんだかこのまま帰ってしまうのが惜しくて、もう一回だけ顔が見たくなったのだ。
「あ、忘れてた」
私は誰もいない空間に向かってわざとらしく声を上げると、きびすを返してアパートの階段を駆け上がった。
彼の部屋の前に行き、インターホンを押す。
数秒の後、ドアがゆっくりと開いた。コートを脱ぎかけた茅ヶ崎くんが、驚いた顔で私を見つめる。
「……どうしたの? 忘れ物?」
「やっほー。また会っちゃったね」
私は空っぽの両手をひらひらと振って、悪戯っぽく笑った。
茅ヶ崎くんは一瞬呆気にとられたけれど、私がただもう一度挨拶をするためだけに戻ってきたのだと悟ると、あきらめたように、けれど本当に愛おしそうに、深く頷いた。
「相変わらず、せわしない奴だな」
「いいじゃん。また明日からも、気が向いたら散歩に行こ。それ以外のややこしいことは、全部邪魔だからさ」
彼は真面目だから、これからもたくさん悩むかもしれない。私が海外に行っている間、またカーテンを閉め切ってしまう日があるかもしれない。
もし彼が一人で耳を塞いでしまうなら、私は彼の世界に流れ込む、一番優しい音楽でありたいと思う。
来春、私は遠い国へ行く。知らないことばかりの世界へ。
だけど、あなたと過ごしたこの不格好で愛すべき邪魔だらけの時間は、私の胸の中でずっと鳴り続ける。
明日がどうなるかなんて、誰にも分からない。世界情勢も、明日の運勢も、年末の焦りも、今の私たちには何の関係もない。
茅ヶ崎くん。あなたが生きて、今、目の前で笑ってくれている。
あたしは、ただそれだけで、どうしようもないくらい幸せだよ。




