ファミリーレストラン
「三番テーブルさん、ハンバーグとドリア上がりました!」
「千穂ちゃん、ごめん! あっちの六番さんにお冷や持っていって!」
「はーい、ただいまお持ちします!」
大型ショッピングモール内のファミレス『サニーズ』。週末の昼下がりは、いつだって戦場だ。
「千穂ちゃん、週四で入ってくれるから本当に助かるわぁ。高校生なのに偉いわね」
「いえいえ、家から自転車で近いですし。それに忙しいの、結構好きなんです」
パートの先輩に笑って返しつつ、高校二年生の千穂は次々とオーダーをさばいていく。
そんな慌ただしい休日シフトの中で、千穂にとって密かな癒しになっている常連客がいた。
「三名様でお待ちの……サトウ様!」
ウェイティングボードに書かれたカタカナの名前を呼び上げると、待合席から見覚えのある家族が立ち上がった。
「いらっしゃいませ! ちょうどいつもの窓際のお席が空きましたよ」
「ふふ、ありがとうございます。今日もすごい活気ですね」
色素の薄い髪をふんわりとまとめ、いつも穏やかな微笑みをたたえているお母さん。千穂の案内に従って、家族はテーブル席へと向かい、慣れた様子で腰を下ろした。
メニューを開きながら、お母さんが尋ねる。
「お兄ちゃん、今日は何にする? 先週と同じハンバーグ?」
「うん、ハンバーグ!」
「ブレないねえ。じゃあパパは……ハンバーグにチーズが乗ってる、ちょっとズルいやつにしちゃおうかな!」
「あー! パパずるい!」
「こらこら、お店の中だから少しだけ声のボリューム下げようね」
子供と同じ目線で楽しそうにメニューを覗き込むお父さんと、恐竜のTシャツがお気に入りの五歳くらいの男の子。
「妹ちゃんは、今日もパンケーキかな?」
千穂がしゃがみ込んで目線を合わせると、お母さんの腕に抱かれた三歳くらいの女の子が、こくりと頷いた。
「あ、あと山盛りポテトも一つお願いします」
「はい! ポテトは皆さまでシェアですね」
ポテトが運ばれてくると、お父さんが男の子のお皿に多めに取り分けてやりながら、「はい、おまけ」と小さく笑いかける。お母さんは「もう、パパが甘やかすから」と苦笑いしながら、妹の口元を紙ナプキンで丁寧に拭いている。
「お会計、二千八百円になります。ポイントアプリはお持ちですか?」
「はい、これで」
画面に『サトウ マユ』と表示されるのを見て、千穂は心の中で彼女たちを改めて「佐藤さん一家」と呼ぶようになっていた。
「お姉さん、バイバイ!」
「うん、またね。お兄ちゃんも妹ちゃんも、気をつけてね!」
* * *
別の日の休日。シフトが入っていない日に、千穂が私服でモールのゲームセンターを通りかかった時のことだ。
「あ! サニーズのおねえちゃんだ!」
UFOキャッチャーの前で、真新しい恐竜のぬいぐるみを抱えたお兄ちゃんが千穂を指さした。
「こら、指をささないの。……あ、いつもお世話になってます」
お母さんがペコリと頭を下げる。
「あっ! 佐藤様でしたか。こんにちは!」
「やだ、佐藤様だなんて。ここはサニーズじゃないでしょう?」
お母さんが優しく微笑みかけてくれる。
「あはは、そうですね! お兄ちゃん、それ取ってもらったの? すごいね!」
「パパがね、一回でとったんだよ!」
得意げに笑うお兄ちゃんと、照れくさそうに頭を掻くお父さん。制服を脱いだオフの姿でも見つけてくれたことが、千穂は純粋に嬉しかった。
この出来事があってから、千穂と佐藤さん一家は、店でも以前より少しだけ親しげに言葉を交わすようになっていた。
* * *
十一月も終わろうとする、ある日曜日のことだった。
怒涛のピークタイムが過ぎ、ようやく上がりの時間。
制服から着替えて休憩室のパイプ椅子に深く腰を下ろし、千穂はふと掛け時計を見上げた。時刻はすっかり夕方を回っている。
「あれ? そういえば……今日、佐藤さんご一家、来なかったな」
佐藤さん一家は、毎週日曜日の午後二時にはほとんど決まって来店していたのだった。慌ただしい休日シフトの中で、あのあたたかいやり取りは千穂にとっても密かな癒しだったのだ。
着替えを終えたパートの先輩が、千穂の呟きを聞きつけて振り返る。
「佐藤さんって?」
「ほら、恐竜のTシャツの男の子がいる……」
「あー、佐藤さんだっけ。確かに最近見ないね。子供の習い事でも始まったんじゃない?」
先輩が言うと、通りかかった店長が「いやいや」と首を振って口を挟んだ。
「国道沿いにできた新しいファミレスチェーンに浮気してるんだよ。あっちの方がキッズメニューのおもちゃが豪華らしいから」
「あー、それあるかも!」と別の先輩が相槌を打つ。
「えー、そうかな……単に店長に活気がないからとかじゃないですか?」
納得のいかない千穂がふざけて言うと、店長が口を尖らせた。
「なんで僕のせい!? 失礼な。ていうか、千穂ちゃんの接客が元気すぎて引かれちゃったとか……」
「ちょっと、ひどいですよ!」
笑い合う声が休憩室に響く。
「まあ、そのうちまた来るって」
「そうですね」
千穂は鞄を肩にかけた。休日のモールは容赦なく忙しい。笑い話で片付けられたほんの少しの疑問と寂しさは、すぐに日常の喧騒の中へあっという間に飲み込まれていった。
* * *
それから一年以上の月日が流れた。
サニーズでのアルバイトも三年目。推薦で早々に大学の進学先を決めた高校三年生の千穂は、すっかりベテランの域に入っていた。忙しい日々の中で、いつしかあのあたたかい常連家族のことは、千穂の記憶の隅へと追いやられていた。
十二月半ばの、平日午後四時。休日の戦場のような喧騒が嘘のように、店内は静まり返っている。客はドリンクバーで粘る学生や休憩中の営業マンが数組いるだけで、BGMの静かなボサノバだけが気怠く響いていた。
カラン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
入ってきたのは、黒っぽいカーディガンを羽織った一人の女性だった。ひどく疲れているのか、足取りが重い。うつむき加減のまま、窓際の小さなテーブルに静かに腰を下ろした。
しばらくして、呼び出しボタンが鳴る。
「お伺いいたします」
「……チーズインハンバーグと、パンケーキ。あと、山盛りポテトを一つ」
少し低くかすれた声だった。一人分にしてはずいぶん多い注文だ。
「かしこまりました。……あ、お連れ様が後からいらっしゃいますか?」
「いえ、私一人です。食べきれない分は、後で持ち帰り用のパックをもらえますか?」
「あ、はい。もちろんです」
オーダー用の端末から顔を上げ、千穂はハッとした。
無造作にひっつめにされた髪。ひどく痩せて、メイクもほとんどしていない青白い顔。雰囲気が違いすぎて最初は全く気づかなかったけれど、注文のラインナップと、その伏せられた目元の面影で確信した。
(……佐藤さん?)
一年以上前に、ふっつりと姿を見せなくなったあの常連家族のお母さんだ。
でも、どうしてこんな平日の夕方に一人で? あの明るいお父さんや、子供たちは?
「お待たせいたしました。チーズインハンバーグと、パンケーキです」
「……ありがとうございます」
料理を運んでいくと、佐藤さんは小さく頭を下げた。しかし、フォークを手に取る気配はない。ハンバーグにもパンケーキにも手をつけることなく、ただじっと、テーブルの真ん中に置かれた山盛りポテトを見つめている。
やがて、彼女はバッグから一冊の真新しいノートを取り出した。ボールペンを握り、何かを丹念に書き込んでいる。家計簿だろうか、それとも何かのメモだろうか。少し離れた場所からグラスを磨きながら見守っていたが、千穂の位置からは分からない。
結局、佐藤さんはポテトを数本口にしただけで、残りの料理をすべて持ち帰り用のパックに詰めて帰っていった。
* * *
翌週の同じ時間にも、彼女はやって来た。
「……今日は、ミートソーススパゲティと、山盛りポテトを」
「かしこまりました。パックも一緒にお持ちしますね」
「すみません。助かります」
やはり二人分に近い料理を頼み、一口二口だけ食べては、ずっとノートに何かを書き込み続けている。
レジで会計を済ませる時、千穂は思い切って声をかけようか迷った。「以前、よくご家族で来てくださってましたよね」と。しかし、目の前に立つ佐藤さんがまとっている空気が、それを許さなかった。以前のふんわりとしたあたたかさは消え、触れれば壊れてしまいそうなほど張り詰めて、虚ろだったのだ。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
自動ドアの向こうへ消えていく細い背中を見送りながら、千穂の胸に得体の知れない不安が広がっていく。
あのあたたかかった家族の間に、何かあったのだろうか。
* * *
バイトの早番を終えた金曜日の夜。時刻は午後七時を回っていた。
上がりの着替えをしていると、千穂のスマホが震えた。
『帰りに牛乳と卵買ってきて。あとトイレットペーパーも』
母親からのLINEに、千穂は「えー、重いしめんどくさい……」と思わずため息をつきつつ、『はいはい、りょーかい』とスタンプと一緒に返信した。
いつもの面倒な愚痴を抱えたまま、千穂は少し疲れた体でモールに併設されている大型スーパーの食料品売り場を歩いていた。冬の夜は客足が引くのが早く、白々とした蛍光灯の光が無機質に店内を照らしている。
「あー、甘いもの食べたい……」
スナック菓子のコーナーでポテトチップスに手を伸ばした千穂は、ふと視線を横に向けた。少し先のお惣菜コーナーに、見覚えのある細い背中があった。
「……あ」
黒っぽいカーディガン。無造作に束ねられた髪。佐藤さんだった。
彼女が押すカートの幼児用シートでは、あの時の妹ちゃんが、マフラーに顔を埋めるようにしてすやすやと眠っている。カートの赤いカゴの中には、半額シールが貼られたお惣菜と、パンがひと袋。それだけだった。
(……声、かけてみようかな。前はゲームセンターでも声かけてくれたし)
千穂は少し迷ったが、お店でノートに向かう彼女の悲痛な横顔がどうしても気になっていた。
「あの……佐藤、さん、ですよね」
背後からそっと声をかけると、佐藤さんはビクッと肩を震わせて振り返った。
「サニーズでバイトしている、波川です。ほら、以前よくご家族で来てくださってましたよね。お会計の画面でお名前、見えちゃってて……勝手にすみません」
「あ……お姉さん。あの時の」
佐藤さんは少しだけ目を丸くした後、かすかに表情を和らげた。
「覚えていてくれたんですね。……いつも騒がしくしちゃって、ごめんなさいね」
「いえ、いっつも楽しそうで、私、佐藤さんご一家のファンだったんです。最近お店でお見かけしてもお一人だったから、どうしたのかなって」
千穂はカートで眠る小さな寝顔を覗き込み、無邪気に笑いかけた。
「妹ちゃん、すっかりお姉ちゃんになりましたね。……今日はパパと、恐竜が好きだったお兄ちゃんはお留守番ですか?」
なにげない、本当にただの世間話のつもりだった。あのあたたかい家族の様子を聞けば、今の彼女の暗い雰囲気も少しは晴れるのではないかと思ったのだ。
しかし、佐藤さんの唇は微かに震えていた。
「……主人は、もういないんです」
「え?」
「去年の冬、交通事故で。……息子も、一緒に」
冷蔵ケースのモーター音が、急に耳障りなほど大きく聞こえた気がした。千穂の笑顔が、顔に張り付いたまま凍りつく。
「え……あ……」
「二人で出かけた帰りに、対向車線をはみ出してきたトラックに。……私と娘は、たまたまお留守番をしていて」
佐藤さんは、まるで他人の出来事を話すように、淡々とした声で言った。
「……あのお店に行けば、二人がまだそこにいるような気がして。お兄ちゃんがいつも食べてたハンバーグとか、パパと取り合った山盛りポテトとか……頼んだら、ひょっこり戻ってくるんじゃないかって」
「佐藤、さん……」
「変ですよね。そんなわけないのに」
自嘲するように小さく笑い、佐藤さんはうつむいた。
「お店でずっとノートに書いていたんです……私、忘れるのが怖くて……悲しくて」
ぽつり、と絞り出すような声が続いた。
「あの子がどんな声で笑ってたか、主人がどんな顔でポテトを分けてたか……時間が経つと、少しずつ記憶が薄れていっちゃう気がして。忘れたくなくて、必死に思い出して書き留めてたんです。あそこなら、二人がそばにいる気がして、ちゃんと思い出せるから」
佐藤さんの瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。白々とした蛍光灯の光を反射したそれは、スーパーの冷え切った空気の中で、ひどく哀しく光っていた。
息が、詰まった。
千穂の頭の中で、ゲームセンターで見せてくれた無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
『パパがね、一回でとったんだよ!』
誇らしげだった男の子の声。照れくさそうに笑っていたお父さん。あのあたたかくて眩しかった光景は、もう世界のどこにも存在しないのだ。
目の前にあるのは、疲れ切った母親と、眠る女の子。そして、カゴに入れられた半額の惣菜だけ。
その残酷な対比を突きつけられ、千穂の胸の奥で、何かが激しく軋んだ。それなのに、「パパとお兄ちゃんはお留守番ですか」などと無邪気に笑いかけてしまった自分は、なんて無神経で残酷なんだろう。
「ごめんなさい……っ」
千穂の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。泣いてしまった。昔から泣き虫なのだ。
他人の自分が泣くなんておかしい、同情なんておこがましい。頭では分かっているのに、止められなかった。
「私、何も知らないで……ひどいこと、聞いちゃって……ごめんなさい……っ!」
「波川さん……」
両手で顔を覆ってしゃくり上げる千穂に、ふわりとあたたかいものが触れた。佐藤さんの手が、泣きじゃくる千穂の背中を優しく撫でていた。
「どうして波川さんが泣くのよ。……優しい子ね」
佐藤さんの声は、震えながらも、あの頃のようなあたたかい響きを帯びていた。
「ううん、ありがとう。……すごく、嬉しかった。主人のこと、あの子のこと、そんな風に覚えていてくれた人がいたなんて。誰かの記憶の中で、あの子たちが笑ってるって分かって……本当に、嬉しかったの」
当たり前の日常を生きる、悩みなんてない高校生を、家族を失った母親が慰めている。
考えてみれば、おかしなことかもしれない。けれど、佐藤さんの優しい手のひらの温度は、千穂の心に開いた暗い穴に、静かに沁み込んでいった。
「……また、お店行ってもいいかな。今度は、この子と一緒に」
「はい……っ、はい! いつでも、来てください。佐藤さんたちのために、一番いい席、空けておきますから……!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げて頷くと、佐藤さんは「ありがとう」と、今日一番の、柔らかい微笑みを浮かべた。
佐藤さんと別れた後、千穂は母親に頼まれていた牛乳と卵、それにトイレットペーパーをカゴに入れた。
* * *
『えー、重いしめんどくさい』
ついさっき自分が送ったLINEのメッセージを思い出し、また少しだけ泣きそうになった。いつもの面倒くさいおつかい。文句を言い合える家族が、明日も明後日も当たり前のように家にいること。それがどれほど奇跡のようなことなのか、今の千穂には痛いほど分かった。
ずっしりと重いスーパーの袋を自転車のカゴに乗せ、千穂はペダルを漕ぎ出した。
冬の冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
世界は残酷だ。絵に描いたような幸せを、ある日突然、理不尽に奪い去ってしまう。
けれど同時に、どうしようもない悲しみの中で、他人のために手を差し伸べて背中を撫でてくれるような、あたたかさも残っている。
優しいけれど、哀しい。哀しいけれど、優しい。
暗い夜道を走りながら、千穂はペダルを踏み込む力を少しだけ強めた。
明日もまた、明るいモールのファミレスでエプロンをつけよう。そして、いつか佐藤さんと小さな女の子が二人でやってきたら、とびきりの笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えよう。この、優しくて哀しい世界の中で、ほんの少しでも彼女たちの心を温められるように。




