トゥイー・ボックスの人形劇場
本作はボカロP「sasakure.UK」様の「トゥイー・ボックスの人形劇場」のオマージュ作品です。
童話風作品は不得手で、原曲解像度も低めですが、
一度手放すために投稿してしまいます。
私が作ると生硬な感じになってしまいました…。
<本家様(リマスター版)>
"トゥイー・ボックスの人形劇場" feat. 初音ミク (Remaster ver) / sasakure.UK
https://www.youtube.com/watch?v=rkFQGtybKmw
<本家様(2013年版)>
sasakure.UK - Puppet Theater of Twee-Box feat. Hatsune Miku / トゥイー・ボックスの人形劇場
https://www.youtube.com/watch?v=_-fgbICIu7w
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/25313.html
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1
ねえ、ちょっとそこのきみ。
そう、きみだよ。よかったら、少しだけ、ぼくのおしゃべりに付き合ってくれないかな。
ここは、ひんやりとしていて、お日さまの匂いがまったくしない、おっきな建物。
高い天井の向こうには、きっと空があるんだろうけれど、ぼくからは見えないんだ。ぼくは今、分厚いガラスの箱のなかに、たったひとりで吊るされているからね。
ほら、見ての通り、ぼくは木でできた操り人形さ。
頭と手足には細い糸がついていて、上の十字の板から引っぱってもらうと、木の関節を動かすことができる。もっとも、今はその糸を引いてくれる人がいないから、両足をそろえて、じっと宙に浮かんでいるだけだけど。
「お母さん、見て! あのお人形、ニコニコしててかわいいよ」
ガラスのすぐ向こうから、ちいさな声。
小さな手のひらが、ぼくの顔の高さにくっついている。指のあとがガラスに残って、そこだけ少しくもった。
「こら、そんなに近づいちゃいけません。あれはね、とても悲しいお話に出てくる、かわいそうな道具なのよ」
お母さんは、女の子の手をそっと引いた。叱っているというより、何かを見せないようにしている声だった。
女の子は、もう一度だけぼくを振り返った。
それから、お母さんの手に引かれて、展示室の奥へ行ってしまった。
ねえ、どうして大人たちは、ぼくを見ると、あんな顔をするのかな。
怒っているみたいに眉を寄せる人もいるし、何かを思い出してしまったように、目を伏せる人もいる。なかには、ぼくの顔を見つめたまま、長いこと動かなくなる人だっているんだ。
でも、ぼくの顔は、ずっとこのまま。
口の端が上がっていて、目も少しだけ細くなっている。生まれたときから、笑っているように彫られているんだもの。悲しい顔も、怒った顔も、ぼくには作れない。
足もとには、白い金属の板がある。黒い文字がびっしり並んでいるけれど、ぼくは「使い走りの男の子」として彫られただけだから、むずかしい字は読めないんだ。
ガラスの向こうの壁には、くすんだ鉄の兜や、革のひび割れた水筒、それから、持ち主の名前も消えてしまった小さな靴が飾られている。きっと、あの頃のことが書かれているんだろうね。
ぼくは、あの頃のことなら、少しだけ知っているよ。
文字は読めなくても、手のぬくもりなら覚えている。舞台の灯りも、広場に集まった人たちの顔も。親方が糸を引くとき、指先から伝わってきた、あのやさしい力もね。
みんなの前で冗談を言って、舞台を駆け回って、ガラス玉の目をきらきらさせていた。
あれは魔法だったのかな。
それとも、ただ、誰かが誰かと一緒に笑うことを、まだ難しく考えていなかっただけなのかな。
ねえ、きみ。
ぼくを動かしていた糸が、どうして絡まったまま止まってしまったのか、聞いてみたい?
焼きたてのパンみたいにいい匂いがして、とびきり楽しくて、そして、思い出すたびに胸の奥が少し冷たくなる、あの頃のお話を。
それじゃあ、聞いておくれ。
ぼくがまだ、ガラスの箱のなかにいなかった頃のことを。
2
思い出すのは、もう百年の昔のお話。
雪が窓ガラスをちくちく叩く、冬の夜のこと。小さな部屋では薪がぱちぱちはぜて、削られたばかりの木の、甘くてやさしい匂いと、煮立ったお茶の香りが、部屋のなかで混ざり合っていたんだ。作業台には小刀ややすり、色とりどりの布きれ。
ぼくたちを作ってくれた人は、みんなから「親方」と呼ばれていた。
親方は、この街でもいちばん大きなお屋敷の息子だったみたい。家の人たちは、いつか親方が立派な仕事に就いて、家の名前をもっと有名にしてくれるものと思っていたんだって。
でも、親方は立派な椅子に座って難しい話をするより、自分で木を削り、布を縫い、小さな舞台を組み立てる方が好きだった。
本棚には、旅をする詩人や、劇場を渡り歩く人々が出てくる古い本が並んでいた。親方はその本を何度も読み返しては、余白に台詞を書き込んでいた。登場人物たちが、身分や生まれた家に決められた道を外れて、自分の足で世界を知ろうとするところが、たまらなく好きだったみたい。
「そんな遊びで暮らしていけるものか」
家の人たちは、よくそう言っていた。
親方は困ったように笑って、それでも小刀を置かなかった。
ぼくが生まれたのは、ちょうどその年の冬。
親方は、ぼくひとりだけを作っていたわけじゃない。作業台の上には、まだ衣装を着ていない仲間たちが、順番を待つように並んでいた。
ぼくの隣には、立派な上着を着ることになる若者の人形がいた。すっと通った鼻筋に、少しばかり人をからかうような口もと。彼はまだ目を描かれていないのに、もう自分が誰よりも賢いと知っているみたいな顔をしていた。
その向こうには、美しい髪のお姫様。親方がドレスの裾を縫い合わせているあいだも、つんと不満そうに顎を上げている。
足もとには、荷車を引く小さな木馬。真新しい車輪、一本ずつていねいに縫いつけられた薄茶色のたてがみ。
そして、裁ち落とした布の切れ端を縫い合わせて作られた、灰色の猫。
猫の片目は少しだけ細く、口もとは、何かを言いたくてたまらないように曲がっていた。しっぽの先には小さな真鍮の鈴がついていたんだ。動くたびに控えめな音がするように、親方がわざわざ選んでくれたものだった。
「よし、できたぞ」
親方はぼくを持ち上げ、ランプの灯りにかざした。
ぼくの頭と手足には、細い糸がつながれていた。親方はそれを上の十字の板に結びつけ、一本ずつ、長さを確かめた。最後に、ぼくの木の頬を指でなでてくれたんだ。
「きみは、よく笑う顔をしているね」
何度もやすりをかけてくれた頬は、つるつるだった。
親方の指は、木を削る仕事のせいで少し荒れていたけれど、触れ方はとてもやさしかった。ぼくには胸も心臓もないはずなのに、その手が触れたところから、あたたかさがじんわり広がっていくような気がしたよ。
「さあ、みんな。これで舞台ができる」
親方は木のブロックを積み重ね、色を塗った小さな壁を立て、布を垂らして幕にした。
窓の外では雪が降りつづいていたけれど、工房のなかは、春をひと足先に閉じ込めたみたいに明るかった。
親方が十字の板を持ち上げると、ぼくの手が上がり、足が床から離れた。
自分の力で動いたわけではない。親方の指が糸を引いてくれたからだ。それでも、目の前の景色が変わった瞬間、ぼくは初めて、自分がこの世界にいるのだと思った。
「わあ、ぼく、走れるよ!」
声は出ない。でも、親方には聞こえたみたいに、やさしく笑ってくれた。お姫様も若者も、猫も木馬も、これからどんな役を演じるのか、まだ知らないまま、みんなで舞台の上に並んでいた。
それが、ぼくたちの最初の夜だったんだ。
3
街には、自由な風が吹いていた。朝の石畳を行き交う荷車。パン屋から流れてくる、焼きたての甘い匂い。昼過ぎには、焼き菓子を売る人や、熱い飲み物を配る人が天幕の近くに集まり、夕方になると、仕事を終えた人たちが舞台のまわりに輪を作った。
親方の人形劇は、いつのまにか街の名物になっていた。
大きなお屋敷に住む人も、靴の底がすり減った職人も、遠い土地から来た商人も、広場に来れば同じ幕を見上げた。違う言葉を話す人たちもいたし、家の習慣や祈り方が少し違う人たちもいた。でも、笑うところは案外よく似ていたんだ。
親方が書くのは、難しい理屈を並べるお芝居じゃなかった。
お姫様が自分の人生を自分で決めようとし、若者がそれをからかい、ぼくが使い走りで右へ左へ駆け回り、灰色の猫が舞台の隅から、みんなの言い分に小さな針を刺す。そんな喜劇だった。
「いいこと? これからは、あたしたちが自分で道を選ぶの。お城で待っているだけのヒロインなんて、もう古いんだから!」
お姫様は、いつも台詞を長くしたがった。
親方が台本に書いた言葉だけでは足りないらしく、舞台の真ん中で、あれも言いたい、これも言いたいと胸を張るんだ。
「それはすばらしいね。じゃあ、君が道を選び終えるまで、ぼくは客席でお茶を飲んでいようかな」
若者は舞台の端に腰をかけ、客席に向かって片目をつぶる。
お姫様はすぐに怒りだす。
「ちょっと! お芝居をさぼる気? 坊や、あの怠け者に林檎をぶつけてやりなさい!」
「はいはい、ただいま!」
ぼくは赤い木の林檎を抱え、舞台を横切って若者の足もとへ転がす。若者は大げさに驚いて、何もないところで転んでみせる。客席から笑い声があがると、お姫様は、ほら見なさいとでも言うように満足げに頷くんだ。
「やれやれ。いちばん偉いのは、文句も言わずにこき使われている、そこのちいさな坊主なのにねえ」
灰色の猫は手すりに寝そべり、目だけを細めている。
お姫様は「聞こえているわよ!」と怒り、若者は「猫くん、今度は君が林檎を受け取る番だ」と笑う。猫はしっぽをひと振りして、うまくかわしてしまう。
そんなお芝居を、ぼくたちは何度も何度も演じた。
同じ台詞を繰り返しているのに、不思議なことに、毎日少しずつ違う舞台になったんだ。雨が降れば、客席の人たちは濡れないように肩を寄せ合った。風が強い日には幕がふくらみ、お姫様のドレスが思いがけず大きく広がって、若者が「とうとう本物の女王になったね」とからかった。猫は、そのたびに新しい皮肉を思いついたような顔をした。
親方の指が糸を引くと、ぼくたちは役のとおりに動く。
けれど、同じ役を毎日演じているうちに、ぼくたち自身も、その役に似てきたような気がしたよ。お姫様はますます自分の意見を曲げなくなったし、若者は何を言われても平気な顔をするようになった。猫は、みんなが言いにくいことを見つけるのが上手になった。
ぼくはといえば、誰かに頼まれると、つい舞台の端から端まで走ってしまう。ぼくの役は使い走りだからね。そうして、みんなの話をつなぐのが好きだったんだ。
幕が下りると、広場は子どもたちの舞台に変わる。ぼくの真似をして、右へ左へ大急ぎ。赤い林檎のかわりに丸めた紙を転がし、若者のように転んでみせ、お姫様のように胸を張って、猫のように皮肉な顔をする。
夢中になりすぎて、勢いよく頭をごっつんこ。
「いたた……」
「へへ、きみ、お姫様みたいな顔!」
痛いのなんてすぐ忘れて、また笑い合う。そんなふうに、子どもたちはすぐに仲直りした。
客席には、巻き毛の子も、黒い髪を三つ編みにした子も、家で別の祈りの歌を歌う子もいた。大人たちのあいだには、互いの家のことや、誰がどんな言葉を話すかを気にする人もいたけれど、舞台の前にいる子どもたちは、そんな違いをいちいち数えなかった。
猫が若者をからかえば、みんなが笑う。
ぼくが林檎を転がせば、みんなが身を乗り出す。
お姫様が長い台詞を言いすぎて幕が下りるのが遅くなれば、みんなで一緒に、まだ終わらないのかと笑った。
あの広場には、世界のすべてがあったわけじゃない。
遠い土地で何が起きているか、ぼくたちは知らなかったし、大人たちの胸の奥にある心配ごとを、全部わかっていたわけでもない。
ただ、舞台のまわりにいるあいだは、違う家から来た人たちが、同じところで笑うことができたんだ。
親方は、幕をたたみながら、よく満足そうにぼくたちを見た。
その顔を見るたび、ぼくは思ったよ。
この人は、ぼくたちを作っただけじゃない。みんなが一緒にいられる場所を、木と布で作っているんだって。
4
でもね、楽しい時間は、いつまでも同じ形では続かなかった。
遠くのほうで、大きな戦争が起きた。
最初は、広場の人たちも、遠い場所の出来事として話していたよ。新聞を持った男の人が、見たことのない地名を口にする。酒場では、誰が勝つのか、どちらが悪いのか、声の大きな人たちが言い合っていた。
やがて、街の店先から、少しずつ品物が消えていった。パン屋の窓に並ぶ丸いパンは小さくなり、焼き菓子を売る屋台は、夕方になる前に店じまいをするようになった。
広場の風も、前とは違って感じられた。
人々はすり減った靴で石畳を歩き、肩をすぼめて、明日のことを話す。
「この先、食べ物はどうなるんだろう」
「もし、こちらまで敵の兵隊が来たら?」
「誰かが、きちんと守ってくれなくては困る」
その声を聞くたび、親方は台本を閉じて、しばらく窓の外を眺めていた。
それでも、舞台の時間になれば、いつものように幕を張り、ぼくたちの糸を確かめた。広場に集まる人たちを少しでも笑わせたいと思っていたんだろうね。
けれど、以前なら若者の冗談に笑っていた男の人が、ある日、口もとを固く結んだまま舞台を見つめていた。
お姫様が「自分の道は自分で選ぶ」と胸を張ると、客席のどこかから「そんな夢物語を聞いている場合か」と冷たい声が飛んだ。
猫が政治家のような男をからかう場面では、笑い声のかわりに、何人もの人が落ち着かない様子で周囲を見回した。
猫はいつだって、誰も言いたがらない「本当のこと」を口にする役だった。平和な頃は、みんなそれを皮肉だと言って笑っていたのにね。
でも、明日がこわくなると、人は耳の痛い本当のことより、自分たちを安心させてくれる都合のいい言葉のほうを信じたくなるみたいだ。
子どもたちにも、少しずつ変化が現れた。
以前は猫の言葉をまねて大人を笑わせていた子が、ある日、猫が舞台で本当のことを言ったとき、顔を真っ赤にして「あいつは嘘つきだ! あいつが悪いんだ!」と叫んだんだ。
その子の声には、いつもの遊びの調子がなかった。
お腹が空いて、明日がこわくなると、人間は、お芝居をただのお芝居として楽しむ余裕をなくしてしまうのかもしれないね。
「親方、もっと景気のいい話をやってくれよ」
ある晩、客席からそんな声があがった。
「言葉遊びなんていらない。悪いやつを、正義の騎士がやっつける話が見たいんだ」
「そうよ。誰が正しいのか、はっきりわかるお芝居にしてちょうだい」
親方は、返事をしなかった。
手もとには、昔の台本が開かれていた。紙の端は何度もめくられて柔らかくなり、お姫様の長い台詞の横には、親方が書き足した冗談がいくつも残っていた。
親方は客席を見た。
そこには、寒そうな上着を着た人たちがいた。空っぽの買い物籠を持った女の人も、眠そうな顔の子どももいた。みんなが何かを怖がっていることは、親方にもわかったんだと思う。
親方は、台本を閉じた。
それから、舞台の隅に積んであった小道具箱を引き寄せた。
震える手で新しいページを開き、消え入りそうな字で『裏切り者の猫』と書き込む。その時の親方の背中は、魔法使いなんかじゃなく、ただの小さく怯えた人間みたいだった。
その夜から、舞台の色が変わりはじめた。
花やガラス玉は箱の底にしまわれ、かわりに小さな大砲や、鋼鉄の車、兵隊の帽子が並ぶようになった。お姫様のドレスは地味な作業着に変わり、若者の上着には冷たい金属のボタンがつけられた。ぼくにも、灰色の兵隊服が着せられたんだ。
親方は、衣装を縫い直すたびに、何かを言いかけては口を閉じた。
ぼくの糸を結び直す指には、冷たい汗がにじんでいたよ。
新しいお芝居は、たしかにみんなを沸かせた。
強い兵隊が現れ、敵を追いつめ、街を守る。悪い者は悪い顔をし、正しい者は胸を張る。終わりには、兵隊が勝利の旗を掲げる。広場を囲む人たちからは、大きな拍手が起こった。
みんな、少し安心したかったんだろうね。
舞台の上で悪いやつが倒されるあいだだけは、現実の心配ごとも、どこか遠くへ追いやれるような気がしたのかもしれない。
親方も、笑顔を作ってお辞儀をした。
でも、幕の陰に戻ると、その笑顔はすぐに消えてしまった。ぼくには、親方の横顔が、前よりもずっと疲れて見えたんだ。
5
新しいお芝居で、いちばん大きく変わってしまったのは、灰色の猫だった。
昔の猫は、誰かの言い分に小さな穴を見つけては、そこから風を通すように皮肉を言った。偉そうなお姫様にも、何でも知っているつもりの若者にも、同じようにからかいの言葉を向けた。
ところが新しい台本では、猫は「みんなのパンを盗み、畑を荒らし、嘘ばかりつく汚らわしい敵」という役にされてしまったんだ。
猫の衣装は、灰色のままだった。
親方は、ほかの人形には新しい帽子やボタンをつけたのに、猫の布だけはそのままにした。けれど、首もとには、よそ者だとわかる印が縫いつけられた。親方は、その見慣れない印を縫いつけるとき、何度も手を止め、そのたびに小さくため息をついていた。猫の顔を、まともに見られないみたいだった。見慣れた布の上に、見慣れない印がある。それだけで、猫はまるで別の生き物に見えてしまった。
「見つけたぞ! みんなの畑を荒らしたのは、この獣だ!」
若者は、正義の兵隊として舞台に立つ。
以前なら、彼は猫と一緒になって、そんな大げさな台詞を笑い飛ばしていたはずなのに、今は眉ひとつ動かさない。
「ちがうよ。ぼくは、こぼれたパンくずを拾っていただけなのに」
猫はいつもの調子で言おうとした。
でも、その台詞は台本に書かれた言い訳として、広場に響く。誰も、猫の言葉を面白がらなかった。
「言い訳は聞きたくないわ。この街から出ていきなさい!」
お姫様は、胸を張って命じる。
昔なら、自分の言葉が長すぎて若者にからかわれていた彼女が、今は短い命令を言うたびに、客席から拍手を受ける。彼女の目には、少しだけ誇らしさが浮かんでいるように見えた。
「さあ、鉄砲を構えろ。この裏切り者を壁ぎわへ追い詰めるんだ!」
その台詞は、ぼくに向けられていた。
ぼくは猫と遊ぶのが好きだった。舞台の手すりで昼寝をする猫のそばに座り、しっぽの鈴が鳴るのを聞くのが好きだった。猫はときどき、ぼくにだけ聞こえるような小さな声で、「坊や、あんまり走ると、糸がからまるよ」とからかったものさ。
でも、十字の板を握る手は、迷うように一瞬だけ止まり……やがて、諦めたように重く動いた。ぴんと張った糸が、きりきりと悲しい音を立てる。ぼくの腕は上がり、木の銃が猫へ向けられる。足は勝手に前へ進み、猫は舞台の端へと追い詰められていく。
「そうだ、やっつけろ!」
「もっと追い詰めろ!」
客席から声が飛ぶ。
みんなは、舞台の上の猫を倒せば、明日にはパンが戻ってくると信じているみたいだった。
誰かを悪者にすることと、自分たちの暮らしがよくなることが、いつのまにかひとつの話になってしまったんだ。誰かが無理やりやらせたわけじゃない。みんな、ただ、こわかったんだ。それでも、ほんとうの世界の不安が、お芝居のなかへどろどろと流れ込んでくる。ぼくは、からっぽの胸の奥で震えていた。
ぼくは、猫の顔を見た。
猫は、いつものように片目を細めていた。けれど、そこに浮かんでいたのは、からかうような笑みではなかった。どうして自分がそんな役を演じなければならないのか、わからないという顔だった。
ぼくにも、わからなかった。
これは台本に書かれた話だ。ぼくたちは木と布でできている。舞台の外では、誰も本当に傷つかない。そう思っていたはずなのに、見ている人たちの怒りは日ごとに大きくなり、親方の指は日ごとに冷たくなった。
何度も同じ言葉を口にしていると、その言葉が本当のことのように聞こえてくる。
何度も友だちを敵と呼んでいると、友だちだった頃の顔が、少しずつ遠くなっていく。
そんな自分がこわかった。毎日同じ役を演じていると、ぼく自身まで、ほんとうに猫を憎んでいるような気がしてくる。
みんなが「裏切り者」と叫ぶと、ぼくのからだはその言葉に合わせて動く。若者が剣を振り上げると、ぼくは銃を構える。お姫様が猫を追い出せと言えば、ぼくは猫の逃げ道をふさぐ。
親方が糸を引いている。
それはわかっているのに、ぼくの木の胸の奥にも、みんなの声が染み込んでくるようだった。
ねえ、きみ。
人形は、糸で動くものだよね。
でも、毎日同じ役を演じていると、糸を引く人の気持ちだけじゃなく、見ている人たちの気持ちまで、からだのなかに入り込んでくることがあるんだ。
ぼくたちは、みんなを笑顔にする魔法使いではなくなっていた。
不安な心を落ち着かせるために、誰かを悪者にする道具になってしまったんだ。
6
ある冬の日のこと。
舞台のまわりには、いつもより大勢の人が集まっていた。空は低く、広場の石畳には、溶けかけた雪が黒い水になって残っていた。みんなの顔は赤く、目だけが妙に光っていた。
その日の芝居でも、猫は悪者だった。
若者は猫を追い詰め、お姫様は街から出ていけと命じ、ぼくは銃を向ける。台詞はいつもと同じ。幕の色も、兵隊の帽子も、何ひとつ変わらない。
けれど、幕が下りても、客席の人たちは帰ろうとしなかった。
「悪いやつ! ぼくたちからパンを盗むな!」
誰かが叫んだ。
すると、ほかの人たちも同じ言葉を繰り返した。昔はぼくの真似をして広場を走り回っていた子どもたちまで、舞台の前へ押し寄せてきたんだ。
「やめてよ。お芝居はもう終わったんだよ」
ぼくは、心のなかでそう言った。
でも、ぼくの口は彫られたまま。声は糸にも、木にも、どこにもつながっていなかった。
幾つもの手が舞台に伸びた。
親方が叫ぶより早く、何本もの指が灰色の猫をつかみ、十字の板から乱暴に引きちぎる。
猫の糸が切れた。
猫は、舞台から石畳へ落ちた。
「やめなさい……! それは、ただの木と布でできた人形だ!」
親方の声は、人々の叫びにかき消された。
大人たちも、猫を囲む輪の外側から声をあげていた。誰かが棒を振り下ろし、誰かが靴で猫を踏みつけた。猫は逃げることも、身を守ることもできない。しっぽについた小さな鈴が、泥水のなかで一度だけ鳴った。
灰色の布が裂けた。
縫い目から羊毛がこぼれ、猫のからだは、親方が作ったときの形を失っていった。あの片目の皮肉な顔も、しっぽの先の鈴も、泥と靴の下に隠れてしまう。
ぼくは、助けに行きたかった。
糸が切れても、舞台から飛び降りられたら。木の腕で誰かの手を押し返せたら。せめて、猫のそばに立つことができたなら。
でも、ぼくの糸は親方の手に握られたままだった。
親方は十字の板を持ち、立ち尽くしていた。止めようとする手は震えている。けれど、その手を伸ばしても、群衆のなかにいる猫には届かない。
親方の指が、どうしようもなく震えはじめる。
揺れが糸を伝い、ぼくのからだへ降りてきた。腕が跳ね、足が揺れ、顎がかすかに鳴る。ぼくは、生まれつきの笑顔のまま、舞台の上で揺れつづけた。
ぼくの顔は、生まれたときからずっと、ニコニコした笑顔に彫られている。
だから、泥だらけになって壊されていく友だちを見下ろしながら、からだを揺らすぼくの姿は、まるで目の前のことを喜んでいるように見えたんだ。
「ほら見ろ! 悪いやつがやっつけられたぞ!」
子どもたちが、芝居の台詞をそのまま叫んだ。
その声を聞いたとき、ぼくは初めて、自分の笑顔がこんなにも恐ろしいものになりうるのだと知った。
ちがう。
ぼくは笑ってなんかいない。
猫が壊されるのを喜んでなんかいない。
でも、誰にもそれは伝わらなかった。
ぼくは、友だちが泥のなかに横たわっているのを見下ろしながら、親方の震えに合わせて、笑っているように揺れることしかできなかった。あのとき、ぼくのからっぽの胸のなかで、間違いなく何かが割れる音がした。
木のからだにひびが入ったわけじゃない。糸が切れたわけでもない。
ただ、ぼくはもう、笑顔というものを、それまでと同じには考えられなくなったんだ。
その夜、親方は猫の残骸を拾い集めた。
裏通りのごみ箱のそばまで運び、そっと地面に置いた。泥にまみれた灰色の布から、羊毛が少しずつこぼれていた。親方は、猫のしっぽについていた鈴を見つけたけれど、拾おうとして手を伸ばしたあと、そのまま動かなくなった。
親方の目を、ぼくは忘れられない。
怒っているのでも、声をあげて泣いているのでもなかった。ただ、この世でいちばん寂しそうな目をしていたんだ。
親方は、猫を作った人だった。
猫の目を縫い、しっぽを整え、皮肉な口もとを形づくった人だった。
その親方が、猫を捨てるしかなかった。
どうして捨てるしかなかったのか、ぼくにはわからない。
壊れたからだろうか。もう舞台に立てないからだろうか。それとも、猫が何を言っても、誰も耳を傾けなくなってしまったからだろうか。
親方は、鈴を拾わないまま、暗い道を歩いていった。
鈴は、朝までそこに残っていた。
7
それから広場では、誰かを憎み、やっつけるお芝居ばかりが演じられるようになった。
舞台の小道具箱には、武器が増えた。旗も増えた。敵を示す印も増えた。お姫様は、もう自分の人生について長い台詞を言わなくなった。若者は冗談を言わなくなり、誰かの言葉をからかうこともなくなった。彼らの衣装はすっかり兵隊のものになり、舞台の上では、いつも誰かが誰かを追い詰めていた。
親方は相変わらず、広場に舞台を出した。
お芝居を見に来る人もいた。勝利の場面になると、客席は大きく沸いた。けれど、幕が下りたあと、みんなの顔に残るのは、昔のような笑いではなかった。何かを確かめるような、まだ安心しきれない顔だった。
そんな日々のなかにも、ほんの少しだけ、特別な夜があったんだ。
冬の深い夜。街の窓に小さな灯りがともり、外では雪が降っている。
親方は、誰もいない工房の扉を閉め、ぼくたちを箱から取り出した。兵隊の帽子を外し、金属のボタンをほどき、昔の衣装をひとつずつ探し出す。布は色あせ、縫い目もほつれていたけれど、親方は急がずに、ていねいに着せ直してくれた。
「さあ、今夜だけだ」
親方は、誰に言うでもなくつぶやいた。
それから、古い台本を開いた。紙の端はすり切れ、猫が登場する場面には、薄い染みが残っていた。親方はそのページをしばらく見つめていたけれど、やがて指でそっとなぞり、台本を閉じた。
お姫様が舞台の真ん中に立つ。
親方は、昔のように少し高い声で、お姫様の台詞を読んだ。
「ねえ、台本のこのページ、ぜんぶ私の言葉にしてちょうだい。だって、あたしには言いたいことが、まだまだあるんですもの」
声が少し震えていたけれど、お姫様のわがままな調子は、ちゃんと戻っていた。
若者が舞台の端に腰をかける。
親方は、今度は声を低くして、あの皮肉っぽい台詞を言う。
「それなら、ぼくは君のおしゃべりが終わるまで、ここでお茶を飲んでいようかな」
ぼくは舞台を走り回った。
林檎を転がし、若者を転ばせ、お姫様に叱られた。親方の指が引く糸は、その夜だけ、昔のようにやさしかった。ぼくの木の関節は、あの工房で初めて動いたときのことを思い出したみたいに、軽く感じられたんだ。
親方は、客席のない場所に向かって笑っていた。
誰も見ていないのに、誰も拍手をしないのに、それでも親方は、ぼくたちのために舞台を続けてくれた。
そして、猫が登場するはずの場面がやってきた。
舞台の手すりには、灰色の猫はいない。
親方は、少しのあいだ黙っていた。
それから、猫の声をまねて、かすれた声で台詞を言った。
「やれやれ。どっちも、自分が主役だと信じているんだからねえ」
昔なら、ここで猫はしっぽを振り、若者は言い返し、お姫様は怒って、ぼくは林檎を転がしていたはずだ。
でも、その夜は誰も何も言わなかった。
親方の声が途切れた。
手にしていた十字の板が、わずかに傾いた。親方はそれを台に置き、顔を覆った。声を押し殺そうとしていたけれど、涙は指のあいだからこぼれていた。
ぼくたちは、舞台の上に吊るされたまま、何もできなかった。
猫がいないことを、親方は忘れたかったのかもしれない。忘れられないことを、もう一度だけ確かめたかったのかもしれない。
その夜のお芝居は、ちっとも面白くなかった。
でも、ぼくは、その時間が好きだった。
誰かを敵と呼ばなくてもよかったから。勝った者が旗を掲げなくてもよかったから。お姫様がわがままを言い、若者がそれをからかい、ぼくが走り回るだけでよかったから。
猫の台詞だけは、最後まで親方が代わりに言った。
その声は、少しずつ小さくなっていった。
そんな夜は、年に何度もなかった。
それでも、親方はときどき、昔の台本を開いた。ぼくたちは、そのたびに、短いあいだだけ自由な舞台へ戻ることができたんだ。
8
やがて、街の空を飛行機が覆うようになった。
遠くから聞こえる音は、少しずつ近づいてきた。人々は荷物をまとめ、家の窓を板でふさぎ、夜になっても灯りをつけなくなった。広場からは屋台が消え、舞台を張る場所には、焼けた木片や割れた石が転がるようになった。
親方は、ぼくたちを箱にしまった。
お姫様も、若者も、木馬も、ぼくも、布に包まれ、暗い箱のなかへ並べられた。猫の場所だけは、最初から空いたままだった。
親方は箱の蓋を閉じる前に、ぼくの顔をしばらく見つめた。
何か言いたそうだったけれど、結局、何も言わなかった。ただ、ぼくの糸がからまっていないか確かめ、木の頬についた埃を、指先でそっとぬぐってくれた。
その手のぬくもりを、ぼくは今でも覚えている。
それが最後だったのかどうか、ぼくにはわからない。
箱が閉じると、世界は暗くなった。外で何が起きているのか、もう見えなかった。親方の足音も、工房の扉が開く音も、やがて聞こえなくなった。
ぼくの世界は、そこで止まってしまったんだ。
ねえ、きみ。
ここまで、ぼくのおしゃべりに付き合ってくれて、ありがとう。
長い話になっちゃったね。人形のくせに、昔話だけはずいぶんたくさん覚えているんだ。
気がつくと、ぼくはまた、あのひんやりとしたガラスの箱のなかにいた。
親方の手のぬくもりも、木を削る匂いも、広場に流れていたパンの匂いも、ずっと遠いところにある。
ガラスの向こうを、大人たちが通り過ぎていく。
ぼくを見て、悲しそうな顔をする人もいる。怒っているように見える人もいる。何かを思い出したのか、目を伏せる人もいる。
ぼくには、その人たちが何を考えているのか、わからない。
足もとの金属の板に、何が書かれているのかもわからない。
ただ、隣に飾られた兜や水筒を見ていると、ぼくがいたあの頃のことが、ここでは悲しいお話として残されているのだろうと思う。
大人たちは、ぼくを見て目を伏せる。彼らが何をこわがっていたのか、ぼくにはよくわかっているんだ。
「あ、お人形、笑ってるよ!」
小さな指が、またガラスを叩く。怒りも恐れもない、まっすぐな声。
うん、笑っているよ。
きみみたいな子どもが声をかけてくれるたび、からっぽの胸の奥で、もうつながっていないはずの糸が、かすかに引かれたような気がするんだ。
もちろん、本当に動くわけじゃない。ぼくは今もこれからも、このガラスの箱のなかだ。泥のなかに消えた灰色の友だちも、二度と戻ってはこない。
でもね。ときどき、夢を見るんだよ。
もしも、むずかしいことなんて全部忘れて。鋭い牙も、大砲も、ぜんぶ箱の奥にしまえたら。
ひねくれ者の若者も、わがままなお姫様も。
車輪を回す木馬も、傷だらけの灰色の猫も、そして、ぼくも。
みんな、みんな。
もしもあの時、同じ舞台で、ただ遊んでいただけだって気づけていたら。頭をごっつんこして、痛いって泣いたあとに、顔を見合わせて。
踊ればいいじゃないか。
笑えばいいじゃないか。いつまでも。




