一期一会
1
二十年以上も前のことだ。
スマートフォンの画面に目を落として自分の世界に引きこもる乗客など一人もおらず、鞄に赤い十字のヘルプマークを揺らしている人など存在しなかった時代。
当時の私は、調理師専門学校に通うため、毎朝決まった路線の始発に近い停留所からバスに乗っていた。サイズの合わないコックコートを詰め込んだ鞄を膝に抱えた、どこにでもいる平凡な女子学生だった。
使い込まれたモケット生地の座席からは微かに埃と雨の匂いがして、足元からはディーゼルエンジンの低い振動が絶え間なく伝わってくる。私はいつも進行方向左側の、後ろから三番目の窓際という決まった席に座り、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
私の密かな気がかりは、実習の厳しさよりも、途中の停留所から乗ってくる同年代の女の子の存在だった。
始発から五つ目の停留所。プシュッと空気の抜ける音とともに前扉が開き、彼女は週に一度、木曜日の朝だけ乗ってきた。薄手のカーディガンに膝丈のスカートといった、どこにでもいる普通の地味な装いの女の子だったが、いつも決まって終点一つ手前の「総合病院前」で降りた。
通院なら、わざわざこんな息苦しい通勤ラッシュに乗らなくてもいいのに。最初は少し疎ましく、ただ顔色の悪い子だな、と思っただけだった。
けれど、毎週同じ空間を共有していると、嫌でも細かなことに気づいてしまう。バスがカーブを曲がり、ブレーキを踏むたび、彼女は手すりや吊り革をすがるように握りしめる。その指の関節は、血の気が失せて真っ白になっていた。じっと目を伏せ、浅い呼吸でエンジンの振動に耐えている。立っていること自体が、彼女にとってどれほどの苦行であるか。見えない痛みを抱える人を察知するには、ただじっと周囲を観察し、想像力を働かせるしかなかった時代だ。それに気づいてしまった日から、私は彼女が乗ってくる停留所が近づくと、そっと席を立つようになった。
私が無言で立ち上がると、彼女はいつも決まり悪そうに、そしてひどく申し訳なさを滲ませて小さく会釈をし、私の温もりが残る席に身を沈めた。
「ありがとうございます」という微かな声は、バスの走行音にかき消されて私の耳には届かない。ただ、その伏し目がちな横顔を見下ろしながら、私はいつも奇妙な居心地の悪さを抱えていた。
私は決して、感謝されるような立派な人間ではない。
何より、彼女に「譲られる負い目」を強いている自分が、ひどく傲慢な偽善者のように思えてならなかったのだ。毎週の、あの数秒間の気まずい沈黙。私が席を立つことで、彼女の隠したい痛みに無理やりスポットライトを当ててしまっているのではないか。そんな自意識過剰な葛藤が、私の悩みの種だった。
あの出来事があったのは、春先のまだ肌寒い、小雨の降る朝だった。
傘を畳みながら乗り込んでくる乗客たちで、車内はいつもより混み合っていた。湿気と、誰かの濡れたウールのコートの匂いが充満している。
五つ目の停留所で、彼女が乗ってきた。傘から滴る水滴を気にしながら、辛そうに息を吐く。私はいつものように、彼女と目が合うよりも早くスッと席を立った。
ところが、その瞬間だった。
私たちの事情など知る由もない、濡れた新聞紙を持った中年の男性が無頓着にその隙間へ滑り込み、どっかりと腰を下ろしてしまったのだ。
「あ」
私が声を漏らす間もなかった。男性はすぐに新聞を広げ、自分の世界に入り込んでしまう。
結果として、私と体調の悪い彼女は、満員の車内で吊り革に掴まり、気まずいまま隣り合って立つことになった。
雨の日のバスはいつもより揺れる。ブレーキのたびに、彼女の身体が小さく傾く。辛そうに身を固くする彼女の横顔を見ながら、私は激しく後悔した。なぜ、もっと彼女の近くまで行ってから立たなかったのか。なぜ「ここ、どうぞ」とはっきり声に出せなかったのか。
彼女の方もまた、「私のためにわざわざ立ってくれたのに」と、いたたまれない表情で血の気の引いた唇を強く噛んでいた。
ふとした拍子にバスが大きく揺れ、彼女が咄嗟に手すりを握り直した時だった。
カーディガンの袖が少しだけまくり上がり、細い腕が私の目に飛び込んできた。そこには、点滴の針を何度も刺した痕と、古くなって黄色く変色した青痣が、痛々しくいくつも並んでいたのだ。
私は、息を呑んで目を逸らすことしかできなかった。
見てはいけないものを見てしまった罪悪感と、彼女をこんな状況に立たせてしまっている無力感。彼女の手の甲に触れて「大丈夫ですか」と聞くことすらできない自分の臆病さが恨めしかった。
言葉を交わさないまま流れる、息の詰まるような六区間。
フロントガラスを叩くワイパーの音だけが、やけに大きく耳に響いていた。
この最悪な気まずさを、来週も繰り返すのか。もう、到底耐えられない。
私が最初から立っていれば、こんな惨めな思いはお互いにしなくて済む。いや、いっそ、彼女が乗らない時間に乗ってしまえばいい。
それが、次の木曜日の逃避行動への完璧な動機となった。
2
次の週の木曜日、私はいたたまれなさから逃げるように、いつもより三十分早いバスに乗った。
まだ外の空気はひんやりとしていて、薄暗い車内には乗客もまばらだった。当然、私の定位置である後ろから三番目の席は空いている。そこに深く腰を下ろし、私は小さく安堵の息を吐いた。
これでもう、誰かに席を譲る必要もないし、決まりの悪い会釈をされることもない。彼女の隠したい痛みを無理に暴いてしまうような、あの気まずい沈黙とも無縁だ。逃げ出したことへの申し訳なさはあったが、あの息の詰まるような六区間を思えば、ずっとマシだった。
バスは順調に進み、やがて始発から五つ目の停留所が近づいてきた。
いつもなら彼女が乗ってくる場所だが、今はまだ三十分も早い。私は車窓を流れる朝の景色をぼんやりと眺めながら、バスが止まらずに通り過ぎるのを待っていた。
しかし、降車ボタンが鳴り、バスはゆっくりと歩道へ寄っていく。
プシュッとドアが開き、一人、二人と見知らぬ乗客が乗り込んでくる。その最後の一人がステップを上がってきた時、私は思わず目を丸くした。
そこに立っていたのは、他でもない彼女だった。
目が合った瞬間、私たちはハッと息を呑んで立ちすくんだ。
彼女は運賃箱の横で立ち尽くし、私は窓際の席で身を乗り出したまま、まるで時間が止まったかのように互いを見つめ合った。
なぜ、こんな時間に彼女が。
その理由は、聞くまでもなく明らかだった。彼女もまた、先週の出来事で私にこれ以上気を遣わせるのが心苦しくて、私を避けて時間を早めていたのだ。彼女が少しだけ見開いた目の中にも、全く同じ驚きと、「やってしまった」という激しい後悔の色が浮かんでいた。
お互いの不器用すぎる先回りと、結局鉢合わせてしまった圧倒的な間の悪さ。
私が慌てて席を立ち上がりかけたのと、彼女が弾かれたように小さく頭を下げたのは、ほぼ同時だった。張り詰めていた空気が、まるで風船が割れたようにふっと緩む。
「……あっ」
「あの……」
声が重なり、私たちは再び口をつぐんだ。ガラガラの車内で、ディーゼルエンジンの低い振動だけが響いている。
どちらからともなく、小さく肩が震え始めた。それは次第に堪えきれないものになり、私たちは周囲の数少ない乗客に怪しまれないよう、必死に下を向いて声を押し殺しながら笑い合った。
「いつも、ごめんなさい」
ようやく顔を上げ、私の隣の席にそっと座りながら、彼女がぽつりとこぼした。その声は想像していたよりもずっと柔らかく、少しだけかすれていた。
「ううん、私こそ、なんか……下手くそで」
初めて交わした言葉は、そんな不格好な謝罪だった。
けれど、それだけで十分だった。これまで互いの間に横たわっていた、あの重苦しくて決まりの悪い空気は、朝の光に溶けるようにすっかり消え去っていた。
それから、名前も知らないまま、隣同士で座る十五分間が始まった。
お互いにひどく奥手な性格だったこともあり、気の利いた自己紹介すらできなかったけれど、この「バスの中だけの関係」が、互いにとって不思議なほど心地よかったのだ。
「調理の学校、大変?」
バスが走り出して少し経った頃、彼女が少しだけ顔を傾け、私の足元にある実習用の大きな鞄を見つめながら聞いた。
「もう、最悪。毎日怒られてばかり」
私は半分自嘲するように息を吐き、自分の冴えない日常の蓋を少しだけ開けた。
3
春から初夏へと季節が移り変わるワンシーズンの間、その短いバスの時間は私たちにとって特別なものになった。
「いつも木曜の朝だよね。病院、もっと空いてる時間に行けばいいのに」
ある時、私が素朴な疑問を口にすると、彼女は困ったように笑った。
「朝一番に血液検査をしないといけないの。朝ごはんも抜いてるから、バスの中ではいつもフラフラで」
その言葉に、私はかつて彼女の事情も知らず、勝手に疎ましく思っていた自分をひそかに恥じた。
過酷な朝を耐える彼女の気を少しでも紛らわせたくて、私は自分の冴えない日常を大袈裟に語るようになった。
会話の中心は、決まって専門学校の愚痴だ。その頃の私が何より苦戦していたのは、実習で扱う「生きている魚」だった。
俎板の上でビチビチと跳ねる冷たい感触、暴れるたびに顔に飛んでくる生臭い水しぶき、命を奪うことへの情けないほどの躊躇い。
「もう本当に無理。鯵がこっちを見るたびに、包丁持ったまま泣きそうになるの。先生には呆れられるし」
私が心底うんざりした顔でため息をつき、ペティナイフを強く握りすぎて硬くなった人差し指の付け根のタコや、オーブンの天板でうっかり作ってしまった手首の赤い火傷の跡を見せると、これから無機質な白い病院へ向かう彼女は、なぜかとても楽しそうに目を輝かせた。
「跳ねた時、どんな声出たの?」
「あ、また新しい火傷、増えてるじゃない」
絶え間ない検査と治療を繰り返しているであろう彼女にとって、私が語る「生きた魚との格闘」や「焦がしたソースの大失敗」は、面倒で生々しいからこそ眩しい、外の世界の鼓動そのものだったのだろう。
彼女が声を出して笑ってくれるたび、私の不格好な火傷跡やタコは少しだけ誇らしいものに変わり、憂鬱でしかなかった調理実習も「来週のバスで彼女に話すための冒険譚」へと変わっていった。
ある小雨の降る朝。
いつものように総合病院前で降車ボタンが鳴り、立ち上がった彼女は、降りる間際にふと振り返った。
「私、智美っていうの。また来週ね」
初めて自分の名前をふわりと置いて、彼女はバスを降りていった。
それは、名もなき乗客同士だった私たちが、確かな手触りを持った友人になった瞬間だった。
初夏の日差しが強くなり始めた頃。
私は学生鞄のポケットの中で、二つ折りの携帯電話をぎゅっと握りしめていた。今日こそ、メールアドレスを聞こう。そう決めていた。待ち受け画面に自分のアドレスと赤外線通信の準備を表示させ、彼女が乗ってくる停留所を待った。
バスだけの関係が心地よかったのは事実だけれど、もうすぐ実習のスケジュールが変わり、私がこの時間のバスに乗らなくなる日が近づいていたからだ。
しかし、その日乗ってきた彼女は、明らかに様子がおかしかった。
まだ朝の空気は涼しいのに、額にはうっすらと汗を浮かべ、いつもより顔色が透き通るように蒼白だった。私の隣に座っても口数は少なく、ただ小さく息を吐きながら、私の肩に少しだけ寄りかかるようにしてエンジンの揺れに耐えている。
ポケットの中で携帯電話の硬いプラスチックの感触を確かめながら、私はひどく迷った。
ここでアドレスを聞けば、彼女に余計な負担をかけてしまう。携帯の操作すら辛いかもしれない。それよりも今は、少しでもこの痛みを忘れさせてあげたかった。
私は携帯電話から手を離し、代わりに、昨日実習で寸胴鍋のコンソメスープをひっくり返しそうになって大惨事になりかけた話を、身振り手振りを交えて大袈裟に語った。
彼女は痛みを堪えるような顔のまま、それでも微かに吹き出して、「水野さんって、本当に不器用だね」と、かすれた声で笑ってくれた。
病院前で降りていく彼女の細い背中を見送りながら、私は「来週、調子が良さそうな時に聞けばいいや」と心の中で呟いた。
しかし、その「来週」は永遠に来なかった。
次の週、彼女はバスに乗ってこなかった。その次の週も、またその次の週も。
彼女が座るはずだった隣の空席を見つめながら、私は自分が取り返しのつかない過ちを犯したことを悟った。あの時、無理をしてでも繋がっておくべきだったのだ。手元に残されたのは、名前というたった一つの符丁だけ。病院の受付で尋ねる勇気もなく、やがて私の時間割が変わり、その路線のバスに乗ることもなくなった。
4
あれから、二十年以上の歳月が流れた。
街にはヘルプマークが当たり前のように揺れ、誰もがスマートフォンの画面を見つめる時代になった。
今、私は自分の名前を冠したレストランの厨房に立っている。手慣れた手つきで、ためらうことなく魚を捌く。まな板の上で銀色の鱗が光り、冷たい水しぶきが跳ねるたび、私はふと、あのバスの低いエンジン音と、私の火傷跡を見て笑った彼女の顔を思い出す。
今日、厨房の隅に置かれたグルメ雑誌には、数ページにわたって私のインタビュー記事が掲載されている。「過酷な修業時代、料理を辞めたいと思ったことは?」という記者のありふれた質問に対し、私は無意識にあの日のバスの出来事を語っていた。
『毎日失敗ばかりで逃げ出したかった私の不格好な日常を、誰よりも楽しそうに聞いてくれた友人がいたんです』と。
活字になった自分の言葉を見つめながら、私はずっと心の奥底に沈めていた予感に囚われていた。
あの点滴の青痣。日に日に透き通るようだった横顔。そして、突然の消失。彼女はあのまま病に飲み込まれてしまったのだと、私はこの二十年間、自分に言い聞かせ続けてきた。どこかで生きて笑っていると期待して裏切られるより、思い出の中で美しいまま完結させておく方が、ずっと楽だったからだ。
ディナータイムの仕込みに取り掛かろうと、包丁を手にした時だった。
誰もいないフロアで、静かに電話が鳴った。まだ営業時間には早い。どこかの業者か、あるいは予約の変更だろうかと思いながら、私はエプロンで濡れた手を拭い、受話器を取った。
「はい、レストラン・ミズノです」
よそ行きの声で応対した私の耳に届いたのは、少しの沈黙と、ふっと息を吸い込むような気配だけだった。
そして、記憶の中よりも少しだけ低く、けれど確かに聞き覚えのある、穏やかな声が響いた。
「あの、雑誌、見ました」
心臓が、大きく跳ねた。
呼吸の仕方を忘れたように立ち尽くす私に向かって、電話の向こうの彼女は、あの頃と同じようにふわりと笑って言った。
「……相変わらず、生きた魚は苦手ですか?」
私は短く息を呑み、受話器を握る手に思わずぎゅっと力を込めた。
目頭が熱くなり、気の利いた言葉なんて一つも出てこない。ただ、ペティナイフを握りすぎて硬くなった人差し指の付け根と、手首に残る古い火傷の跡が、まるで昨日のことのようにじんわりと熱を帯びていくのを感じていた。




