自我補強率 (某氏からのお題小説)
「なあ小島、お前は『デザイン性』と『機能性』、どっちを優先すべきだと思う?」
いきなりそんなことを訊かれても困る。だが、僕はあえて数秒ほど考える素振りをしてみせた。
「そうですね」と僕は言う。「機能を持たないデザインはただの空間の浪費なんじゃないでしょうか」
僕が当たり障りのない答えを返すと、彼は待っていましたとばかりに不満げに顔を歪めた。
「お前はいつもそうやって、カタログから切り抜いたような小綺麗な言葉で逃げる。もっと現場の泥臭いリアルを見ろ」
今にして思えば、あの頃の僕の仕事は大きく三つに分類できた。図面を引くこと。見積もりを作ること。そして、隣のデスクに座る田村さんという厄介な猛獣の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払うことだ。
田村さんは当時四十五歳。人間性は控えめに言って産業廃棄物として処理したい代物だったが、こと実務に関しては凄みがあった。彼のデスクの端には、現場で使い込まれて傷だらけになったコンベックスと、薄汚れたヘルメットがいつも無造作に置かれている。
去年の秋、気鋭のITベンチャーが「西海岸風のフルオープン・オフィスにしたい」と息巻いたときもそうだ。誰もがスケボーでも滑れそうなデザイン案を持て囃す中、田村さんだけが冷や水を浴びせた。「あんたの会社の主力エンジニアは平均年齢四十二歳。みんな慢性的な腰痛とコミュニケーション障害を抱えている。西海岸の風なんて吹かせたら一ヶ月で離職率が跳ね上がるぞ」。結果、彼は視線を完全に遮る鈍臭いグレーのパーテーションと、絶望的にダサいが腰には優しいチェアを強引に導入させ、生産性を劇的に向上させた。
人間の醜さや弱さを泥沼から掬い上げるようにして「現実」を設計する。僕は彼のそういう泥臭い辣腕に、背筋が寒くなるほど感心していたのだ。
だが、そんな田村さんにも致命的な欠陥があった。三流私大出身で現場の叩き上げという出自が、彼の中にしつこい染みのような学歴コンプレックスを育てていたらしい。
国立大の大学院で建築を専攻していた僕を論破し、這いつくばらせることで、彼は自らの存在価値を確認せずにはいられないのだ。
僕が反論した瞬間、田村さんの両眼からスッと光が消える。深夜のコインランドリーで、古い両替機が偽札を飲み込んだままフリーズしたときのような、機械的で空虚な沈黙。彼は僕の言葉を咀嚼しているのではない。僕を粉砕するための最も鋭利な斧を、脳内の薄暗い物置から血眼になって探し出しているのだ。
最初は僕もいちいち反論していたが、ある時ふと気づいた。彼が仕事のたびに仕掛けてくる議論は、真理の探求ではない。単なる「自我の補強作業」だ。仕事の本質が「全体の効率を上げること」であるなら、彼が不機嫌になって業務が停滞するより、僕が適当に論破されて彼の自尊心を満たしてやった方が、はるかにチームはうまく回る。
「いやあ、やっぱり田村さんの二十年の経験には敵いませんね」
僕がそう言って頭を掻くと、彼は満足げに鼻を鳴らして図面に向かう。僕は(今日の先輩の『自我補強率』は30%ってところか。明日は50%くらい満たしてやるか)と心の中で冷めた採点を行いながら、彼に「適度な敗北」という餌を与え続けていた。
それでも僕が彼の不毛な議論に付き合っていたのは、単なる処世術だけでなく、ひとえに僕自身の過去のトラウマのせいでもあった。
院生時代、意匠設計の大家である教授のアシスタントとして担当した海辺の個人住宅。コンクリート打ちっ放しのその箱は、建築雑誌の表紙を飾るほど美しく、そして住環境としては完璧な欠陥住宅だった。冬は住人の体温を奪い、夏は巨大なオーブンのように蒸し上がる。教授の絶対的な美意識の前に機能面の懸念を呑み込んだ結果、現場担当だった僕の携帯にはクライアントから凄まじいクレームが昼夜問わず鳴り響いた。僕は自らの手で組んだ図面によって、誰かの日常を破壊してしまったのだ。
人が快適に過ごせない空間は、どれほど美しくてもただの暴力なのだ。その拭い去れない原罪があるからこそ、僕は田村さんの美のかけらもない現実路線を心底頼りにしていた。
それなのに、あの日。田村さんはどうかしていた。
老舗食品メーカーの「本社オフィス全面改装プロジェクト」。絶対に失敗が許されない重要な勝負所で、議論の焦点は、フロアの中央に設置するミーティングブースの仕様だった。
僕は「スケルトン型(開放重視)」で通すつもりだった。納期の問題もあったが、何より先方のワンマン会長が極度の閉所恐怖症だという確実な情報を掴んでいたからだ。
だが田村さんは、自社が新開発したばかりの「完全防音型の吸音パネル仕様」を強硬に推してきた。利益率が異常に高く、導入させれば本部長賞と金一封が確約されているという社内政治の産物だった。さらに言えば、「従業員の徹底的な集中力向上」という彼なりの現場主義の信念と、自社の政治的ノルマが不運にも合致してしまい、完全に視野狭窄に陥っていたのだ。
現実の泥水を啜ってきたはずの彼が、目の前にぶら下げられたピカピカの人参と自らの理論に酔いしれ、クライアントの「閉所恐怖症」という生々しい現実から目を背けている。彼自身が最も軽蔑していたはずの「現場を見ない机上の空論」に成り下がっていた。
今日ばかりは、適当に負けてやるわけにはいかない。彼のちっぽけなプライドを満たした結果、プロジェクトが吹き飛べば全体の効率どころの騒ぎではないのだ。
現実を無視した空間はただの暴力だ。僕はそれを、ほかならぬ田村さんの背中から学んだ。
だからこそ、あの日。僕は彼を徹底的に論破し、完膚なきまでに叩き潰すことに決めたのだ。
先方へのプレゼンを明日に控えた、社内での最終決裁会議。部長や各チームのチーフが顔を揃える中、田村さんは意気揚々と、防音パネルがいかにこれからのオフィス空間に必要かというプレゼンをぶった。彼がドヤ顔で説明を終えた瞬間、僕は静かに手を挙げた。
僕は冷徹な外科医のようにメスを振るった。
「田村さんの防音パネル案、従業員の集中力向上という観点では素晴らしいと思います。ただ、先ほど先方の社長秘書から懸念事項として連絡が入りまして」
僕はあえて申し訳なさそうな表情を作り、手元の資料を配った。
「第一に、パネルの特殊部材の納入が予定工期に一週間届かないリスクが判明しました。第二にランニングコスト。そして何より——先方のワンマン会長が、極度の閉所恐怖症だという事実です」
会議室がしんと静まり返った。
「完全防音のクローズドな空間を提案した瞬間、会長の逆鱗に触れ、プロジェクト自体が白紙に戻る可能性があります。大変惜しいのですが、今回はスケルトン型で進めるべきかと」
田村さんの顔からスッと血の気が引くのが分かった。彼が自社のノルマと「従業員の生産性」にばかり気を取られ、決裁者の生々しい身体的特徴を見落としていたという「現実」を、僕は会議の場で白日の下に晒したのだ。
部長が大きく頷き、スケルトン型で行くという裁定を下した。田村さんが組み上げた脆弱なロジックは、僕が周到に根回しした現実の前に、水たまりに落ちた角砂糖のようにあっさりと崩れ去った。
会議の後、僕は喫煙所でタバコを猛烈な勢いで吸い込んでいる田村さんに近づき、自販機の缶コーヒーを手すりにドンと乱暴に置いた。
「……てめえ、小島。みんなの前で恥かかせやがって。たまたま会長の情報を知ってたからって、調子に乗るなよ」
凄む彼に対し、僕は極めて事務的な、温度のない声で言った。
「今日の議論は、僕の勝ちです」
「……は?」
呆気にとられる田村さんの目を、僕は真っ直ぐに見据えた。
「僕が本気を出せば、論理構築でも情報収集でも、先輩に負ける要素なんて一つもないんですよ。いつも適当に言い負かされてたのは、単にその方があなたの機嫌が良くなって、チームの作業効率が上がるからです」
「お前……っ!」
「でも、今回は会社の勝負所なんで、これ以上あなたの自我を補強してる余裕はありません」
僕は、怒りでプルプルと震えている田村さんに背を向け、最後に肩越しに言い放った。
「変な意地を張って足を引っ張るのだけはやめてくださいね。さあ、仕事を一生懸命やりましょう」
その日は完全に口を利いてくれなかった。当然だ。彼の大切なプライドは、公衆の面前で木端微塵にされたのだから。
ところが、翌朝出社すると、田村さんはいつも通り不機嫌な顔で僕の隣に座り、パソコンを立ち上げた。そして、画面から目を離さないまま、ぼそりと言った。
「一晩考えたがな」
「はい」
「やっぱり、お前は根本的にバカで、俺の吸音パネルの方が絶対に正しい」
僕は思わず吹き出しそうになった。
「ですが、会長が閉所恐怖症で……」
「ジジイの閉所恐怖症ひとつで、現場の人間が集中して働ける空間が奪われる。本当にバカげた話だ」田村さんは忌々しそうに鼻を鳴らした。「だが、金を出して判子を押す人間の『現実』を見落とした俺の負けだ。組織がスケルトンに決めた以上、それでいくしかねえ。図面の修正、今日の昼までに上げとけよ」
「……はい」
「お前も、言うようになったんだな」
それはただの負け惜しみのようにも聞こえたし、ひどく不器用な賛辞のようにも聞こえた。
彼が僕の昇進試験の際、人事部からのヒアリングに対して一切の邪魔立てをしなかったと知ったのは、それからずいぶん後のことだ。彼は性格は最悪のクズだったが、仕事という盤上における勝敗のルールだけは、彼なりの奇妙な倫理観で遵守する男だったのだ。
あれから三年が経った。
僕は昇格試験を無事にパスし、今は別の都市の支社でマネージャーの肩書きを与えられている。
そんなある日の午後、デスクに置いたスマートフォンが震えた。画面には「田村先輩」の文字が光っている。
僕は、自分が設計したこの適度にノイズが響き、見通しの良いスケルトン構造のオフィスを見渡してから、通話ボタンを押した。
「おう小島。そっちの支社でも、相変わらず小賢しい理屈をこねて回ってるか?」
電話に出るなり、少ししゃがれた声が耳に飛び込んできた。
「ええ、おかげさまで。田村さんこそ、新しい後輩の耳に無駄なタコを作っていないか心配ですよ」
「可愛げのない奴だ」と田村さんは電話の向こうで笑った。「なあ小島、今回のコンペ案だけどさ。お前は『デザイン性』と『機能性』、どっちを優先すべきだと思う?」
ああ、また始まった。
僕は窓の外の、何もないどんよりとした曇り空を見上げながら、頭の中で素早く計算する。
(久しぶりだし、今日は少し長めに付き合って、気持ちよく勝たせてやるか)
「そうですね」と僕はわざとらしく悩むフリをして言う。「やっぱり現場を二十年見てきた田村さんの意見には、敵う気がしませんよ」
受話器の奥で、田村さんが満足げに鼻を鳴らす音が聞こえた。僕は笑いを堪えながら、あの泥臭くて騒がしい「現実」の匂いを、ほんの少しだけ懐かしく思い出していた。




