バベル
本作はボカロP「いよわ」様の「バベル」のオマージュ作品です。
(原曲の解像度は低めです。独自の設定・解釈が含まれますのでご容赦ください)
<本家様>
バベル / いよわ feat. 重音テト(BABEL / Iyowa feat. Kasane Teto)
https://www.youtube.com/watch?v=zSKwxQqrac0
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/52399.html
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1
「はい、坂根さん。今年の健診結果」
「あ、どうも」
事務用の茶封筒を受け取り、自席でこっそり中を覗き込む。オールAとはいかないまでも、引っかかったのは脂質代謝の項目くらいだ。まあ、今年でついに三十路の独身女という大台に足を踏み入れたのだ。悪玉コレステロールの数値が少しばかり右肩上がりになったところで、しがない事務員としては十分すぎる及第点だろう。これ以上健康になってどうするんだ、という話だ。
机の上には、取引先から送られてきた請求書と、誰が読んでも同じような定型文が並ぶ稟議書の束が地層のように積まれている。右から左へ、機械的なリズムで日付印を押し、クリアファイルに放り込んでいく。私の原稿用紙で埋め尽くされるはずだった華々しい未来は、いつの間にかこんなペラペラで無味乾燥なA4用紙の束にすり替わってしまった。
インクの朱色だけが、やけに目に痛い。
「今日も定時で上がれそうですね」
「最高。帰って趣味に生きますわ」
同僚に明るく手を振り、机に積まれた書類の束から解放された私は足早に退社する。趣味、と言っても、外で華やかなことをしているわけではない。中学生の頃からこじらせている私の生きがいは、小説投稿サイトに自作の「文学的な」短編小説をアップし続けることだ。
『一次選考通過のお知らせ』
スマホの画面に光るその通知を見て、帰りの電車の中で思わず小さくガッツポーズをした。
私、いけるかもしれない。他の凡百のアマチュアとは違う、私の選んだ言葉だけが持つ鋭さ。私にはまだ、言葉で世界を動かす才能の欠片が残っているのかもしれない――。
「……なーんてね。馬鹿みたい」
最寄り駅に着く頃には、急激に冷めた頭にいつもの強烈な自己嫌悪が襲ってくる。三十路の足音が響くというのに、まだこんな夢想に縋っている自分がひどく滑稽だった。今回一次選考を通った短編もそうだ。不治の病に冒された少女が、海辺で静かに死を受け入れるという話。海なんてもう何年も見ていないくせに、過去の名作の言い回しをツギハギして、それっぽく仕立て上げただけのハリボテの悲劇。『波音だけが、彼女の命のカウントダウンを優しく数えていた』――なんて、手垢のついたお涙頂戴のフレーズをドヤ顔で書き連ねて。こんな浅いおままごとで、私は一体何者になろうとしているのだろう。
私はため息をついてSNSの裏アカウントを開き、「一次通ったけど、どうせ審査員は私の薄っぺらい才能の底を覗いてゲラゲラ笑ってるんでしょ。最高の暇つぶしを提供してしまったな」という、自虐混じりのジョークを書き込んでしまう。
顔も知らないフォロワーたちから、数件の『いいね』がつく。画面の向こうでは笑っているふりをしながら、現実の私は揺れる車内で冷めた顔のまま画面を見つめている。この安価な承認欲求のループこそが、私の引きこもる、出口のない自意識の塔だ。
2
そして週末。私は大型ショッピングモールの吹き抜け広場で、絶賛、愛想笑いを浮かべていた。フロアには、休日の家族連れの喧騒と、やけに明るいJ-POPのインストゥルメンタルが響き渡っている。
「坂根さん、休みの日にすみません。わざわざ出てきてもらって」
「いえいえ!私もちょうど本屋に行きたかったので!」
叔母から「とりあえず一度だけでも」と拝み倒され、しがらみで会うことになったのが、彼、水谷正也さんだった。三十代前半で、見るからに恋愛経験が乏しそうな、人の良さだけが取り柄のような人だ。
気取った元彼とのデートに疲弊しきっていた私にとって、休日の行き先に地元のイオンを選ぶ彼の等身大なセンスは、むしろ素晴らしいとさえ思っている。
どうせ結婚なんて本気にしていない私にとって、パッとしない彼なら「独身の方が気楽で楽しいよね」と、お互い無関心なペースを守れる気がしたからだ。
フードコートの匂いや、興味もないアパレル店の前をぎこちなく二人で一周した後、彼が切り出した。
「それじゃあ、本屋、行きましょうか」
「はい、行きましょう!」
私は彼と並んで、休日の喧騒の中を歩き出した。
モール内の大型書店。入り口付近にはテレビで紹介された自己啓発本とダイエット本が山積みになり、奥の大部分をコミックと学習参考書が占めている、いかにも地方都市らしいラインナップだ。その入り口のポップの前で、正也さんが少し背伸びをしたように言った。
「坂根さんって、純文学とか好きなんですよね。俺も活字は読む方で……あの、古書店とか紙の匂い、いいですよね」
「あー、古書店ですか」
私は内心、苦笑する。初めて会ったとき、休日の趣味を聞いたら「もっぱらゲームかYouTubeですかね」と照れくさそうに答えていたじゃないか。普段絶対に小難しい本なんか読まないだろうに、無理しちゃって。
「私、小説はもっぱらKindleか図書館しか勝たんって感じで。物理本って場所取るし、あのモノクロの文字列がズラッと並んでるの、少し圧を感じちゃって。本屋に来ると、こっちの実用書とか文房具コーナーの方がテンション上がるんですよね」
「あ、そうなんですね! Kindle、たしかに便利ですよね……」
私がわざとらしく文芸コーナーを素通りして、事務仕事用のボールペンの棚へ直行すると、彼は手に取りかけていたハードカバーの小説を慌てて棚に戻し、所在なさげに私の後ろをついてきた。
分かりやすく肩を落としているのを見て、私は少しだけ罪悪感を覚えた。悪いことをしたかな。彼にマウントを取りたいわけじゃないのだ。ただ、お互い無理せずフラットに過ごしたいだけで。
とはいえ、この気まずい空気をなんとかしなければ。
「なんて。紙の本も買いますよ。ただ、もし明日急に夜逃げすることになったら、重くて絶望するから控えてるだけで」
「あはは、夜逃げって!」
ちょっとした皮肉を交えたジョークを飛ばすと、彼はホッとしたように笑ってくれた。
あぁ、またやってしまった。彼を傷つけたいわけじゃないのに、どうして私はこんな可愛げのない言葉しか出てこないんだろう。そんな自分を見ながら、私はまた激しく自嘲する。今の私のこの話し方、完全に『彼女』の小説に出てくるヒロインのパクリじゃないか。
『彼女』——私が中学生の頃から心酔していた女性作家。ネットの界隈でカルト的な人気が出始め、一度だけ書籍化もされた。初期の頃は私の痛いレビューにも丁寧な返事をくれていた、私だけのカリスマだ。
中学の頃、上辺だけの友達は多かったけれど心から語り合える相手がいなかった私にとって、彼女の描く鋭い孤独や鬱屈とした主人公たちは唯一の救いだった。私にとっての神様であり、絶対的なマドンナだった。
だけど、数年前に彼女は結婚した。
それを機に、彼女の作品からあの鋭い牙は抜け落ちてしまった。世界を呪うようなヒリヒリとした美しいモノローグは消え、主人公が抱える絶望はあっさりと温かい家庭に回収され、他愛もない夫婦のすれ違いを描くような、幸せで凡庸で、ひどく退屈な物語に成り下がってしまった。SNSの投稿も、今では「子どものお弁当作りました」といった近況報告ばかりだ。彼女は私と同じ暗闇から、いとも簡単に抜け出してしまったのだ。
結婚報告のツイートを見た日のことは、今でもはっきり覚えている。ターミナル駅のロータリー。吹き抜ける冬の冷たい風の中、酔っ払ったサラリーマンたちが笑い声を上げて通り過ぎていく。世界がちっとも終わっていない中で、私だけの世界が完全に崩壊していた。文字の上では「ご結婚おめでとうございます」と打ち込みながら、私を救うはずだった唯一の牙がへし折られた絶望に、声を出して泣いた。
神様は幸せな凡庸へとフェードアウトし、私は浅い作品しか書けないまま、書類の束ばかりの退屈な日常を絶賛堪能中の大人になった。
そんな自分が、憧れた彼女の書くヒロインをちょっと真似して、目の前の優しい男を煙に巻いている。
なんだこの、ちぐはぐで滑稽な珍道中は。馬鹿みたいだ。本当にさ。
3
「あ、坂根さん、あっちにカフェ入ってますよ。ちょっと休憩しませんか?」
「いいですね。行きましょうか」
和やかな空気にホッとして頷きかけた、まさにその時だった。バッグの中で、マナーモードにしていたはずのスマホがなぜか、けたたましい着信音を鳴らし始めた。普段ならLINEで済ませる母からの、珍しい電話だった。
画面には『母』の文字。
「お母さん、どうしたの。急に」
『お父さんが倒れて、救急車で中央病院に! 私も今から向かうから!』
ブツッと通話が切れる。手の中のスマホがやけに重い。
「坂根さん? どうかしましたか?」
「あ……ごめんなさい。父が、倒れたみたいで。救急車で中央病院に……私、タクシー、タクシー呼ばなきゃ。配車アプリ、どこだっけ……」
指先が微かに震え、アプリアイコンがうまくタップできない。タクシーなんていつ捕まるかわからないのに、動転しきった私の頭からは、目の前の彼が今日、車でここまで来ていることなど完全に抜け落ちていた。
「坂根さん、俺の車で行きましょう。立体駐車場です、走れますか」
さっきまで実用書コーナーで所在なさげにしていた彼は、驚くほどはっきりとした声で言った。
「え、でも、ご迷惑……」
「いいから。中央病院ですね、ナビ入れますから。行きましょう」
彼は私の返事を待たず、小走りで駐車場のエレベーターへと向かい出した。私は慌ててスマホをバッグに押し込み、その背中を追いかけた。
彼の車は、色気のない、後部座席がスライドドアになったファミリー向けのコンパクトカーだった。ダッシュボードのナビが、無機質な声で右左折を指示する。
私は助手席で、膝の上で両手を強く握り合わせていた。最悪の想像ばかりが頭を駆け巡り、呼吸が浅くなる。正也さんは無言で、けれど焦って乱暴になることもなく、ひたすら慎重に、安全に車を走らせていた。モールでは頼りなく見えた彼のハンドルを握る横顔が、今はやけに落ち着いて見えた。
「……大丈夫ですよ。道、空いてますから」
赤信号で停車したとき、彼がぽつりと前を向いたまま言った。気休めだと分かっているのに、その不器用で平坦な声に、少しだけ強張っていた肩の力が抜けた。
窓の外を、見慣れたロードサイドのチェーン店が後ろへ流れていく。昨日まで退屈だと思っていたこの街の景色が、今はひどく恐ろしい異界への入り口のように感じられた。
やがて車は中央病院の立体駐車場へと滑り込み、急ぎ足で救急外来の自動ドアをくぐった。
「先に行っててください。すぐに車を停めて追いつきますから」
正也さんの言葉にうなずき、私は急ぎ足で助手席から飛び降り、救急外来の自動ドアをくぐった。案内板を頼りに足を踏み入れたロビーで、青い顔をしてうろうろと歩き回っていた母とようやく合流する。
「お母さん!」
母は私の顔を見るなり、わらにもすがるような目で駆け寄ってきた。
「お父さん、まだ中で処置してもらってるの……!」
母は明らかにうろたえていた。そして私も、救急外来の慌ただしい空気に呑まれ、ただオロオロと立ち尽くすことしかできなかった。
父が中にいるその処置室の前で、看護師から「お父様の既往歴は? お薬手帳はありますか? 最後に食事をされた時間は?」と矢継ぎ早に状況説明を求められている。
「わかりません……朝はいつも通りで……手帳も、持ってきたはずなのに、どこに入れたか……」
気が動転して要領を得ない母。駆け寄った私も、張り詰めた空気に呑まれ、震える手で自分のバッグを無駄に握りしめたまま、ひったくられたように言葉を失い、ただ浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
車を停めた正也さんが駆けつけたのは、まさにそのときだった。
「お母様ですね。はじめまして、水谷です」
彼は短く頭を下げると、張り詰めた声を出している看護師と、要領を得ない私たちの間にすっと入った。
「お母さん、まずは深呼吸して座りましょう。坂根さん、お母さんのカバンの中、落ち着いて探してあげて」
その落ち着いた声にハッとして、私は母のバッグを受け取り、底の方からケースに入ったお薬手帳を見つけ出した。
「ありました、これです」
「よかった。朝ごはんは何時頃でした? それを看護師さんに伝えましょう」
彼に一つ一つ記憶の糸を解されるように誘導され、母はようやく、たどたどしいながらも看護師の問診に答えることができた。
私はといえば、彼の的確なサポートをただ横で見ていることしかできなかった。小説のヒロインならここで気丈に振る舞うのだろうが、現実の私は、完全に彼に頼りきって口をパクパクとさせるだけの、無能な三十女だった。
4
「お母さんっ……!」
処置室から出てきた医師の説明を聞き終えたらしい母は、私を見ると急に老け込んだような顔で丸椅子から立ち上がった。最悪の事態が頭をよぎり膝が震えたが、母は深く息を吐き出してホッとしたように肩の力を抜いた。
「ああ、良かった……まだ検査中だけど、先生が言うにはたぶん脱水からのひどい貧血で、意識が飛んだんじゃないかって。念のため点滴して、落ち着いたら今日中に帰れるみたい」
その言葉に、私はへなへなとその場に座り込んでしまった。安堵で涙が滲む私を見下ろし、母も隣のパイプ椅子に深く沈み込むように腰を下ろした。
「水谷さんが手際よく色々やってくれたから良かったものの、私たち二人だけだったら頭が真っ白でどうなってたか……本当に、ありがとうございました」
戻ってきた彼に向かって、母が深く頭を下げる。
「こんなこと、ただの経験値ですよ。知らない方がいいんです」
彼は少し冗談めかした口調で笑い、自販機で買った温かいほうじ茶のペットボトルを、私の震える手にそっと押し付けた。じんわりとした熱が手のひらから伝わり、強張っていた体の芯が少しだけ解けていく。
「あの、正也さん……送っていただいただけでも十分すぎるので、どうかもう帰ってください。休日の大事な時間をこんなに奪ってしまって……」
恐縮しきった母と私が何度も頭を下げると、彼は困ったように眉を下げて、首を横に振った。
「お父さん、今日帰れるんですよね。車、あった方がいいじゃないですか。タクシー捕まりにくい時間になりますし、最後まで足になりますよ。……それに、こういう時の待合室って、一人減るだけで妙に心細いものですから」
その言葉があまりに自然で、私たちはそれ以上固辞することができなかった。
それからの三時間は、ひどく長く、そして静かだった。点滴が終わるのを待つ間、パイプ椅子に並んで座り、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。ただ、消毒液の匂いが漂う無機質な廊下で、彼が時折時計を見る横顔だけをぼんやりと眺めていた。
そういえば、彼を紹介された時、叔母が言っていた。
――『あの子、数年前に長く闘病してたお母さんを看取っててね』。
私が適当に聞き流していたその言葉の本当の重みが、今になってふいに蘇る。パニックになる私たちに具体的な指示を出せたのも、この冷え切った待合室での時間の過ごし方を知っているのも、きっとそういうことなのだ。彼が言う『経験値』って、そういうことだったのだ。
彼はこの殺風景で冷たい病院の廊下で、私なんかよりずっと深く、本物の絶望とたった一人で戦い続けた過去があるのだ。
私の頭の中でこねくり回していた、言葉だけの傲慢で薄っぺらい塔が、音を立てて崩れ落ちていく。私は彼を「活字も読まない底の浅い人間だ」と見下し、ちっぽけなプライドで武装してマウントを取っていた。
本当に浅くて、自意識の未開の塔から一歩も降りられずにいたのは私の方だ。悲劇のヒロインを気取って絶望を描いた気になっていた私の横で、彼は、私が書くことすらできなかった本当の喪失を乗り越え、それでもこうして、誰かに温かいお茶を差し出せる人間として立っている。
私の中でずっと青くてひねくれていた酸っぱい果実が、生々しい現実の温度と共に、痛々しく熟していくのを感じた。
「……正也さん」
「ん? どうかしましたか?」
「……ううん、なんでもないです」
私は小さく首を振って、再び俯いた。
やがて父の処置が無事に終わり、帰宅の許可が下りた。帰り道、すっかり暗くなった病院の駐車場。夜の冷たい風が、火照った頬を撫でていく。
目の前に停まっている彼の車は、後部座席がスライドドアになったファミリーカーだ。モールの駐車場でこれを見たとき、私は内心「独身のくせにセンスがない」と鼻で笑っていた。
違う。きっとこの車は、足の悪くなったお母さんを、何度もこの病院へ乗せてくるためのものだったのだ。
人間の機微を描く、物書きの端くれを気取っていたくせに。そんな単純な想像すらできなかった自分の傲慢さと浅はかさに、私は恥ずかしさで少しだけ泣きたくなった。
「坂根さん?」
車の前で立ち止まったまま動かない私を、彼が不思議そうに振り返る。
「あ、ごめんなさい。今乗ります」
私はずっと、都合の悪い現実を見ないよう、開かない瞼で過ごしてきた。頭の中だけで儚い憧れが積もるのを、ただ眺めているだけだったのだ。
けれど、もう目は開いてしまった。奇跡なんて起きない日常を、私は生きていく。最悪の墜落は免れ、私の中でパラシュートが静かに開く。フワフワとした自意識の重力から解放された情けない安堵とともに、私の両足は、冷たくて固いアスファルトの地面にいつの間にか着地していた。
「正也さん」
「はい」
「今日は本当にごめんなさい。それから……助けてくれて、ありがとうございました」
「いえ。お父さん、無事で本当によかった」
すっかり冷めてしまったほうじ茶のペットボトルを握りしめながら、私はあのとき彼がくれた不器用な優しさをぼんやりと思い返していた。
言葉で世界を動かす天才作家になるという私の一番の夢は、もうとっくに、一度も着なかったドレスのようにクローゼットの奥でピカピカのまま死んでいる。神様みたいなあの人も、普通の日常へと消えてしまった。きっと彼女も、今の私と同じように、この退屈で愛おしい現実に降り立っただけだったのだと、今ならわかる。
でも、それでいいじゃないか。私は特別なんかじゃなかった。ただの、本を読むのが少し好きなだけの、どこにでもいる事務員だ。
これから書く文章は、もう誰にもウケないかもしれない。それでも、私は自意識で凝り固まったお仕着せを脱ぎ捨てて、この不格好な現実という服に袖を通す。
このあと、見当違いな歩み寄りを彼に呆れられ、あっさりと拒絶されてしまうかもしれない。それでもいい。一人で勝手に絶望して完結する生き方以外に、誰かと関わり、みっともなく傷つくかもしれない明日という予備の生き方も、私は今日見つけたのだから。
私だけの孤独な一枚だった一張羅は、今日、ようやく二着になったのだ。
私はもう一度、深く息を吸い込み、車のドアノブに手をかけたまま、彼に向かって口を開いた。
「……あの、正也さん」
「はい?」
「今日、私のせいで全然お休みにならなかったですよね。……だからその、もしよかったら、次は私に、お礼のコーヒーでも奢らせてもらえませんか」
少しだけ上ずった私の声に、夜の駐車場に一瞬、沈黙が落ちた。
彼は驚いたように目を丸くして固まった後、やがて今日一番の、肩の力が抜けたような柔らかい笑顔を見せた。
「……はい。喜んで」
劇的なロマンスなんて、そう簡単に始まるわけがない。これからゼロから築く関係は、都合のいい奇跡などではないのだ。
それでもいい。明日をどう生きるかは考え中、ということで、私のこじらせた悲劇の次回作については、当面「無期限休載」にしておこうと思う。




