わたしは禁忌
本作はボカロP「いよわ」様の「私は禁忌」のオマージュ作品です。
プロトタイプですが、投稿してしまいます…。
<本家様>
わたしは禁忌(I am taboo) / 初音ミク・flower
https://www.youtube.com/watch?v=al263xnknLE
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/39600.html
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太陽が落ちてくればいいな、と本気で思う。
冗談抜きで、死後の世界というやつはあまりにも寒すぎるのだ。
私が死んだのは、思い返すもため息が出るほど馬鹿らしい理由だった。彼がずっと欲しがっていた限定品のコーヒー豆。それを早く見せたくて、雨の日の、錆びついた古い歩道橋の階段を急いで駆け下りて……ただ、足を滑らせた。たったそれだけ。
転がり落ちた私の手から紙袋が離れ、濡れたアスファルトにコーヒー豆が散らばっていくのを見ながら、「あぁ、せっかく並んで買ったのに」とぼんやり思ったのが、生者としての最後の記憶だ。
呆気なく命を落とし、気づけばこの薄暗い、底冷えのする街に立っていた。
見慣れたはずの景色はどこまでも色が抜け落ちていて、ただ果てしなく続いている。行きたい場所だって、まだ二人でやりたかったことだって、本当はたくさんあったのに。
けれど、私には彼から離れてこの街を歩き回ることなど、到底できなかった。彼から少しでも距離を置こうとすれば、生きている人間が当たり前のように享受している「明日がある」という熱が決定的に欠落した、絶対零度の冷気が私を襲う。誰の瞳にも映らず、誰の声も届かないという、宇宙の果てに取り残されたような精神の凍結。それに耐えきれず、私は結局、微かな温もりを求めて彼の傍へと逃げ帰ってしまうのだ。
私が、死んでまで未練がましく彼の背後に居座っているのには理由がある。
単に、ここだけが微かに暖かいからだ。
机に向かう彼のすぐ後ろ。そこだけが、ストーブの点いた真冬のワンルームのように、奇跡的な熱を保っている。彼が私の写真を眺め、ふっと悲しそうな顔をするたびに、私はそのおこぼれの熱に当たって冷え切った身体を温めている。まだ私を忘れていない証拠。
要するに、私は愛する人の悲しみを薪にして暖を取る、なんとも身勝手でタチの悪い寄生虫というわけだ。生前の私が見たら、「重い女。さっさと成仏すれば?」と鼻で笑うに違いない。自分でも、本当にそう思う。
「なぁ……」
ふと、光の届かない部屋の隅から、カビの生えたようなひどく湿った声がした。
「引きずり込もう」
この色のない街の暗がりには、常に真っ黒な泥の靄のような連中が蠢いている。
彼らだって、元から怪物だったわけじゃない。残してきた恋人、幼い我が子、老いた親。生者への未練からこの街に留まったものの、孤独と寒さに耐えきれず、生者の温もりに直接触れてしまった魂の成れの果てだ。
「生者に触れてはならない」というこの世界の絶対の禁忌を犯して相手の運命を狂わせ、結果として自らも永遠に満たされることのない渇きに囚われた、哀れな敗北者たち。
その泥のような影たちが、暗がりから私を睨みつけ、恨みがましく囁きかけてくる。
『オマエだけズルい。どうしてオマエだけが、あたたかい場所に居られる』
『アイツはお前がいなくて泣いている。お前が触れて、永遠に一緒に凍えてやることが、アイツへの本当の救いだろう?』
彼らは自分が元々誰を求めていたのかすらとうに忘れ、ただ生者の熱に飢え、私にも同じように禁忌を犯させようと甘い誘惑を投げかけてくるのだ。
「はいはい、毎日ご苦労なことね」
私はため息をつき、冷たい声で連中を見下ろした。
「でもさ、そこは動けないほど冷たいでしょう? お生憎様。私はこの特等席を、誰にも渡す気はないのよ」
耐えがたい寒さに負けて、死者としての理性を手放したのはそっちだ。生者の熱を奪うという本能に呑まれたくせに、嫉妬で喚くくらいなら、最初からそんな誘惑に乗らなきゃよかったのに。
今日も私は、胸の奥でチクチクと疼く未練の痛みに無骨な蓋をして、この凍える街でただ一人、彼の背中の後ろで息を潜めるのだ。
窓辺には、スーパーの束売りで買ってきたような不格好な白い花が飾られていた。
かすみ草と、名も知らない季節外れの白い花。生前の私なら「もっと可愛い花がいい」と文句を言ったかもしれない。でも、花屋に入るのを躊躇う彼が、スーパーのレジで恥ずかしそうにこの花を買ってくれている姿を想像すると、その絶望的なセンスのなさすら、狂おしいほど愛おしかった。花瓶の水をこぼさないように取り替える彼の不器用な手つきを見ていると、私の胸の奥は馬鹿みたいに温かくなってしまう。
しかし、その作業の途中で、彼の肩がふいに微かに震え始めた。
ぽつり、とテーブルに透明な雫が落ちる。
私が死んでから、夜になるといつもこうだ。ただの不注意で勝手に死んだ女のために、いつまで律儀に涙を流しているのか。私なんてさっさと忘れてしまえばいいのに。
けれど、彼がそうやって私のために悲痛な顔をして泣くから。
その涙の熱が、この理不尽な死の世界にいる私を心地よく温めてしまうのだ。彼が苦しめば苦しむほど、私はこの場所で凍えずに済む。こんな身勝手な私を温めるなんて、本当にどこまで悪趣味な決まりなのだろう。
『なぁ、見ろよ。アイツ、あんなに苦しそうだぜ』
暗がりから、またあの鬱陶しい声が這い寄ってくる。彼らは生者の生々しい絶望の匂いを、決して見逃さない。
『お前がいなくなって、アイツは生きていても地獄なんだ』
『抱きしめてやれよ。お前の冷たさで、その苦しみごと凍らせてやればいい。そうしたいんだろう?』
親切ごかしな言葉を並べ立てて、影どもがニヤニヤと囁く。
『触れろ、触れろ、今すぐ触れてやれ……!』
呪詛のように繰り返されるその言葉に、ふと、私の左手が、まるで別の生き物のようにふらふらと現世へ向かって伸びかけた。
あぁ、触れたい。
その震える背中を抱きしめて、もう泣かなくていいと伝えてあげたい。ほんの数ミリ。彼のセーターの毛糸に私の半透明の指先が触れかけた瞬間、焼け焦げるような「生者の体温」の波動が伝わってきた。あぁ、彼はこんなにも熱い。こんなにも、生きている。狂おしいほどの愛しさと未練が、死者としての理性を焼き切ろうとする。
「……冗談じゃないわ」
私は咄嗟に右手を伸ばし、伸びかけた自分の左手首を、ちぎれんばかりの力で乱暴に引き戻した。痛覚なんてとっくにないはずなのに、そうやって己を押さえつけなければ、今すぐに彼に触れて、この小汚い泥沼に引きずり込んでしまいそうだった。
あちら側の連中に言わせれば、私は「禁忌を逸脱した異端」らしい。
生者の熱を奪うという死者の本能に逆らい、ただ己をすり減らして守り続けるという、ひどく矛盾した狂気。足元で蠢く彼らは、私にも自分たちと同じ失敗をさせたくてたまらないのだ。
「ほんと、底意地が悪い連中ね」
私は震える左手を胸に強く抱え込んだまま、影たちを冷たく見下ろした。
「でもね、ここは……泣きたくなるくらい温かいの。私には勿体ないくらいにね」
彼が生きているその場所。陽の光が降り注ぎ、風が吹き、血が巡る世界。理性をなくした迷子たちが喉から手が出るほど欲しがっている、残酷なほどの『生』の熱。私にとっても、その熱は決して直接触れることが許されないからこそ、たまらなく惜しくて、眩しいのだ。
私が彼に触れてしまえば、その瞬間、私の纏う死者の強烈な冷気が彼を完全に飲み込んでしまう。彼の命の灯火を消し去り、私と同じ、この底なしの永遠に凍え続ける暗闇へと落としてしまうのだ。
そんなこと、絶対にさせるものか。
私だって、本当は彼の温もりを独り占めしたい。けれど、私がこの世界に意地汚く居座っているのは、私の未練を満たすためじゃない。
彼がいつか私を完全に忘れて、前を向いて歩き出すその日まで。現世と冥界を隔てる薄氷のような境界線に立ち塞がり、こちら側の闇が彼の世界へ決壊しないよう、この言葉巧みな連中から彼を守る防波堤になるためだ。
私がこの身を削ってでも、あなただけは守らなくちゃ、こんな所で寒さに耐えて突っ立っている意味がないじゃないか。
あれから、どれだけの時間が流れたのだろう。
窓の外の景色は残酷なほど鮮やかに巡っていく。冬の枯れ木に桜が咲き、やがて青葉が茂る。彼の纏う服の生地が薄くなり、また厚くなる。世界は猛スピードで前へ進んでいるのに、私だけが、あの日着ていた服の記憶を引きずったまま、秒針の止まった暗闇に取り残されている。
久しぶりに部屋のカーテンが開かれ、容赦なく朝の光が差し込んできた。
暗がりの住人である私にとって、それは肌がジリジリと焼けるような劇薬だ。「痛いな、もう」と目を細めて舌打ちしながらも、太陽の光を浴びる彼の横顔が昨日より少しだけマシになっていたから、今日だけは許してやることにした。
彼は少しずつ、本当に少しずつだけれど、前を向こうと足掻いていた。
夜中にめそめそ泣くことも減り、酒とコンビニ弁当だけの生活から、ようやく自炊のまともなご飯に戻った。湯気の立つ味噌汁をすする音を聞いていると、こっちまで腹が減ってくる気がする。胃袋なんてとうの昔に灰になっているくせに。生きた人間の「食べる」という行為は、呆れるほどに生命力に満ちていて、死人には毒みたいに眩しい。
朝になると、彼は鏡の前に立ち、不器用な手つきでネクタイを締めるようになった。
「ちょっと、曲がってるわよ」
背後から呆れてみせても、当然その声は届かない。
彼が社会という光の中へ戻っていく準備をするたび、私をこの世界に繋ぎ止めていた彼の悲しみが薄れていく。生きている人間に忘れられることは、死者が迎える二度目の、そして本当の死だ。彼の心が癒やされるほどに、私の指先は少しずつ透け、確実な終わりへと近づいていく。
私を繋ぎ止める未練が弱まると、部屋の隅の連中が活気づき始めた。
『ほら見ろ、アイツはお前を忘れようとしている』
『もうすぐお前も消えてなくなるんだ』
泥すすりの連中が、私の足元から這い上がりながら囁きかける。
うるさい。黙れ、黙れ。
そんなこと、言われなくたって分かっている。あいつの隣には、私みたいな陰気な死者なんかより、眩しいくらいの日差しのほうがよっぽど似合うのだ。
私は彼に群がろうとする影たちの前に立ち塞がり、その濁った渇望をただ黙って受け止める。彼らの悍ましい執着に触れるたび、私の指先は泥のように黒く変色し、私という存在を形作っていた輪郭が音もなく削り取られていく。最悪だ。彼に褒めてもらったお気に入りの服の色すら、もううまく思い出せない。
それでも私は、彼に太陽の下を歩かせるためだけに、今日もこの凍える境界線に立っている。
段ボールを封じるくぐもった音が響いた。
最後の一箱を片付けた彼が、ゆっくりと立ち上がる。引っ越しだ。私との記憶が染み付いたこの部屋を引き払い、彼は新しい街へ行く。いよいよ、この理不尽で孤独な延長戦にも、絶対的な終わりの時が来たようだ。
背後の暗がりで私を浸食しようとしていた連中の気配が、潮が引くように薄れていく。
未来を生きようとする彼の真っ直ぐな足取りには、悲しみにすがりつくことしかできない迷子たちが入り込む隙など、もうどこにも残されていなかった。影たちは行き場を失い、また別の暗がりを求めて、静かに地の底へと沈んでいく。
もう、お前らの声があいつに届くことはない。
荷物を手に取り、ドアノブに手をかけた彼が、ふと足を止めた。
そして、私がいつも寄りかかっている虚空に向かって、静かに振り返る。
何も見えていないはずなのに。彼は憑き物が落ちたような、スッキリとした穏やかな顔で深く一礼し、微かに唇を動かした。
『――ありがとう。もう、大丈夫だよ』
声にはならなかったその唇の動きが、私の胸に刺さっていた最後の未練の楔を、優しく、けれど決定的に引き抜いた。
……ずるい。
そんな顔で笑われたら、未練がましくすがりつくこともできないじゃないか。
重いドアが静かに閉まり、私の愛した背中が完全に視界から消えた。
その瞬間。この部屋から一滴残らず熱が消え失せた。容赦のない、底無しの絶対零度が私の魂を貫く。
終わったのだ。
彼を引き止める未練も、私が防波堤となって彼を守るための理由も。これでようやく、私もこのしょうもない見張り番からお役御免というわけだ。
猛烈な寒さが、私を丸ごと飲み込もうとしていた。
私の体は急速に輪郭を失い始めている。泥のように変色していた指先が、不思議なことに、朝の光を乱反射する細かなプラチナの結晶となって宙に舞い始めた。さらさらと、音もなく。
「……あぁ、寒いな」
もう誰も聞いていないから、最後に一言だけ本音をこぼした。
けれど、不思議と恐怖や後悔はなかった。光の届かない暗がりの一番深い底へと落ちていく私の魂は、なぜかぽかぽかと温かかったからだ。
それは彼からもらった熱じゃない。私が自分の意思で、大好きな人を最後まで守り抜いたという、ただの自己満足の熱だ。
私みたいな陰気な死者の傍ではなく、眩しい日差しの下をどうか力強く生きてほしい。私の完全な消滅というたった一つの対価で、彼の輝かしい未来を守り抜けたのだ。こんなに幸福な結末は、きっとこの地獄のどこを探しても他にない。
彼がもう振り返らずに歩き出したことを悟り、私は底冷えのする虚空の中で、満足げに笑ってやった。
――よかった。
さようなら、誰より優しくて、誰より不器用な私の人。
私は、冷たい暗がりの奥底で、生まれて初めて感じるほどの澄み切った熱を帯びながら、ようやく穏やかな眠りへと落ちていった。




