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母の話

 1


 呼び鈴を鳴らし、開かれた玄関のドアをくぐると、初秋の冷たく乾いた風が、私の頬を撫でて家の中へ通り抜けていった。


「いらっしゃい。駅から迷わなかったかい?」


 奥から現れた俊彦さんは、目尻に深くシワを寄せて穏やかに笑った。中背で、さらりと着こなしたリネン混のシャツがよく似合う。十四年の歳月は彼の髪をすっかり白く染めていたが、それすらも彼らしい洒脱さの一部になっている。私が十四歳の頃に感じた、ユーモアがあって心から信頼できる大人の佇まいは、今も少しも変わっていなかった。


「もう二十八ですから、迷いませんよ。スマホの地図もありますし」

「そりゃそうだ。でも、わざわざ寄ってくれて嬉しいよ。来る途中に湖畔は通ったかい?」

「はい。空が高くて、湖がすごく綺麗に見えました。なんだか、空気が張り詰めているみたいで」

「だろう? 諏訪の秋は本当に空気が澄んでるからね。さあ、上がって。よく冷えたアイスティーがあるよ」


 促されて靴を脱ぐと、使い込まれた木の床が足裏に心地よかった。通された和室は、開け放たれた縁側から眩しいほどの陽光が差し込み、部屋全体を明るく照らしていた。手入れの行き届いた庭には秋桜が風に揺れ、遠くからツクツクボウシの弱々しい鳴き声が聞こえる。すべてが澄み切っていて、耳が痛くなるほど静かだった。


「お線香、あげさせてもらってもいいですか?」

「ああ、もちろん。お母さんも喜ぶよ。君が来るのを、ずっと待っていたみたいだからね」


 私は仏壇の前に正座し、線香に火を灯した。白檀の香りが鼻をくすぐる。その香りは不思議と、十四年前のあの夏の記憶を、私の胸に鮮やかに呼び起こすのだった。澄んだ鈴の音が、静寂の中に吸い込まれるようにゆっくりと消えていく。

 見上げた遺影の中の母——三谷愛子は、穏やかな微笑みを浮かべていた。


「……お義父さん、このお母さんの写真、今見るとこんなに若かったんですね」

「そうだね。写真はあの夏のままだからね。……でも、君は少し愛さんの面影が出てきたかもしれないな。目元なんか、そっくりだ」


 俊彦さんは、お盆に乗せた二つのグラスを、小さな座卓に音を立てずに置きながら目を細めた。


「そうですか? 昔はよく、お父さんに似てるって言われてたんですけど」

「お父さんも元気かい? もう工場は引退したのかな」

「ええ、相変わらずです。無口なのも、工場勤めなのも。再雇用でまだ夜勤もやってるんですよ。休めばいいのにって言うんですけど、体が鈍るからって」

「お父さんらしいね。本当に、真面目で強い人だ」


 俊彦さんの声には、私の実父への確かな敬意が滲んでいた。

 ふと部屋を見渡すと、壁に飾られた風景画や本棚は当時のままのようで、どこか時間が止まっているような静けさがあった。ダイニングテーブルには椅子が一つしか引き出された形跡がなく、彼がこの十四年間、母の幻影を守りながら一人で静かに暮らしてきたことが伝わってきた。


 私はグラスを受け取り、アイスティーを一口飲んだ。氷が縁にぶつかり、涼しげな音を立てる。縁側の風鈴が微かに鳴った。

 風鈴の澄んだ音色を聞きながら、私はいつしか、あのうだるような十四歳の夏へと引き戻されていた。


 2


 あの九月も、私たちの町ではうだるような残暑が続いていた。夕方になっても気温は下がらず、工場街にある団地の階段には、湿った生活の熱気と、カビめいた古びたコンクリートの匂いが重たく停滞している。それは、私たちが生きる息の詰まるような日常の匂いだった。

 私の記憶の中にある十四歳の夏は、遠くの幹線道路を走る大型トラックの排気音と、絶え間なく続く工場のプレスの重低音だけが響いていた。洗面所の換気扇がカラカラと乾いた異音を立て、網戸越しには隣の部屋のテレビの音と、夕飯を炒めるごま油の匂いが無遠慮に流れ込んでくる。私にとっての世界は、この狭く熱を持った団地の一室と、近所の安いスーパーの往復だけで完結していた。


 私は部活には入らず、学校が終わるとまっすぐ家に帰る毎日を送っていた。夜勤のある父に代わって、妹の面倒を見たり、近所の安いスーパーで夕飯の買い出しをするのが私の役目だったからだ。将来の夢や明確な目標があったわけではない。ただ、買ってきた惣菜を皿に移したり、台所で無心に洗い物をしている間だけは、自分が必要とされている大人になれたような気がして、少しだけ安心できたのだ。


 夕方、ぬるい風が吹く団地に帰宅すると、どこかの部屋の室外機が鈍い音を立てて回っていた。小学六年生の妹、真唯のランドセルが玄関に放り出されている。外で友達と遊ぶのを早々に切り上げて、今日はもう部屋に戻っているようだった。

 台所で麦茶を注いでいると、居間の方から首を振る古びた扇風機が空気を切る単調な音に混じって、父の低い声が聞こえてきた。


「……ああ、俊さん。いや、それは……分かった。急だな」


 居間の隅で、真唯が寝転がってテレビを見ている。「クーラーつけてよ」と文句を言いながら扇風機の風を独占している妹の背後で、これから夜勤へ向かう準備をしている父——浩二が固定電話の受話器を握りしめていた。

 色褪せた作業着のままの父が、何度も言葉に詰まりながら受話器に向かって相槌を打っている。普段は無口で、怒ると手がつけられないほど怖い不器用な父が、慣れない丁寧な言葉遣いで、ひどく畏まっていた。長年の現場仕事でひび割れた太い指で、受話器を耳に強く押し当てている。


「……シフトは外せない。娘たちには、話しておきます。……いえ、あとのことは気にせんでください。いつもすいません。ありがとう」


 受話器を置いた父は、立ち尽くしている私と真唯を順番に見た。少し丸まった背中が、彼の背負っている日常の重さと疲労感を無言で物語っていた。

 父は、何か言いづらいことでも飲み込むように、太い指で顎を撫でた。


「お前たち、今度の土日、長野に行ってこい」

「えっ、長野?」

 真唯が身を起こした。


「ああ。……あっちにいる、俊さんからだ。向こうの調子がいいから、一度うちに泊まりに来ないかって言われてな」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心の中に重く冷たい鉛のようなものがストンと沈んだ。

(長野? あの人の家に?)

 心の中で、私は母のことをいつも『あの人』と呼んでいた。

 私が小学低学年の頃までは、たまに駅前のファミレスで面会することもあったが、母はいつも自分本位だった。自分の好きなケーキやテレビ番組の話ばかりして、母親というよりまるで聞き分けのない子供のように振る舞っていた。一緒に来る俊彦さんが、いつも困ったように笑いながら彼女をフォローしていた。母が心を病んでいたから仕方なかったのだと父は言うが、私には到底納得できていなかった。父と私たちを捨てたという事実が、どうしても許せなかったのだ。

 それに加えて、今回は向こうの家に泊まるという。


「やったあ、旅行だ! 特急に乗るの?」

 真唯が無邪気に声を上げた。


「旅行ってわけじゃないが、特急には乗るぞ。俺は土日も出なきゃならんから、二人で行ってこい。切符は買っておくから。……宏奈、真唯を頼むぞ」


 父の視線が私に向いた。私は断りたかった。「どうして急に……私、行きたくない」そう口答えした私に対し、父は一瞬だけ苦しそうな顔をして、「いいから、行ってこい。……頼む」とだけ絞り出した。作業着のまま疲労を漂わせる父の顔と、先ほどまで見えない相手に深々と頭を下げていた姿を見ると、それ以上はどうしても反抗できなかった。


「……わかった。準備するね」

 父の必死な様子に、私はそれ以上深い理由を尋ねることはできなかった。

 こうして九月の週末、私たち姉妹は二人だけで特急列車に乗り、あの人の待つ諏訪へと向かうことになった。


 3


 指定席の窓辺に頬杖をつきながら、私はぼんやりと流れる景色を眺めていた。見慣れた灰色の工場街を抜け、木曽川を越え、緑深い山々へと入っていく。


「お姉ちゃん、これ食べる?」

 隣の席で、真唯が駅の売店で買ったスナック菓子の袋を差し出してくる。まるで遠足にでも行くような浮かれっぷりだ。「ねえ、お母さんの家ってどんなところかな。大きい犬とかいるかな」と、真唯は窓の外の景色を見ながら無邪気に足を揺らしている。私は手元に視線を落としたまま、「さあね」と素っ気なく返した。どうして自分たちを捨てた母親に、あんなに無邪気に期待できるのだろう。その無邪気さが、今の私には少しだけ恨めしかった。


「……あのさ、あんまり期待しない方がいいよ」


 塩尻駅で鈍行列車に乗り換え、上諏訪の駅に着く頃には、車内の空気は一段と冷たくなっていた。


 改札を抜けると、ロータリーに停められた紺色の輸入車の傍らで、今の白髪交じりの姿とは違う、髪も黒く若々しい俊彦さんが軽く手を振っていた。


「俊彦さん、お久しぶりです」

「いらっしゃい。長旅、疲れただろう」


 俊彦さんは穏やかに笑い、「さあ、お嬢様たち」と少し芝居がかった手つきで、恭しく後部座席のドアを開けた。「うわっ、車かっこいい!」と真唯が遠慮なく乗り込む。

 車内はほのかにシトラスの香りがした。父の車の、シートに染み付いたタバコと汗の匂いとは全然違う。足元のマットは砂埃ひとつなく、エアコンから吹き出す風さえもひどく清潔に感じられて、自分が履き古したスニーカーで立ち入ってはいけない場所に思えて、私は無意識に足先を縮めた。


「……あの、お母さんは?」


 シートベルトを締めながら尋ねると、運転席の俊彦さんはバックミラー越しに目を細めた。


「愛さんはね、家でお留守番なんだ。君たちが来るからって昨日からすごく張り切っちゃって、今朝は少し体調を崩してしまったんだ。今は落ち着いているけどね」


 車が市街地を抜け、緩やかな山道を登り始めると、窓の外に巨大な諏訪湖が広がった。午後の太陽の光を浴びて青々と光る水面は、団地の狭い空しか知らない私にとって、映画のワンシーンのように鮮烈だった。


「きれいだろう。さあ、もうすぐ着くよ。お母さん、本当に楽しみに待ってるからね」


 4


 閑静な住宅街にあるその家は、庭の植え込みから玄関のタイルに至るまで、隅々まで丁寧に手入れされていた。

 玄関に足を踏み入れると、我が家のすり減ったクッションフロアとは違う、無垢材の床がひんやりと足の裏に吸い付いた。壁には埃ひとつない間接照明が柔らかく光り、並べられたスリッパはホテルにあるようなふかふかの生地だった。自分の履き古した靴下が一気にみすぼらしく思え、私は無意識に足の指を丸めた。


「ただいま。愛さん、起きてるかい?」

 俊彦さんがリビングのドアを開ける。


 生活感のない、モデルルームのように片付いた部屋。しかし、甘い紅茶の香りに混じって、どこか冷たくて無機質な匂いが漂ってくるのを感じた。

 壁には淡い色彩の美しい風景画が何枚も飾られ、本棚には背表紙の揃った文学全集や画集が隙間なく並んでいる。それらは、彼女の好みを俊彦さんが丁寧に反映し、外界から守るために作り上げた美しいシェルターのように見えた。


 その中央のソファに、母——愛子は浅く腰をかけていた。


「いらっしゃい。……待ってたのよ」


 最後に会った日から、もう五年以上の月日が流れていた。五年ぶりに見る母は、ひどく痩せ細っていた。外はまだセミが鳴いているというのに、母は分厚いウールのカーディガンを羽織り、膝にはブランケットまでかけていた。極度の貧血なのか、それでも時折、カーディガンに包まれた小さな肩が小刻みに震えている。部屋のエアコンはごく弱く設定されているはずなのに、彼女の周りだけが深い冬に沈んでいるようだった。顔色は透けるように白く、どこか季節外れのちぐはぐな雰囲気を漂わせていた。


「お母さん、久しぶり!」

 真唯が駆け寄ると、母は嬉しそうにその頭を撫でた。

「真唯ちゃん、こんにちは。……宏奈も。よく来てくれたわね」

 母の大きな瞳が私に向けられる。私は入り口に立ち尽くしたまま、「……こんにちは」とだけ短く答えた。


 俊彦さんが紅茶とケーキを並べると、真唯は「うわー、美味しそう!」とそわそわして目を輝かせた。しばらく和やかな時間が流れたのも束の間、母は自分のカップを覗き込み、「俊さん、これ、いつものダージリンじゃないみたい」と小首を傾げた。


「今日は君の体が冷えているみたいだったから、生姜のブレンドにしたんだよ」

「そう……。でも、いつものほうが良かったな」

「じゃあ、あとで少しだけ淹れ直そうか」


 俊彦さんが微笑んで返すと、今度は母がふと肩をすくめ、「なんだか、エアコンの風が冷たいかも」と呟いた。

 俊彦さんは「はいはい、お姫様」と冗談めかして立ち上がったが、キッチンへ向かって背を向けた一瞬、小さく息を吐き、少しだけ肩を落としたのを私は見た。奥から肌触りの良さそうなブランケットをもう一枚持ってきて母の膝に丁寧にかけた。


 ——絵を描いて、小説なんか読んでいる。本当に『お姫様』みたいだ、と私は思ってしまった。飾られた絵もこんなに美しいのに、この人はこうやって、誰かが自分のために動いてくれるのを待っているのが『当たり前』なのだ。『シフトは外せない』——そう言って機械油まみれの作業着で働き続ける父の姿が脳裏をよぎり、私の中で確かな苛立ちが膨らんでいった。


「そういえば宏奈、部活はやってないの? せっかく中学生なんだから、何かやればいいのに。私の時はね、テニス部に入って、毎日コートを走っていたのよ」

 母は悪気もなく、私の現実を何も見ようとしないまま、無邪気に自分の思い出話ばかりを続けていく。私が家事に追われていることなど想像もしていないらしかった。


 しばらくすると、母はふと思い出したように嬉しそうな声を上げ、奥の部屋から小さな包みを持ってきた。


「これね、あなたがまだ小さかった頃に見つけて、いつか渡そうと思ってずっと大事にしまっていたのよ」


 テーブルの上に広げられたのは、ピンク色のプラスチックでできた、子供向けのオルゴール付き宝石箱だった。蓋を開けると、安っぽい電子音とともに小さなバレリーナの飾りが回り始めた。中には、おもちゃの大きな指輪や色鮮やかなビーズのネックレスが入っている。キッチンに立つ俊彦さんは、少し困ったように苦笑しながらこちらを見ていた。


「お母さんがいないと、こういう可愛いもの、誰も買ってくれないでしょう? ほら、この指輪、つけてみて」


 それは、幼稚園児の女の子が目を輝かせるような代物だった。

 毎日、安いスーパーのチラシを握りしめ、冷たい水と強い洗剤で食器を洗い続けてきた私の手。指先は乾燥して白く粉を吹き、関節がゴツゴツと太くなり始めた中学生の手に、プラスチックのおもちゃの指輪が似合うはずもなかった。こんなものを無邪気に喜べるような「お姫様」の時間は、私の記憶のどこにも存在しない。


 母の大きな瞳は、私が目を輝かせて喜ぶことを微塵の疑いもなく信じて輝いていた。

 私は、差し出されたプラスチックの指輪を、テーブルの上に静かに押し戻した。


「……私、もう小学生じゃないから」


 自分でも驚くほど、冷たくて低い声が出た。母の大きな瞳が揺れる。私はそれ以上何も言わず、ただ冷めきった目で彼女を見つめ返した。今の私たちの生活を語って聞かせることすら、ひどく馬鹿らしく思えたのだ。


 言ってしまってから、私はすぐに後悔した。母は怒るでも反論するでもなく、ただ突然親とはぐれた迷子のように、大きな目を見開いて何度も瞬きを繰り返したからだ。やがて、その大きな瞳から次々と涙をこぼすと、テーブルの上の宝石箱を強く抱きしめた。


「……そうよね。もう中学生だものね……。ごめんなさい……」


 震える声でそう呟き、母は細い腕で自分を抱きしめるようにして立ち上がろうとし、よろけた。

 俊彦さんは慌てる素振りを見せず、静かに微笑んで肩を支えた。「はいはい、そこまで。愛さん、少し横になろうか」


 俊彦さんに抱えられるようにして寝室へ消えていく母の背中は、隣に座る十二歳の妹よりもずっと幼く、ひどく脆かった。それに気づいた瞬間、小さな動物を理不尽に蹴飛ばしてしまった時のような、ひどい罪悪感が込み上げてきた。


 5


 テレビのバラエティ番組では、芸人たちが大げさに笑い合っている。空気を読んだ真唯は一言も発さず、ただ黙って画面を見つめていた。

 沈黙が落ちたリビングで、首を振る扇風機が単調な羽音を立てていた。その風が私の火照った体を規則的に撫でていく。誰も私を怒らない。それが逆に、自分の放った言葉の残酷さを浮き彫りにし、私の胸にじわじわと自己嫌悪を育てていった。


 気まずさに耐えきれず息が詰まりそうになっていた夜八時過ぎ。

「宏奈ちゃん、真唯ちゃん、ちょっとそこの自販機まで、アイスでも買いに行かない?」と俊彦さんが声をかけてきた。


 外に出ると、昼間の熱気を吸い込んだアスファルトの匂いと、近くを流れる用水路の青臭い水の匂いがした。街灯が少なく、山から吹き下ろす夜風は、半袖の腕にまとわりつくように冷たかった。真唯は物珍しそうに、用水路を覗き込みながら先を歩いている。

 暗闇に浮かぶ自動販売機で冷たい炭酸飲料を買って帰り道を歩いていると、俊彦さんがふと足を止めた。


「愛さんはね……」

 夜風に吹かれながら、彼はどこか遠くを見るようにして静かに口を開いた。


「君たちと別れた後から、重い自己免疫の病気を抱えていて。強い薬で何とか進行を遅らせてきたんだけど、ついに心臓も腎臓も限界にきてしまったんだ」

 その言葉の重さに、私は持っていた缶ジュースを取り落としそうになった。真唯はきょとんとして、俊彦さんの顔を見上げている。

 俊彦さんは言い淀むように視線を落とし、空き缶のプルタブを力なく指で弾いた。

「……お医者さんからは、今年の冬を越せるかどうかわからないって言われてる。お父さんは、君たちに余計な重荷を背負わせたくなくて言えなかったんだろうけど……」

 隣で、真唯が短く息を呑む気配がした。

「うそ……お母さん、死んじゃうの……?」

 真唯が震える声で呟き、立ち止まった。俊彦さんはしゃがみ込み、真唯の肩を優しく撫でた。

「ごめんな。驚かせて。でも、まだわからないんだ。だけど、どうしても今のうちに、君たちを会わせておきたかったんだよ」

 真唯は俯き、小さく肩を震わせて泣き始めた。

 俊彦さんは立ち上がり、私の方を真っ直ぐに見た。

「本当は、君たちの生活をかき乱すべきじゃないとわかっていた。でも、愛さんが毎晩うわ言のように君たちの名前を呼ぶんだ。僕がどれだけ愛しても、彼女の心の一番深いところにある、母親としての後悔と痛みだけは、僕にはどうすることもできなかった」


 缶を持つ私の手に、じわっと冷や汗が滲んだ。昼間に母が言っていた「エアコンの風が冷たい」というあの言葉も、厚手のカーディガンも、誰かに世話を焼いてもらうための甘えなどではなく、限界を迎えた身体の、切迫した現実だったのだろうか。


 薄暗い居間で、見えない相手に深々と頭を下げながら長電話をしていた父の姿がフラッシュバックした。父が無理をして私たちを送り出した理由が、ようやく腑に落ちた。夜勤で自分は来られないのに、急いで私たちだけの切符を買ってきたのは、娘たちだけでも今のうちに会わせておきたいという、父なりの必死な思いだったのだ。


 真実を知り、私は暗い夜道で立ち尽くしてしまった。母は命を削って私たちに会おうとしていたのだ。それなのに、私はあんなにも冷たい言葉で母を突き放してしまったのだ。


 6


 日付が変わる頃。罪悪感で寝付けず、どうやって謝ればいいのか布団の中で何度も考えた。せめて書き置きでも残そうと音を立てないように台所へ向かうと、ダイニングテーブルの小さな明かりの下に、母が一人で座っていた。


 白湯を入れたマグカップを両手で包むように持っている。薄暗い明かりの下で見ると、カーディガンの袖から覗く手首や首筋が病的に細く、俊彦さんの言葉が残酷な現実として目に飛び込んできた。

 気配に気づいた母が顔を上げ、私を見て一瞬きょとんとした。昼間のパニックは嘘のように、その顔はひどく静かだった。


「……どうしたの? 眠れない?」

「ううん。喉が渇いて」


 母が立ち上がり、新しいグラスに麦茶を注いで私に差し出す。私はグラスを受け取り、俯いたまま口を開いた。


「あの……昼間は、ひどいこと言ってごめんなさい」


 すると母は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから力なく首を振った。


「ううん……。謝るのは、私の方よ。ごめんなさいね」母は視線を彷徨わせ、震える両手でマグカップを強く握りしめた。「あのね……私、あそこに飾ってある絵を描きながら、ずっと……考えていたの」


 母はそっとマグカップをテーブルに置き、伏し目がちに言葉を続けた。


「私……あなたがどんな風に大きくなったか、全然、わかっていなくて……。頭の中のあなたは、ずっと三歳のままだったから……。本当のあなたが目の前にいるのに、どう……どう接していいか、わからなくて……」


 母はゆっくりと歩き、食器棚の横にあった小さな木箱を持って戻ってきた。「ここに座って」と促され、私は向かいの席に腰を下ろす。

 母が箱から取り出したのは、くすんだ桜色のマニキュアだった。


「もう、こういうのが似合う歳なのよね」


 母はそう言って、私の左手をそっと取った。

 毎日の水仕事で荒れた中学生の無骨な指先。それに触れる母の指先は、家事など一切していない透き通るような白さで、私たちから奪われた十一年の月日が、この二つの手の違いに無慈悲なほど表れていた。


「……お母さん、手が震えてるよ」

「ごめんね。最近、うまく力が入らなくて」


 母は不格好に、ハケで私の爪に桜色を乗せていく。少しはみ出しているし、ムラもある。

 母がハケを握る手は、まるで冷水に浸かっていたかのように青白く、小刻みに震えていた。キャップを開けるだけの動作にさえ息切れをして、何度かハケを取り落としそうになる。それでも彼女は、決して俊彦さんを呼ぼうとはせず、意地のように私の指先を見つめていた。


 ツンとした特有の化学薬品の匂いが、静かな台所にふわりと広がる。氷のように冷たい母の手が私の指先に触れ、不格好にハケが滑るたび、私の中で固く強ばっていた何かがゆっくりと解けていくのを感じた。これは、過去の幻影である幼い子供に対してではなく、目の前にいる中学生の私という現実に向き合おうとしてくれた証だった。


 私は黙って、その震える冷たい手に自分の手を預けていた。

 壁掛け時計の針が進む音と、秋の虫の声だけが、深夜の台所に優しく響いていた。


 7


 翌朝、出発の準備を整えてリビングへ向かったが、そこに母の姿はなかった。


「愛さんはね、今日は少し熱があって奥で休んでるんだ。でも昨日の夜はすごく嬉しそうだったよ。宏奈ちゃんと、ちゃんとお話しできたって」

 俊彦さんの言葉に、「お母さん、バイバイ!」と空元気で叫ぶ真唯の横で、私は奥のふすまに向かって、「お母さん、またね。元気でね」と静かに声をかけた。ふすまの奥から、かすかに「気をつけてね」という声が聞こえたような気がした。私は短く一礼して、車に乗り込んだ。


 特急列車に揺られ、地元の駅の改札を抜けると、生温かい風とともにアスファルトと排気ガスの匂いが鼻を突いた。諏訪の澄んだ空気とは違う、私たちが生きる日常の匂いだった。


 タクシー乗り場の少し奥に、見慣れた古いカローラが停まっていた。運転席で、作業着姿の父がぬるくなった微糖の缶コーヒーを握りしめている。ダッシュボードの上には、私と真唯のために買ったであろう、コンビニの冷たい紙パックのジュースが二本、水滴をつけて並んでいた。開いた窓から漂ってきたその安っぽいコーヒーとタバコの匂いを嗅いだ瞬間、ずっと張り詰めていた私の肩の力が、不思議なほどすっと抜けた。


 真唯は疲れ切ったように無言のまま後部座席に潜り込み、シートベルトを握りしめて小さく丸くなった。私は助手席のドアを開け、「ただいま」とだけ言って腰を下ろした。車内には、いつものタバコの染み付いた匂いが充満している。


 車が幹線道路を走り始め、赤信号で停まった。

 父は前を見たまま、ふうと短く息を吐き、少しだけきつくハンドルを握り直した。


「……俊さんから、昨日の夜、電話があった」


 低い、途切れがちな声だった。私は窓の外のテールランプから視線を外し、父の横顔を見た。無精髭の生えた顎に、街灯の光が薄暗く落ちている。


「お前たちに、愛子の身体のこと、ちゃんと話してから行かせるべきだったな。……嫌な思いをさせて、本当にすまなかった」と、絞り出すように言った。


 父はそこで言葉を区切り、苛立たしげに自分の頭を荒っぽく掻き、それきり口を噤んだ。言葉足らずで、ひどく不器用な謝罪だった。


 誰にも頼らず、この騒々しい街で一人で私たちを育ててきた父。あまりにも不器用で、娘たちに残酷な事実を告げることが、どうしてもできなかったのだろう。


 私は膝の上に置いた自分の左手を見つめた。薄暗い車内でも、爪先に塗られた桜色はかすかに街灯の光を拾って浮かび上がっている。


「……ううん。大丈夫だよ、お父さん」


 私は助手席から、自分の左手をそっとダッシュボードの上にかざした。


「ちゃんと会えたから。お母さんと、少し話せたし……行ってよかったよ」 私がごく自然に口にした「お母さん」という響きに、父は一瞬だけ目を見開き、ハンドルを握る手にぐっと力を込めたように見えた。それからゆっくりと瞬きをし、太い指の力をわずかに緩める。


「……そうか」


 信号が青に変わる。父はそれ以上何も言わず、ただ小さく一度だけ頷いて、再びアクセルを踏み込んだ。

 赤信号で停まるたび、父は何度か助手席の私に何かを言おうとして口を開き、結局は言葉を見つけられずに短く息を吐いた。私はそんな父の横顔を見ながら、「もう無理に言葉にしなくていいよ」と心の中で呟いた。タバコと排気ガスの匂いが充満するこの狭い車内こそが、私たち家族の確かな居場所なのだと、今はもう分かっていたから。


 流れる夜の街の光を浴びながら、私たちはいつもの団地へと帰っていった。


 あの夏の後、私と母は携帯のメールで短いやり取りをするようになった。「今日はこんなことがあった」「急に寒くなったから気をつけて」といった、他愛のないやり取り。私は少しずつ、彼女を「一人の不器用な人」として受け入れ始めていた。


 けれど、その年の冬。恐れていた通り母の容態は急変し、私たちは間に合わなかった。劇的な最期の言葉を交わすこともできない、静かなお別れだった。


 8


 微かに鳴った風鈴の音で、私は我に返った。縁側から差し込む諏訪の秋の陽光が、畳の上で眩しく光っている。私は二十八歳の現在に戻り、手元のグラスの冷たいアイスティーを飲み干した。


 二十八歳になった私は、今では地元の企業で事務員として働いている。真唯は良い人と巡り会い、来年には結婚する予定だ。あんなにも窮屈に感じていたのに、私は結局、あの街から離れられずにいる。


「……宏奈ちゃん」


 不意に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。俊彦さんが、少し色褪せた一冊のスケッチブックを両手で抱えるようにして持っていた。


「愛さん、絵を描くのが好きだっただろう。部屋の整理をしていて見つけたんだ。いつか君たちに見せようと思ってね」


 差し出されたスケッチブックを受け取り、私はそっと表紙を開いた。

 ページをめくると、淡い水彩の風景画が並んでいる。そしてその所々に、樹々の下で遊ぶまだ幼い姉妹の絵が、何度も何度も繰り返し描かれていた。やはり、母の中の時間はあそこで止まっていたのだ。


 しかし、最後のページをめくった時、私は思わず息を呑んだ。

 あの九月の週末の後に描かれたであろうその一枚には、もはや風景も、フリルの服を着た幼い子供の姿もなかった。


 そこに描かれていたのは、少し不機嫌そうに立つ中学生の少女と、その横で口を大きく開けて笑う小学生の妹の姿だった。生意気そうな私の表情まで、あの日の私たちが確かにそこに存在していた。あの見事な水彩画を描く母が、震える手で何度も鉛筆の線を重ね、消しゴムで擦り、必死に成長した私たちの輪郭を紙に刻み込もうとした痕跡が、生々しく残っていた。


 その絵は完成していなかった。私のジーンズの裾や、真唯の靴のあたりは、鉛筆の線が途切れ、水彩の絵の具も塗られていない。それでも現実の私たちへと必死に手を伸ばし、繋がりを持とうとした彼女の切実な思いと、途切れてしまった命の境界線が、その白い余白にそのまま残されていた。


 私はその絵を指先でそっと撫でながら、あの夜のツンとしたマニキュアの匂いと、私の左手を取った震える手の冷たさをはっきりと肌に思い出した。

 不器用で、言葉足らずで、それでも必死だったあの夏の大人たち。


 私はスケッチブックをそっと閉じ、遺影に向かって深く頭を下げた。


「俊彦さん。……お母さんを、最後まで綺麗な世界のまま守ってくれて、改めて、ありがとうございました」


 私がそう言うと、俊彦さんは少しだけ照れたように目を細め、「私の方こそ、愛さんと、君たち姉妹に感謝しているんだよ」と静かに笑った。


 玄関を出ると、高く澄んだ秋空がどこまでも広がっていた。ふと自分の左手を見る。今朝、家を出る前に自分で丁寧に塗った、薄い桜色のマニキュア。あの夜、震える手で母が私の成長を認めてくれた証を、私は今日この日のために再び身に纏ってきたのだ。私は小さく深呼吸をした。決して美しくも完璧でもないけれど、泥臭く生きてきた、確かな日常へと向かって、歩き出した。



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