占い師
「――ええ、その通りです。あなたは今まで、自分のことよりも周りを優先しすぎて生きてきました。だからこそ、カードが少し休めと言っているんです」
擦り切れたタロットカードをベルベットの布の上に滑らせながら、私は静かに告げた。腹の底で共鳴させるよう緻密にコントロールした、作り物のバリトンボイスが、パーテーションで区切られた狭い空間を満たす。
向かいのパイプ椅子に座る三十代半ばの女性は、小さく息を呑み、やがて目元をハンカチで押さえた。
「……ずっと我慢してて。でも、彼、全然結婚の話を出してくれないし、職場の人間関係もうまくいかなくて……」
「ええ、わかります。あなたの手相にも、その献身と忍耐の跡が深く刻まれている。ですが、もうご自身をすり減らす必要はありませんよ」
私は彼女の震える肩を包み込むように、慈愛に満ちた視線を真っ直ぐに注いだ。
「でも、私から彼を見捨てたら、もう次がないんじゃ……」
「運気の流れはすでに変わり始めています。あなたは十分すぎるほど、彼への義理を果たしてきた。来月あたり、思い切ってご友人と旅行にでも行ってみてください。世界がガラリと変わりますよ」
瞬きの回数、相手より常に少なく。声のトーンを落とすタイミング、相手が息を吐き切った後の一・五秒後。すべては長年の経験で身体に染み付いた間合いだ。卓上の隅に置かれた、『あなたの明日に光を灯す・開運占い』というありふれたキャッチコピーと、画数だけはやたらと良い源氏名が記されたアクリルプレートが、駅ビルの冷たい蛍光灯の光を反射している。
「ありがとうございます、先生。なんだか、すごく肩の荷が下りた気がします」
女性は堰を切ったように安堵の息を吐き出すと、さっそく目元の涙を拭い、そそくさと財布を取り出した。基本の鑑定料金三千円に加えて、延長料金の千円札を重ね、テーブルの端にそっと置く。
「これからのバイオリズムも、また視させてくださいね。あなたには、穏やかな波が近づいていますから」
私は静かに立ち上がり、背筋を伸ばして、非の打ち所がない角度の会釈で彼女を見送った。
古い駅ビルの二階。書店の壁と眼鏡屋の間に作られたわずかなデッドスペース。古い空調から不規則に吐き出される、微かにカビの匂いが混じった風が、ベルベットの布を微かに揺らす。エスカレーターを下っていく彼女の背中が見えなくなると同時に、私は完璧な占い師の仮面を剥ぎ取り、パイプ椅子に深く背中を預けた。
椅子の背もたれに体重を預け、私は小さく息を吐いた。
『結局、うまくいかないのは私のせいじゃなかったんですね』
以前、深刻ぶった顔で座っていた四十代の男は、私がもっともらしく展開したタロットの解釈を聞いてそう深々と息を吐いた。「運命」などという不確かなものを他人に委ねようとする人間は、総じて傲慢で怠惰だ。自分の能力ではなく、生まれ持った星回りや運勢のせいにしてほしいという彼らの身勝手な望みを、私は瞬時にプロファイリングし、綺麗な包装紙で包み直してそのまま渡してやる。彼らは真実など求めていない。
占いの力を信じているかと問われれば、私はためらいなく「もちろん信じている」と答えるだろう。何しろ、私の予言は絶対に外れない。誰のどんな状況にも当てはまるよう、曖昧な言葉のパズルを渡しているだけだからだ。
「お疲れさん、先生。今日も大盛況だね」
不意にパーテーションの隙間から、館内を巡回する初老の警備員が顔を覗かせた。
「いやいや、ぼちぼちですよ。これ、よかったら」
私は愛想笑いを浮かべ、足元にストックしてある缶コーヒーを一本差し出す。
「いつも悪いね。変な客がいたら、すぐ声かけてよ」
「ええ、頼りにしてます」
機嫌良く去っていく警備員の背中を見送る。万が一の客の暴発に備えた、危機管理の一環だ。興行を長く続けるには、裏方とのパイプ作りも欠かせない。
家賃と携帯代を払い、たまに安い居酒屋で飲むためには、こういう連中の背中を適当にさすって三千円を巻き上げる仕事も悪くない。需要と供給だ。食えない劇団員からこの生業に流れ着いた私が――いや、今でも完全に夢を捨てきれずにいる私が――この商売を心底軽蔑しながらも、どうしても手放せずにいる理由はそこにある。
シワひとつないシャツ、清潔に整えられた爪先。控えめな自信を漂わせる仕草と、すべてを見透かすような静かな視線。これらはすべて、私が長年培ってきた「演劇」の技術そのものだ。オカルトめいたタロットカードや水晶玉などは、ただの小道具に過ぎない。
たった三千円で、彼らは思い通りの台詞を受け取り、満たされた顔で日常へ帰っていく。このパイプ椅子とパーテーションに囲まれたデッドスペースは、毎日必ず観客がやってきて、私の完璧な「演技」に拍手を送ってくれる、小さくも至高の舞台なのだ。壁越しに聞こえる書店のレジの電子音も、隙間風も、ここでは私を引き立てるBGMと舞台効果に変わる。
* * *
一般的な客商売であれば厄介払いされるような、泥濘に沈んでいる人間であっても、占い屋は決して見放さない。絶望が深ければ深いほど、適切な言葉の薬を与え続ければ、盲目的に通い詰める太客となるからだ。何人かのそうしたありふれた客を捌くうちに、時刻は夕方を回っていた。館内のBGMがゆったりとしたワルツに変わる。今日の上がりには十分だが、もう一幕くらい演じてもいいだろう。そう思い直して冷めきった缶コーヒーに手を伸ばした時、パーテーションの入り口に不意に人影が落ちた。
視線を上げると、五十代の後半、あるいは六十代に入ったばかりだろうか。地味なグレーのカーディガンを羽織った女性が、遠慮がちに立っていた。手には、近くの調剤薬局の紙袋が入った、地味な布製のトートバッグを大事そうに抱えている。
(典型的な、熟年層のお悩み相談か)
私は脳内で手慣れた引き出しを開ける。長年連れ添った夫への鬱屈した不満か、あるいは親の介護疲れか。どちらにせよ、彼女のようなタイプが求めているのは、話を聞いてくれる耳と、無責任で優しい肯定だ。
私は素早く缶コーヒーをパイプ椅子の陰に隠し、一瞬で「慈悲深い占い師」の仮面を被り直した。口角をほんのわずかに上げ、相手の警戒心を解くような、しかし神秘的な威厳を損なわない完璧な微笑みを作る。
「どうぞ、こちらへ」
深く落ち着いた声で、向かいのパイプ椅子を勧める。女性は「……あの、よろしいですか」と小声で尋ね、まるで逃げ込むように椅子に腰を下ろした。膝の上でエコバッグの持ち手をぎゅっと握りしめている。
「今日は、どのようなお悩みでいらっしゃいましたか?」
私がゆっくりと水を向けると、女性は伏せていた目を上げ、申し訳なさそうに言った。
「あの……主人との、今後のことについて、少し視ていただきたくて」
「ご主人と。なるほど。差し支えなければ、ご主人の生年月日を教えていただけますか?」
女性は少し目を伏せ、小さな声で答えた。
「昭和三十五年の、十月二十二日生まれです。無口で、不器用な人で……私がいないと、靴下の場所もわからないような人なんです」
「ふふ、昔ながらの旦那様ですね。では、これからのご夫婦の運気を見てみましょうか」
女性はエコバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、顔を上げた。
「あの……私、五年後の生活について、視ていただきたくて」
五年後の生活。よくある老後の不安だ。定年退職を迎えた夫との距離感に戸惑っているか、あるいは自身の健康への漠然とした不安か。私は台本通りの、安心させるための深い相槌を打った。
「ええ、先の見えない未来にご不安を抱かれるお気持ち、よくわかります。ご夫婦の絆がこれからどのような形を描いていくのか、手相から読み解いてみましょう」
私は彼女の緊張をほぐすような穏やかな手つきで、ゆっくりと自分の両手を差し出した。
「まずは、あなたのこれまで歩んできた道のりを拝見させてください。両手を、こちらへ」
女性は少し躊躇いながらも、エコバッグを足元に置き、ベルベットの布の上で待ち構える私の手のひらの上に、自分の両手をそっと乗せた。
彼女の手が、私の手のひらに重なった瞬間――長年培ってきた私の完璧な演技に、小さな綻びが生じた。
氷のような冷たさだった。ただ外気が冷たいというレベルではない。生命の熱そのものが根本から欠落しているような、芯からの冷えだ。
指先で触れた彼女の皮膚は古い薄紙のようにカサついており、その下にある脆い骨の感触が、ひどく生々しく伝わってきた。そのあまりの異質さに、私は絶句し、手相をなぞる指をぴたりと止めてしまった。
「……あ、あの、先生?」
私が不自然に沈黙したことに気づいたのか、彼女がおずおずと声をかけてきた。
「あ、いえ。……ご主人は、本当にあなたのことを愛していらっしゃる線が出ていますね」
私はどうにか喉から声を絞り出し、取り繕った。手相を読むふりをしながら彼女を観察し直すと、先ほどの違和感の輪郭がはっきりと見えてきた。トートバッグから微かに漂ってくるのは、湿布や消毒液が混ざったような病院特有の匂い。よく見れば、うつむいた彼女の頭頂部、その不自然なほど整った髪の生え際は、おそらく医療用のウィッグではないか。何より、私の手のひらに乗せられた彼女の細い腕――めくれ上がったカーディガンの袖口から覗く青白い手首には、点滴の針を何度も刺したであろう黒ずんだ痣が痛々しく残っていた。
(五年後、だと?)
その言葉の持つ途方もない無邪気さと、目の前の彼女の肉体が発している明らかな衰弱のサインが、脳内で激しく衝突した。
手相の線など、もう頭に入ってこなかった。オカルト柄の包装紙で包んで誤魔化せるような悩みではない。彼女に五年後の未来が訪れるのかどうか。あの点滴の痣の数と、この尋常ではない体温の低さを思えば、素人目に見ても、それが酷く絶望的な確率であることくらいは想像がついた。死の影が、彼女の全身にべっとりと、そしてひどく静かに張り付いている。
そして何より私を戦慄させたのは、彼女がただ漠然とした不安に駆られてここへ来たわけではない、という推測だった。「五年後」と自ら期間を区切ったこと。そして、その静かすぎる声のトーンや、自分の余命を値踏みするような諦めた瞳の動きが、自身の状態を誰よりも正確に理解していることを物語っていたからだ。
「……あの、先生。やはり、視えませんか?」
沈黙に耐えかねたのか、彼女がおずおずと口を開いた。
「あ、いえ。そんなことはありません。ただ、少し線が複雑で……」
上擦りそうになる声を必死に抑えながら、私はどうにか取り繕った。一体何のために? わざわざこの駅ビルの吹きさらしのデッドスペースにやってきて、赤の他人に三千円を払い、どう転ぶかもわからない占いに自身の未来を委ねようとしている意図がまるで読めない。
一瞬、喉が干上がり、呼吸の仕方を忘れた。背後の眼鏡屋から漏れ聞こえる超音波洗浄機の微かな振動音が、この異様な沈黙の中でやけに耳障りに響いた。
私は彼女の氷のような手を握ったまま、どうにか視線だけを逸らし、空いた片手で伏せられたタロットカードへ触れた。指先が微かに震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に抑え込む。
「……悪い相が出ているなら、はっきりおっしゃっていただいて構わないんですよ」
彼女の穏やかな追及が、逆に私の心臓を冷たく締め付ける。
劇団員としての矜持と、嘘を売り捌く商売人としてのプライドが、私の内側で激しく火花を散らした。
もしここで私が言葉に詰まれば、彼女はわざわざ三千円を払って「死の宣告」を再確認して帰ることになる。それだけは、興行として絶対に許されない。このパイプ椅子の舞台で、私はただの一度も、観客を絶望させたまま帰らせたことはないのだ。彼女が迫り来る絶対的な死から目を背けるために、この場所へ「偽りの未来」を買いに来たのだとしたら、私は私が持ち得る最高の演技で、その嘘を完璧に演じ切らなければならない。
私は腹の底にぐっと力を込め、震えそうになる声を、いつもの威厳ある低いトーンへと整えた。空いた手で、ベルベットの上のカードを一枚めくる。
絵柄を見て、奥歯を噛み砕きそうになった。逆位置の『塔』。破滅と崩壊。
私はその致命的なカードの上に素早く自分の手を重ねて隠し、ゆっくりと顔を上げた。額にじわりと冷や汗が滲むのを感じながら、彼女の目を真っ直ぐに見据える。
「……見えますよ。素晴らしい運気の巡りです」
「五年後、あなたの運気はこれ以上ないほど穏やかな凪を迎えます。今までご苦労された分、ご夫婦水入らずの、静かで満ち足りた時間が待っていますよ。縁側に並んでお茶を飲んだり、年に一度は温泉旅行に出かけたり。口下手なご主人も、その頃にはあなたへの感謝を素直に態度で示してくれるようになる。確かな絆が結ばれるはずです」
女性は小さく吐息を漏らして笑うと、私の手で隠されたタロットカードを見下ろすこともなく、静かに言った。
「そう。絆、ですか」
そのひどく透明な眼差しに射抜かれながらも、私は無理やり言葉を継いだ。
「ええ。五年どころではありません。十年後も、あなたはお健やかに、ご家族と共に笑っていらっしゃいます。何も案ずることはありません。あなたの未来は、光に満ちています」
「十年後……」
彼女は私の言葉を反芻するように目を細め、やがて、深く澄み切った声でぽつりとこぼした。
「本当に、そんな風に生き長らえてしまったら……あの不器用な人は、ずっと私の看病に縛られることになるのね」
予想もしなかった言葉に、私は息を呑み、完全に返す言葉を見失った。
私の必死の嘘などすべて見透かしているような彼女の目には、同時に、私が描いた『五年後の未来』に対する、はっきりとした拒絶が浮かんでいた。
「ずっと、病気で迷惑ばかりかけてきたから。私が消えれば、みんなやっと自分の人生を歩める。……未来がないって、悪いことばかりじゃないのね」
彼女は、テーブルの端を見つめ、誰に言うともなく言った。
「これでいいの。先生が五年後を視てくれたおかげで、私の役目はもう終わっていいんだって、はっきりわかった。安心したわ」
底知れぬ虚無と、自己犠牲という名の絶対的な諦観。
私が良かれと思って必死にでっち上げた浅ましい気休めが、結果的に、彼女に自らの死を受け入れさせるための最後の背中を押してしまったのだ。
「そんなことはない」というありふれた否定さえ、今の彼女にとっては白々しい雑音でしかない。占い師として被っていた浮薄な仮面はあっけなく剥がれ落ち、一切の言葉が喉の奥で凍りついた。
女性はゆっくりと立ち上がり、足元に置いていたエコバッグを腕に掛けた。そして、テーブルの端に鑑定料金の三千円をそっと置いた。
「いや、奥さん、そのお金は」
私は思わず身を乗り出し、その札を押し返そうと手を伸ばしかけた。
どんな言葉をかけようとしたのか、自分でもわからない。ただ、客を死の淵に突き落としておいて、こんな破綻した台本で木戸銭を受け取るわけにはいかないという、私なりのちっぽけな意地があった。それと同時に、占い師の顔などかなぐり捨てて、「そんな悲しい諦め方をするな」と、ただの人間として彼女の肩を揺さぶりたいという、どうしようもない衝動が喉を塞いでいた。
しかし、テーブルの上で中途半端に彷徨っていた私の手に、ふわりと冷たいものが触れた。
驚いて顔を上げると、女性が身をかがめ、行き場を失った私の拳を包み込むように、彼女のその冷え切った両手を重ねていた。
「先生、少しお疲れの顔をしているわ。若いんだから、あまり思い詰めないでね」
彼女は、まるで出来の悪い息子を案じるような、気遣わしげな微笑みを浮かべていた。そして、私の手を愛おしむように見つめ、静かに言った。
「良い手ね。これからも、いろんな人を前向きにしてあげて」
それは、死にゆく者が遺した、哀れな嘘吐きへのあまりにも優しい赦しだった。
女性は背を向け、駅ビルの雑踏の中へと歩き出した。エスカレーターを下っていく小さな背中が見えなくなるまで、私は声をかけることもできなかった。
誰もいなくなったパイプ椅子に身を沈め、彼女に触れられた自分の両手を見つめる。
他人の人生を覗き見し、もっともらしい嘘を売り捌くための薄汚れた手。
その手の甲には、彼女の遺した静かな冷たさが、火傷の痕のようにこびりついていた。
眼鏡屋から漏れる超音波洗浄機の振動音が、ひどく遠く感じられた。
* * *
「あの、いいっすか。やってます?」
不意にパーテーションの隙間から、間の抜けた若い男の声が落ちた。
顔を上げると、安っぽい香水の匂いを漂わせた二十代の男が、スマホを弄りながら立っていた。目元には疲労と、己の身勝手さが招いたトラブルの言い訳を探す、卑小な光が浮かんでいる。
私は無意識のうちに口角をわずかに上げ、いつもの「慈悲深い占い師」の微笑みを作っていた。
「どうぞ、こちらへ」
腹の底で共鳴させた作り物のバリトンボイスが、口をついて出る。男が椅子に座り、浮気か何かの言い訳がましい愚痴をこぼし始めるのに合わせて、私は擦り切れたタロットカードを滑らせた。
瞬きの回数、声のトーン、沈黙の長さ。骨の髄まで染み込んだルーティン。先ほど剥がれ落ちたばかりの薄っぺらな仮面を、空洞のように無表情な素顔の上へ、そっと貼り直す。私はこれからもこの舞台で、彼らの欲しがる言葉を売り捌き続けるだろう。
――しかし。
今日の舞台が終わって、このパーテーションを畳み、自分の空虚なアパートに帰ったら。
その時ばかりは、他人のものではない、私自身の人生について考えてみなければならない。
目の前の客がすっかり安堵した息を吐き、財布に手を伸ばすのを眺めながら、私は誰にも気づかれないほど小さく、息を吐き出した。




