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乙女解剖

 本作はボカロP「DECO*27」様の「乙女解剖」のオマージュ作品です。


 <本家様>

 DECO*27 - 乙女解剖 feat. 初音ミク

 https://www.youtube.com/watch?v=7zwCIz-Ohn4


 <歌詞>

 https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/38863.html


【まえがき】

 本作には一部、性的な描写および自傷・希死念慮などの精神的・肉体的な苦痛を伴う描写(残酷な描写)が含まれます。

 苦手な方や心身が不安定な状態にある方は、ご自身の判断にて閲覧をお控えいただくか、ご注意のうえお読みいただけますと幸いです。


 ——————————————————————————————


 1


『休日はカフェ巡りしてます!』『ドライブ好きと繋がりたいです』

 右、左、右。スマートフォンの画面に次々と表示される見知らぬ男たちの笑顔を、親指の腹で無心に弾き飛ばしていく。


 換気扇の低いモーター音だけが響く、六畳一間のワンルーム。シンクには昨日の夜から放置されたマグカップが転がり、底に溜まったコーヒーが黒く固まっている。

 両親が離婚して親戚の家をたらい回しにされた私は、高校を出て逃げるように一人暮らしを始めた。けれど、ようやく手に入れたはずの「自分の居場所」は、ただの孤独な箱でしかなかった。誰の記憶にも残らない、ただ時間を消費するだけのフリーター生活。カレンダーの数字を眺めても、明日という日に何の価値も見出せなかった。

 テトリスのブロックを機械的に消していくようなスワイプ作業。それは、部屋に満ちる無音の重圧と、私自身の空っぽな内面から目を背けるための退屈凌ぎだった。画面の向こうの加工された笑顔も、下心が見え透いた甘いプロフィール文も、何ひとつ本気にしていない。

 けれど、誰かからの通知音でこの静寂を打ち破ってほしかったのだ。私はただ、社会の中で行き場を失った迷子だった。


『今日、バイト先の店長に理不尽に怒られて。なんかもう、全部嫌になっちゃった』

 ほんの出来心で、適当にマッチした彼に愚痴を送信してみる。どうせ既読スルーされるか、スタンプ一つで流されるだろう。そう高をくくっていたのに、画面の向こうでは即座に「入力中」の文字が躍った。

『うわ、それはしんどいね。お疲れ様。……今、声出せる? 少し話そっか』

 唐突な提案に躊躇する間もなく着信画面が光る。意を決して通話ボタンをスワイプし、冷たいガラスの画面を耳に押し当てた。そこから聞こえてきたのは、拍子抜けするほど低く、穏やかな声だった。

「うん、うん。それは君がかわいそうだな」

 彼は私のまとまりのない愚痴を一度も遮らず、温度のある言葉を返してくれた。誰かに丸ごと受け入れられているという微かな痺れが、その夜、胸の奥で確かに芽生えた。


 初めて対面したのは、駅前にある少し賑やかなカフェだった。

 現れた彼は、落ち着いたアースカラーのコートがよく似合っていて、ギラついた欲の欠片も見当たらなかった。「急に誘ってごめんね。寒かったでしょ」と笑う目元が優しかった。


「そういえばさ、お互いなんて呼び合おっか。アプリの名前、これ本名じゃないでしょ?」

 運ばれてきたカフェラテの湯気越しに、彼がふと思いついたように尋ねてきた。私が返事に詰まっていると、彼は悪戯っぽく笑ってグラスを傾けた。

「まあ、無理に本名教え合わなくてもいっか。アプリのハンネのまま呼ぼうよ。その方がお互い気楽だしさ」

「あ……うん、そうだね。その方がいいかも」

 お互いの素性を深く探らない、仮面同士の心地よい距離感。当時の私は、彼のその提案を「大人びた気遣い」だと都合よく解釈していた。


 それから私たちは、ごく健全なデートを重ねていくことになる。休日の午後に駅前の映画館に行き、路地裏のイタリアンで食事をするような日々だ。


 「君って、いつも周りの空気読んで無理してるでしょ」

 彼が不意にそう口にしたのは、まだ二回目のデートで入った居酒屋のカウンターでのことだった。グラスの水滴を指でなぞりながら、彼が私を見透かしたようにそう言った。

「え……そう、かな」

「わかるよ。歩くペースとか、メニュー決めるときとか。俺の前くらい、もっとわがまま言っていいんだよ」

 グラスの氷がカラリと音を立てる。適当にやり過ごすための愛想笑いも、空気を読むための計算も、彼にはすべて見透かされていたのだ。その言葉に背中を押されるようにして、私はそれまで誰にも話したことのなかった自分の惨めな過去を、ポツリポツリとこぼし始めていた。

「……私、高校の時に親が離婚してて。それから親戚の家をあちこちたらい回しにされたの。居場所がなくて、逃げるように一人暮らし始めてさ……でも、結局今もフリーターで、誰の役にも立ってなくて」

 自分でも驚くほど、声が震えていた。普段なら絶対に、誰にも言わない話だ。引き破った傷口を見せるような惨めさに急に恥ずかしくなって、うつむいた。

「ごめんね、こんな暗い話。引いたでしょ」

「全然」

 彼は迷いなく言って、私のグラスの横に自分のグラスをそっと寄せた。

「引くわけないじゃん。むしろ、話してくれて嬉しいよ。……ずっと一人で、寂しかったんだね」

「……うん。夜になるとさ、急に涙が止まらなくなったりして……自分が空っぽで、怖くなるの」

 私が抱える暗い病事を、隠さずすべて彼のもとへ添付するように差し出していた。

 彼は嫌な顔ひとつせず、静かに頷きながら「そっか、ツライことたくさんあったんだね」と柔らかい声で包み込んでくれた。

 ただの酒席のマナーとしての相槌。男が女の警戒心を解くためのありふれた優しさ。そんな冷却された事実には目をつぶり、私は「この人は私のSOSを受け止めてくれたんだ」と痛々しい勘違いに逃げ込んだ。ツライことほど分け合いたい。そんな幼い期待が、胸の奥で熱く蠢いていた。


 ずっと息を止めて生きてきた私の肺に、甘い酸素が流れ込んでくるような感覚だった。誰も見向きもしなかった私の輪郭を、彼だけが正確になぞってくれた。どうしようもなく空っぽだった私の容器に、彼が『特別』という名前の液体を少しずつ注ぎ込んでいく。この人なら、私の内側にある惨めな欠落を埋めてくれるかもしれない。私は少しずつ、確実に彼に惹かれていった。


 出会って一ヶ月が過ぎた頃の、デートの帰り道。駅へと向かう夕暮れの交差点で、彼はふと足を止めた。

「そういえば、この前話してたサスペンス映画、俺の部屋のプロジェクターで観れるんだけど。よかったらこの後、観ていかない? 適当にご飯も作るし」

 休日の夕方。それがどういう意味を持つ誘いなのか、私だって知らないわけではなかった。けれど、彼が注いでくれた甘い酸素をもっと吸い込みたくて、私は「うん、行きたい」と頷いていた。


 辿り着いた彼のマンションのドアが開くと、微かなタバコの煙と、甘ったるい柔軟剤の匂いが混ざった空気が漂ってきた。

 初めて足を踏み入れた彼の部屋は、少し異様だった。本棚には本がなく、壁にはカレンダーすらない。彼自身のパーソナリティを感じさせるものが何一つないのだ。洗面所の手洗いボトルも、シャンプーも、ドラッグストアで買える一番無難で甘い香りのもので統一されていて、特定の誰かの生活感だけが綺麗に漂白されている。誰が来てもいいように作られた、ホテルのような無機質さ。他者を拒絶する空洞のようなその違和感に気づきながらも、キッチンで手際よくパスタを茹でる彼の背中を見ていると、そんなことはどうでもよくなった。


「トマトソースで大丈夫だった? 嫌いなものあったら言ってね」

「ううん、なんでも食べる。……すごく手際いいね」

「一人暮らし長いからね。はい、お待たせ」

 湯気を立てるパスタをローテーブルに並べ、二人で並んで食べた。食事が終わると、彼は手慣れた手つきで部屋の照明を落とし、壁にプロジェクターの光を投影した。

「この映画、結構怖いやつだから。怖かったら遠慮なくしがみついていいからね」

 薄暗い部屋の中で彼が冗談めかして笑い、私のすぐ隣に腰を下ろす。グラスに酒が注がれる微かな音と、彼の息づかい。並んで映画を観ている最中だった。


 肩と肩が触れ合う距離。昼間のカフェで見せていた穏やかな空気のまま、彼は息をするように自然に私の髪に触れ、そのまま頬を包み込んだ。そこにはドラマチックな熱情などなく、ただ手慣れたルーティンしか存在しなかった。それでも、彼に求められているという圧倒的な充足感が、微かな違和感を塗りつぶしていく。流されるままにキスをされ、冷たいシーツの上へ引き倒されたとき、怖い、逃げ出したいという思いよりも、経験したことのない身体的な快感が私の理性を容赦なく溶かしていった。強烈な快楽と自虐的な羞恥心が混ざり合い、頭の中が真っ白になる。


 全てが終わったあと、汗ばんだ前髪を彼が指先で優しく撫でてくれた。

「……ねえ。いつもこんな風に、男の人について行っちゃうの?」

 意地悪な問いかけに、私は慌てて首を振った。

「ううん……そんなわけ、ない……」

「ふーん。じゃあ、俺が特別なんだ」

 満足そうに目を細めた彼は、私をさらに強く引き寄せると、耳元でふわりと悪戯っぽく笑った。

「お前、本当は結構寂しがり屋でしょ」

 その声の低さ、肌に残る体温、そして私の心を見透かしたような言葉。ただのピロートークの定型文かもしれない。男が女を懐柔するための手垢のついた嘘かもしれない。そんな冷めた分析など、何の役にも立たなかった。

「ねえ……私の本当の名前」

 この心地よい熱と、彼がくれた『特別』という言葉にしがみつきたくて、私はアプリの仮面を脱ぎ捨てるように自分から本名を囁いた。彼は「そっか、可愛いね」と気だるげに髪を撫でてくれたけれど、結局、自分の名前を明かすことはなかった。私だけが身も心も、そして本当の輪郭さえも、この暗い部屋で一方的に明け渡してしまったのだ。

 身体に刻まれた逃げ場のない快感と、事後に与えられた甘い言葉。その二つが溶け合った劇薬のような毒が、心臓の奥深くまで侵食していく。

 一度この味を知ってしまったら、もう二度と元の孤独には戻れない。この夜を境に、私は彼という存在を底なしに渇望するようになってしまった。


 2


 それから、彼から連絡が来るたび、私は万難を排してあの無機質な部屋に通い詰めた。

 都合よく呼び出されては肌を重ね、彼に甘い言葉を囁かれるだけの時間。けれど、私を完全に満たし、理性を溶かし尽くしてくれた『あの夜』の最高潮の感覚が忘れられず、私は中毒者のようにその体温にしがみつき続けた。彼との関係が深まっているのではなく、ただ自分が底なしの沼へ沈んでいるのだと気づかないふりをしながら。


 週末の駅前の交差点は、休日を前にした浮かれた空気と、冷たいビル風が入り混じっていた。

 信号待ちの波の最前列で、私の視界に一つのカップルが入り込む。同じようなベージュのトレンチコートを着た二人が、ひとつのスマホを覗き込んで「次の休み、どこ行く?」「ディズニーは?」と無邪気に笑い合っている。どこにでもいる、日向の道を歩いているような、純真無垢で健全な「乙女」の顔だった。

 そんな彼らを横目でやり過ごしながら、私はコートのポケットの中で、爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。


 薄っぺらくて、虫唾が走る。あんな明るい日差しの下で、誰にでも見せびらかせるような健全な関係で満たされる「乙女心」なんて、底が浅くて笑いそうになる。

 彼らはどうせ、お互いの綺麗なところしか見せ合っていない。社会的な顔という薄皮を被ったまま、仮面同士でイチャついているだけの、安全で退屈なお遊戯だ。

 私の想いの方が、よっぽど深くて、切実で、特別だ。あの暗くて甘ったるい柔軟剤の匂いがする部屋で、互いの汚い部分も、見栄も全部脱ぎ捨てて、身を焦がすような痛みを伴って抉り込まれる、あの夜のヒリヒリするような熱に比べたら。あんな昼間の恋愛なんてただのままごとでしかない。

 そうやって頭の中で他人の幸せを徹底的に見下し、毒づかなければ、私は今にも歩道で崩れ落ちてしまいそうだった。


 出会ったばかりのカフェではアプリの名前で親しげに呼んでくれたはずの彼は、あの夜を過ぎてから、しだいに私の名前を呼ぶことをやめていった。

 せっかく打ち明けた本当の名前はおろか、いつの間にかかつてのハンネさえ口にしなくなり、気がつけば「ねえ」とか「お前」とか、機嫌が良いときは「お前さあ」と少しくだけた調子になる程度。私を呼ぶ彼の声には、私という個人への輪郭がすっぽりと抜け落ちている。私が私である必要はどこにもなく、ただ『夜に呼べば来る女』という記号の箱に押し込められているだけ。

 それでも、私はその無機質な記号のなかに、必死に自分の居場所を探していた。誰の代わりでもいいから、彼が私という肉体を必要としてくれるなら、それでいいと言い聞かせていた。


 彼を繋ぎ止めるため、私は自分の身体を差し出すことに何の躊躇いも持たなくなった。

「ピル飲んでるから、大丈夫だよ」

 二度目の夜、彼を繋ぎ止めるために私が震える声でついた見え透いた嘘を、彼はあっさりと信じた——あるいは、信じたふりをした。その日から、彼が私を気遣う素振りは完全に消え去った。

 嘘を本当にするため、私はすぐに婦人科へ通い始めた。毎朝、決まった時間にアラームを鳴らし、小さなシートから錠剤を押し出して水で無理やり胃袋へ流し込む。ピルの副作用で込み上げてくる胃液の苦みを飲み下すたび、この不快感こそが彼と繋がっている証拠なのだと自分を洗脳した。

 それでも一度だけ、シートの残りを飲み忘れていたことに気づき、パニックになって深夜のオンライン診療に駆け込んだことがある。数万円の出費と引き換えにバイク便で届いた一錠のアフターピル。それを飲み下したときの強烈な吐き気と、一週間後にやってきた赤黒い消退出血を見たときの、あの底知れない虚無感。彼との物理的な繋がりが血とともに完全にトイレに流されてしまったような惨めさは、今でも私の胃の底にこびりついている。

 肉体的な繋がりがそんなふうに頼りないものだからこそ、私は彼との画面上の繋がりに執着した。朝と夜に2回分、『おはよう』と『おやすみ』のメッセージを欠かさず送る。それは彼を繋ぎ止めるためだけに私が撒く、必死で滑稽なスパイスだった。思い込みの狂気でしかないとわかっていても、それ以外に私を満たす方法はなかった。


 彼の都合の良い時間にだけ呼び出される関係が定着し始めても、私は彼からの通知を諦めきれずにいた。ある夜、部屋の静寂に耐えかねて、私は迷いながら短くメッセージを送った。

『こんばんは、今平気かな?』

 数分後、画面に珍しく彼からの返信が届く。

『どうしたの? なんかあった?』

『ううん、特に言いたいこともないんだけど……声が聴きたくなっちゃって』

 送った直後、重いと思われる恐怖で後悔が押し寄せた。けれど、彼から返ってきたのは、呆れたような、けれどどこか嬉しそうなスタンプと、短いメッセージだけだった。

『バカだなあ。明日は早いからもう寝るよ。また連絡するね』

 たったそれだけのやり取り。本質的な会話なんて何ひとつ作れていないのに、彼の画面に自分の存在が一瞬でも映ったという事実だけで、私はその夜、救われたような気持ちで眠りにつくのだった。


「そういう落ち着いた色の服、似合うね」

 いつだったか、事後のベッドの上で彼が何気なく口にした言葉。煙草の煙と一緒に吐き出されたようないい加減なその一言に、私はすがりついた。

 次の週末、私はクローゼットの整理をした。好きだった鮮やかな色のワンピースや、少し個性的な柄のスカートはすべて奥へと押し込み、代わりに彼が好むような、自己主張のない、淡いトーンの服ばかりを買い揃えた。

 鏡の前に立つたび、そこにいるのは私であって私ではないように思えた。私という人間の個性が少しずつ解体され、彼の好みの布切れを着せるための、ただの空っぽなマネキンに成り下がっていく。それでも、彼がもう一度「似合う」と言ってくれるなら、自分自身の意思なんてすべて捨ててしまっても構わなかった。


「今すぐ声を聴きたい、狂いそう」という重い気持ちと、「これ以上退屈な女だと思われるのが怖い」という見栄。その二つが頭の中で、決着のつかないPK戦のように延々と不毛な蹴り合いを続けている。どちらが勝ったところで、どうせ私が傷つくだけなのに。

 彼の既読がつかなくなってから丸一日。私は部屋の重苦しい無音に耐えかねて、自分に狂ったマイルールを課し始めていた。

『次にあの信号が赤になるまでに、白い車が通ったら私から電話をかける』

『このリップクリームを唇に塗り終えるまでに通知が来たら、彼は私のことを想っている』

 不安で無意識に爪を噛みちぎり、指先から微かに血が滲む。結局、白い車が通らなくても、リップクリームを塗り終えるまでに通知が来なくても、「今、画面が光った気がするから」と自分勝手な言い訳を作ってスマホを握りしめる。

 感情のままに叫び出したい欲望と、捨てられる恐怖。その不毛な蹴り合いの果てに、トーク画面に並ぶのは私からの惨めな緑色の吹き出しばかりだった。数時間、ひどい時は数日待たされた果てにようやく届くのは、決まって文字のない、感情の読めないウサギのスタンプ一つだけだった。


 彼からの連絡が途絶えがちになった頃から、私の生活から『食べる』という行為が抜け落ちた。

 冷蔵庫の中では、賞味期限の切れたコンビニのサラダが手付かずのまま放置されている。それを捨てる気力すら湧かず、ただ冷たい水を胃に流し込むだけの毎日。

 ある夜、シャワーを浴びて曇った鏡を手のひらで拭ったとき、そこに映った自分の姿に息を呑んだ。

 鎖骨やあばら骨が、以前よりもひどく浮き出ている。肌は病的に白く透き通り、目の下には消えない隈が張り付いていた。

 シャワーの熱いお湯が、肉を失ったあばら骨に当たって不規則に跳ねる。鏡に映っているのは私であって、私ではない。中身の臓器をすべて彼に吸い取られ、ただ皮膚と骨だけが残った、無惨で空っぽな標本のようだった。


 3


 決定的な絶望は、いつだってひっそりと訪れる。

 珍しく彼から呼ばれて部屋に上がり、彼がシャワーを浴びている間のことだった。私はローテーブルの横に座り、手持ち無沙汰に部屋を見回した。

 ふと視線を落としたゴミ箱の中、丸められたティッシュに紛れて、Amazonの黄色いクッション封筒が捨てられているのが見えた。宛名ラベルの印字が、不意に脳内へ飛び込んでくる。

『鈴木 翔太』

 それが、彼が私に一度も教えてくれなかった本名だった。

 出会ったばかりのカフェで、「アプリのハンネのままでいようよ。その方がお互い気楽だしさ」と笑った彼。お互いの素性を深く探らない、仮面同士の心地よい関係。最初はそれが大人びていて「いいな」と思ったのだ。

 けれど、関係が深まるにつれ、私は自分の最寄り駅も、勤め先のコンビニも、本名も、私の抱える惨めな病事のような愚痴も、すべて彼に差し出してしまった。それなのに、彼は結局、自分のことは何一つ本当のところを教えてくれなかったのだ。話で聞く「厳しい両親」も「地元の友達」も、実在するのかすらわからない。

 本当の名前すら教えてもらえなかった相手の、煙草を吸う指の形や、汗ばんだ肌の匂いだけを完璧に記憶している自分。その滑稽さに、胸の奥で何かが冷たくひび割れる音がした。

 シャワーの音がやむのを待ちながら、私は絶対に呼ぶことの許されないそのありふれた名前を、何度も何度も頭の中で反芻していた。


 その日を境に、私の中で何かが確実に狂い始めた。

 彼の前で無知なふりをし続けるほど、見えない壁の冷たさに息が詰まる。他に「本当の名前」で呼び合う相手がいるのではないか。どろどろとした疑心暗鬼は、やがて私の浅い眠りすら蝕んでいった。


 数日後の深夜、私はこんな夢を見た――彼が私室のあのベッドの上で、私よりずっと素直で可愛らしい女の子に優しく微笑みかけている夢。ひどい寝汗とともに跳ね起きた私は、心臓が肋骨を突き破りそうなほどの動悸の中で、無意識にスマホを握りしめていた。

 時刻は深夜の一時前。インスタのDM画面を開くと、彼のアカウントにはオンラインを示す緑のマークが点灯していた。起きている。それなら少しだけ声を聞いても許されるだろうか。重い女だと思われたら終わる。わかっているのに、恐怖で震える指が勝手に発信ボタンを押していた。

 耳元で響く無機質なコール音が、頭蓋骨をガンガンと内側からノックする。五回、六回、七回。もう切ろうかと思った矢先、電話が繋がった。

「あ……こんな時間にごめんね。まだ起きてるかなって思って……」

 私の声は情けないほど震えていた。電話の向こうから、舌打ちを堪えるような、深くて重い溜め息が聞こえる。

「なに……どうしたの、急に」

 その面倒くさそうな声を聞いた瞬間、私の中でギリギリ保っていた理性の糸がプツンと切れた。重い女だと思われたくないという自制心が吹き飛び、抑え込んでいた言葉が嘔吐するように口から溢れ出す。

「ごめん、変なこと言うけど……夢を見たの。君が、別の人のところに行っちゃう夢……」

「……はあ?」

「ごめん、わかってる、重いよね。でも怖くなっちゃって……お願い、違うって言って。ねえ、私のこと、ちゃんと好きだよね……? 嘘でもいいから、安心させてよ……っ」

 息継ぎも忘れて早口でまくし立てる自分の声が、ひどく醜く、滑稽に聞こえた。暗闇の中で、私は床に這いつくばるようにして彼の言葉を待った。数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられる。やがて彼はあくびを噛み殺しながら、ひどく平坦な、業務連絡のような声で言った。

「……うん、好きだよ。お前だけだって。これでいい? もう寝るよ」

 棒読みのその言葉に、体温はおろか愛情の欠片も乗っていないことなど痛いほどわかった。それは私を黙らせて、とっとと電話を切るためだけに処方された、あまりにも粗悪な鎮痛剤。それでも私は、「……うん、ありがとう」とすがりつくしかなかった。


 しかし、その空っぽな鎮痛剤は、かえって私の中のどろどろとした疑心暗鬼を肥大化させただけだった。

 翌日から、彼からの連絡は完全に途絶えた。

 一週間以上「未読」のまま放置されているトーク画面を、私は瞬きもせずに見つめていた。彼は忙しいわけではない。共通でやっているスマホゲームの最終ログイン時間は『3分前』になっているし、音楽アプリのアカウントでは、聴いているプレイリストがリアルタイムで更新されている。

 私は憑かれたようにスマホの画面を見つめた。彼の下の名前のローマ字と、誕生日。以前会話に出たマイナーな洋画のタイトル、吸っている煙草の銘柄。あらゆるキーワードを組み合わせ、XとInstagramの海を何時間も潜り続ける。

 画面をスクロールする親指が痙攣しそうになった朝方、ひとつのアカウントに辿り着いた。プロフィール画像は風景写真だったが、投稿されている居酒屋のテーブルの画像に、彼がいつも身につけている安物のシルバーリングがほんの数ミリだけ写り込んでいるのを見逃さなかった。ついに彼の鍵の開いた裏アカウントを特定したのだ。

 息を殺しながら、彼のフォロワー欄を血眼になって遡っていく。


 そして、見つけてしまった。

 彼と無邪気に、親しげなリプライを送り合っているアカウント。アイコンは、明るい髪色をした愛嬌のある女の子だった。震える指でその子のタイムラインをスクロールしていくと、数時間前に投稿された一枚の写真で息が止まった。

『おうちデート。映画観る!』という短いテキストとともにアップされた、薄暗い部屋の写真。

 その画面の端に、どうしても見覚えのあるローテーブルの木目が写り込んでいた。彼がシャワーを浴びている間、私が一人で所在なく見つめ続けていた、あの小さな傷のあるテーブル。


 目の奥が焼けるように熱くなり、どす黒いヘドロのような感情が胃袋からせり上がってくる。

 彼はただ、私を切り捨てたのだ。別れの言葉すら与える価値のない、不要な存在として。

 確かめなければ。彼に直接会って、私のほうが特別なんだと、あんな女はただの遊びなんだと言わせなければ。

 気がつけば、私はコートを羽織るのも忘れ、財布とスマホだけを握りしめてマンションを飛び出していた。


 4


 深夜の冷たい風に吹かれながら、何度も通い慣れた道を走る。

 マンションのエントランスに着く頃には、息は完全に上がり、喉の奥から血の味がした。見慣れたオートロックのパネルの前に立ち、彼の部屋番号を押す。

 規則的な呼び出し音が、静まり返ったエントランスに響く。どうか彼が出て、いつものように呆れながらも鍵を開けてくれますように。そう祈りながらスピーカーを見つめていた。


『……どちら様ですか?』


 ノイズ混じりのスピーカーから響いたのは、彼のものではなかった。

 少し高くて、深夜の訪問者を訝しむような、警戒と不機嫌さが混ざった若い女の声だった。

「えっと……」

 全身の血が一瞬にして凍りつき、声が出ない。私が硬直していると、マイクの奥の方から、面倒くさそうな彼の声が微かに聞こえた。

『誰?』

『わかんない、なんか女の人……』

『あー……無視しろって。こんな時間に鳴らすなんて、どうせ酔っ払いの間違いか、ヤバい女だろ。うざったい』


 プツン。

 無機質な電子音とともに、通信は一方的に遮断された。

『ヤバい女。うざったい』

 ノイズにまみれたその一言が、私の頭の中で何度も反響する。

 違う。私の方が先だったのに。私の方が、あの部屋でいっぱい泣いて、彼にSOSを出して、彼もそれを受け止めてくれたのに。

 視界の端から、急速に色が抜け落ちていく。真冬の冷水に突き落とされたように、体の内側から急激に温度が奪われていくのがわかった。ガチガチと奥歯が鳴り、指先が痙攣したように震え出す。冷たいタイルの床に膝から崩れ落ち、声にならない悲鳴を上げるように、ただ虚空に向かって無意味に口を動かすことしかできなかった。酸素が吸えない。肺が真空になったように痛い。

 自分が『都合のいい女』でさえない、ただの『ヤバい女』として切り捨てられたという事実だけが、冷たい床の上に転がっていた。


 マンションのエントランスから、どうやって立ち上がったのかはよく覚えていない。ただ、ふらつく足で夜の街へ出ると、視界の端で点滅する黄色い信号機や、すれ違うタクシーのヘッドライトだけが、網膜を無意味に滑り落ちていった。

 涙すらもう枯れ果てていた。期待して、縋って、本当の名前で呼び合える日が来ると信じていた感情は、音を立ててバラバラに解体されてしまった。中身をすべて抜き取られ、ただの脆い骨組みだけになってしまったように、私の中の「乙女」が完全に死んだのがわかった。

 千切れるように痛む肺を引きずり、酸素を求めて無意識に彷徨った末に、私は駅近くの古い歩道橋の上に立っていた。

 冷たい手すりに両手をかけ、眼下を走る深夜の幹線道路を見下ろす。ヘッドライトの鋭い光が、無機質な帯のように流れては暗闇へ消えていく。その底知れない暗闇が、空っぽになった私を静かに手招きしているように見えた。


 深夜のLINE一つで呼び出され、馬鹿みたいに尻尾を振って駆けつける惨めな夜。

 愛されていると錯覚するためだけに、偽物の快楽に溺れ、自分を擦り減らしたベッドの上。


 昔、彼のベッドの上で、肌を重ねたあとの心地よい疲労感の中でポツリと呟いたことがあった。

『……もう、どこにもいきたくないな』

 明日になればまた冷たいワンルームに帰り、代わりのいくらでもきくバイトに追われる。その現実が嫌で漏らした言葉に、彼は煙草の煙をふっと吐き出しながら、「じゃあ、ずっとここにいれば?」と無責任に笑ってくれたのだ。あの時は、その気まぐれな優しさだけで、世界が救われたような気がしていた。

 だけど今、冷たい歩道橋の上で反芻するその言葉は、まったく違う意味を持って私の喉を焼き尽くす。


 ――もう嫌だ。もう、いきたくない。


 彼のもとへ行く場所も、彼に必要とされる未来もない。彼にすべてを解剖されるように明け渡し、ただの空っぽな骨組みだけになってしまったこの身体で迎える明日なんて、どこにも見出せなかった。

「いきたくない」と本音を吐き出せば、これで楽になれるのだろうか。


 手すりの外側に片足をかけた時、錆びた鉄の冷たさと匂いが、スニーカーの薄い底を通して足の裏から全身へ伝わってくる。眼下を走る大型トラックが巻き起こす風が、空っぽになった私の身体を揺らす。

 ガソリンと焦げたオイル、そして雨を含んだ濡れたコンクリートの匂いが鼻をつく。

 込み上げてくる強烈な吐き気に、口の中にじわりと酸っぱい涎が溜まる。それを飲み込む気力もなく、だらしなく唇の端から零れ落ちそうになるのを手の甲で乱暴に拭った。身体の奥底から込み上げるこの醜い体液こそが、私が彼に消費されたあとに残った、唯一の感情の残骸だった。

 強烈な油と鉄の臭いに掻き消され、ずっと記憶にこびりついていたはずの、あんなに私を狂わせた彼の部屋の甘ったるい柔軟剤の匂いは、もう微塵も感じられなかった。

 鼻奥に残る錯覚の甘い毒が消えていく代わりに、現実の冷たく乾いた匂いが私の意識を鮮明にしていく。


「……痛いくらいが、良いんだって知ったから」


 夜風に溶けるような小さな声で呟いた。

 初めて彼に抱かれ、惨めで、けれど私のすべてが満たされてしまったあの夜みたいに。

 眼下のアスファルトは、彼よりもずっと確かな硬さと冷たさを持って私を待っている。この途方もない虚無感と惨めさをかき消すほどの、強烈で、絶対的な痛みが、今の私にはどうしても必要だった。


 ——————————————————————————————

【あとがき】

 ・ちょうど8/21の「YouTube Music Weekend 12.0」でDECO*27様の

「デコミク LIVE」の配信があり、その中に乙女解剖も入っていました。

 超有名曲ですので、むしろ当然かもしれませんが。


 DECO*27ファンの方、9月24日(木) 23:59までアーカイブが公開されていますよ!

 https://www.youtube.com/watch?v=KYmnxjcD-CU


 ・「近況ノート」の勉強宣言ですが、すでに色々ルールが破綻しつつあります…笑


 勉強優先で、皆さまの作品を中々すぐ拝見することができない場合があること、

 ご容赦ください…。

 その勉強も、火曜日以外もコレとか書いてたりしたせいで、

 全然できなかったりしてましたが…。

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