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弱虫モンブラン

 本作はボカロP「DECO*27」様の「弱虫モンブラン」のオマージュ作品です。


 <本家様>

 DECO*27 - 弱虫モンブラン feat. GUMI

 https://www.youtube.com/watch?v=B-A2eYlbrwQ


 DECO*27 - 弱虫モンブラン (Reloaded) feat. 初音ミク

 https://www.youtube.com/watch?v=euRzG6zmEb8


 <歌詞>

 https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/9644.html


 ——————————————————————————————



 放課後の駅前カフェ。窓際の席に座った私は、マグカップの縁を両手で包み込みながら、ぼんやりとガラス越しの景色を眺めていた。街路樹の枝先には固い蕾がつき始め、冬の刺すような寒さの中にも、少しずつ春の気配が混じり始めている。


「で? 健斗くんのことはもう吹っ切れたの? 別れてからもうすぐ一ヶ月経つじゃない」


 向かいの席で、親友の里奈がスマホでインスタのストーリーをスワイプしながら、呆れたようにため息をついた。その何気ない質問に、マグカップを撫でていた私の手がピタリと止まった。

 館山健斗。私の元彼氏。その名前が出るだけで、あの冷たい空気ごと記憶が鮮明に蘇ってきて、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。


「引きずってなんかないよ。……ただの自業自得だもん」

「ほんとに? 別れる直前も、健斗くんがちょっとスマホ見てただけで『誰からの連絡?』って勝手にキレてたじゃん」

「あれは……だって、ずっとコソコソ隠し事してるみたいだったから。不安になるじゃない」

「恵実さぁ……それはいくら何でも、恵実が重すぎるって」


 里奈はスマホから顔を上げ、ストローを軽く噛みながら真っ直ぐに私を見た。

「健斗くん、別れる前、ずっと疲れた顔してたじゃん。そういうの、ただの被害妄想だよ。健斗くんの優しさに甘えて、あんたが彼を追い詰めたんでしょ」


 親友からの思わぬ正論に、私は言葉に詰まった。胸の奥を刃物でえぐられたような痛みが走る。図星だった。それでも私は、自分が全部壊したのだと認めるのが恐ろしくて、「私だって傷ついた」という被害者の殻に頑なに閉じこもろうとしていた。

 あんなふうにヒステリックに彼を責め立てて、自分から関係を壊しておいて、今さら未練がましく彼を想う資格なんて私にはないのだ。


 +++++


 一年前の冬。彼と急接近したのは、図書委員の仕事がきっかけだった。

 健斗は同じクラスの美術部員で、いつも教室の隅で大人しく本を読んだり、窓の外の風景をクロッキー帳に描いたりしているような男子だった。決して目立つタイプではないけれど、よく見ると整った顔立ちをしている。


 彼は、自分から積極的に誰かと関わろうとするタイプではなかった。周囲に期待せず、静かに壁を作っている彼が、私にだけ心を開いてくれたことが、当時の私を何よりもつけ上がらせた。

 彼が図書室の窓際で枯れ葉のスケッチを描いていた時、『それ、本物みたいだね。葉脈のところ、すごく細かい』と何気なく呟いた私に、彼は初めて驚いたように目を合わせた。誰も見過ごすような彼の小さなこだわりに気づけたことが、二人の距離を縮めた。


 暖房の切れた放課後の図書室で、少しだけ頬を赤くした彼から『有原さんのことが、好きです』と真っ直ぐに言われた時。当時の私は、控えめに言っても最低だったと思う。

 付き合い始めた当初、私は彼と廊下を歩くのが少しだけ好きだった。すれ違う女子たちが「え、待って。有原さんの彼氏、普通にイケメンじゃない?」「わかる。館山くんって大人しいけど、なんか雰囲気あるよね」などと囁くのを聞くたび、優越感で胸が満たされた。私は彼自身というより、「顔の整った大人しい彼氏を連れて歩いている自分」に酔っていたのだと思う。


 けれど、そんなただの装飾品のような存在だった彼が、私の中で血の通った、かけがえのない存在に変わったのは、付き合って半月が経った頃のことだった。

 体育の授業の時。バスケットボールの試合中、ルーズボールに飛び込んだ健斗は、運動が苦手な小柄な男子と、体格の良い運動部の男子の間に滑り込み、身を挺して小柄な男子を庇った。体育館の床に肘を強く打ち付ける嫌な音が響いたが、彼は顔をしかめながらも「利き手じゃないから平気」と笑って、庇った男子に小さく手を振っただけだった。

 その日の放課後、私は初めて美術室へと足を運んだ。

 油絵の具とテレピン油の独特な匂いが鼻を突く。西日が差し込む静かな部屋の中央で、健斗はキャンバスに向かっていた。そこに描かれていたのは、どこにでもあるような放課後の風景だったけれど、私には絶対に見えないような、澄み切った光と色が広がっていた。

「あ、恵実。どうしたの?」

「ううん、ちょっと様子を見に来ただけ。……ねえ、痛くないの? さっきの体育」

「ああ、これ? びっくりさせてごめん。でも、あそこであいつが怪我したら可哀想だし」

 そう言って笑う彼の瞳は、どこか底知れないほど澄んでいた。私には何もないけれど、彼にはこんなにも豊かで優しい世界がある。その事実に、私は強く惹かれると同時に、微かなコンプレックスを抱き始めていた。


 ある雨の日の放課後、その『優しさ』の正体に少しだけ触れた気がした。

 昇降口で、同じ美術部の男子が「やっべ、傘パクられた!」と騒いでいた時のことだ。健斗は自分の傘を迷うことなく差し出し、「俺、今日親が車で迎えに来るから使ってよ」とあっさり嘘をついたのだ。

 結局、彼は最寄り駅までの道のりを、私の折りたたみ傘に入りきらない肩をずぶ濡れにしながら歩いた。

「なんで貸しちゃうの。車なんて嘘じゃん」

 私が呆れてハンカチを押し付けると、彼は濡れた前髪を無造作に拭いながら、困ったように笑った。

「だって、あいつ家遠いし。俺は駅まで走ればいいだけだから……それに、あそこで『誰か傘入れて』って空気になるのも、なんか面倒くさくてさ」


 その言葉を聞いた時、私は彼を「優しい」と思うと同時に、背筋が冷たくなるような危うさを感じた。彼は自己犠牲の精神に溢れているわけではない。ただ、「他人の不機嫌や場の摩擦」を回避するためなら、自分の不利益など微塵も気にしていないのだ。自分がどうなっても構わないという、極端な自己評価の低さと無頓着さ。


 だからこそ、私が彼を繋ぎ止め、私が彼を満たしてあげなければならない。そんな歪んだ使命感が、私の中で芽生え始めていた。絵という私の知らない世界を持つ彼を、誰にも奪われたくない。私の感情は虚栄心から、本物の熱を持った「執着」へと急激に変わっていった。


 とはいえ、それからの日々そのものは、私たちにとって穏やかで幸せなものだった。

 休日に二人で映画を観に行ったり、放課後の図書室で並んで勉強したり。私が不注意で指を切ってしまった時、彼は血相を変えて絆創膏を探し、自分のことのように心配してくれた。でも、彼からの真っ直ぐな愛情を感じるたび、私は「この居場所を絶対に失いたくない」と、彼への甘い依存を深めていった。


 ある秋の休日。二人で駅前のカフェに入った時、私たちはショーケースの中でひと際目を引いたモンブランを注文した。フォークを入れると、上に乗った濃厚なマロンクリームの重みで、土台のサクサクとしたメレンゲがホロリと崩れてしまう。


「あーあ、潰れちゃった」

「あ、ほんとだ。これ、上のクリーム重すぎなんだよ」

 健斗はあっけらかんと笑い、崩れた無惨なケーキの残骸をフォークで掬って口に運んだ。

 脆くて、不器用で、すぐに崩れてしまいそうな土台。そこに過剰なほど乗せられた重たいクリーム。私はその不格好なケーキの残骸をぼんやりと眺めながら、どこか彼の危うい優しさと重なるような気がして、静かにフォークを進めた。

 彼は優しすぎる。だから、私がこの崩れやすい土台を支えてあげなきゃいけない。誰にも彼を奪われたくないという思いは、「彼を守れるのは私だけだ」という歪んだ使命感に変わり、心の奥で静かに、けれど確実に膨らんでいった。


 幸せな日々にほんの少しの違和感が混じり始めたのは、冬の足音が近づいてきた頃だった。

 一緒に歩いていても、健斗がふと遠くの空を見上げて黙り込んだり、スマホの画面を見ては難しそうな顔でため息をついたりすることが増えたのだ。二年生の冬に行われた進路調査票も、彼はなぜかずっと白紙のままだった。


『ねえ、健斗。何か悩んでるの?』

『え? ああ……ごめん。ちょっと、色々考えてて』

『色々って? 私にできることなら……』

『……なんでもないよ。まだ、恵実には関係ないことだから』


「関係ない」と静かに言われた瞬間、胸の奥を冷たい針で刺された気がした。彼なりに私を気遣ってくれたのかもしれないが、私からすればそれは『お前は部外者だ』という明白な拒絶だった。

 私より大事な何かがあるんだ。また彼が心に壁を作って、私から離れていってしまう。毎晩、ベッドの中で疑心暗鬼が渦を巻いた。その不安を打ち消すために、私は彼を守る絶対的な恋人でいなければならないと、勝手に思い込んでいった。


 少しずつ積み重なっていたズレが、決定的な亀裂に変わったのは、年明けに行われる三年生のための予餞会の準備期間だった。

 美術部でパソコンの扱いにも長けていた健斗は、クラスで流すメッセージ動画の編集作業を押し付けられていた。放課後、私が教室に戻ると、健斗は一人でパソコンに向かっていた。そこへ、本来の担当だった女子たちが数人戻ってきた。


「ごめんね、館山くん! 私たちこれから塾の冬期講習行かなきゃで……。あとのテロップの微調整、お願いしてもいいかな?」

 申し訳なさそうに手を合わせながらも、どこかホッとしたような顔で帰ろうとする彼女たちを見た瞬間、私の頭の中でドス黒い何かが膨れ上がった。


「あ、ちょっと待って」

 私はツカツカと健斗の隣に歩み寄り、彼の手元にあったマウスを奪うように握った。

「健斗、今日この後、私と映画行く約束してたよね? 時間ギリギリなんだけど」

 嘘だった。そんな約束はしていない。女子たちは一瞬ギョッとした顔をして顔を見合わせた。

「えっと、ごめん有原さん……でも館山くん、あと少しだからやっておくよって言ってくれて……」

「だからって全部押し付けるのは違くない? 健斗、断れない性格なんだからさ」


 嫌味を含んだ私の声で、教室の空気がスッと凍りついた。心臓がバクバクと嫌な音を立てている。(私、何言ってるんだろう)。頭の片隅でそう思いながらも、暴走する口を止められなかった。


「恵実、もういいよ」

 パソコンの前から立ち上がった健斗が、ひどく静かな、そして微かに冷たさを帯びた声で私を遮った。「みんな、気をつけて帰りなよ」と健斗が促すと、女子たちは逃げるように教室を出て行った。


「なんで引き受けちゃうの。あの子たち、健斗のこと都合よく使ってるだけじゃん」

「別にいいんだよ。俺が少し我慢すれば、波風立たないし。昔から、そうやってやり過ごすのに慣れてるんだ」


 違う。本当はそんな正義感が言いたいわけじゃない。『みんなの都合の良い人にならないで、私だけを見て』。そう叫び出したいエゴイズムを持て余しているだけだ。

 健斗は怒るでもなく、ただ『面倒なクレーム処理』をするような、温度の消えた瞳で私を見つめ返した。


「……そうだね。ごめん、俺が逃げてるだけだ」

 感情を完全にシャットアウトしたような響きだった。すぐ隣にいるのに、分厚いガラスの壁が降りた気がして、私は息ができなくなった。


 その日を境に、私たちはまともに口を利かなくなった。

 謝らなきゃいけない。私が重すぎたんだ。数日間、私は自分の脳内で何度も作戦会議を繰り返していた。『重たい感情を押し付けず、聞き分けのいい彼女でいよう』と。

 そう決意して、木曜日の放課後、私は健斗がいる美術室へと足を向けた。


 美術室が近づいてきた時、階下から運動部らしい男子たちの騒がしい笑い声が響いてきた。


『結局、データとかどうでもよくね? 気合いだろ気合い! 拳だよ拳!』

『お前バカだろ……』


 大きな声でふざけ合いながら、ドタバタと遠ざかっていく足音。

 根拠なんて何一つないのに、ただ声の大きさと勢いだけで笑い合える彼らの気楽な世界が、今の私にはひどく羨ましく、そしてひどく遠いものに感じられた。私と健斗の世界はもっと息苦しくて、繊細で、触れたらすぐにヒビが入ってしまうような薄氷の上に成り立っている。

 小さく深呼吸をして、少しだけ開いていた美術室のドアに手をかけようとした、その時だった。


「館山先輩の描く空の青、すごく綺麗ですね。なんかすごく澄んでて……」


 隙間から聞こえたのは、一年生の後輩女子の弾むような声と、最近私には見せてくれなかった健斗の穏やかな声だった。

 胸の奥で、ドロリとした黒い感情が溢れ出した。彼女は健斗の絵の世界を、私なんかよりもずっと深く理解している。嫉妬と、強烈な劣等感が理性を吹き飛ばした。


 気づけば、私は引き戸の取っ手に体重をかけ、乱暴にスライドさせていた。乾いた木とレールが擦れる暴力的な音が響き渡り、二人の視線が一斉にこちらへ突き刺さる。


「……健斗。そろそろ帰らない? 私、この後用事があるんだけど」

 ひどく冷たく尖った声が出た。後輩の女の子は空気を察し、「すみません、お邪魔しました!」と逃げるように出て行った。


「……用事なんて、ないよね」

 健斗が低く静かな声で言った。後輩を追い払うためについた嘘を見るその瞳には、底知れない「失望」だけが漂っていた。

「だって……随分仲良さそうだったから。あの子といる方が、私と一緒にいる時よりずっと楽しそうだったじゃん!」

「ただの後輩だよ。……恵実は最近、ずっとそうだ。誰かを疑って、わざと俺を試すようなことばかり言う」

「っ、それは……健斗が隠し事ばっかりして、冷たいからじゃん!」


 健斗は怒鳴り返してはこなかった。ただ、壊れかけた機械の修理を諦めるような、透き通った目をした。

「……わかった。俺じゃ、恵実を安心させてやれない」

「え……?」

「今、すぐ隣にいる俺のことすら信じられないのに、見えない未来のことなんて信じられるわけないだろ。俺がこれから何を言っても、恵実はずっと俺を疑って、その度に勝手に傷ついて、周りを振り回すだけだ」


 彼は、私という人間の弱さを、残酷なまでに正確に見抜いていた。

「俺たち、これ以上一緒にいても、お互いダメになるだけだよ。……終わりにしよう」


 健斗はそれ以上何も言わず、パレットを片付けて美術室を出て行った。残された油絵の具の匂いの中、私は一歩も動くことができなかった。


 その日からの記憶は、泥水に浸かったように濁っている。

 家に帰ってから毎日、私はベッドの中で狂ったように健斗のLINEを開き続けていた。『ごめんなさい、私が悪かったの』と打っては消す。彼がSNSに何か投稿していないか、何時間も監視した。

 それだけでは飽き足らず、私はあの日美術室にいた後輩女子のアカウントまで特定し、血眼になってスクロールした。彼女が『先輩の色彩感覚、ほんとうに神です!』と呟いているのを見つけた深夜、私は猛烈な吐き気に襲われながら、そのアカウントをブロックした。

 誰か、いっそ私に強い麻酔をかけてほしい。連絡が来るかもしれない。そんな都合のいい妄想に縋り付いては、一向に鳴らないスマホを握りしめて、惨めに朝を迎えた。


 季節は巡り、二月も終わりに近づいた頃。

 駅前で里奈と別れた後、コンコースを歩いていた私は、改札へ向かう人波の中に見覚えのある背中を見つけた。健斗だ。

 そして彼の隣には、明るい髪色の女性がピタリと寄り添って歩いていた。洗練されたベージュのトレンチコートを着こなす、年上の女子大生のように見えた。


 足が床に縫い付けられたように動かなくなった。

 決定的な場面だった。券売機の前で健斗が何かを言って笑うと、その女性は親しげに健斗の肩を軽く小突いたのだ。健斗も嫌がる素振りは見せず、私には見せたこともないような、肩の力が抜けた自然な笑顔を浮かべていた。


 急速に体温が奪われていく。

 なんだ。そういうことか。「お互いダメになる」なんて、もっともらしい綺麗事じゃないか。面倒くさい私を切り捨てて、あんな大人の余裕がある綺麗な女の人に乗り換えたかっただけなんだ。

 一人で勝手に空回りして、後悔して、泣いていた自分が猛烈に惨めだった。悲しさはすぐに、自己防衛のためのドス黒い憎悪へと変わっていった。


 その数日後、放課後の廊下。

 下駄箱に向かって歩いていると、前から歩いてきた健斗とばったり鉢合わせた。気まずくて視線を逸らそうとした私に、彼の方から歩み寄ってくる。偶然ではない。明らかに私を待っていたのだ。

 心臓が跳ね上がった。


「恵実。ちょっと、いいかな」

 彼の静かな声に、私の胸の奥で煮詰まった黒い憎悪が、勝手に口を動かしていた。


「……何? 新しい彼女とのことなら、この前駅で見たよ。随分綺麗な人だったね。楽しそうで何より」


 刺々しい嫌味だった。(こんなこと言いたくないのに)。心の中の小さな私が泣き叫んでいたが、強がりのメッキは剥がれなかった。

 健斗は少しだけ目を見開き、そして心底呆れたように小さくため息をついた。


「新しい彼女? ……ああ、駅で見かけたのか。あれは従姉の沙耶姉だよ」

「え?」

「前に話したことなかったっけ。東京の美大に通っててさ。俺もずっと、進路のこととか色々相談に乗ってもらってたんだ」


 従姉。ただの親戚。

 その言葉が脳を貫いた瞬間、心臓が握り潰されたように収縮し、全身の血が一気に沸騰したかと思うと、氷水のように冷え切った。

 ガラガラと、私の中で強固に作り上げていた「悲劇のヒロイン」の城が崩れ落ちていく。


(最悪だ……私、なんて恥ずかしいことを……っ!)


 自分の放った『楽しそうで何より』という薄ら寒い嫌味が、リフレインして耳の奥を殴りつける。ただ進路の相談で親戚と歩いていただけの彼に、私はまたしても、自分の醜い嫉妬心から「浮気をして私を捨てた最低な男」というレッテルを勝手に貼り付けていたのだ。


「……あ、そ……そういう、こと……」

 喉の奥がカラカラに乾き、引き攣った声しか出なかった。顔の筋肉が硬直し、視線をどこへ向ければいいのかすらわからない。顔から火が出るどころの話ではない。今すぐこの廊下の床が割れて、私を地の底まで飲み込んでほしかった。

 私が自身のあまりの惨めさと愚かさに耐えきれず、ガタガタと震える手でスカートの裾を握りしめていると、健斗は私を責めるでもなく、ただ静かに口を開いた。


「そのことじゃないんだ。今日、話したかったのは」

「……え?」

「実は冬休み前に、親の東京転勤が決まってさ。最初は俺だけこっちに残って、今の高校を卒業するつもりだったんだけど……。色々考えて、本格的に東京の美大を目指すことに決めたんだ。向こうの高校に編入して、美術予備校に通う。だから、来月の終わりに引っ越すことになった」


 息が、止まった。来月。東京。転校。

 あの冬、彼が上の空で難しそうな顔をしていた理由。進路調査票が白紙だった理由。親についていくか、残るか、そして自分の本当の夢にどう向き合うか。彼はずっと、人生の大きな岐路に立たされて一人で悩んでいたのだ。


「本当は……もっと早く、ちゃんと伝えるつもりだったんだ。俺たちが別れる前に、誰よりも先に恵実に話さなきゃいけなかったのに」

 健斗の目は、ひどく穏やかで、そしてどうしようもなく悲しそうだった。


「言うのが、怖かったんだ。遠距離になるって伝えたら、恵実がパニックになって泣くのがわかってたから。……ただでさえ恵実は不安がって、俺を試すようなことばかりしてたから。そんな時に『東京に行く』なんて不確定な状態で言ったら、もっと恵実を追い詰めてしまうと思ったんだ」

 私は彼から目を逸らすことができなかった。

「だから、俺の東京での住む場所とか、予備校とか、不安要素を全部なくしてから『大丈夫だよ、これから一緒にどうするか考えよう』って……そう言おうと、思ってたのに」


『今、すぐ隣にいる俺のことすら信じられないのに、見えない未来のことなんて信じられるわけないだろ』


 あの大喧嘩の日の言葉が、まったく別の重みを持って蘇る。

 彼は、不安な未来を見据えながら、必死に私を守ろうとしてくれていたのだ。他人に期待せず壁を作っていた彼が、私とのことだけは真剣に悩み、向き合おうとしてくれていた。


 それなのに、隣にいる距離でさえ彼を信じられず、ヒステリックになる私が、遠距離恋愛なんて耐えられるはずがない。彼は残酷なまでに正しい計算で、私との関係を見限ったのだ。

 もし私が、手軽な安心感ばかりを求めず、もっと深く彼を信じることができていたなら。彼が打ち明けられるような、安心できる彼女でいられたなら。

 私が全部壊した。自分が傷つきたくないという身勝手な疑心暗鬼だけで、彼が発していた不器用なサインをすべて無視して、一人で勝手に自滅したのだ。


 本当は、彼に縋り付いていないと自分の足で立つことすらできない、ただの醜い弱虫だった。

 あの日のカフェ。サクサクのメレンゲの土台を、上に乗ったマロンクリームの重みが押し潰してしまった、あの不格好なモンブラン。

 自分の不安や執着という重すぎるクリームを彼にべったりと塗りたくり、彼という優しくて脆い土台を無自覚に押し潰そうとしていたのは、他の誰でもない私自身だったのだ。


 喉が痙攣したようにひきつり、うまく声にならなかった。涙がボロボロと溢れて、止まらない。

「ごめんなさい……私、最低だった。健斗のこと、全然信じられなくて、勝手に疑って……自分のことばっかりで……全部、私のせいだ。ごめんなさい……っ」


 健斗は少しだけ困ったように微笑んで、私の頭にポンと優しく手を乗せた。あの冬の日、バスケットボールから一番弱い子を守った時と同じ、大きくて力強い手のひらの温度だった。


「恵実のせいだけじゃないよ。俺も……嫌われるのが怖くて、大事なことから逃げてただけの、ただの弱虫だったんだ。……今まで、ありがとう。恵実と過ごした時間、すごく楽しかったよ」


「……いかないでよ」

 口をついて出たのは、またしても醜悪な本音だった。行かないで。私を置いていかないで。

 でも、伸ばしかけた私の手は、空を切った。健斗は一歩だけ後ろに下がり、明確な境界線を引いたのだ。今更どの面を下げて彼に触れられるというのか。私が彼を信じられず、彼が必死に作ってくれていた土台を粉々に踏み躙ったのだから。


「……ごめん。ううん、なんでもない。……健斗、向こうでも、元気でね」

 血の味がするほど唇を噛み締め、私は震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。

 健斗は「うん、さようなら」と、これまでのすべての執着を断ち切るような静かな声で言い残し、二度と振り返ることなく歩き出した。


 健斗がこの街を去る、春の朝。

 テーブルの上には、昨日コンビニでやけ食いしようと買ってきた、安っぽいプラスチック容器に入ったモンブランが手付かずで置かれている。

 私は自室の窓を開け、少しだけ温かさを増した春の風を感じながら、遠くに見える駅の方角を見つめた。午前十時。彼を乗せた新幹線が、この街を出る時間だ。


 私はテーブルの上のモンブランにフォークを突き立てた。重たいマロンクリームに押し潰された土台は、もうサクサクとした音を立てることもなく、無惨にぐちゃぐちゃに崩れていく。

 甘ったるい栗の匂いが鼻を突く。それを無理やり口に押し込むと、泣きたくなるほど安っぽくて、喉の奥が焼けるように甘かった。


「……さようなら」


 誰もいない部屋に落ちた声は、あまりにも空虚だった。彼との恋は、私が私自身の身勝手さと弱さを知るための時間だった、なんて綺麗事は言えない。ただもう一度、私に甘く触れてほしい。あの頃に戻りたい。


 私はきっとこれからも、ショーケースのモンブランを見るたびに、油絵の具の匂いを嗅ぐたびに、彼の大きくて温かい手と、不器用な笑顔を思い出しては立ち竦むのだろう。

 もう二度と手が届かないとわかっているのに。彼が新しい街で、私ではない誰かにあの優しさを向けるのだとわかっているのに。


 それでも私は、彼に守られていたあの甘く微睡むような時間から、一生抜け出すことができない。彼という存在に、彼という抜け出せない甘い記憶の泥沼に、私はただ、裸足のまま沈んでいく。


 ——————————————————————————————


【あとがき】

 恋愛小説は読むのも書くのも苦手で、今回初めて書きましたので、

 出来は良くないと思います笑

 便利なAIと、ボカロというきっかけがなければ、絶対書かなかった作品です。

 「強虫モンブラン」? 「ひろゆき」? 何のことだか私には分かりません。


【さらに追記】

 書き終えてから、すでに公式ノベライズ版があったことに気が付きました。

 今度絶対読みます笑


「弱虫モンブラン (上) (ボカロ小説)」

 櫻川さなぎ (著), 株式会社インターネット (監修), akka (イラスト), DECO*27 (その他)

 https://amzn.asia/d/00dCWjdJ

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