右に曲ガール
本作はボカロP「はるふり」様の「右に曲ガール」のオマージュ作品です。
<本家様>
https://www.youtube.com/watch?v=7gnmQFFiBok
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/52467.html
——————————————————————————————
中学生の生態系において、最も重要なスキルは何か。
それは「目立つこと」でも「勉強ができること」でもない。いかに「無難にやり過ごすか」である。少なくとも、当時の僕はそう確信していた。
僕、伊藤と、石川さんは、中学1年と2年のとき同じクラスだった。
苗字の五十音順という、学校生活における絶対的な運命共同体において、「い」から始まる僕たちは、何かと席が近かったり、グループワークで同じ班になったり、日直のペアを組まされたりした。必然的に言葉を交わす機会は多かったが、彼女の印象を一言で表すなら「ステルス機能搭載の女子」だった。
例えば、2年の時の合唱コンクール。彼女はピアノの伴奏を務めていた。伴奏というのは本来ならある程度目立つポジションだが、彼女が積極的に手を挙げたわけではない。クラスでピアノを習っていたのが彼女だけだったから、他薦で選ばれたのだ。彼女はそれを嫌がることもなく引き受けたが、よくいる女子のように練習で皆を仕切ったりすることは決してなく、あくまで伴奏という影の役割に徹していた。
背は低く、華奢。少しだけ赤みがかった髪を、いつも長いポニーテールに結んでいる。自己主張という概念を持たずに生まれてきたかのように大人しく、気優しいけれど、決して自分から前に出ることはない。
女子特有の複雑なグループ内でも、彼女は常に定位置をキープしていた。彼女の生存戦略は「相槌」である。視線を相手の鼻先や机の木目あたりにぼんやりと落とし、「へえ」「そうなんだ」「たしかに」という三種の神器を完璧なタイミングで繰り出す。
そんな彼女のスキルが最も発揮されていたのが、毎朝のホームルームで行われる『1分間スピーチ』の時間である。
あれは思春期の生徒にとって残酷な儀式だった。適当すぎると教師に怒られ、真面目すぎるとクラスメイトに冷やかされる。
しかし石川さんは、その極意を知っていた。
「えっと、今日の朝ごはんは、食パンでした。私は普段、ご飯よりパン派です。なぜかというと、朝はあまり時間がないからです。パンならトースターで焼くだけで食べられます。今日はマーガリンを塗りましたが、本当はイチゴジャムの方が好きです。でも、冷蔵庫のジャムを切らしていたので仕方なくマーガリンにしました。少し焼きすぎて端が焦げてしまいましたが、それなりに美味しかったです。明日はお母さんに頼んで、イチゴジャムを買っておいてもらおうと思います。これで私のスピーチを終わります」
……誰も傷つけず、誰の記憶にも1ミリも残らない。きっちり時間を使い切りながら、3分後にはクラスの全員が忘れているような、完璧に計算された無難な内容。彼女はいつも、そうやって見事に教室の空気に擬態していた。
一方の僕はといえば、目立たず無難にやり過ごしたいと思いつつも、時折ちょっとした賢さや面白さをアピールしようとして、よく自爆していた。
「えー、本日のスピーチですが。みなさん『ゲシュタルト崩壊』って知ってますか。同じ漢字をずっと見てるとバラバラに見える現象ですけど、あれ、言葉の意味でも起きるらしいんですよ。毎日『おはよう』って言ってると、ただの音にしか聞こえなくなるっていうか。……だから今朝、親に試しに『おわかれ』って言ってみたんですけど、ええ……まあ、普通に『あんた寝癖ついてるわよ』ってスルーされました。……ははは。人間の思い込みって怖いなっていう……はは。……ちょっとした実験でした。あ、はい……それだけ。以上ですけど……」
自分ではちょっと気の利いた視点を見つけたつもりでドヤ顔で語った結果、教室に訪れたのは、息も出来ない位の真空だった。鼓膜と両の膝が震えるような、絶妙に白けきった痛々しい静寂。顔から火が出るどころか全身が灰になりそうな僕を、石川さんだけは、なぜか少しだけ口角を上げて見つめていた。普段は机の木目に視線を落としている彼女が、あんなふうに笑うのを、僕は後にも先にもあの時しか見たことがない。
僕が彼女によく話しかけていたのには、もう一つ理由があった。
当時、僕には意中の女子がいた。彼女は吹奏楽部で、石川さんもまた同じ吹奏楽部だったのだ。
「石川さん、今日の部活って休み? いや、俺の友達が吹奏楽部のやつに用があるらしくてさ」
「……そうなんだ。今日は全体練習だよ」
僕は、自分をクラスの空気を読み、賢く立ち回っている存在だと思っていた。石川さんには気づかれないよう、間接的に、しかし巧妙に意中の彼女の情報を引き出しているつもりだった。
だが、あのスピーチの時の笑みを思い出すと、今にして思えば僕の浅薄な下心なんて、彼女には完全にバレていたのだろう。
誰かが決めた正解をなぞり、波風を立てないように毎日をやり過ごす。そんな風に息を潜めるような日々が、中学校生活のすべてだった。
石川さんが学校に来なくなったのは、3年生になってからのことだ。
3年生の春。クラス替えによって、僕と石川さんの「苗字が近い」という細い糸はあっさりと切れた。
僕の日常は、部活の最後の大会、塾の夏期講習、そして本格化する受験勉強という中学生の王道ルートに完全に飲み込まれていった。
石川さんの不在を明確に意識したのは、秋風が吹き始めた頃だった。
休み時間の教室で、性格の悪い女子たちが楽しそうにヒソヒソ話を展開していた。
「ねえ、石川さんの『目撃情報』、聞いた?」
「あー、駅前でしょ? なんか髪の毛赤くして、ヤバい格好してたってやつ」
「ウケるんだけど。誰かにハブられて学校来れなくなったくせに、何デビューしてんのって感じ」
「もともと大人しすぎて逆に浮いてたしねー」
中学生の噂話というのは、無責任で、底意地が悪く、そして何より残酷だ。
そんな噂話を耳にしながら、かつて少しだけ関わりのあった僕はどうしたか。
結論から言うと、何もしなかった。
本当の理由を知るすべもなかったし、知ろうともしなかった。
僕は、自分の中で彼女の不在に理屈をつけ、綺麗に片付けていた。
結局のところ、石川さんは教室という閉鎖空間でのサバイバルに失敗したのだ。息を潜めてやり過ごすには、この場所は少しばかり息苦しすぎたのだろう。ドロップアウトする人間が出てもおかしくはない。
……そんなふうに、いかにも達観したような分析をして自己完結していた。
とりあえず普通科の高校に進学して、無難な進路を選ぶこと。周りの空気に流されて、なんとなくみんなと同じ道を進むこと。それが当たり前の正解だと思って、深く考えずに参考書を開き、何となく焦燥感に駆られるフリをする。
当時の僕たちは、皆が何かに酔ったように思考を停止させ、ただダラダラと足並みを揃える、ある種の酩酊状態だった。僕はそのぬるま湯のような波に身を任せることに、安心感を抱いていたのだ。
そして、季節は冬になった。
息を吸い込むと肺が痛くなるような、12月の凍てつく日曜日の朝。
その日、僕は市の中央駅前にある大手進学塾の本校へ、志望校判定の直前模試を受けに向かっていた。
すっかり受験生ヅラが板についた男友達数人と連れ立って、電車に揺られる。車内は僕たちと同じように、単語帳を開いたり、イヤホンで英単語の音声を聞いたりしている、黒や紺の地味な冬服を着た中学生たちで溢れかえっていた。
「終わったら駅前のマック寄ろうぜ」
「俺、ポテト全サイズ150円のクーポンあるわ」
そんな中身のないダラダラとした会話を交わしながら、電車が中央駅のホームに滑り込む。
プシューという音とともにドアが開き、僕たちは冷たい空気の待つホームへと吐き出され、改札を抜けて広大なペデストリアンデッキに出た。
僕が彼女を『目撃』したのは、まさにその瞬間だった。
直前模試の会場である塾の本校は、デッキを左に向かった先にある。
見渡す限り、黒や紺のダッフルコート、あるいは指定の冬服を着込んだ中学生たちが、まるで目に見えないベルトコンベアに乗せられているかのように、一様に左へと流れていく。そこには受験生特有の切羽詰まった空気が漂い、均一に響く何百人ものスニーカーのくぐもった足音が、僕たちの歩くペースを強制的に揃えていく。
僕も友人たちと他愛のない会話を続けながら、当然のように左へ曲がろうとした。
その時だった。
前方を歩く集団の中に、ひときわ強烈な違和感を放つ人物がいた。
ちょうどデッキの緩やかなカーブに差し掛かったとき、ふとその横顔が見えた。初めは、全く誰だか分からなかった。一緒に歩いていた友人たちが誰も気が付いていないのも無理はない。
鮮やかに赤く染められた髪。かつては指定のジャージを少し大きめに着て自分の輪郭をぼかしていたはずの小柄な身体を、今はぴったりとフィットした黒革のジャンパーと細身のジーンズが覆っている。
曇り空の下、無彩色の冬服の群れの中で、彼女はまるでモノクロ映画に突然迷い込んだ極彩色の異物のように、鮮烈なコントラストを放っていた。彼女の履く黒いブーツの硬いヒールが、均一な波の音を切り裂くように不規則なリズムを刻んでいる。
ただ一つ、変わっていなかったのは――その低い背丈と、歩くたびに背中で揺れる長いポニーテールのシルエットだけだ。
(……これが、あの『目撃情報』)
無意識のうちに息を呑んでいた。
赤い髪に黒い革ジャン。噂通りとはいえ、あの「1分間スピーチ」を完璧にやり過ごした無難の達人である彼女と、目の前の強烈な姿がどうしても結びつかない。僕はあまりのギャップに戸惑い、無意識のうちに足を止めていた。
皆が「左」へ、「左」へと吸い込まれていく中、その少女だけは誰の目も気にすることなく、一人ずんずんと「右」へ向かって歩いていく。右へ向かうということは、幾重にも重なる黒と紺の人波を真横に横断し、ぶつかってくる肩や鞄を避けなければならないということだ。しかし彼女の足取りには、一切の躊躇いがなかった。
「あ、悪い。俺、ちょっと野暮用思い出した。先行って席取っといて」
僕は友人たちにそう言い残すと、引き止める声も聞かずに人の流れから外れた。
「おい、伊藤! どこ行くんだよ!」という友人の声を背中に受けながら、人波を逆行するように掻き分け、右へと遠ざかるその小さな背中を衝動的に追いかけていた。
僕は小走りで距離を詰め、その背中に向かって声をかけた。
「石川さん。……石川さんだよね?」
彼女は喧騒の中でぴたりと足を止めると、初めてくるりとこちらを振り向いた。
間近でその顔を見て、僕は一瞬、言葉を失った。
僕の記憶の中にある石川さんは、常に伏し目がちで、すっぴんの素朴な顔立ちだった。しかし、目の前にいる彼女は、目元にアイラインを引き、唇には薄く赤いリップを乗せていた。決して派手すぎるわけではないが、その洗練されたメイクは、彼女に近寄りがたい雰囲気を纏わせていた。
何より僕を圧倒したのは、その視線だった。
かつて相槌を打つとき、常に僕の鼻先や机の木目に焦点をぼかしていた彼女が、今は逃げも隠れもしない、意志を持った真っ直ぐな瞳で僕の目を射抜いていたのだ。
彼女はきょとんとした顔で僕の顔を見つめ、やがて小さく首を傾げた。
「……伊藤くん?」
その声のトーンは、間違いなく僕の知っている石川さんのものだった。
「あ、うん。ちょっと、ここだと邪魔になるね」
僕の提案で、僕たちは人波から外れ、デッキの端にある案内板の横へと移動した。
直後、彼女の口元から近寄りがたい雰囲気がふっと崩れ、かつて僕がスピーチで絶妙に白けた空気を作ったときに見せたような、あの少し困ったような、それでいて可笑しそうな笑顔が浮かんだ。
「久しぶりだね」
「あ、うん。久しぶり……」
まともな返しができなかった。頭の中で、教室にいた頃の地味な彼女と、目の前の彼女のイメージが激しくショートを起こしている。
「石川さん、なんか……雰囲気、めちゃくちゃ変わったね」
やっとの思いで絞り出した僕の言葉に、彼女は自分のジャンパーを指でつまんで見せた。
「あはは、これ? ちょっと派手すぎたかな。バンドの先輩たちの真似して、自分で買ってみたんだ」
「先輩?」
「うん。春からちょっと色々あってさ、学校には行ってないんだけど。今、フリースクールみたいなところに通ってて、そこでバンドに入れてもらったんだよね」
バンド。石川さんが。
「元々ピアノ習ってたからキーボードなら弾けるかもって思って。最初は全然ついていけなかったけど、今はすっごく楽しいよ」
あっけらかんと語る彼女の姿には、悲壮感や暗さは微塵もなかった。むしろ、初めて自分の肺で新鮮な空気を吸い込んでいるような、清々しい生命力に溢れていた。
「伊藤くんは? これからどこか行くの?」
「ああ、俺はあっち」
僕は親指で、巨大な塾のビルがそびえ立つ左側を指差した。
「直前模試。多分、この辺を左に歩いてるやつらは、全員そうだと思うけど」
僕の言葉を聞いて、彼女はデッキを行き交う黒や紺の冬服の群れをぐるりと見渡した。同じ方向へ、同じリズムで歩いていく同世代たち。
彼女は「そうだったんだね」と、どこか遠い世界のことのように呟き、また少しだけ苦笑いをした。
「私はね、今日はあっちに行くの」
彼女は、皆の流れとは正反対の、右側を指差した。
「右のビルの地下にライブハウスがあるんだけど、今日は先輩たちのバンドが出るから、それを見に行こうと思って」
右側。多くの人間が目指す方向とは逆。
そこは、周りの空気を読んだり、無理をして誰かに合わせたりする必要のない、彼女が新しく見つけた居場所なのだ。
「……そっか。なんか、すごいな。石川さんがバンドなんて」
僕が素直な感想を漏らすと、彼女はふふっと笑い、少しだけイタズラっぽい目つきになった。
「実はさ。私、学校行かなくなったとき、一瞬だけ伊藤くんに相談しようかなって思ったことあったんだよね」
「えっ、俺に?」
思わず声が裏返った。
「なんでまた俺に? ていうか、そもそも俺の連絡先なんて知ってたっけ?」
「クラスのグループLINEがあったでしょ。それに、2年の時の文化祭の買い出しの係で、一度だけ私のほうから電話したことなかった?」
言われてみれば、そんなこともあったような気がする。だが、それにしたって不思議だ。
「なんで俺だったの?」
「うーん……」彼女はポケットに両手を突っ込み、少し言葉を探すような素振りをした。「伊藤くんは、あの教室の中で、誰よりもうまく『息を止める方法』を知ってるように見えたから」
「息を止める?」
「そう。本当は周りの空気に合わせるのがしんどいのに、無理して面白ぶったり、空気を読んだりして、なんとかやり過ごしてる。面白くない時でも愛想笑いして一番に拍手してたでしょ?
伊藤くんなら、どうやったら息を止めたまま毎日をやり過ごせるのか、教えてくれるんじゃないかって」
その言葉は、冬の冷たい風よりも鋭く、僕の胸の奥の最も痛いところを正確に突いた。
僕は自分のことを、うまく立ち回る器用な人間だと思い込んでいた。だが、彼女にはとうに見透かされていたのだ。僕が決して賢かったわけではなく、ただ傷つくことを恐れ、本心を隠して周りに同調しているだけの臆病者に過ぎないということを。
そして彼女が結局、僕に相談してこなかった理由もわかる気がした。
彼女は、息を止めてやり過ごす生き方をやめたのだ。僕に相談したところで、僕はまた「うまく息を止める方法」しか教えられなかっただろう。僕は徹頭徹尾、周りの空気に同調して流される側の人間なのだ。
「……あれ? ひょっとして、ちょっと俺のこと馬鹿にしてる?」
図星を突かれた気恥ずかしさを誤魔化すように、僕がわざとふざけた調子で尋ねると、彼女は悪びれる様子もなく笑った。
「うん、馬鹿にしてる」
あっけらかんと言い放つその笑顔には、かつての卑屈さや翳りは一切なく、僕たちの間には不思議なほど心地よい、風通しの良さがあった。
ふと、冷たい風が吹き抜け、受験生たちの集団が発する足音のざわめきが再び鼓膜を打った。
僕は左腕を上げ、コートの袖から覗く腕時計に目をやった。
針は、模試の開始時刻まであと20分を切ったことを示していた。今すぐ踵を返して、あの左へ向かう無機質な波の中に戻らなければならない。
けれども、僕はなぜか、このままずっとこの場所に立ち止まって、もう少しだけ彼女と話していたいと願っていた。
僕の視線が腕時計に落ちたことに気づいたのだろう。
石川さんは「あ、もう行かなきゃだよね」と一歩後ろに下がった。
何か気の利いた引き留める言葉を探した。だが、僕には彼女をこの場に留める理由もなければ、自分の予定をすっぽかして「右」へ一緒について行くような突拍子のなさもなかった。
「そんな訳で、私はけっこう楽しくやってるから」
彼女は僕の曖昧な態度を察してか、にかっと白い歯を見せて笑った。
「模試、伊藤くんも健闘を祈るよ」
誰に媚びるでも、誰に合わせるでもない。かつての『相槌の達人』からは想像もつかないほど堂々とした、あっさりとした別れの言葉だった。
「うん……石川さんも、バンド楽しんで」
「サンキュ。じゃあね」
彼女は小さく手を振ると、迷いのない足取りでくるりと背を向けた。
そして、塾へと向かうためデッキを左へ進む大勢の受験生たち――黒や紺の冬服の波――に背を向け、彼女は右手の連絡階段へと向かう。
右手のビルの地下。ネオンと裸電球のオレンジ色の光が漏れる暗がりへ向かって、彼女は一人、ずんずんと歩いていく。
すれ違う生徒たちの何人かが、不思議そうに彼女の赤い髪と黒革の背中を振り返っていた。だが、彼女はそんな視線など一切気にする素振りも見せない。
群れから外れ、何となく進んでいた道から外れ、それでも彼女の足取りは、誰よりも自由で、誰よりも力強かった。
その小さな背中が薄暗い階段の底へと吸い込まれ、完全に見えなくなるまで、僕はその場から一歩も動くことができなかった。
僕は小さく息を吐き出し、冷たい風と均一な靴音が響き渡る波の中へ、再び自身の身体を沈めた。
重い足を引きずりながら、僕自身の日常がある左側の巨大なビルへと歩き出す。
無意識のうちに、僕はきっちりと上まで留めていたダッフルコートの一番上のトグルを外した。冷たい冬の風が首元に滑り込んできたが、不思議と先ほどよりも少しだけ、息がしやすかった。
白々しい蛍光灯の光が待つ息苦しい教室へ戻りながら、僕の胸を痛いほどに支配していたのは、暗がりへと消えていった彼女の鮮烈な背中に対する、どうしようもないほどの「羨望」だった。




