綻び(旧作)
経理部のフロアに姿を現すと、いつも通りに静かな緊張感が走った。社内では「鉄壁の女」と密かに呼ばれている。四十五歳、未婚。年齢を感じさせない、むしろ歳を重ねるごとに磨きがかかっているような端正で冷やりとした美しさを持っているが、誰に対しても一定の距離を崩すことはない。締め切り直前の各部署からの無茶な経費精算にも、突然の税務署の調査にも、眉一つ動かさずに完璧な処理をやってのける。恋愛や結婚といった世俗的な話題には一切興味を示さず、歓送迎会などの飲み会でもプライベートな質問はすべて冷ややかに、しかし角を立てずに受け流してきた。そのため、給湯室や喫煙所では「あんなに綺麗なのにもったいない」「結婚願望ゼロの完全な変わり者」と囁かれることも少なくなかったが、他人の評価など塵ほども気にしていなかった。自分は一人で、誰にも寄りかかることなく完璧に生きていける。それで十分だ。それ以外に望むものなど何もない。
その完璧な日常に生じた、たった一つのイレギュラーな手続き。
長らく市内の総合病院に入院していた、母親の死。
忌引き休暇明けの月曜日の朝。何事もなかったかのように、いつもと同じ時間に、いつもと同じ糊のきいた白いブラウスと体にぴったりと合ったグレーのタイトスカート姿で出社した。総務部への「慶弔届」と「死亡診断書のコピー」の提出はすでに抜かりなく済ませ、規定通りに振り込まれる五万円の弔慰金の確認も終えている。親戚も呼ばず、身内だけで済ませた最も合理的な直葬。デスクの上には、五日間の不在の間に高度な処理を待って取り置かれていた複雑なイレギュラー案件のファイルが積まれていたが、それを見ても心は凪のように静かだった。驚くほど空気が澄んで感じられる。何て清々しい朝なのだろう!
「川原さん、お疲れ様。大変だったね。無理しないでね」
朝一番、経理部長や同僚たちが気遣わしげに声をかけてきたが、キーボードの上で踊らせていた指を止めず、かすかに口角を上げるだけの愛想笑いを浮かべて答えた。
無理しないでね、ですって?
「ありがとうございます。でも、元々そんなに仲の良い親子じゃなかったんで。むしろ、ずっと病院通いだったのが終わって、ホッとしてるくらいなんですよ」
その言葉に、嘘や強がりは一切混じっていなかった。母親は、昔からヒステリックで、皮肉屋で、過干渉で、世間が思い描く「優しくて温かいお母さん」とは対極にいる人間だった。見舞いに行けば必ず小言や嫌味を言われ、顔を合わせれば些細なことで口論になった。だから、病院から深夜に「血圧が急低下している」という電話を受けた時も、胸に去来したのは悲しみではなかった。ああ、ついにこの日が来たか。これでようやく終わる。どっと押し寄せる疲労の奥で、自分を縛り付けていた重たい鎖が外れるような解放感を確かに味わっていた。母親との関係は決して美しいものではなかったのだ。心は今、長年の呪縛から解き放たれ、ようやく自分だけの人生を静かに生きられるという安堵に包まれていた。
午前十時を過ぎた頃、オフィスに響くのは、空調の低い唸り声と、誰かが電卓を弾くリズミカルな音、そして複合機が書類を吐き出す機械音だけになっていた。ただ無心に、エクセルのセルに数字を打ち込み続けている。
「ああ、もう。エアコンで手がカサカサになりますね」
ふと、隣の席に座る若い女性社員が小さなため息をつき、引き出しから何かを取り出す音がした。蓋を回して開ける音。続いて、手のひらを擦り合わせる音が聞こえた瞬間、独特な、少しツンとする匂いがフワッと鼻腔をくすぐった。
タイピングの手が、一瞬だけピタリと止まる。
それは、ビタミンと樟脳が混ざり合ったような、昔ながらの黄色い薬用ハンドクリームの強烈な匂い。ドラッグストアの特売コーナーに必ず積んであるような、決して洗練されているとは言えないその匂いは、一瞬にして意識を二十年以上前の実家の洗面所へと引きずり込んだ。
『女のくせに、手の甲の手入れもまともにできないのかい。そんなんじゃ、一生嫁にだって行けないよ!』
ヒステリックな甲高い声が脳裏に蘇る。母親は、水仕事やパートの掃除仕事でいつも手を荒らしており、冬場になると決まってその黄色いクリームを、あかぎれだらけのガサガサの指に擦り込むように塗りたくっていた。実家の洗面所は、いつもその強烈な薬の匂いが充満していた。「女のくせに」「だらしない」と繰り返す母親に対して、高校生だった自分はいつも苛立ち、『臭い! 近寄らないでよ! そんなベタベタした手で私のタオル触らないで!』と冷たく突き放していた。
キーボードの上で不自然に止まっている、自分の手を見つめた。白く滑らかで、定期的にサロンで手入れされ、高い保湿クリームで保護された美しい手。自分がこれほどまでに身なりを完璧に整え、他人に依存せず完全に自立した人間として生きているのは、あの「みっともなくて、余裕がなくて、ヒステリックな母親」に対する猛烈な反発があったからだ。絶対にあの人のようにはならない。誰の世話にもならず、誰の文句も聞かず、自分の力だけで生きていく。その強烈な思いが、今の「鉄壁の女」を作り上げたのだ。
もう、あの理不尽な小言を聞かなくて済む。あの安っぽい匂いも、実家の湿った空気も、もう永遠に自分の人生には関わってこない。
そう強く言い聞かせ、微かに波立った心を強引に沈めると、再び冷たい無表情を取り繕って仕事に戻った。しかし、自分でも気づかないほどの微細な亀裂が、鉄壁のはずの心に確実に入り始めていた。
昼休みを挟み、午後になっても処理速度は落ちない。相変わらず無機質なオフィスには、一定のテンポで業務が流れる音だけが響いている。
午後三時を少し回った頃、営業部の若い男性社員・高橋が、少し申し訳なさそうな、それでいて人懐っこい笑みを浮かべて経理部のフロアにやってきた。その手には、中身がゴロゴロと不格好に膨らんだビニール袋が提げられている。
「経理の皆さん、いつもお疲れ様です。これ、実家の愛媛からみかんが段ボールで大量に送られてきちゃって。小分けの袋に入ってたんで、このまま皆さんでお裾分けにどうぞ」
高橋はそう言って、デスクの横にある小さな打ち合わせ用のテーブルに袋を置いた。しかし、中のみかんが転がり出るのを防ぐためか、親の仇のように固く、ガチガチに結ばれていた。
「あ、すみません。実家の親が結びすぎちゃったみたいですね。あれ、全然解けないな……川原さん、これハサミで切っちゃうんで、ちょっとハサミ借りてもいいですか?」
苦笑いしながら結び目と格闘する高橋を見て、キーボードから手を離し、静かに首を振った。
「そのままでいいですよ。ハサミ使わなくても、それ、簡単に解けるので」
椅子から立ち上がり、高橋から袋を奪うように受け取った。そして、何も考えず、手元をじっくりと見ることもなく、ごく自然な動作で結び目の端――持ち手の片方――を指先でくるくると力強くねじり始めた。柔らかいビニールが一本の固い棒のようになると、ガチガチに固まった結び目の中心に向かって、スッと力強く押し込む。あんなに固く、どうにもならなかった結び目が、嘘のようにあっさりと緩んでいく。
「うわ、すごい! 何ですかその裏技! めちゃくちゃ簡単じゃないですか!」
感心して声を上げる高橋の言葉が、ひどく遠く、水の中から聞こえてくるように響いた。緩んだ結び目を見つめたまま、指先がピタリと止まる。
「ありがとうございます、いくつかデスクに置いておきますね」
無邪気に笑い、みかんをいくつか置いて去っていく高橋の背中を見送った後も、すぐには席に座ることができなかった。パソコンのモニターに向き直り、再びキーボードに指を置こうとしたが、自分の指先が、微かに強張って震えていることに気づく。指の腹には、先ほど強くねじった安っぽいビニールの摩擦の熱と、かすかな痛みがまだ生々しく残っていた。
モニターの脇に置かれた、だらしなく口を開いた袋をふと見つめる。
なぜ自分は、息を吐くように無意識に、あんな裏技を使えたのか。
思考が、不意に過去の深い底へと引きずり込まれる。
そうだ。あの裏技は、母親のせいだ。
母親は、異常なほど神経質で、何でもかんでもきつく縛らなければ気が済まない人だった。キッチンの生ゴミの袋も、食べかけのポテトチップスの袋も、実家から不定期に送られてきた趣味の悪い洋服の小包も。母親が結んだ袋は、いつも指がちぎれそうなほど固く、狂気じみた力で結ばれていた。「ハサミで切ればいいじゃない」と文句を言えば、「袋がもったいない! だらしなく開けておくよりマシでしょ!」とヒステリックに怒鳴り返された。毎回毎回、その理不尽なまでの指先の力と神経質さにウンザリさせられながら、いつしかネットで調べたあの「ねじって押し込む裏技」を習得し、息をするように無意識に行えるようになっていたのだ。
あれは、単なる生活の知恵などではない。面倒で、神経質で、干渉してくる母親に対処し、やり過ごすための自衛手段だった。指先が、あのねじって押し込む時の嫌な感触と、その度についていた『お母さん、またこんなに固く結んで……ホント嫌になる』という重いため息の記憶を、細胞レベルで完璧に記憶していた。
指先に残る微かな痛みが、午前中のハンドクリームの匂いと混ざり合い、否応なしに病室での最後の記憶を引きずり出した。
亡くなる数日前。もうほとんど意識も混濁し始めていた病室のベッドで、母親がふいに、手を握ってきた時のことだ。
あの時、何より驚き、目を背けたかったのは、母親の握力がひどく弱々しかったことだった。あんなに何でもガチガチに結び目を作っていた、血管の浮き出たゴツゴツした太い指。ハンドクリームをすり込んでいたあの指。それが、まるで水分を失った枯れ枝のように、力なく包み込んできた。
しかし、荒い呼吸の間から漏れ出る言葉は、相変わらずの憎まれ口だった。
『あんた、結婚はどうするの……いつまでも一人で意地張って。私がいなくなったら、誰があんたの面倒を見るっていうのよ……』
四十五歳。とうの昔に自分の中で完全に折り合いをつけ、不要なものとして切り捨てている結婚の話を、母親は最期まで手放そうとしなかった。一人で生きていくと決めている娘に対し、病床にあってもなお小言を言い続けた。その時も、手を握り返すことはしなかった。「今さら何言ってんの。大丈夫だから、無駄なこと喋ってないで寝ててよ」と、いつも通りに冷たくあしらった。それが、正しい大人の距離感であり、自分たち親子の変えられない関係性だと思っていたからだ。
モニターの脇にある、大きく口の開いたビニール袋。
それを見つめているうちに、胸の奥で、これまで頑なに閉ざされていた巨大な扉が、カチリと音を立てて開いてしまった。
あんなに狂ったように固く結ばれていた袋は、単なる神経質さではなかったのではないか。それは、母親なりの強烈な執着の表れだったのではないか。
病室でのあの煩わしい小言もそうだ。弱り切った枯れ枝のような手で握り、絶対に叶わないと分かっている娘の結婚に最期まで執着し続けたのは、周囲から浮いてでも一人で生きようとする不器用な娘を、この世界にどうにかして繋ぎ止めようとする、あの人なりの必死の祈りだったのではないか。
もう、あの狂ったように固い結び目を見ることはない。
自分の人生に口出ししてくる、あの煩わしくてヒステリックな声を聞くこともない。
自分の手を握る、あのひどく頼りない、カサカサとした枯れ枝のような感触も、もう二度と味わうことはない。
私は、ずっと、あんなに鬱陶しいと思っていたあの干渉を、心の底で最大の拠り所にしていた。反発することで自分という輪郭を保ち、どんなに冷たく突き放しても絶対に自分から離れていかないその愛情に、完全に甘えきっていたのだ。
ああ、私は。あんなに面倒くさくて、大嫌いだったお母さんのことが、本当は。
何て愚かだったのだろう! 私はそんなことにも気が付かなかったのだ!
母の死直後から感じていた心の凪。それは解放感などではなかった。あまりの喪失に耐えきれず、心が感覚を遮断していただけだったのだ。唯一自分を煩わしく縛り付けていた結び目が永遠に失われた今、私は本当の意味で、この世界にたった一人、投げ出されてしまった。
視界の端で、完璧に整列していたエクセルの数字が急速にぐにゃりと歪んでいく。
おかしい。悲しいはずなんてないのに。
慌てて何度も瞬きをして、キーボードを叩こうとした。しかし、震える指先は空を切るばかりでうまく動かない。一度決壊した涙は鉄壁の理性をあっさりと押し流し、もうどうやっても止まらなかった。突き放すのではなく、最期にもう一度だけ、あの枯れ枝のようなガサカサの手を、痛いほど強く握り返してあげればよかった。どうして、あんなに冷たく。猛烈な後悔が、波のように次から次へと込み上げてくる。
経理部のフロアには、コピー機が紙を吐き出す一定の稼働音と、誰かが電卓を叩く無機質な音、そして空調の低い羽音だけが響いている。誰一人として、心の中で起きている世界を揺るがすような崩壊に気づいてはいない。
嗚咽が漏れそうになる口元を両手で必死に押さえ、「……ちょっと、お手洗いへ」とだけ絞り出すように言い残し、椅子から立ち上がって足早に席を立った。同僚たちが不思議そうな顔で振り返るのが見えたが、気にする余裕はなかった。
廊下に出ても、涙は溢れ続ける。どこか、ただ一人になって、思い切り声を上げて泣ける場所はないか。
しかし、明るく清潔で、空調が完璧に効き、すべてが極めて合理的に回っているこの近代的なオフィスビルの中には、愛する人を喪った一人の女が、しゃがみ込んでみっともなく声を上げて泣くための暗がりなど、どこにも用意されてはいなかった。窓の外では、いつの間にか冷たい雨が降り始めており、ガラス窓を規則正しく濡らしていた。行き場のない悲しみを抱えたまま、白く無機質な廊下の真ん中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。




