帰省
新幹線のドアが開くと、まとわりつくような熱気が全身を包み込んだ。
東京から実家のあるこの地方都市へ帰省するのは、昨年の正月以来だった。お盆のピークを少し外して取った夏休み。入社三年目、大手商社で働く私にとって、この数日間の休みは、溺れかけている時にようやく掴んだ浮き輪のようなものだった。
実家で迎えてくれる家族のことは大好きだ。母は相変わらず私の好物ばかりを食卓に並べる。だが、高校時代ならペロリと平らげていた山盛りの唐揚げは、今の疲れた胃には少し重く、私は箸を進めるのに苦労した。父はそんなことには気づかず、テレビを見ながら穏やかに笑っている。居心地は良い。けれど、一歩外に出たこの「地元」という空間には、どうしても馴染めない。私にとってここは、良い思い出のある場所ではなかった。
東京の私立大学へ進学し、就職活動を死に物狂いで乗り切った。すべては努力の賜物だった。どうしてもこの息苦しい町を出たかったし、何より、私の必死さを鼻で笑った連中とは違う世界へ行きたかったのだ。
しかし、念願だったはずの商社での日々は、想像以上に私をすり減らしていた。終わりの見えないエクセルの修正、理不尽な社内政治、誰がやっても同じ社内外の調整業務。要領よく立ち回る同期たちへの焦り。巨大なシステムの中で、自分がいつでも交換可能な歯車に過ぎないという現実は、じわじわと心を削る。それでも「東京で、自分の力で居場所を作った」という小さなプライドだけが、今の私を辛うじて支えていた。
自室のベッドで横になっていると、鞄の中で業務用スマートフォンが短く震えた。お盆休み中も容赦なく届くメールの通知だ。ため息をつきながら画面を確認すると、週明けの会議に向けた急ぎの確認事項だった。私は無表情のまま、「承知いたしました。すぐに確認します」とだけフリック入力で返信し、手元にメモを取ろうと学習机の引き出しを開けた。
そこには、母が部屋を片付けた折に発掘して、無造作に突っ込んだらしい古いノートが入っていた。表紙が折れ曲がり、ページには英単語がびっしりと書き込まれているが、所々にゴミ箱から拾い上げた時についた泥のようなシミがこびりついている。それを見た瞬間、心の奥底で澱んでいた当時の惨めさと怒りがじわりと蘇った。さっきまで当たり前のように仕事のメールを捌いていた「東京の私」が、一瞬で無力な学生時代に引きずり戻される感覚。私は息が詰まり、逃げるように外へ飛び出した。
夕方、少しだけ日差しが和らいだ頃だった。どこかの家から漂ってくる蚊取り線香の匂いと、町内中に響き渡る夕方五時を知らせる防災無線のチャイム。けたたましいアブラゼミの声の中、見慣れた、しかしどこか縮んで見えた住宅街を歩く。遠くにはバイパス沿いの大型ショッピングモールの看板だけが虚しくそびえ、近所にあったはずのタバコ屋はとうの昔にシャッターを下ろしている。変わらない地元の停滞した空気に息苦しさを覚えながら、何気なく曲がった角の先で、ふと歩みが鈍った。
見覚えのある家があった。竹内康太の実家だ。
中学の頃、私をいじめていた男。
彼の加害は、ドラマチックなものではない。私が休み時間も必死に書き込んでいたあのノートをわざとゴミ箱に捨てたり、すれ違いざまに嘲笑したりといった、無自覚で些細な悪意の連続だった。彼らにとっては暇つぶしの気晴らし程度だったのだろうが、必死に勉強にしがみついていた私にとっては、自尊心を削られる明確な暴力だった。
高校が別々になってからは完全に縁が切れ、心底せいせいした。地元の友人からの噂では、康太は高卒で工場に就職し、相変わらずろくでもない日々を送っているらしい。
数年前に無口だった彼の父親が亡くなり、残された母親は祖母の介護で疲弊しきっているとも聞いていた。
目の前にある竹内家の一軒家は、庭の雑草が伸び放題になっていた。かつては手入れされていたはずの植木も無惨に伸び切っている。
そのまま通り過ぎようとした時、アスファルトに打ち付けられる水しぶきの音と、夏の夕立のような青臭い匂いが鼻を突いた。
荒れた庭の傍らの駐車スペースで、一人の男が車を洗っていた。
康太だった。首元のよれたTシャツを着て、日焼けした少し荒れた手で黙々とスポンジを動かしている。その姿と、綺麗にネイルを施した私の爪先や、手に握られたままの最新のスマートフォンが、どうしようもなく対比して見えた。
彼が洗っている車を見て、少し意外に思った。就職したての頃、彼はたしか黒のミニバンをフルローンで買い、車高を下げて地元でイキがっていたはずだ。しかし、今彼が丁寧に水滴を拭き取っているのは、少し古い型のクラウンだった。
目を伏せ、足早に通り過ぎようとした。関わる理由など何もない。
しかし、ホースの水を止めた彼が不意に顔を上げ、私と真っ向から目が合ってしまった。
「……あ、」
手からスポンジが落ちる。
蝉の声だけが響く中、生ぬるい風が、気まずい沈黙を抱えたまま二人の間を通り抜けた。
康太は濡れた手をズボンで無造作に拭いながら、気まずそうに視線を泳がせた。
「……お前、東京いるんだってな。元気そうじゃん」
何事もなかったかのように振る舞おうとするその態度に、私の奥底で冷たいものが渦を巻いた。
「ええ。君は相変わらず、地元にいるのね」
意図的に突き放すような「君」という呼び方と棘のある言葉に、康太の顔が微かに強張った。
「……親父が死んでさ。俺のミニバンは売っちまったんだ。維持費も馬鹿になんねえし」
聞いてもいないのに、彼は言い訳のように呟いた。かつての彼なら絶対に言わなかったであろう、生活の苦労を匂わせる言葉。
「じゃあ、その車も手放せばいいのに。軽自動車にでも乗り換えれば」
私の冷たい正論に、康太は古いクラウンのボディをそっと撫でた。
「……これ、親父がすげえ大事にしてたんだ。俺、無口な親父のこと、結構好きだったからさ……維持費がかかるのはわかってんだけど、これだけは、どうしても手放せなくて」
自嘲気味に笑う康太の後ろで、網戸越しに老婆の甲高い声と、それをたしなめる母親の疲れ切った声が微かに聞こえた。
かつて私の尊厳を平気で踏みにじったこの男も、自分の家族だけは大切にするんだね、と私は思った。その滑稽で身勝手な人間らしさに、ほんの少しだけ吐き気がした。
「そう」
私は、あえて感情を一切乗せずに短く相槌を打った。
すっかり小さくなってしまった彼を見て、私の胸の奥に「ざまあみろ」という暗い優越感が湧き上がったのは事実だ。だが同時に、泥臭い現実の中で家族のために自らの手を動かしている彼と比べて、東京のオフィスで画面上の数字をいじり、誰がやっても同じ調整業務ですり減っているだけの自分が、どれほど立派だというのだろうかという自己嫌悪もよぎった。
同情はしたくない。彼が今どんなに苦労していようと、私が受けた過去の傷が帳消しになるわけではない。
「君のことを許したわけではないけど」
「……うん」
「君もいろいろ大変だったんだね」
冷淡な距離感を保ったまま事実だけを認める私の言葉に、康太は微かに頷いた。そして、少しだけ躊躇うように顔を上げ、私を見た。
「お前は、楽しくやってるのか? 東京で」
その問いに、引き出しに押し込んだままの、鳴り止まない業務用スマートフォンのことがよぎった。終わらない社内政治、満員電車、すり減っていく神経。手放しで「楽しい」と言える日々ではない。
けれど、かつて私を嘲笑い、今はすっかり小さくなってしまったこの男の前で、弱音を吐くつもりは毛頭なかった。
「そうだね。まあ、楽しくやっているよ」
それは見栄であり、同時に、あの苦しい日々を乗り越えて自力で掴み取った私自身の「誇り」でもあった。私の言葉を聞いて、康太はどこか安堵したように、しかし自嘲気味に口角を上げた。
「そっか。それは何よりだ。……因果応報ってやつだよな。高校出てからも、碌なことしてこなかったしよ。結局、俺はここから一歩も動けてない」
自らを憐れむような康太の言葉に、私は何も答えなかった。「そんなことないよ」と慰めるのは簡単だが、それは無責任な嘘になる。彼の言う通り、これは彼自身が選んできた道の結果であり、因果応報なのかもしれない。過去の行いは消えないし、傷つけた事実も消えない。
だからこそ、私は彼を哀れむのではなく、ただ前だけを向くための言葉を口にした。
「これから頑張ればいいんじゃない」
康太がハッと息を呑むのがわかった。
「誰でも、これからしかないのよ」
冷たさと、ほんの少しの祈りを込めて言い放つと、私はもう二度と振り返ることなく歩き出した。
アブラゼミの鳴き声が、再び鼓膜を激しく揺らす。アスファルトで蒸発していく水道水の青臭い匂いが、夏の熱気とともに鼻腔を抜けていった。
東京に戻る新幹線の切符は、明後日の分を取ってある。あの息苦しい戦場に戻ることを思うと胃が重くなるが、不思議と、家を出た時よりも少しだけ背筋が伸びている気がした。
照りつける西日の中、私は自分の足元を見つめながら、確かに続く「これから」の道へと歩を進めた。




