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27/44

幸福な喧噪

 ※過去作と同じパターンの習作です。


 1

「ちょっと、また靴下脱ぎっぱなしなんだけど!」

 土曜の朝。洗面所の脱衣カゴの『横』に丸められた夫の靴下を見つけて、私はため息をついた。

「あー、ごめんごめん。後で入れようと思ってたんだよ」

 夫は歯ブラシを咥えたまま、悪びれもせずに頭を掻いた。

「昨日もそう言って忘れてたじゃん。なんであと三十センチ上のカゴの中に入れないかな」

「わかったって。あ、今日ボウリングだろ? もし帰り遅くならないなら、ボウリング場の隣にあるスーパーでプレモル買ってきてくれない?」

「……靴下カゴに入れたらね」

 私は呆れながらも、数時間後には「ごめんね」「いいよ」で終わるこの下らない口論が、たまらなく平和なものだと知っていた。

 帰ったら、冷えたビールを開けて、一緒にバラエティ番組を見ながら笑う。そんな、明日も当然のように同じ朝が来ると信じて疑わない、凡庸で愛おしい日常。それが私の世界のすべてだった。


 夫を家に残し、やってきたのはボウリング場だ。午後、貸し靴の紐を結び、ボールを選ぶときに昨日塗ったばかりの派手なピンクのネイルが剥がれないか気にしながら、私は朝の他愛ないやり取りからすっかり頭を切り替えていた。会社の労働組合が主催する親睦ボウリング大会。レーンには、休日のテンションではしゃぐ同僚たちの姿がある。



 2

「早瀬さん、マジで神です! 一生ついていきます!」

 私の背後で、営業部の若手エース・高橋くんが拝むように手を合わせていた。

「はいはい。約束通り、来週の社食は一番高い定食奢ってよ」

「もちろんです! 食後にスタバでフラペチーノもつけますから!」


 事の発端は数日前。社内の人気者である彼から「なんとか清水さんを休日のイベントに引っ張り出して、同じレーンにしてください!」と泣きつかれたことだった。

 人事部に所属している私は顔が広く、他部署の人間からもよくこういう頼まれごとをする。「えー、清水さん休日のイベントなんて絶対来ないよ。私に何のメリットがあるの?」と渋りつつも、既婚者特有の「いい歳して恋愛を避けるなんてもったいない」という傲慢なお節介が発動した私は、まんまと私より少し年上の清水さんを連れ出すことに成功していたのだ。


 清水さんは、経理部で働く中途入社の事務員だ。社歴で言えば私のほうが少しだけ長い。

 いつも白やネイビーのアイロンの効いたブラウスを着て、メイクも必要最低限。素材が良いだけに少々もったいなく感じるような地味さはあるが、給湯室やトイレで「昨日のあのドラマ見た?」なんて私たちと笑い合っている、見かけはごく普通の大人しい人だ。

 けれど、ただの事務員ではない。彼女は簿記一級やFPなどの難関資格を複数持っているだけでなく、実務能力が飛び抜けている。決算期に経理チームが頭を抱えていた数万件の煩雑なデータ照合を、自作のマクロを組んであっという間に終わらせてしまった。彼女が組むマクロは無駄が一切なく、エラーも吐かない。完璧に整然と組み上げられたそれは、彼女の静かな佇まいそのものだった。「念のため、今後の手順書も共有フォルダに入れときましたから」と、誰にひけらかすわけでもなく、さらりとアフターフォローまでこなしていた。

 元々はなぜか派遣社員として入社したのだが、その圧倒的な処理能力に恐れおののいた経理部長が「このままでは他社に取られる」と焦り、直接雇用への切り替えに動いたのだ。派遣会社に規定の紹介手数料を支払ってでも囲い込むという異例のスピード採用だったが、当時、人事部に配属されて間もなかった私は、その熱のこもった稟議書を実際に目にしている。


 その底知れぬ有能さと無欲な穏やかさのギャップに、高橋くんが夢中になるのも無理はなかった。

 ——まあ、もちろん一番の理由は、彼女のその涼しげで整った顔立ちなのだろうけれど。


「いよっしゃあ! ストライク!」

 プラスチックのメガホンと歓声の中、高橋くんはガッツポーズを決めて清水さんに熱い視線を送っている。

「高橋くん、ほんと上手だね。私なんてさっきからガターばっかりで嫌になっちゃう」

 清水さんは明るく笑い、ぎこちないフォームでボールを放った。ボールはレーンをひどくゆっくりと転がり、力尽きたようにガターへ落ちる。

「あぁー、またやっちゃった! 本当にセンスないなあ」

 両手で顔を覆って恥ずかしそうに戻ってくる彼女の笑顔は、いつも通り自然だった。完璧な仕事ぶりとの微笑ましいギャップが、高橋くんをいっそう狂わせているようだった。



 3

 ゲームの合間。トイレに立った帰り、私は自販機コーナーの隅のベンチで、ホットのほうじ茶を飲んでいる清水さんを見つけた。

「清水さん、ボウリング本当に苦手なんですね」

 隣に座って笑いかけると、彼女は「恥ずかしいところ見られちゃった」と目を細めた。

「……ねえ、清水さん」

「ん?」

「清水さんって、今お付き合いされてる方とか、いらっしゃらないんですか?」

 ちょっと踏み込みすぎかなと思いつつも、思い切って尋ねてみると、彼女はほうじ茶の缶を両手で包み込んだまま、ふっと柔らかく笑った。

「うん、いないよ」

「え、もったいない。高橋くん、あんなに清水さんのこと……」

 そこで言葉を切り、私は少し迷った。いくら社外とはいえ、他人のプライベートに踏み込みすぎだろうか。けれど、休日のテンションと、清水さんのどこか浮世離れした静けさが、私に普段以上の口を利かせた。

「……高橋くんじゃ、ダメですか?」

 私が恐る恐る尋ねると、清水さんはふっと言葉を区切り、手元の缶をじっと見つめた。

 色白で形良く整えられた美しい手だが、その爪にはマニキュアひとつ塗られておらず、無防備なほど素のままだった。その横顔があまりにも静かで、私は急に自分の声がひどく無遠慮に響いたことに気づき、はっとした。

「あ、ごめんなさい、私ったらお節介ですよね。忘れて……」

「ううん、違うの」

 清水さんは慌てる私を遮るように、静かに首を振った。そして、膝に置いた私の手元へ視線を落とした。

「……早瀬さん、そのマニキュア、綺麗な色だね」

「え? あ、ありがとうございます。休日のテンションで、つい派手なのを塗っちゃって」

「ううん、すごく似合ってる。……うちの妹もね、そういう色が好きだったの」

「妹さん、ですか」

「うん。……早瀬さんを見てると、時々あの子を思い出すんだ。同い年くらいだから」

 清水さんはそこで初めて、真っ直ぐに私の目を見た。

「……早瀬さんには、いつか話してもいいかなって、少し思ってたんだ」

「え?」

「私がね、どうしてこんなにつまらない女になっちゃったのかっていう話なんだけど」



 4

 アップテンポなポップスのBGMと、レーザー光線のようにチカチカと瞬く派手な照明。隣のレーンでピンが弾け飛ぶ甲高い音が、ふっと遠のいたような気がした。

 清水さんは、温かいはずのアルミ缶の上で指先を白く透き通らせながら、ゆっくりと言葉を探すように、過去の扉を開いた。


「私ね、四つ下の妹がいたの。早瀬さんと同じくらいの歳で、すごく甘えん坊でね。いつも私の真似をして、同じ色のマニキュアを塗るような子だった。私がピンクを塗ればピンク、赤なら赤って……本当に、私の後ろばかりついてくるような不器用な子だったんだ。

 ……五年前の冬、私、前の仕事がすごく順調だったの。一生懸命勉強してFPの資格を取って、やっとその資格を活かせる、ずっとやりたかった仕事に就けたばかりで。当時の彼氏とも結婚の話が出ていてね。今思えば、本当に浮かれてたんだと思う。もう自分の輝かしい未来のことしか頭になくて、世界は自分のために回ってるくらいに勘違いしてた。滑稽だよね。

 そんな時に、妹から電話がかかってきたの。あの子、電話口で過呼吸みたいに泣きじゃくって、『苦しい、今すぐ会いたい、お姉ちゃん助けて』って訴えかけてきて。普段からよく泣く子だったけど、あの日の声は、今思い出せば明らかに異常だった。

 でもね、私、その日は彼氏との記念日のディナーがあって。待ち合わせに遅刻しそうだったし、もう予約した素敵なレストランのことで頭がいっぱいだったの。だから、『ごめん、明日ゆっくり話聞くから』って、ろくに話も聞かずに電話を切っちゃったんだ。……ひどいお姉ちゃんだよね。あの子がどんな思いで最後のSOSを出したのか想像もせずに、ただ『面倒くさい』って思っちゃったの。

 いつもちょっとしたことでよく泣く子だったから。またいつものことだって、明日になればケロっとしてるだろうって、そうやって勝手に高を括ってた。……どうして『明日』が、誰にでも必ず来るなんて思い込んでたんだろうね。

 結局、あの子に明日は来なかったんだよ。私が綺麗なレストランのふかふかの席に座って、美味しいワインを飲んで笑ってた、まさにその時間に。あの子はたった一人で、暖房もついてない暗い部屋の中で、自分で命を絶ってしまっていたの。次の日の夕方、何度連絡しても繋がらないから、合鍵で開けた部屋は真っ暗で、ひどく静かで。……あの子は、クローゼットのドアノブにベルトをかけて、もう、氷みたいに冷たくなってた」


 息が詰まった。

 激しい音を立ててピンが弾け飛ぶ音と、「イエーイ!」とハイタッチを交わす隣のレーンの歓声が、無神経なほど鼓膜を打つ。気の利いた慰めの言葉なんて、一つも出てこない。私生活が充実していることこそが正解だと信じ、無邪気に振るった私のお節介が、彼女の頬を平手打ちしたような気がして、顔がカッと熱くなった。

 しかし、清水さんの静かな独白は止まらなかった。


「後になって分かったことなんだけどね。あの子、信じていた恋人にひどい裏切られ方をして、婚約を破棄された直後だったの。そのショックで仕事でもミスが続いて、周りに責められて会社も辞めてしまっていて。

 遺品を整理していた時に、あの子の日記を見つけたんだ。そこには『お姉ちゃんみたいに賢くて綺麗ならよかったのに』『お姉ちゃんみたいに愛されて、幸せになりたかった』って、涙の跡でシワシワになったページにびっしり書かれていたの。……あの子はずっと、器用に生きる私と不器用な自分を比べて苦しんでいたんだよね。私は自分の幸せにかまけて、一番近くにいたはずの妹の絶望に少しも気づいてあげられなかった。すべてを失って、最後の命綱だった私にさえ電話を切られて……あの子はあの暗い部屋で、どんな思いで一人泣いていたんだろうね。

 周りの人たちはね、立ち直るのが正しいことだって言ってくれる。それが妹の供養になるんだって。でもね、私にはどうしてもできないの。自分が主役になって、人と関わって、評価されて、上を目指していくような生き方は……もう、全部手放してしまわないと、あの子に申し訳が立たなかった。ただ息をして、ひっそりと目立たずにやり過ごすだけの日々じゃないと、許されない気がして。あの子が一人で死んでいった暗闇を見ないふりして、私だけが華やかな幸せを手に入れるなんて、絶対にしちゃいけないんだよ。……前を向けない私が間違ってるって、わかってる。でも、私は一生、あの子のために喪に服していたいの」


 彼女が前の会社を辞め、自分を飾ることに無頓着で、爪に色も乗せずにひっそりと働いている理由がようやくわかった。有能な自分も、手に入るはずだった華やかな未来も、今の彼女にとってはただただ忌まわしいものでしかなかったのだ。

 ボウリングのピンが弾け飛ぶ快音が、また遠くで響いた。

 底抜けに明るい喧騒の中で、彼女だけがたった一人、見えない喪服を着て座っていた。



 5

 レーンに戻ると、何も知らない高橋くんが無邪気に手を振ってきた。

「清水さん、次こそスペア取りましょう!」

「うん、頑張るね」

 清水さんはいつもの朗らかな表情で彼に微笑み返し、ボールのラックへ向かった。その姿は、あまりにも自然だった。


 その時、私のスマホが震えた。夫からのLINEだった。

『朝はごめん、靴下ちゃんとカゴに入れた! ボウリング楽しんでね。もし疲れてなかったらでいいから、帰りにプレモルと、あとポテチのコンソメ味もよろしく!』


 画面を見つめながら、私はふと、隣で笑う清水さんの横顔を見た。

 夫は本当に良い人だ。家に帰れば、私が隣のスーパーで買ってきたプレモルを飲み、ポテチをつまみながら無邪気に笑うだろう。それは間違いなく私が選んだ大切な日常で、社会が用意してくれたひとつの「正解」だ。

 けれど、私たちがこうして平和な口論をして笑い合っているすぐ隣には、全く別の時間を生きている人がいるのだ。


 自らの意志で未来を捨て、死者のためだけに息を潜める。社会の物差しで測れば「立ち直れない弱い人間」に見えるかもしれない。けれど、彼女の抱えるその圧倒的な絶望の重さは、悲しみを乗り越えて前を向くことだけが正解だとするこの世界で、残酷なまでに誠実なひとつの生き方だった。


 順番が来た清水さんが、再びぎこちないフォームでボールを投げる。ボールはゆっくりと転がり、またしてもガターに落ちていった。

 高橋くんが「ああっ、惜しい!」と大げさに天を仰いで見せ、周囲の同僚たちからどっと笑いが起きる。


 明日会社に行ったら、私は高橋くんにどう報告しよう。「手応えゼロでした」とだけ言って、彼女が抱える暗闇のことは一切、誰にも話さないでおこう。あの静かな喪服の領域を、私の身勝手なお節介でこれ以上暴いてはいけないと痛感していたからだ。


 ゲームが終われば、彼女はこの貸し靴を脱ぎ、普通の社会人のフリをやめて、また見えない喪服姿でひとり暗闇へ帰っていくのだろう。

 私は帰り道に夫のためのビールを買い、明日からも変わらず、靴下の位置で腹を立てるような私の人生を続けていくだろう。

 ただ、この底抜けに明るい喧騒の中で、決して脱ぐことのない喪服を着て微笑む彼女の気高さに、私は眩しいスコアモニターからそっと目を伏せた。



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