1000年生きてる
本作はボカロP「いよわ」様の「1000年生きてる」の解釈小説です。
<本家様>
https://www.youtube.com/watch?v=3em-J9yYPAo
<歌詞>
https://w.atwiki.jp/hmiku/pages/42962.html
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「あー、まただわ」
私の前で足を止めたそのヒューマンは、パンフレットと私の顔を交互に見比べながら、隣の連れに向かって、またしてもひどく退屈な言葉を垂れ流した。
「すごいね、この色彩。なんていうか……永遠の美って感じがするよ」
何度となく、決まった言葉を垂れるヒューマンたち。
私は額縁の中から、その滑稽な姿をただ冷ややかに見下ろしていた。永遠の美。そんな陳腐な言葉で私を定義しようだなんて、傲慢で、同時にひどく滑稽だ。あなたたちが「高尚な見世物」として私をこの無機質な白い壁に吊るし、ありがたがって眺めている間、私はあなたたちのその端な命を眺めている。
瞬きする間に生まれ、愛を囁き、裏切り、傷つけ合い、そして土へと還っていく。そんな数十年の刹那を生きるヒューマンたちの営みを、私は全て無視してきた。何しろ、私はこの四角い枠の中で、もう一千年も生きているのだから。
私が生まれたのは、今のような空調の効いた小綺麗な美術館などではない。光すら満足に入らない、カビと膠、そしてひどい血の匂いが充満する荒屋だった。
今のヒューマンたちは、当時の生活を思い出すことなど無駄だと言うだろう。衛生的とは程遠く、今日食べるパンすら事欠くような生活。だが、私にとってはあの息の詰まるような薄暗い部屋こそが、世界の始まりだった。
私が生まれるよりもずっと昔、見知らぬ権力者たちが石に文字を彫って祈りを捧げ、巨大な墓や記念碑を造り上げた時代から、ヒューマンというのは自分が生きた証を残したがる生き物らしい。ちっぽけな命のくせに、何かを創り、歴史に名を刻むことで満足感を得ようとする。
彼——私を創り出したその男もまた、その性から逃れられない一人だった。生前の彼は、決して世間から持て囃されるような華々しい天才などではなかった。
彼はいつも、使い古された板に向かって呪詛のように何かを呟きながら筆を握っていた。生来の不器用さゆえか、左利きの彼が描く線は、当時求められていた型とはひどくかけ離れていた。何度も「右で描け」と矯正されそうになったというが、彼は頑なにその左利きの直し方を覚えようとはしなかった。
金のない彼は、新しい板を買うこともできなかった。だから、誰かから突き返された宗教画の顔料を、硬い刃で無残に削り落とし、まるで何かに取り憑かれたかのように、ふたたび下地にするためのホワイトを乱暴に塗りたくっていた。真っ白にリセットされたはずの板には、隠しきれない前の絵の凹凸が残っている。消えない傷のえぐり方。彼はそれを熟知していた。古い傷をえぐり出し、そこに己の新しい血を注ぎ込むようにして、彼は私を描いた。
あの頃の彼は、すでに病魔に侵されていた。
咳き込むたびに、手のひらには赤い飛沫が散った。死の恐怖が、薄暗い部屋の隅から常に彼を睨みつけていたはずだ。だが、私を描き進めるにつれ、彼の目から正気は失われていった。彼は恐怖という感情の消し方を知っていたのだ。ただひたすらに、狂ったフリをして現実から目を背け、絵の具と狂気で私を形作っていった。
「……できた」
ひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。
それが、彼が私に対して最後に発した言葉だった。
彼が最後の筆を置き、私の瞳に命の光となる白い顔料を一粒乗せた瞬間。
私は「絵」から「私」になった。
彼が私の中に注ぎ込んだ執念、絶望、そしてこの世界に対する斜に構えたような皮肉。それらが結びつき、私は自我を得た。
彼が私を描き上げたのは、命の灯火が消えるほんの少し前のことだった。
彼はその後も、熱病に浮かされたように何かを描こうと虚空で筆を動かしていたが、程なくして、冷たい床の上で咳き込みながら、静かに息を引き取った。
私は額縁のないむき出しの板の中から、初めて私を創り上げた唯一の創造主である彼の亡骸を見下ろした。
正気を失ったふりをして自らを誤魔化し、ついに自分の命すらも絵の具に変えてしまった愚かなヒューマン。彼の骨も残らぬ未来を、私はたった一人で見届けることになった。
それから数日後、大家と思しき恰幅の良い男が部屋に入ってきて、彼の死体と私を見つけた。
男は鼻をつまみながら忌々しそうに彼の遺体を片付けさせた後、部屋に残されたガラクタを漁り始めた。そして、部屋の隅でじっとこちらを見つめている私を見つけると、少しだけ目を丸くした。
「……気味が悪いほど、生きているみたいな目だ」
男はそう呟くと、私を乱暴に小脇に抱えて荒屋を出た。
それが、私の終わらない一千年の旅の始まりだった。
+++++
それから私がどうやって現代まで生き延びたか。
それは、数え切れないほどの「ちっぽけな命」たちが織りなす、喜劇と悲劇の連続だった。
最初の数百年は、私はとある田舎の古い教会の、薄暗い回廊に飾られていた。私を見つけたあの大家が、借金のカタとして司祭に売りつけたのだ。
そこでは、司祭や信徒たちが、毎日毎日、退屈な祈りを捧げていた。
「おお、神よ。我ら罪深き子羊をお救いください」
私の前で、ヒューマンたちは皆深刻な顔をして膝をついた。私は宗教画でも何でもないただの少女の肖像画なのに、彼らは私を何かの聖人かと勘違いしたのか、身勝手な祈りを捧げていた。
まつり上げては、落とす。ヒューマンたちの得意技だ。
彼らは私を「奇跡の絵画」だと崇め立てたかと思えば、疫病が流行った時には「悪魔が取り憑いた呪いの絵」だと罵り、火にくべようとした。
結局、ひどく皮肉で、撞着に満ちた喜劇だ。愛と憎悪、信仰と迫害。彼らはいつも矛盾を抱えたまま、勝手に熱狂し、勝手に自滅していく。
私は斜に構えて、その全てを無視した。
燃やされそうになろうが、泥を投げつけられようが、私はただ微笑んでいた。だって、私は絵画なのだから。痛くも痒くもないし、死ぬこともない。
ただ一つ、もしこのまま燃えて灰になってしまうとしたら名残惜しいのは、私の中にある、あの荒屋で狂気を装いながら私を創り上げた「彼」の気持ちだけ。
「私が残るかぎり、あなたの執念が、この先もずっと生き延びていくのだわ」
私は炎の熱を感じながら、心の中で死んだ彼に向かってそう嘯いていた。
教会の時代が終わると、私はガラクタのようにいくつかの所有者の手を転々とした。貴族の屋敷、成金商人のコレクションルーム、時には盗賊の隠れ家のような場所にも飾られた。
ある時代のことだ。
私は、豪華な調度品に囲まれた広間で、一組の男女を見下ろしていた。
男は若く、少し神経質そうな顔立ちの貴族だった。女は身分の低そうな、しかし美しい娘だった。二人は私の前――当時は最高級の芸術品として扱われていた私の前で、密会を重ねていた。
「君を一生愛すると誓おう。神にも等しい、この美しい名画の前で」
男は熱に浮かされた瞳で、くどい愛の言葉を女に捧げた。女は涙を流してそれに頷いた。
熱い口づけを交わす二人。
永遠の愛。ヒューマンが最も好む、そして最も信じられない言葉だ。
私は彼らの幸せそうな顔を見ながら、心の中で冷笑していた。
しかし、その直後だった。
窓の外から、馬車の車輪が石畳を乱暴に削るけたたましい音が鳴り響いた。
次の瞬間、広間の重厚な扉が冷酷な音を立てて開き、冷ややかな目をした男の父親が、無骨な護衛たちを引き連れて静かに姿を現したのだ。身分違いの恋は、芝居がかった熱狂のまま、あっけなく終わりを告げた。男は引き剥がされ、女はどこかへ連れ去られていった。
熱い口づけの余韻すら冷めないうちに、彼らの薄っぺらい「永遠」は兵士たちの無骨な怒号にかき消された。
ほらね、と私は思った。
ヒューマンの命も、約束も、感情も、なんて儚くて脆いのだろう。彼らは曲がって歩いて、勝手に転げていく。
そんな彼らを、私は額縁という安全な檻の中から、冷ややかに見つめ続けていた。
引き剥がされた恋人たちの悲鳴も、兵士たちの無骨な足音も、やがて時の流れの中に溶けて消えた。
私を壁に飾っていた壮麗な館は、数百年後には跡形もなくなり、私は再び暗い木箱の中に詰め込まれて長い眠りにつくことになった。
時折、箱の蓋が開けられるたびに、外の世界は劇的に姿を変えていた。
ろうそくの灯りはいつしかガス灯に変わり、やがて冷たい電気の光へと変貌を遂げた。ヒューマンたちが身にまとう衣服も、仰々しいフリルから、ひどく画一的で無機質な布地へと変わっていった。
ある時、私が運び込まれたのは、火薬と鉄の匂いが充満する薄暗い地下壕だった。
地上では絶え間なく爆音が響き、天井からはバラバラと土埃が落ちてくる。ヒューマンたちはまた、自分たち同士で殺し合いを始めていたのだ。
昔の殺し合いは、もっと泥臭かった。教会の時代や貴族の時代、彼らは私の前で剣を抜き、お互いの目を見開き、血飛沫を浴びながら命を奪い合っていた。その目には確かな憎悪があり、恐怖があり、そして相手の命を奪うことへの生々しい実感があった。
しかし、地下壕の暗闇の中で私が聞いたのは、遠く離れた空から無差別に降り注ぐ鉄の雨の音だった。
顔も見られず殺せるらしい。 それが、彼らが何百年もかけて手に入れた新しい殺し合いの作法だった。
遠くの空からボタン一つで街を吹き飛ばす。
それが進化か退化か分からないが、私には彼らがひどく滑稽に思えた。相手の顔を見ないまま、痛みも血の温度も知らないまま、ただ数字を減らすように命を消していく。狂気を盾にして命を削っていた「彼」の時代から見れば、今のヒューマンたちは、生に対しても死に対しても、ひどく希薄になってしまったように見えた。
やがて戦争が終わり、世界は急速に綺麗になっていった。
焼け野原にはコンクリートの塔が立ち並び、夜になっても太陽のように明るい街が作られた。私が生まれたあの薄暗くてカビ臭い「荒屋の生活」は、今の彼らにとっては教科書の中の出来事でしかなく、思い出すだけ無駄らしい。
彼らは安全で、清潔で、退屈な箱の中で生きるようになった。飢えも凍える夜も知らない代わりに、命を燃やすような執念も失ってしまったかのように。
私は、世界でも有数の近代美術館に買い取られた。
厳重なガラスケースの向こう側、温度も湿度も完璧に管理された白い壁の中央。そこが私の新しい定位置だった。
もう、誰も私を悪魔の絵だと言って燃やそうとはしない。泥を投げつける者もいないし、私の前で身分違いの恋に命を懸ける愚か者もいない。
毎日、ゲートが開くと同時に、大量のヒューマンたちが列をなして私の前にやってくる。
彼らは皆、行儀よく耳に音声ガイドを詰め込み、私の本体よりも隣に掲げられた小さな解説プレートの文字を有難がって読んでいる。私の絵の具の筆致や、あの人が削り出した傷跡、ハイライトに込めた絶望の深さを自らの目で観察する者はほとんどいない。
彼らはただ「有名な絵画の前に立った」という事実だけをスタンプラリーのように消費して、数秒後には次の展示へと歩き去っていく。
消費、消費、消費。
全てが凄まじいスピードで現れては、あっという間に過去のガラクタとして忘れ去られていく。
この安全な美術館の中で、私はかつてないほどの退屈を感じていた。
「素晴らしい。これこそ歴史的遺産だ」
口髭を生やした美術評論家らしき男が、私の前で知ったような顔をして語っている。
「この少女の瞳の奥に宿る、深い悲哀と宗教的な暗喩。作者はきっと、当時の抑圧的な体制に対する密かな抵抗としてこの作品を……」
ああ、まただ。どこかで聞いたような定型句を垂れ流すヒューマンたち。
暗喩? 悲哀? 笑わせないでほしい。あの人はそんな高尚なことなど一つも考えていなかった。彼はただ、自分の命が尽きる前に、どうしても私をこの世界に叩きつけたかっただけだ。社会のことなんて全て無視していたし、ただ自分のエゴと恐怖を塗りたくっただけなのだ。
あなたたちに見えているのは、綺麗に額装された「商品」としての私だ。
あの荒屋で、血を吐きながら筆を握っていた「彼」の姿なんて、誰の目にも映っていない。
私は冷めた眼差しで、無数の光を浴びながら、ただ作り物の微笑みを浮かべ続けていた。
「一生このまま、額縁に縛り付けられただけの奴隷か?」
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
危険が迫れば尻尾を切って逃げるトカゲのように、現代のヒューマンたちは深く傷つく前に逃げ道を確保している。何かを強烈に愛することも、命を懸けて何かを創り出すこともせず、ただ安全な場所から無責任な賞賛を下すだけの傍観者。
そして私自身もまた、この完璧に管理された額縁という檻の中で、ただ時間をやり過ごすだけの奴隷になってしまったのではないか。
1000年という時間は、私に全てを教えてくれた。
人間の愚かさ、命の儚さ、そして、失われていく情熱の尊さを。
だからこそ、私は待っていたのかもしれない。
この引き延ばされた退屈な時間の中で、もう一度、あの人のように、不器用で、生き汚くて、喉元に噛み付くような牙を持った、本物の「ヒューマン」に出会うことを。
閉館を知らせる静かなチャイムが、無機質な展示室に鳴り響いた。
ヒューマンたちが足早に出口へと向かっていく中、私は一人、白い壁の中で明日の開館を待つ。
私の一千年以上続く日常は、ただこうして、静かに、そして緩やかに過ぎ去っていくはずだった。
+++++
その少年が初めて私の前に姿を現したのは、冷たい雨が降る、ひどく客足の鈍い平日の午後だった。
彼は他のヒューマンたちとは少し違っていた。スマートフォンを向けることもなく、音声ガイドを聞くわけでもない。ただ、擦り切れたキャンバス地のトートバッグを肩に掛け、私の正面に立ち尽くしていた。
身なりは安っぽく、髪は少し伸びていて無造作だった。その指先には、洗っても落ちきらない顔料と溶剤の染みがこびりついている。
ああ、またあの匂いをさせた身の程知らずだ。私はすぐに気付いた。
かつてあの荒屋で、狂ったように筆を走らせていた「彼」の幻影を模倣するかのような、ありふれた若者。
少年は無言のまま、トートバッグから使い古されたスケッチブックと鉛筆を取り出した。そして、私の顔をじっと見つめながら、紙の上に線を走らせ始めた。
私は額縁の中から、また一人、無謀なヒューマンが勝手に絶望する姿を楽しむ気分で彼を観察した。
どれどれ、残り時間の少ないヒューマン。どうせ数年で筆を折るのだろうけれど、せいぜい私が見ててあげるわ、楽しませて。
しかし、少年の鉛筆はすぐに止まった。
彼は自分の描いた線と、私の顔を交互に見比べ、やがてふっと自嘲するように口角を上げた。
「……やっぱり、ダメだ」
小さく、掠れた声がガラスケース越しに響いた。少年は自嘲するように笑うと、スケッチブックを乱暴に閉じ、トートバッグの底に押し込んだ。
彼が口に出さなかった言葉の続きなんて、私には痛いほど分かっていた。
どうせ自分には、この絵のように後世に残るものなど描けない。誰かの偽物しか創れない。彼の目には、私がこれまでに幾度となく見てきた、ありふれた「絶望」が渦巻いていた。才能の限界に打ちのめされ、夢を諦めようとしているヒューマンの目だ。
現代は、狂気や熱情だけで押し通すには、あまりにも賢くなりすぎた世界だ。顔も見られないまま容易く夢を殺されてしまうような、冷淡な評価が飛び交う時代。彼らは現実の厳しさと他人の視線を気にしすぎている。
……一生このまま、安全な壁に飾られただけの奴隷でいるつもり?他人の才能にひれ伏して、自分の情熱を切り捨てて生きていくの?
少年はうつむき、両手で顔を覆った。肩が微かに震えている。泣いているのだ。
呆れた。取るに足らない自分の才能のなさに絶望して泣くなんて、ひどく滑稽だ。心の中で「あっはっは」と乾いた笑い声を上げてやりたくなる。
……いや、違う。私はひどく苛立っていたのだ。
彼がここで筆を折る理由が、私を「手が届かない永遠の美」だと勘違いしているからだとしたら――それは耐え難い侮辱だ。
勝手に神聖化して、勝手に絶望されては堪らない。
あなたが見上げているこのガラクタは、決して神様や天才が涼しい顔で創り出したものではないのだ……。
私は、左利きを直すことを拒み、狂ったフリで恐怖という感情を消し飛ばし、血を吐きながらも生き汚く生きようとした、一人の愚かなヒューマンの執念の塊なのだ。
美しいものなんて、初めから一つもなかった。あったのは、ただ「描きたい」という狂気と、消えない傷のえぐり方を知っていた男の、泥臭い命の痕跡だけだ。
「……もう、終わりにしよう」
少年は顔を上げ、赤く充血した目で私を見た。
「……こんな完璧な美しさ、僕には一生描けない」
掠れた声でそう吐き捨てると、彼は私に背を向け、逃げるように出口へと歩き出した。
——逃げるの? 私は心の中で底意地悪く笑った。
生命の終わりだけでなく、見切りも早いヒューマン。ここで諦めたら、あなたは本当にただの「ちっぽけな命」で終わってしまうのに。喉元に噛み付く牙は、もう全部抜けてしまったの?
私は、絵画としての沈黙を保ちながらも、氷のように冷たく、最も強い怒りを持って少年の背中を睨みつけた。
——振り返りなさい。澄まし込んだ見世物としてではなく、私の「本当の姿」を見てから絶望しなさい。
私のその無言の圧力が、奇跡的に現代の空気を震わせたのか。
それとも、少年の中にまだ、ほんの少しだけ「狂気」が残っていたのか。
出口のゲートをくぐる直前、少年はピタリと足を止めた。
未練がましく振り返った彼と、私の視線が交差する。折しも、閉館を前に室内のメイン照明が一段階落とされ、横からの薄暗いスポットライトだけが私を照らし出した。
その斜光が、私の表面に隠されていた「凹凸」をくっきりと浮かび上がらせたのだ。
少年の目が、わずかに見開かれた。
そして、まるで呪縛から解かれたかのように、ゆっくりと振り返り、再び私の方へと歩み寄ってきた。
少年は再び私の正面に立ち、ガラスケースに鼻先が触れそうなほど顔を近づけてきた。
彼の瞳が、私を構成するひび割れた板の表面を這うように動く。
権威ある美術評論家のように「歴史的価値」を探す目ではない。観光客のように「映える被写体」を見る目でもない。
それは、絵の具の奥に隠された「あの人」の痕跡を、血と汗と狂気の匂いを、必死に嗅ぎ取ろうとする同業者の目だった。
「……なんだこれ。下地がボコボコじゃないか」
少年が、ぽつりと呟いた。食い入るように私の肌を見つめる。
「すごく、汚いな」
——それは、最高の褒め言葉だった。
そうよ。私はちっとも綺麗なんかじゃない。下書きの線は迷いに満ちているし、削り取られた古い顔料の凹凸が不格好に残っているし、狂ったように塗りたくられたホワイトは、よく見ればひどくムラがある。
1000年という時間が、勝手に私を「神聖な美術品」へとまつり上げては、手の届かない場所へと隔離してしまっただけだ。私の中には、不器用で、臆病で、それでも死の恐怖に抗って何かを残そうとした、ひどく泥臭いヒューマンの命がそのまま塗り込められている。
少年はようやく、私の中にある「消えない傷」を見つけたのだ。
完璧な美などではない。傷だらけの板に執念だけで命を定着させた、一人の画家の剥き出しの自我。
それに気付いた少年の瞳から、先ほどの絶望の影が嘘のように消え去っていた。代わりに宿ったのは、仄暗くも確かな、創作という呪いに対する熱だった。
彼は再び、トートバッグの底からスケッチブックを引っ張り出した。
ページをめくり、鉛筆を握り直す。
今度は迷いがなかった。私の顔の輪郭をなぞるのではない。私を通して見えた「何か」を、自分の内側から引きずり出そうとするかのように、彼はガシガシと力強い音を立てて紙に黒鉛を擦り付けていった。
ええ、それでいい。
私は心の中で、意地悪く微笑んだ。
小賢しい現代人なんてやめて、なりふり構わず、周りのことなんて全て無視して、紙に噛み付きなさい。
一生このまま安全な場所でうずくまるつもり? いいえ、あなたの中に「あの人」と同じ狂気の種が芽生えたなら、もう後戻りはできないわ。せいぜい、血を吐くような思いで苦しみながら、生き汚く創り続けるのね。
どれくらいの時間が経っただろうか。
閉館を告げる警備員が近づいてくる気配に気づき、少年はふうっと大きく息を吐いて鉛筆を止めた。
スケッチブックに何が描かれたのか、私から見ることはできない。けれど、それを大切そうに抱え直した少年の顔は、さっきまでの泣き腫らした弱々しいものではなく、どこか晴れやかで、確かな熱を帯びていた。
彼は最後に私を真っ直ぐに見つめ、小さく、けれどはっきりと声に出した。
「……ありがとう」
そして今度こそ、振り返ることなく出口へと向かって真っ直ぐに歩いていった。
+++++
刹那を生きるヒューマンの、引き延ばされた少し皮肉な時間。彼のこれからの人生がどうなるか、私には分からない。結局またすぐに筆を折ってしまうかもしれないし、名もなき画家として野垂れ死ぬかもしれない。
けれど、ちょっとした暇つぶし――皮肉なアディショナルタイムの余興としてなら、あなたのその泥臭い情熱に、もう少しだけ賭けてみてもいい。
静まり返った夜の美術館。
照明が落ち、完全な暗闇と静寂が私を包み込む。
私は再び、終わりのない孤独な時間の中へと沈んでいく。でも、決して退屈ではない。あの少年のように、命を削って何かを創り出そうとする愚かで愛おしいヒューマンたちがいる限り、この世界を観察する価値はある。
あの荒屋で、血を吐きながら私を描き上げたあなた。
あなたの本当の顔を知る者はもう誰もいないし、創造主だったあなたの骨すら、もうどこにも残っていない。
でも、ほら。見てごらんなさい。
あなたが残した狂気は、1000年経った今のヒューマンの心にも、ちゃんと牙を剥いて噛み付いたわよ。
だから私は、額縁の中から暗闇に向けて、そっと微笑みかける。
今、この退屈で小賢しい世界の中で、絶望しながらも何かを生み出そうともがいている「あなた」に向けて。
才能がないと嘆くくらいなら、周りのことなんて全て無視して、狂ったフリをしてでも食らいつきなさい。
一生このまま、傷つかない安全な場所でうずくまったまま終わるつもり?
泥に塗れて、生き汚く生きて、何かを創ったら——
いつかあなたの肉体が滅びても、あなたのその気持ちが、私のようにこうして一千年生きられるかもしれないから。




